みことば/2018,5,27(主日礼拝) № 164
◎礼拝説教 マタイ福音書 27:45-56 日本キリスト教会 上田教会
『神は見捨てたのか?』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
27:45 さて、昼の十二時から地上の全面が暗くなって、三時に及んだ。46 そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。47 すると、そこに立っていたある人々が、これを聞いて言った、「あれはエリヤを呼んでいるのだ」。48 するとすぐ、彼らのうちのひとりが走り寄って、海綿を取り、それに酢いぶどう酒を含ませて葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。49 ほかの人々は言った、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」。50 イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた。51 すると見よ、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。また地震があり、岩が裂け、52 また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。53 そしてイエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都にはいり、多くの人に現れた。54 百卒長、および彼と一緒にイエスの番をしていた人々は、地震や、いろいろのできごとを見て非常に恐れ、「まことに、この人は神の子であった」と言った。55 また、そこには遠くの方から見ている女たちも多くいた。彼らはイエスに仕えて、ガリラヤから従ってきた人たちであった。56 その中には、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、またゼベダイの子たちの母がいた。
(マタイ福音書 27:45-56)
少し事情を打ち明けておきます。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ。4つの福音書は主イエスの十字架の出来事から30~40年もたった後に、ようやくそれぞれ文書としてまとめられていきました。それ以前には『主イエスの発言メモ』のようなごく簡略な記録が出回っていたり、口伝えで仲間内に人から人へと伝えられつづけていました。主イエスの発言や行動を直接に見聞きした最初の弟子たちがそれぞれに年老いて、やがてキリスト教に対する迫害がきびしくなり、多くの者たちが殺されたり、行方知れずになったりしてゆきました。もし、そのまま放っておけば、救い主イエスについての大切な記憶は失われてしまいかねませんでした。そうした危機的状況の中で、主イエスの発言と行動の記録をなんとしても残して後の者たちに伝えようと、弟子たちそれぞれが『福音書』として救い主イエスの地上の生涯のお働きを記録し始めました。4つの福音書を比較してみると、内容の多少の食い違いや、細部のズレがあります。4人の福音書記者たちそれぞれの信仰の眼差しからの報告でもあったわけです。彼らを用いて、神さまご自身がその御心を私たちに伝えようとなさっています。
さて、46節の「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」。マタイ福音書とマルコ福音書は、主イエスのこの言葉を記録しました。けれど残り2つの福音書は、これを省きました。どう受け止めていいか分からなくて、あまりに恐ろしくて。この発言こそは大きな謎であり、教会の中にとまどいや混乱を呼び起こしもしたからです。今なお、十字架上の主イエスのこの言葉の前に、私たちは、頭を抱えて立ちつくします。それはいったいどういうことだろうか。主は、なぜ、どういう意味でそれを仰ったのかと。ある人たちは、「その通り。書いてある通りだ」と言います。救い主イエスは、神からも見捨てられた。そして、「なぜ見捨てたのか?」と苦しみと絶望を叫びかけているのだと。別の者たちは、「いいや。もちろん神が救い主を見捨てるはずがない。けれど、苦しみと痛みのあまりに、イエスご自身は自分は神から見捨てられた、と思った。勘違いして、うっかり早合点して。そして嘆きと絶望の叫びをあげた」と。――ぼくは引っかかります。彼は救い主であり、天の御父にすっかり信頼を寄せているからです。
