2018年5月28日月曜日

5/27こども説教「パンと杯の食事によって」ルカ22:14-20


 5/27 こども説教 ルカ22:14-20

 『パンと杯の食事によって』

 

22:14 時間になったので、イエスは食卓につかれ、使徒たちも共に席についた。15 イエスは彼らに言われた、「わたしは苦しみを受ける前に、あなたがたとこの過越の食事をしようと、切に望んでいた。16 あなたがたに言って置くが、神の国で過越が成就する時までは、わたしは二度と、この過越の食事をすることはない」。17 そして杯を取り、感謝して言われた、「これを取って、互に分けて飲め。18 あなたがたに言っておくが、今からのち神の国が来るまでは、わたしはぶどうの実から造ったものを、いっさい飲まない」。19 またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。20 食事ののち、杯も同じ様にして言われた、「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である。               

(ルカ福音書 22:14-20

 

  救い主イエスがもうすぐ、次の朝には、十字架につけられようとしています。十字架の上で死んで、葬られ、三日目によみがえることは、ご自分を憎む人たちの悪巧みによって無理に殺されるということばかりではなく、むしろ、天の御父と主イエスとの間でずっと前から決めてあった救いの計画でした。神に逆らう罪から私たちを救うためでした。誰にとってもとても難しく分かりにくいことなので、それを弟子たちによく教えて、覚えさせるために、主イエスはパンと杯の食事を用意してくださいました。15節で、「わたしは苦しみを受ける前に、あなたがたとこの過越の食事をしようと、切に望んでいた」と主イエスは言いました。苦しみを受ける前にというのは、十字架の上で殺される前にということです。「その前に、弟子たちと一緒にこの食事をしよう、ぜひそうしたい」と心から願っていた。この食事によって、救い主イエスが死んでよみがえることを、それが何のためなのかを、弟子たち皆がよく分かり、よくよく覚えて生きるようにと心から願ってくださっています。19-20節。パンを手にとって、「これは私の体だ」。杯を掲げて、「この杯は、あなたがたのために流す私の血で立てられる新しい契約である」と。聖晩餐のパンと杯を受け取って、食べて飲む度に、主イエスを信じる弟子たち、クリスチャンたちは、「多くの人たちと共に、この私をさえ救うために主イエスは死んでよみがえってくださった。ああ本当だ」と毎回毎回、新しく覚え直し、心によくよく刻みつけつづけます。

 

    【補足/過越の食事と聖晩餐】

    これは『過越の食事』でもありました(出エジプト記12:1-27,ヨハネ福音書1:29ほか)。だから過越と聖晩餐と二つの食事の意味が、神によって重ね合わされました。『かつて小羊の血が流されて神の民がエジプトの奴隷の家から救い出され、やがて救い主イエスの死と復活によって私たちは罪から救い出された』と。主イエスの死と復活によって新しい救いの道が開かれました。それを世々の教会は、『第二の過越し』と呼び慣わしてきました。

 

5/27「神は見捨てたのか?」マタイ27:45-56


                    みことば/2018,5,27(主日礼拝)  164
◎礼拝説教 マタイ福音書 27:45-56                日本キリスト教会 上田教会
『神は見捨てたのか?』
 
 
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
 
 27:45 さて、昼の十二時から地上の全面が暗くなって、三時に及んだ。46 そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。47 すると、そこに立っていたある人々が、これを聞いて言った、「あれはエリヤを呼んでいるのだ」。48 するとすぐ、彼らのうちのひとりが走り寄って、海綿を取り、それに酢いぶどう酒を含ませて葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。49 ほかの人々は言った、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」。50 イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた。51 すると見よ、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。また地震があり、岩が裂け、52 また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。53 そしてイエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都にはいり、多くの人に現れた。54 百卒長、および彼と一緒にイエスの番をしていた人々は、地震や、いろいろのできごとを見て非常に恐れ、「まことに、この人は神の子であった」と言った。55 また、そこには遠くの方から見ている女たちも多くいた。彼らはイエスに仕えて、ガリラヤから従ってきた人たちであった。56 その中には、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、またゼベダイの子たちの母がいた。     
                                         (マタイ福音書 27:45-56)
                                               

