2018,5,13(復活節第7主日の礼拝) № 162
◎礼拝説教 マタイ福音書 27:27-44 日本キリスト教会 上田教会
『神殿を打ち壊して、新しく建てる』
27:27 それから総督の兵士たちは、イエスを官邸に連れて行って、全部隊をイエスのまわりに集めた。28 そしてその上着をぬがせて、赤い外套を着せ、29 また、いばらで冠を編んでその頭にかぶらせ、右の手には葦の棒を持たせ、それからその前にひざまずき、嘲弄して、「ユダヤ人の王、ばんざい」と言った。30 また、イエスにつばきをかけ、葦の棒を取りあげてその頭をたたいた。31 こうしてイエスを嘲弄したあげく、外套をはぎ取って元の上着を着せ、それから十字架につけるために引き出した。32 彼らが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に負わせた。33 そして、ゴルゴダ、すなわち、されこうべの場、という所にきたとき、34 彼らはにがみをまぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはそれをなめただけで、飲もうとされなかった。35 彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いて、その着物を分け、36 そこにすわってイエスの番をしていた。37 そしてその頭の上の方に、「これはユダヤ人の王イエス」と書いた罪状書きをかかげた。38 同時に、ふたりの強盗がイエスと一緒に、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。39 そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって40 言った、「神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」。41 祭司長たちも同じように、律法学者、長老たちと一緒になって、嘲弄して言った、42 「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。43 彼は神にたよっているが、神のおぼしめしがあれば、今、救ってもらうがよい。自分は神の子だと言っていたのだから」。44 一緒に十字架につけられた強盗どもまでも、同じようにイエスをののしった。 (マタイ福音書 27:27-44)
救い主イエスが、ご自身で予告しつづけておられたとおり、神の救いの約束のとおりに、十字架につけられ、殺されようとしています。39-40節、「そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって言った、『神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい』」。神殿を打ちこわして三日のうちに建てる。本当のことです。実は、主イエスは弟子たちに同じようなことを何度も言い続けてきました。「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」(マルコ13:1,ヨハネ2:19)と。人間たちが建てた古い神殿を壊して、そのあとに、神ご自身の手によるまったく新しい神殿を建てあげる。それが、救い主イエスというお方の大きな目標でありつづけました。
はじめに人間たちが神のものである祈りの家を建てたとき、そこに神さまがいてくださることを、神を信じる人々は心から願いました。願いと祈りをこめて神殿を、神のものである祈りの家を建てたのです。けれど目に見えない神を見えないままに信じて生きることは、とても難しいことでした。神さまに喜んでいただこう、周りの人間たちにも喜んでもらおうと願って、神殿はどんどん見事に立派に大きくて美しくて素敵な建物になっていきました。けれど、その立派さとは裏腹に、神を信じて生きるはずの人間たちの心は脇道へ脇道へと逸れていって、だんだんと神さまを見失っていきました。神を信じて生きるはずのいつもの一日一日の生活も、信じる人々の心の思いも、どんどん神さまから離れて、ただ形ばかりの中身のない虚しいものになってしまいました。神さまご自身も願いました、「神を信じて生きる嬉しくて心強い生活をもう一度取り戻させてあげたい」と。人間たちが建てた古い神殿を壊して、そのあとにまったく新しい神殿を建てあげるとはそのことです。神ご自身が住んで、そこに確かにいてくださる神殿を、神ご自身の手でまったく新しく造り上げること。よくご存知でしょうけれど、今ここにも、神さまがおられます。自分の家に独りでいるときも家族と一緒でも、道を歩いているときにも、どこで何をしていても、そこにいつも、あなたの主なる神さまが一緒におられます。
