5/6 こども説教 ルカ21:1-4
『貧しい未亡人のささげもの』
+【補足/働きの只中で神を見失う】
21:1 イエスは目をあげて、金持たちがさいせん箱に献金を投げ入れるのを見られ、2 また、ある貧しいやもめが、レプタ二つを入れるのを見て3 言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。4 これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、あの婦人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである」。 (ルカ福音書 21:1-4)
夫に先に死なれて心細く暮らすおばあさんがいました。神殿の中に、「神さまへの献げもののお金」を入れる箱があって、チャリ~ンと、おばあさんはほんの少しのお金を入れました。それに比べて金持ちたちは、そのおばあさんの何倍も何100倍もの献げものをしました。ジャラジャラジャラ~、ドッサア~ッと。主イエスが言いました。4節、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れた。 これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、あの婦人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである」。
じゃあ質問、「生活費の全部」だから神さまに喜ばれるんですか? 半分なら? 1/10か、1/20なら? そこには、どんな基準があるでしょう。生活費のうちの何割以上なら神さまは喜んで、それより少ないと神さまは嫌~な顔をする? いいえ! どれくらいの額か、何割以上かなどケチ臭いこととは何の関係もありません。じゃあ何? 大切なのは献げる人の心です(注)。お金や祈りでも働きでも、神さまへの感謝の気持ちでささげること。他の人たちの献げものについても自分自身についても、その『感謝の心』が多いか少ないか、真っ直ぐか曲がっているかは私たちにはよく分からない、神さまにしか分からない。と、よくよく分かっていましょう。そうしたら、たくさんの大きな献げものができても、そうでなくても! 人から認められたり皆からとても誉められても、そうでなくたって、自分のことも他の人たちのことも神さまのことも、喜んでいられます。そうではないと、いつの間にか、あなたの心が曇って、ひどく汚れてしまいます。例えば、たくさんの仕事や献げものができたときには偉そうな得意な気持ちになって、ついつい他の人たちを見下してバカにしたり、「なんだ、あの人たちは。私みたいに、もっとたくさん、もっと一所懸命に働けばいいのに。チェッ」と、悪い気持ちをもってしまう。少ししか仕事や献げものができなかったとき、惨めな淋しい気持ちになってしまう。それじゃあ、せっかくの献げものが水の泡です。
【補足/働きの只中で神を見失う】(注)
(1)「だれよりもたくさん献げた。生活費の全部を入れた」は大問題発言、チョウ難解箇所ですね。もちろん、神に誠実に仕えることに関して競争しているわけではありません。「だれが1番か2番か、だれが落第か」などと勤務査定しているわけでもなく、そんな偉そうな査定官の資格が私たち人間にあるはずもない。何度も深呼吸をして、逆立ちして滝に100時間くらい打たれて、心を鎮めましょう。何もかも、すっかり分からなくなってしまわないように。私たちは、一から出直しましょう。間に合ううちに、手遅れになる前に。なぜなら兄弟姉妹たち、詩篇51:16-17,しかもローマ手紙12:1-2(「砕けた悔いた魂をこそ、神は軽んじることなく、喜び受け入れる」「あなたの体を、あなたの全存在を、生きた聖なる供え物として神にささげよ」)だからです。胸に手を当てて、つくづくと振り返ってみましょう。そんなことを思い浮かべもせずに、せっせと自分勝手な思いで働きに精を出していたのでは? 神のためにも、いつもの職場や町内でも、家族のためにも。もし万一、内心自慢の献げものを神さま、世間さま、人さまに拒まれるときには、あなたも私も不届きなカインのように顔を地面にふせてプンプン怒る(創世記4:3-8)のではありませんか? 私たち人間は、うわべや形や体裁、目に映る姿形にばかり心を奪われてしまいやすい。いつの間にか、働きの質や量を見比べ合って、「あの人の働きは粗末で、ふつつかで、いたらない」などと貧しく冷淡に、さも自分はよく弁えている積もりになって値踏みしあう私たちです。神を差し置いて、神ご自身を抜きにして! 自分たちの狭く貧しい了見と幼稚な価値基準で! けれど、隠された中身に目を凝らし、中身をこそ問い続ける神です。しかも私たちが働いて献げているだけでなく、《神ご自身が生きて働いておられる》。毎月の教会の働きも、教会員が十分にしっかり維持しなければ破綻してしまうのかといえば、決してそうではありません。神ご自身が断固として、第一に、全責任を負って維持なさり、牧師とその家族の生活もやはり神ご自身が恵みによって養ってくださっている。私たち自身のそれぞれの生活もまったく同様です(申命記6:10-12,8:17-18,9:4-6)。また、「教会のため神さまのために、私には何ができるか」と考えることは尊いことですが、その5倍も6倍も、「こんな私のためにさえ、神は何をしてくださるのか」と目を凝らしたい。私たちの神は、私たちが支えなければ倒れてしまう神ではなく、私たちが担いで運ばなければ動けない神ではありません。私たちが食べ物を供えなければ飢えて腹ペコになってしまう神でもありません。むしろ、神は御自身を養い、私たちをも恵みによって養ってくださる方です(詩40:7,51:18,127:1-2,イザヤ1:11,46:1-2, エレミヤ10:5)。それをうっかり忘れてしまう時、キリストの教会はごくごく簡単に、直ちに、「人間による・人間のための・人間自身のものである集団」に成り下がってしまいます。それをこそ、本気で恐れましょう。
(2)クリスチャンがかかりやすい病気について思い巡らせてきました。『神を思うことができない病気の症候群』です。やはり主の弟子ペテロが、最初にこの病気を主イエスから指摘されました。「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(マタイ16:23)と。神を思って生きるはずの者たちが、けれど神を思うことができない。それこそが教会の世俗化。個々のクリスチャンが心を鈍くされ、その信仰が危機的状況に陥ります。例えば、働きの只中で神を見失います。そのためクヨクヨ悩んだり、苛立って他人を悪く思ったり、憎んだり妬んだり。カイン。ぶどう園で朝早くから働きつづけた労働者たち。神殿で神に向かって、「感謝します。感謝します」と得意満面で献げものの報告をしたパリサイ人。そして、あの働き者のマルタも(創世記4:1-16,マタイ20:1-16,ルカ10:38-41,同15:25-32,同18:11-12)。彼らの罪深さと悲惨こそが、この私たち自身のいつもの姿を映し出す鏡でありつづけます。さあ、立ち帰りましょう。