少し事情を打ち明けておきます。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ。4つの福音書は主イエスの十字架の出来事から3040年もたった後に、ようやくそれぞれ文書としてまとめられていきました。それ以前には『主イエスの発言メモ』のようなごく簡略な記録が出回っていたり、口伝えで仲間内に人から人へと伝えられつづけていました。主イエスの発言や行動を直接に見聞きした最初の弟子たちがそれぞれに年老いて、やがてキリスト教に対する迫害がきびしくなり、多くの者たちが殺されたり、行方知れずになったりしてゆきました。もし、そのまま放っておけば、救い主イエスについての大切な記憶は失われてしまいかねませんでした。そうした危機的状況の中で、主イエスの発言と行動の記録をなんとしても残して後の者たちに伝えようと、弟子たちそれぞれが『福音書』として救い主イエスの地上の生涯のお働きを記録し始めました。4つの福音書を比較してみると、内容の多少の食い違いや、細部のズレがあります。4人の福音書記者たちそれぞれの信仰の眼差しからの報告でもあったわけです。彼らを用いて、神さまご自身がその御心を私たちに伝えようとなさっています。

 

 さて、46節の「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」。マタイ福音書とマルコ福音書は、主イエスのこの言葉を記録しました。けれど残り2つの福音書は、これを省きました。どう受け止めていいか分からなくて、あまりに恐ろしくて。この発言こそは大きな謎であり、教会の中にとまどいや混乱を呼び起こしもしたからです。今なお、十字架上の主イエスのこの言葉の前に、私たちは、頭を抱えて立ちつくします。それはいったいどういうことだろうか。主は、なぜ、どういう意味でそれを仰ったのかと。ある人たちは、「その通り。書いてある通りだ」と言います。救い主イエスは、神からも見捨てられた。そして、「なぜ見捨てたのか?」と苦しみと絶望を叫びかけているのだと。別の者たちは、「いいや。もちろん神が救い主を見捨てるはずがない。けれど、苦しみと痛みのあまりに、イエスご自身は自分は神から見捨てられた、と思った。勘違いして、うっかり早合点して。そして嘆きと絶望の叫びをあげた」と。――ぼくは引っかかります。彼は救い主であり、天の御父にすっかり信頼を寄せているからです。

救い主イエスは、はたして本当に、信じるに値するお方なのか。この主を信じて生きる甲斐があるのかどうか。もし、もし仮に、「信じている。信じている」と口先では言いながら、たいして本気で信じてはおらず、あまり信頼しているのではないとすれば、そのとき私たちは、ほんのささいなことで直ちにいがみあいはじめるでしょう。互いに文句や不平不満を言い始めるでしょう。そのとき、うぬぼれたりいじけたり、ひがんだりしはじめるでしょう。そのとき、「世間様や人様からどう思われるか。どう見られるだろうか」と気に病みはじめ、ひどく臆病になるでしょう。そのとき、わがまま勝手に振舞いはじめたり、人様の言いなりになって、ただただハイハイと従って、人様の顔色をうかがいつづけて、ほんの短い一生を虚しく遣いつぶしてしまうでしょう。そのとき私たちは、夫や妻や子供たちの前でも職場でも教会の中でさえ、朝から晩まで、「いいや私の考えは。私の気分は。私のやり方は」などとどこまでも頑固になって我を張りつづけるでしょう。「あの人のああいう所がなんとなく気に入らない。虫が好かない。どうして、私の命令や指図に従おうとしないのか」などと互いに虚しく批判したり、「大きい。小さい。強すぎる。弱い。ぼんやりしていて気が利かない。あまり役に立たない」などと軽々しく値踏みしたりしはじめるでしょう。それぞれ、自分が王様やご主人様にでもなったつもりになって、思いのままに好き勝手に振舞いはじめるでしょう。――本気で信じることができなければ、だいたいそうなります。せっかく神さまを信じて生きることをし始めたのに。だから兄弟姉妹たち。私たちが心静かに、互いに深く慎みあうためにも、互いに安らかに晴々として暮らすためにも、《救い主イエスは信じるに値するお方だ。この主を信じ、全幅の信頼を寄せ、この方にこそ聞き従って生きる甲斐がある》と知りたいのです。ああ本当にそうだ、と。だからこそ、あのとき、十字架の上で何があったのか、主はどのように死んでいかれたのかと頭を抱えて、深く悩むに値します。もちろん八百長やイカサマであっては困ります。大変な苦しみと悩みだった。それは分かります。けれどひどく苦しみ悩んだあまりに、あの方は、すっかり絶望さえしてしまったのでしょうか? 私は神から見捨てられてしまったと? 神が救ってくださるという信頼や希望が、このときすっかり消えて無くなってしまっていた? 救い主さえも、あの悩みの極みの只中で、つまずいているのでしょうか? 「そうだ」という人々がおり、「いいや。決してそうではない」という人々がいます。