このとき、主イエスご自身の十字架の無残な死がほんの数日後に迫っていました。なかなか理解しがたいことですが、それは救い主イエスが私たち人間の罪を背負って死んで、墓に葬られ、その三日後に墓からよみがえることでした。そのようにして、ご自身が新しい神殿の土台となり、神殿そのものとなり、神の祈りの家に生命を吹き込み、神を信じて生きる人々の一つ一つの体を神殿としてその中に住んでくださる(コリント手紙(1)3:16,同6:19,エペソ手紙2:21,ペテロ手紙(1)2:5)。聖書にはっきりとそう証言されているので、私たちもそれをそのまま信じました。そのようにして、神を信じて生きる生活が新しくはじまりました。この上田教会も、神さまご自身の手によってまったく新しく建てられた新しい神殿の一つです。この土地で伝道を開始したのはわずか140年ほど前のことですが、そこから始まったのではありません。そうではなくて、2000年前のあのときに「この古い神殿をこわして、わたし自身が三日のうちに、人間の手で造ったのではないまったく新しい神殿を、神ご自身の手による、神ご自身のものである神殿を起す」と救い主イエスの断固たる宣言のもとに新しい土台を据えられ、建てあげられた、神ご自身のものである新しい神殿の一つです。いえ、もう少していねいに語るなら、アブラムとサライ夫婦が神の招きに応じて旅立ったときから、あるいはアダムとエバが土の塵から造られ、「地を耕し守る」ためにエデンの園に連れて来られたときから、神のものである神殿ははっきりした土台を据えられていました。だからこそ救い主イエスの系図はアブラハムへとさかのぼり、さらにアダムへとさかのぼります。それは直ちに、キリスト教会の系譜と歴史そのものでもあります(創世記2:4-,同12:1-3,マタイ1:1-,ルカ3:23-)。神ご自身から約束されたとおりに、クリスチャン一人一人も神さまによってまったく新しく建てられた新しい神殿の一つ一つ。聖書は証言します、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」。びっくりです。しかも本当のことです。
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ぼくは思い起こします。自分が初めてキリスト教会に、つまり神ご自身のものである祈りの家に足を踏み入れたときのことを。またその祈りの家の礼拝の席に、内心ドキドキしながら初めて腰掛けた日のことを。地上には今や神を信じる人々の手によって数多くの美しく立派な神殿が建てられました。心に痛みを覚えて、自信を失い、恐れと不安を抱える一人の人が、ある日ふと《神のものである神殿》の前に立ち止まります。買い物帰りか、あるいはいつもの散歩の途中に。ああ、こんな所にキリスト教会が建っていたのか。「この中では何をしているのだろう。どんなことが起こっているのだろう」。中を覗き込んでみます。入り口脇の案内板の片隅に、「誰でも自由に来てみてください」と書き添えられている。誰でも、自由に来てみてください? 本当だろうか。その人は、その神殿に足を一歩踏み入れることができるでしょうか。建物の中に入っていって、そこに、自分のためにも用意されている嬉しい居場所を見出すことができるでしょうか。そうであってほしいのです。神さま、どうぞその人と私たちとをあわれんでください。その心細い一人の人のためにも、神さまご自身が、どうか広々とした平らな道を開いてくださいますように。神さまによって新しく建てられた、私たち人間が心に思い浮かべるような立派さや美しさとはずいぶん違った、人間の目が見ることも思い浮かべることもできなかった、神ご自身のものであるまったく新しい神殿。それは、救い主イエスが神でありながら生身の人間の姿をもってこの世界に生まれてくださったことと似ています。家畜小屋の家畜たちのエサ箱の中に、布切れ一枚にくるまれて、小さな赤ちゃんの姿で生まれてくださいました。どんな姿で来ることもできながら、宝石で着飾った華麗な王様の姿ではなく、武装した強い戦士の姿でもなくて、裸んぼうの一人の小さな赤ちゃんです。誰をも恐れさせたり、いじけさせたりしたくなかったからです。ほっと安心して暖かで安らかな心でいてもらいたい、と願ってくださったからです。
神さまご自身の手によってまったく新しく建てられた、神ご自身のものである神殿。それはまた、一人一人のクリスチャンの誕生とよく似ています。生きてゆく中で、私たち一人一人も良いものを身につけてきただけではなく、なくてもいいような悪いもの、薄汚れたもの、邪魔なものも数多く身につけてきてしまいました。風呂に入って石鹸でゴシゴシ体を洗っても取れないようなこの世の垢です。臆病さ、ずる賢さ、偏屈で意固地でわがままで、自惚れて人を見下してしまいやすかったり、いじけて僻んだり妬んだりしてしまうことや、体裁や体面を気に病み、「誉められた」と言っては喜び、「けなされた。分かってもらえなかった、ひどく誤解された」と言っては渋い顔をして心がどんより沈み、そんなことの繰り返しで、人の顔色ばかりを窺って空気を読み続けること、そのほか色々。