救い主イエスは、はたして本当に、信じるに値するお方なのか。この主を信じて生きる甲斐があるのかどうか。もし、もし仮に、「信じている。信じている」と口先では言いながら、たいして本気で信じてはおらず、あまり信頼しているのではないとすれば、そのとき私たちは、ほんのささいなことで直ちにいがみあいはじめるでしょう。互いに文句や不平不満を言い始めるでしょう。そのとき、うぬぼれたりいじけたり、ひがんだりしはじめるでしょう。そのとき、「世間様や人様からどう思われるか。どう見られるだろうか」と気に病みはじめ、ひどく臆病になるでしょう。そのとき、わがまま勝手に振舞いはじめたり、人様の言いなりになって、ただただハイハイと従って、人様の顔色をうかがいつづけて、ほんの短い一生を虚しく遣いつぶしてしまうでしょう。そのとき私たちは、夫や妻や子供たちの前でも職場でも教会の中でさえ、朝から晩まで、「いいや私の考えは。私の気分は。私のやり方は」などとどこまでも頑固になって我を張りつづけるでしょう。「あの人のああいう所がなんとなく気に入らない。虫が好かない。どうして、私の命令や指図に従おうとしないのか」などと互いに虚しく批判したり、「大きい。小さい。強すぎる。弱い。ぼんやりしていて気が利かない。あまり役に立たない」などと軽々しく値踏みしたりしはじめるでしょう。それぞれ、自分が王様やご主人様にでもなったつもりになって、思いのままに好き勝手に振舞いはじめるでしょう。――本気で信じることができなければ、だいたいそうなります。せっかく神さまを信じて生きることをし始めたのに。だから兄弟姉妹たち。私たちが心静かに、互いに深く慎みあうためにも、互いに安らかに晴々として暮らすためにも、《救い主イエスは信じるに値するお方だ。この主を信じ、全幅の信頼を寄せ、この方にこそ聞き従って生きる甲斐がある》と知りたいのです。ああ本当にそうだ、と。だからこそ、あのとき、十字架の上で何があったのか、主はどのように死んでいかれたのかと頭を抱えて、深く悩むに値します。もちろん八百長やイカサマであっては困ります。大変な苦しみと悩みだった。それは分かります。けれどひどく苦しみ悩んだあまりに、あの方は、すっかり絶望さえしてしまったのでしょうか? 私は神から見捨てられてしまったと? 神が救ってくださるという信頼や希望が、このときすっかり消えて無くなってしまっていた? 救い主さえも、あの悩みの極みの只中で、つまずいているのでしょうか? 「そうだ」という人々がおり、「いいや。決してそうではない」という人々がいます。
「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」(46節)。それは、詩篇22編の祈りの最初の言葉です。「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。わが神よ、わたしが昼よばわっても、あなたは答えられず、夜よばわっても平安を得ません」。深い嘆きと苦しみの叫びから始まる詩22篇のこの祈りは、ただ嘆くばかりでは終わりませんでした。ただ絶望と諦めによって貫かれる惨めなだけの歌ではなかった。その後半24節以下;「……主が苦しむ者の苦しみをかろんじず、いとわれず、またこれにみ顔を隠すことなく、その叫ぶときに聞かれたからである。貧しい者は食べて飽くことができ、主を尋ね求める者は主をほめたたえるでしょう。・・・・・・みな主を拝み、ちりに下る者も、おのれを生きながらえさせえない者も、みなそのみ前にひざまずくでしょう。子々孫々、主に仕え、人々は主のことをきたるべき代まで語り伝え、主がなされたその救を後に生れる民にのべ伝えるでしょう」(詩篇22:1-2,24-30)。十字架上の主イエスのあの言葉。それは詩篇22篇の祈りだった。ただ最初の一言だけでなく、もちろん、その全部を主は祈った。ただ嘆くばかりでは終わらず、ただ絶望と諦めに埋め尽くされるのではない祈りを、信頼と喜びの祈りを、救い主イエス・キリストは、あそこで祈っておられました。