 「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」(46)。それは、詩篇22編の祈りの最初の言葉です。「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。わが神よ、わたしが昼よばわっても、あなたは答えられず、夜よばわっても平安を得ません」。深い嘆きと苦しみの叫びから始まる詩22篇のこの祈りは、ただ嘆くばかりでは終わりませんでした。ただ絶望と諦めによって貫かれる惨めなだけの歌ではなかった。その後半24節以下;「……主が苦しむ者の苦しみをかろんじず、いとわれず、またこれにみ顔を隠すことなく、その叫ぶときに聞かれたからである。貧しい者は食べて飽くことができ、主を尋ね求める者は主をほめたたえるでしょう。・・・・・・みな主を拝み、ちりに下る者も、おのれを生きながらえさせえない者も、みなそのみ前にひざまずくでしょう。子々孫々、主に仕え、人々は主のことをきたるべき代まで語り伝え、主がなされたその救を後に生れる民にのべ伝えるでしょう」(詩篇22:1-2,24-30)。十字架上の主イエスのあの言葉。それは詩篇22篇の祈りだった。ただ最初の一言だけでなく、もちろん、その全部を主は祈った。ただ嘆くばかりでは終わらず、ただ絶望と諦めに埋め尽くされるのではない祈りを、信頼と喜びの祈りを、救い主イエス・キリストは、あそこで祈っておられました。

 どうして、そのように確信できるのか。もう1つの大きな手がかりは、ゲッセマネの園での主イエスの祈りの格闘です。その中身を私たちはすっかり知らされております。十字架の上と、その前夜の祈りの格闘。それは、十円玉の表と裏のように1組でした。ゲッセマネの園で、あの夜、主イエスは何をどう祈っておられたでしょう。自分の身に起こることを、どんなふうに受け止めていたでしょうか。確かに、かなり苦しく辛いことでした。かなり。天の御父に対する希望や信頼がすっかり失われてしまっても不思議ではないほどに、「もう見捨てられてしまったのだ」と絶望して、すっかり諦めて嘆くばかりで、つまずいてしまっていても不思議ではないほどに。けれど兄弟たち。ゲッセマネで、またあの十字架の上で、主イエスはどのようだったでしょうか? はっきりしています。「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ26:39)。詩篇22篇もまた、ただ素敵な声で格調高く朗読して読んできかせたというのではなく、決してそうではなく、嘆きから喜びと感謝に至るあの不思議な祈りを、主は自分自身のこととして、身をもって祈ってくださったと。ヘブル人への手紙は証言します;「そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができるのである」。また、「キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、そして、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となり、神によって、メルキゼデクに等しい大祭司と、となえられたのである」(ヘブル手紙2:17-18, 5:7-10)

 十字架の上で、主イエスは「もう一度大声で叫んで、ついに息を引き取られた」(50)。4つの福音書すべてがそれを報告します。再び大声で叫び、息を引き取られたと。どんな心で、どんな言葉と思いを、主は叫んだのでしょう。ここもまた詳しく細々とは書いてはありません。ただ「大声で叫び、息を引き取られた」と。あなたは困りますか? また、さまざまな疑いが湧き起こってくるでしょうか。いいえ、そうではありません。この叫びと、あの「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(46)と、あのゲッセマネの園とは1組です。十円玉の表と裏のように。そこに、本当には何があったのか。何が起こっていたのかを、私たちは確かめることができます。そして、それぞれに何度も何度も確かめてみます。自分自身の聖書のページを開いて、一字一句に目を凝らして、口に出して読み味わいながら。

 

