2018年5月2日水曜日

4/29こども説教「悪い手本を見なさい」ルカ20:45-47


 4/29 こども説教 ルカ20:45-47
 『悪い手本を見なさい』

    20:45 民衆がみな聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた、46 「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣を着て歩くのを好み、広場での敬礼や会堂の上席や宴会の上座をよろこび、47 やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。彼らはもっときびしいさばきを受けるであろう」。                  (ルカ福音書 20:45-47

  聖書の中で、パリサイ人や律法学者たちが何度も何度も出てきて、主イエスから「ダメだよダメだよ。そうじゃないですよ」と、きびしくやりこめられます。恥ずかしい愚かな姿を、彼らはジロジロ眺められつづけます(ルカ11:37-52,18:9-14など)。それは、彼らのことをバカにして、「それに比べて私はこんなに素敵で立派で」などと喜ぶためではありません。そうではなくあの彼らとよく似たことを、この私たち自身がしているからです。私たちが考え違いをして神さまの御心に逆らってしまう時、ついつい偉そうな気持ちになって思い上がって、ほかの人たちをバカにしたり、見下してしまうとき、私たちこそがあの彼らとそっくり同じ姿になっています。あの彼らは、私たちの悪い心を映し出す鏡です。ほかの人たちから立派だと誉めてもらおうとして素敵な言葉で長々と祈ったり、よく見せかけようとして正しいふりをするとき、「危ない、危ない。あなたは、パリサイ人や律法学者になっていますよ」と注意されています。人からどう見られるか、どう思われているかと心配になりますか。よく思われたいとウズウズしますか? いいえ 隠れたことまで、すっかり丸ごと、神さまこそが私たちをいつもいつも見ておられます。


     【補足/傲慢という厄介な罪】
私たち自身こそが制度やしきたりや格式や体裁を取り繕うことばかりに終始し、人に見せることばかりに気をとられ、いつの間にか、白く塗った墓に成り下がっているかもしれません。もう25年も前のことですが、一人の親しい先輩が教会の機関誌に素敵な文章を残してくれました、「わが日本基督教会も今や気息奄々(きそくえんえん=息も絶え絶え)、この時代からはさびしく取り残された遺物のようです。あれも駄目、これも駄目と批判に明け暮れているうちに気づいてみると自らがやせ衰えていたというわけなのです。・・・・・・日本基督教会は、これまであまりにも自らを誇りすぎてきました。神学的にしっかりしている、教会的だ、告白的だというふうに。自画自賛ほど恥ずべきものはありません。傲慢、これほど厄介な罪はありません。罪の中の罪、罪の根であります。言うのもつらいことですが、日本基督教会はいま再起不能に近い状態にあります。しかし私たちはこのときこそ感謝すべきなのです。ようやく恵みの道が見えてきたのですから。『主がこれを負わせられるとき、ひとり座って黙しているがよい。おのれを撃つ者にほおを向け、満ち足りるまでに、はずかしめを受けよ』(哀歌3:28-30)、『いや治すまい。しかし、わたしはあなたと共にいる。それで十分ではないか』(コリント手紙(2)12:9,リビングバイブル訳)」(説教「満ち足りるまでにはずかしめを受けよ」宇田達夫,「福音時報」19925月号)。