それは、人間の手による古い神殿です。神を信じて新しく生きてゆくためには、それらは邪魔でした。けれど自分自身では、その邪魔な古い神殿を打ち壊すことも、新しく建て直すこともできませんでした。人間に出来ることではなかったからです。けれど神にはできます。神に出来ないことは何一つないからです。そのことを願って、信じて、神さまにこの私を新しくしていただきたいと期待して、私たちはクリスチャンにされました。聖書は証言します;「もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。・・・・・・もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる」(ローマ手紙6:5-8)。
神さまによってまったく新しく建てられた神殿。頭も心も堅く頑固になってしまった一人のおじいさんもそうでした。ニコデモという名前の、頭がカチンカチンのおじいさんでした。けれどその彼も心の奥底で激しく願っていたのです。新しい自分になりたいと。彼は世間様の目を恐れて、夜中にこっそり主イエスの所に訪ねてきました。主イエスはおっしゃいました、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない」「どうして、そんなことがあり得ましょうか。あるはずがない」と渋い顔をしてニコデモは帰っていきました(ヨハネ福音書3:3-9参照)。なアんだ。だめだったのか、ニコデモは残念だったなあ、あともう一歩か二歩のころだったのになどと私たちはがっかりしました。けれど早合点でした。ずいぶん後になって、いつの間にか、あの彼は主イエスの弟子になっていました(ヨハネ7:50,同19:37)。そういう人もたくさんいます。ですから私たちもうっかり早合点しないように、「この人はこういう人だから」などと軽々しく決めつけてしまわないように気をつけています。どんな石頭でも頑固者でも、臆病な人も見栄っ張りな人も疑い深くても、誰でも神を信じて新しく生きはじめることができるかも知れません。どうやって? さあ、私たちには分かりません。神さまだけがご存知です。人間に出来ることではなかったからです。けれど神にはできます。神に出来ないことは何一つないからです。そのことを願って、信じて、神さまにこの私を新しくしていただきたいと期待して、私たちはクリスチャンにされました。私の大切な愛する連れ合いも、息子や娘たちも、家族の一人一人も友だちも、そうやって神さまがしてくださったらいいのにと願い続けています。
神の民とされた先祖と私たちは、約束されつづけてきた格別な祝福の生活を思い浮かべつづけてきました。神の祈りの家に、この自分が、朝も昼も晩も暮らしつづける幸いをです。「わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを」、そしてまた「わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう」(詩篇27:4-8,同23:6)。上田の大手1丁目に建てられたこの上田教会も、ここも、もちろん主ご自身のものである、主の祈りの家です。人間の手によらず、神ご自身の手によって建てられ、守られつづけてきました。私たち一人一人も、もちろんそうです。救い主イエスの約束通りに、「自分こそはよく分かっている。自分はちゃんとやってきた」という古い古い神殿とその土台を救い主の体と共にすっかり打ち壊され、殺され、葬られ、その三日の後に墓からよみがえらされた、主のものである祈りの家です。他にも、世界中におびただしい数の主の祈りの家が、救い主イエスをその唯一の土台として建てられつづけています。恵みと慈しみがいつも寄り添い、私たちに伴いつづける理由は、その与え主であられる神ご自身が私たちの先頭を歩み、群れの只中を進み、しんがりを守っておられるからです。『主が共におられる』(マタイ1:23)という名の救い主イエスを信じているからです。私たちクリスチャンの一人一人の全生涯も、まったく同様です。「私たちは知らされて、よくよく習い覚えてきました。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、私たちは、もはや自分自身のものではないのである。私たちは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわすことができるし、神ご自身がそれをさせてくださるし、自分でもそれを願い求めて生きることができるのである」(コリント手紙(1)3:16-17,同6:19-20参照)。私たちの古い罪の神殿が一日、また一日と打ち壊され、葬られ、その後にまったく新しく建てられつづけます。そのことを、この私たちは、もう二度と決して忘れてはなりません。