             ◇

 

  救い主イエス・キリストの苦しみと死。誰のどんな苦しみや悩みに劣らぬほどに大変な苦しみであり、悩みだった。それを、私たちは割り引いて考えてはなりません。救い主ご自身にとっても、それは生半可なことではなく、あまりに重い荷物であったのです。けれどその一方で、天の御父に対する主イエスの信頼と希望は失われませんでした。それは確かにあった。そのことをも、私たちは決して割り引いてはなりません。主イエスはまことの神であり、まことの人。掛け値なく十分に神である。しかも同時に、まったく人間でもあってくださり、私たちの苦しみや悩みを我がこととして知る方でもある。この方を私たちは信じ、この方にこそ、希望をすっかり託しています。生きていくことはけっこう大変であり、大人にとっても小さな子供にとっても。しばしば手に余る現実が立ち塞がります。悪口を言われたり、なかなか分かってもらえず、ひどく誤解されたり、「見放された。見捨てられてしまった。もう自分の居場所がない」などと。毎日いろんな出来事が起こり、喜んだり悲しんだり、嬉しい暖かな気持ちになったり、あるいは物淋しく、なんだか心細い思いに囚われたりもします。人から喜び迎え入れられる時もあれば、軽んじられ疎んじられているように思える日々もあるでしょう。溜息ばかりが口から漏れて、うんざりして心がすっかり折れてしまいそうになる日々もあります。おそらく誰もがそうなのでしょう。けれど兄弟姉妹たち。私共には、全幅の信頼を寄せて願い求めるに足るお独りの方がおられます。この教会の歩みについても、それぞれの毎日の生活についても、自分自身がやがて年老いて死んでいくことについても、病気やケガやさまざまな不自由、不都合についても。子供や孫たちの将来についても、つまりは私たちが生きて死ぬことの一切について、主イエスという独りのお方にこそ全幅の信頼を寄せております。ご覧なさい、そこに主がおられます。主であられる神さまは生きて働いておられます。この私たちのためにさえ。私たちはクリスチャンです。祈りましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018年5月21日月曜日

5/20「ユダにサタンが入った」ルカ22:1-6


 5/20 こども説教 ルカ22:1-6

 『ユダにサタンが入った』

 

     22:1 さて、過越といわれている除酵祭が近づいた。2 祭司長たちや律法学者たちは、どうかしてイエスを殺そうと計っていた。民衆を恐れていたからである。3 そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれていたユダに、サタンがはいった。4 すなわち、彼は祭司長たちや宮守がしらたちのところへ行って、どうしてイエスを彼らに渡そうかと、その方法について協議した。5 彼らは喜んで、ユダに金を与える取決めをした。6 ユダはそれを承諾した。そして、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、機会をねらっていた。         

(ルカ福音書22:1-6

 

  サタンとは悪魔のことです。神さまが確かに生きて働いておられますように、悪魔も、人間の心が勝手に作り出しただけの中身のない絵空事などではなく、本当にいるのです。悪魔もまた生きていて、その悪い働きをしつづけ、私たちを付け狙いつづけているとよく分かっていましょう。3節に、「そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれていたユダに、サタンがはいった」と書いてあります。サタンの悪い心に取りつかれて、この私たちも、このユダのように神さまに逆らったり、神さまのお働きの邪魔をしたり、誰かを困らせたり傷つけたり苦しめたりしてしまうかも知れません。それは、とても恐ろしいことです。「こう祈りなさい」と主イエスが主の祈りを教えてくださったように、「神さまに背かせようとする誘惑にあわせず、どうか悪から救い出してください」と神さまに願い求めつづけて生きる必要が、私たちにもあります。ユダのようになってしまわないためにです。神さまに逆らったり、神さまのお働きの邪魔をしたり、誰かを困らせたり、傷つけたり、苦しめたりしてしまわないためにです。

 