どうして、そのように確信できるのか。もう1つの大きな手がかりは、ゲッセマネの園での主イエスの祈りの格闘です。その中身を私たちはすっかり知らされております。十字架の上と、その前夜の祈りの格闘。それは、十円玉の表と裏のように1組でした。ゲッセマネの園で、あの夜、主イエスは何をどう祈っておられたでしょう。自分の身に起こることを、どんなふうに受け止めていたでしょうか。確かに、かなり苦しく辛いことでした。かなり。天の御父に対する希望や信頼がすっかり失われてしまっても不思議ではないほどに、「もう見捨てられてしまったのだ」と絶望して、すっかり諦めて嘆くばかりで、つまずいてしまっていても不思議ではないほどに。けれど兄弟たち。ゲッセマネで、またあの十字架の上で、主イエスはどのようだったでしょうか? はっきりしています。「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ26:39)。詩篇22篇もまた、ただ素敵な声で格調高く朗読して読んできかせたというのではなく、決してそうではなく、嘆きから喜びと感謝に至るあの不思議な祈りを、主は自分自身のこととして、身をもって祈ってくださったと。ヘブル人への手紙は証言します;「そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができるのである」。また、「キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、そして、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となり、神によって、メルキゼデクに等しい大祭司と、となえられたのである」(ヘブル手紙2:17-18, 同5:7-10)。
十字架の上で、主イエスは「もう一度大声で叫んで、ついに息を引き取られた」(50節)。4つの福音書すべてがそれを報告します。再び大声で叫び、息を引き取られたと。どんな心で、どんな言葉と思いを、主は叫んだのでしょう。ここもまた詳しく細々とは書いてはありません。ただ「大声で叫び、息を引き取られた」と。あなたは困りますか? また、さまざまな疑いが湧き起こってくるでしょうか。いいえ、そうではありません。この叫びと、あの「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(46節)と、あのゲッセマネの園とは1組です。十円玉の表と裏のように。そこに、本当には何があったのか。何が起こっていたのかを、私たちは確かめることができます。そして、それぞれに何度も何度も確かめてみます。自分自身の聖書のページを開いて、一字一句に目を凝らして、口に出して読み味わいながら。
◇ ◇
救い主イエス・キリストの苦しみと死。誰のどんな苦しみや悩みに劣らぬほどに大変な苦しみであり、悩みだった。それを、私たちは割り引いて考えてはなりません。救い主ご自身にとっても、それは生半可なことではなく、あまりに重い荷物であったのです。けれどその一方で、天の御父に対する主イエスの信頼と希望は失われませんでした。それは確かにあった。そのことをも、私たちは決して割り引いてはなりません。主イエスはまことの神であり、まことの人。掛け値なく十分に神である。しかも同時に、まったく人間でもあってくださり、私たちの苦しみや悩みを我がこととして知る方でもある。この方を私たちは信じ、この方にこそ、希望をすっかり託しています。生きていくことはけっこう大変であり、大人にとっても小さな子供にとっても。しばしば手に余る現実が立ち塞がります。悪口を言われたり、なかなか分かってもらえず、ひどく誤解されたり、「見放された。見捨てられてしまった。もう自分の居場所がない」などと。毎日いろんな出来事が起こり、喜んだり悲しんだり、嬉しい暖かな気持ちになったり、あるいは物淋しく、なんだか心細い思いに囚われたりもします。人から喜び迎え入れられる時もあれば、軽んじられ疎んじられているように思える日々もあるでしょう。溜息ばかりが口から漏れて、うんざりして心がすっかり折れてしまいそうになる日々もあります。おそらく誰もがそうなのでしょう。けれど兄弟姉妹たち。私共には、全幅の信頼を寄せて願い求めるに足るお独りの方がおられます。この教会の歩みについても、それぞれの毎日の生活についても、自分自身がやがて年老いて死んでいくことについても、病気やケガやさまざまな不自由、不都合についても。子供や孫たちの将来についても、つまりは私たちが生きて死ぬことの一切について、主イエスという独りのお方にこそ全幅の信頼を寄せております。ご覧なさい、そこに主がおられます。主であられる神さまは生きて働いておられます。この私たちのためにさえ。私たちはクリスチャンです。祈りましょう。