   【補足/サタンが狙っている】

例えば、弟アベルを殺したカインも、彼らの同類でした。罪とサタンを治めることもねじ伏せることも、私たち人間には誰にもできません。主イエスの弟子ペテロの中にもサタンが入り込み、ペテロを思いのままに操ろうとしたことがありました。エルサレムの都に向かう旅の途中で主イエスがご自分の死と復活を予告なさったとき、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません。あっては困ります、止めてください」とペテロが主イエスを諌めはじめたときに。主イエスはペテロを厳しく叱りつけました、「サタンよ、引き下がれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(創世記4:5-7,マタイ16:21-23)と。サタンが、この私たちをも付け狙いつづけています。神に背かせようとして。私たちを支配し、思いのままに操ろうとして。自己中心のよこしまさへ、あまりに惨めな虚しさへと転がり落とさせようとして。この私たち一人一人も、あの彼らと同じです。四六時中、朝から晩まで自分自身の腹の思いと周囲の人間のことばかり「ああでもないこうでもない」と思い煩って、そのあまりに、神を思う暇がほんの少しもなくなってしまうかも知れませんから。そうなっては大変ですから。

 

5/20「自分自身を救わない救い主」マタイ27:27-44

            みことば/2018,5,20(聖霊降臨の主日の礼拝)  163
◎礼拝説教 マタイ福音書 27:27-44                 日本キリスト教会 上田教会
 
『自分自身を救わない救い主』
 
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
 
 27:27 それから総督の兵士たちは、イエスを官邸に連れて行って、全部隊をイエスのまわりに集めた。28 そしてその上着をぬがせて、赤い外套を着せ、29 また、いばらで冠を編んでその頭にかぶらせ、右の手には葦の棒を持たせ、それからその前にひざまずき、嘲弄して、「ユダヤ人の王、ばんざい」と言った。30 また、イエスにつばきをかけ、葦の棒を取りあげてその頭をたたいた。31 こうしてイエスを嘲弄したあげく、外套をはぎ取って元の上着を着せ、それから十字架につけるために引き出した。・・・・・・35 彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いて、その着物を分け、36 そこにすわってイエスの番をしていた。37 そしてその頭の上の方に、「これはユダヤ人の王イエス」と書いた罪状書きをかかげた。38 同時に、ふたりの強盗がイエスと一緒に、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。39 そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって40 言った、「神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」。41 祭司長たちも同じように、律法学者、長老たちと一緒になって、嘲弄して言った、42 「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。43 彼は神にたよっているが、神のおぼしめしがあれば、今、救ってもらうがよい。自分は神の子だと言っていたのだから」。44 一緒に十字架につけられた強盗どもまでも、同じようにイエスをののしった。   (マタイ福音書 27:27-44)
 
 
          救い主イエスが十字架につけられ、無残に殺されようとしています。その姿を見上げ、あまりの情けなさと惨めさに呆れ果て、バカにして笑う人々がいました。39-44節、「そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって言った、『神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい』。祭司長たちも同じように、律法学者、長老たちと一緒になって、嘲弄して言った、『他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。彼は神にたよっているが、神のおぼしめしがあれば、今、救ってもらうがよい。自分は神の子だと言っていたのだから』。一緒に十字架につけられた強盗どもまでも、同じようにイエスをののしった」。あの時、処刑場に集まった人々に、十字架の主イエスがののしられていました。あの時ばかりではありません。その後も今日でも、この十字架の主と、主を仰ぐ信仰はきびしく挑戦を受けつづけています。この信仰への誘惑は、今ではもっとスマートで現代的な、もっと気さくで親しみやすい顔つきで近づいてきます;「一度ぜひ聞きたいと思っていたんだよ。なぜ十字架なんだい? なぜ、神の独り子なんだろうね?」と。十字架のキリストなんかなくたって、あなたは十分に救われているじゃないか。神の独り子などいなくたって、あなたは十分に立派な信仰を持っているじゃないか。私にはこの信仰が必要だ、と言うのか。いやいや、信仰なんてなくたって、あなたは十分にあなた自身じゃないか。そんなに難しく考えなくてもいいんだよ。礼拝や祈りや、聖書の言葉に聞くことがいったい何の役に立つ? 十字架のキリストを仰ぐことに、いったいどれほどの意味がある? 「礼拝。礼拝」とそんなに目の色を変えなくたっていいじゃないか。「十字架のキリスト」と、そんなに深刻に思いつめなくたって。さあ、肩の力を抜いて、見回してごらん。もっと有意義な、あなたをもっと豊かにし、もっと楽しませ、もっと快適にしてくれるものが他にいくらでもあるじゃないか。

 「・・・・・そうかも知れない」と、私たちは思いはじめます。試しに、1回、2回3回と礼拝から遠ざかってみます。そして4回5回6回と。祈ることも、聖書の言葉に聞くことも、十字架のキリストを仰ぐことも、ちょっと試しに、脇に置いてみます。なんの不都合もありません。私たちは簡単に、どこまでも遠ざかってみることさえできるのです。心を注ぎ出して必死に祈ったことも、神を求めて呼ばわったことも、「わたしの主よ」と目を凝らしたことも、跡形もなく消えてゆきます。そして、神さまとは何の関係もなく、私のいつもの毎日が流れていきます。神とは何の関係もなく、この私は生きてゆくことが出来る。・・・・・・あれ、本当だ。信仰なんかなくたって、私は私だ。しかも、なんの不都合もなく痛くも痒くもない。誘惑と試練の中でそのように、1人また1人と、はるか遠くまで連れ去られていきました。その彼らも呻いています。「いったいどうやって生きてゆこうか」と。

 聖書は語りつづけます。神の独り子イエス・キリスト。その十字架の死と復活による救いと。それは神さまから私たちへの愛の出来事だった、と聖書は語ります。「キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである」(ペトロ手紙(1)3:18)。あの苦しみは罪人たちのためでした。罪人たちとは誰のことでしょうか? ただしい方がただしくない者たちのために苦しまれた。ただしくない者たちとは誰のことでしょう? あなたがたを神のもとへと導くために。あなたがたとは誰と誰と誰のことでしょうか? 主イエスはなんだそれはと小馬鹿にされ、あざけり笑われています。「十字架から降りて、自分を救ってみろ。他人は救ったのに、自分は救えないのか。今すぐ、十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」。この誘惑こそ、主イエスによる救いの出来事に対する最後の、最大の誘惑だったのです。けれど兄弟たち。私たちの主イエスは、『十字架から降りない』ことを決断なさいました。『自分で自分を救うことを決してしない』と腹をくくったのです。

 礼拝説教の中でも祈りの最中でも、普段のいつもの会話でも、「人間は罪深い。私たちの罪」と語られつづけて、そのとき、それを何か抽象的なことと思ってはなりません。ただの理屈や建前などと聞き流してはいけません。なぜなら兄弟姉妹たち、ずいぶん偉そうな、分かったふうな顔をしている私たちです。「罪深い私です。ふつつかで愚かな私です。主からの恵みに値しない私たちです」とスラスラ言いながら、その舌の根も乾かないうちに、軽々しく人を裁いている私たちです。「あの人はだらしない。自分勝手だ。この人はふつつかだ。この人はなんて愚かなんだろう。あの彼らはまったく値しない」と値踏みをし、冷ややかな批判を並べ立てることがどうしてできるでしょうか。「教会は罪人たちの集団にすぎない? ゆるされてなお罪深くありつづける罪人たち? なるほど確かに。私も罪深いが、けれどあの人の方が私の3倍も4倍も罪深い」と言うのでしょうか。「私にも勿論ふつつかな所やいたらない点もほんの少しはあるかも知れないが、だってほら、あの人の方が、私なんかより遥かにふつつかでいたらない」などと、いったいどうして言えるのでしょうか。あのとき人々は「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫びたてていました。その憎しみの叫びはますます大きく、ますます激しくなっていきました。今日でもなお人々は、いいえこの私たち自身も、「私の体面。私の体裁や面子」と叫びたてつづけます。「私の働きと努力と甲斐性が私を救った。私の勤勉実直さと有能さと気立てのよさが、つまりは私は自分で自分自身を救った」などと。それで得意になったり、目の色を変えて怒ったりガッカリしたり。放っておけば四六時中、朝から晩までそんなことをソロバン勘定しつづけ、「面目が立った。倒れた。面子が保たれた。これでは面子丸つぶれだ」などと一喜一憂しつづけます。私の体面や体裁が保たれさえすれば幸せになれる、と思い込んで。もしそれを失ってしまえば私は惨めで情けない、と思い込まされて。

 けれども兄弟たち。神さまご自身が、その独り子を、十字架に引き渡したのだと聖書は告げます。あの時、神様ご自身の面子も体裁も丸つぶれでしたよ。神さまご自身の品格も格式も尊厳も、すっかり泥にまみれていました(ピリピ手紙2:5-11,イザヤ53:2-3参照)。もしかしたら、「やたら格式ばって、権威ぶってて偉そうで」という彼らのあの批判は当たっているかも知れません。パンと杯が格式ばって偉そうだというのではなく、もちろんキリストご自身がということでもなく、この私たち自身こそがいつの間にかなんだか格式ばり、権威ぶってお高く留まり、偉そうになっていたのかも。そのくせひどくケチ臭いのかも。今日のキリストの教会は。クリスチャンたちは。いいえ、他でもないこの私たち自身は。

  こう証言されています;「わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。・・・・・・わたしたちが敵であった時でさえ」(ローマ手紙5:6-11)。驚くべきことが語られています。神さまは救い主イエスを遣わし、私たちの救いのために、あまりに惨めで無残な死に渡してくださった。けれどそれは、私たちが十分に善良であったからではなく、信仰深かったからでもなく、誠実だったからでもなく、やがて多分、強く信仰深く忠実なものになるだろうと見込んでということでもなく、ただただ神さまがなにしろ私たちを愛してくださったからでした。「なにしろ愛した。ただただ愛してくださった。だから」と聖書は語りつづけます。本当のことです。

 兄弟たち。心を鎮めて深呼吸して、この私たちこそが立ち返りましょう。私たちはいったい何者でしょう。ピリピ手紙2:5-11は、キリスト教会と私たち自身の親分であられる方がいったいどういう方なのかをはっきりと告げています。親分はあの方、私たちはその子分、手下であるはずではありませんか;「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ」と。固執なさらなかったあのお独りの方が、驚いて、目を真ん丸にしてこの私たちを見つめておられます。どこまでも執着し、こだわりつづける私たちの姿にガッカリしておられます。ご自分を無にし、しもべの身分になり、徹底して身を屈めてくださったお独りの方が、「嘘ォ」と目を疑っておられます。「私の気持ちは。私のやり方は。私たちの面子や体裁や格式は」としがみつきつづける私たちを見て、心を痛め、渋い顔をなさっています。何ということでしょう。もしかしたら私たちは、いいえ、この私自身は、あの救い主からも救いの恵みからもはるか遠くに離れてしまったのかも知れません。救い主イエスよ、私たちを憐れんでください。イエスご自身は、そのあまりに惨めで無残な十字架の死を自ら担い、自ら、死に至るまで生命を注ぎだし、ご自分の意志と判断で面子丸つぶれの死を死んでくださったのです。キリストは私たちの罪をすべてご自身の肩に担ってくださったのです。十字架につけられることによって、十字架から降りないことによって、自分で自分を決して救わないことによって、そこでようやく、私たちが受けるはずの罰を全部すっかり丸ごと背負ってくださいました。そこに、他の何にも代えがたい祝福があり、飛びっきりの確かさがあり、深い慰めと平和があります。私たちは知っています。呪いを引き受けてくださったお独りの方によって、あの丘に、あの木の上に、そこに、私たちのための祝福があります。そこにあります。この後ご一緒に歌います1954年版)讃美歌の333番は、不思議な安らかさを歌っていました。あまりに逆説。アベコベで裏腹な真実;「主よ、私をがっちりと捕まえていてください。そうすれば、私の心は解き放たれて、自由になることができます。私が握りしめているこの剣を、今にも相手に向かって振り降ろそうとしているこの刃を粉々に打ち砕いてください。そうすれば、こんな私であっても、私を苦しめ悩ませている敵に打ち勝つことができるでしょうから」。剣や棒を握るのでなしに、この手に金や銀や取り得や見所や得意で自慢できる何かを握りしめるのでなければ、どうやって勝ち抜いていけるというのでしょう(マルコ14:48,使徒3:6。え? まさかもしかして、私の敵、私を苦しめ悩ませている敵の正体はこの私。自分自身の心の中に、苦しめる敵が巣くっていたのか。私の心は定かではありません。吹く風のようにコロコロコロコロと移り変わってゆきます。ほんの小さな風が吹き、さざ波が立ちます。すると安心したり、心配になったり、満足して喜んだかと思えば、ほんのささいなことでもう悲しみ嘆いている。そんなことの繰り返しです。ですから主よ、どうか、あなたご自身の手で私の手を掴んで引っ張っていくように連れていってください。そうすれば、こんな危うい私であっても、まっすぐな晴々した道を歩いてゆくことができるでしょうから」。2節、3節は共に、やはり自分自身の不確かさや危うさや弱さを振り返っています。そこから、神に願い求めることをしはじめています。むしろ、そこからでなければ、誰1人も神に願うことなど出来なかったのです。立ち返って生きるべき、私たちの信仰の出発点がここにあります。

  讃美歌333番の4節末尾;「そうすれば、永遠の平安を受け取るでしょう」。「永遠の」に含まれる意味は、「ずっといつまでも続く」ことと共に、「いつでもどこでも、どんな状況でも」という広がりと確かさを含みもちます。生きて働かれる神を信じ、この方に期待し、願い求めることができなければ、この私たちは、安らかに生き延びてゆくことなどできません。どこで何をしているときにも、だれと一緒でも。若くても年老いていても。健康でも病弱でも。頼もしい仲間たちに囲まれていても、ただ独りでいても。自分自身のためにも、隣人たちのためにも子供や孫たち、後に続く世代のためにも。「どうか主よ」と願っています。ご主人であられます神さま、私たちを憐れんでください。私たちを祝福し、守ってください。あなたの御顔を向けて、私たちと私たちの暮らしを明るく照らし出してください。あなたの御顔をこの私たちにも向けてくださって、私たちの顔と思いをあなたご自身へと真っ直ぐに向け返させてくださり、そのようにしてこの私たちにも、あなたからの恵みと平安を贈り与えてください(民数記 6:24-26を参照)

 

 

 

 

2018年5月14日月曜日

5/13こども説教「世界の終わり」ルカ21:25-33


 5/13 ルカ21:25-33

 『世界の終わり』

 

21:27 そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。28 これらの事が起りはじめたら、身を起し頭をもたげなさい。あなたがたの救が近づいているのだから」。29 それから一つの譬を話された、「いちじくの木を、またすべての木を見なさい。30 はや芽を出せば、あなたがたはそれを見て、夏がすでに近いと、自分で気づくのである。31 このようにあなたがたも、これらの事が起るのを見たなら、神の国が近いのだとさとりなさい。32 よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。33 天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない。        (ルカ福音書 21:27-33

 

  ケンちゃん。ここでは、いつも本当のことだけを話しています。なにかとても恐ろしいことが語られたような気がしたでしょう。神さまを信じない人たちばかりではなく、信じている人たちにとっても、なんだか恐いようなビックリすることが起こします。この世界の終わりの日です。世界がすっかり新しくされて、それまで私たちがしがみついていた色々なものも私たち自身も、すっかり新しく変えられてしまうからです。でも安心してください。27節で、「そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来る」と書いてあります。人の子とは、救い主イエスのことです。そして31節で、「これらのことが起るのを見たなら、神の国が近いのだと悟りなさい」と書いてあります。神の国とは、神さまが王さまとしてご自分の力を十分に働かせてくださって、すべてのものを御心にかなって従わせてくださる世界です。とうとうこの世界全部が神のお働きのもとに据え置かれます。「すべてのもの」の中には、もちろんこの私たち自身もちゃんと入っています。神さまにこそよくよく聴き従って生きる私たち。けれど、それまではなかなか出来ませんでした。「私が私が」と強情を張ったり、「あの人が。だって、この人たちが」とこだわって、気が散りつづけ、ついつい悪い心に引き寄せられてしまったり。最初の時、主イエスはおっしゃいました、「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15と。とうとう心を入れ替えて、神さまのところへ立ち返って、この私たちも晴れ晴れ清々して生きはじめることができます。それなら今すぐにでも それをし始めることさえできるのです。わおっ。

 

        【補足/神の安息に入る約束】

「それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである」。また、「『きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない』とダビデをとおして言われたのである。・・・・・・わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか」(コリント手紙(1)15:24-25,へブル手紙4:7-11)。