みことば/2017,12,31(主日礼拝) № 143
◎礼拝説教 マタイ福音書 24:3-39 日本キリスト教会 上田教会
『最後まで
耐え忍ぶ者は』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
24:3 またオリブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとにきて言った、「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」。4
そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。・・・・・・8 しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。9 そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。10
そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。11 また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。12 また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。13
しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。14 そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。(マタイ福音書
24:3-14)
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聖書が告げていたとおりに、「やがてこの世界の終わりの時が来る」ことを私たちは知っています。知っているばかりではなく、「終わりの日に備えながら、救い主イエス・キリストが再び来てくださることを待ち望む」と世々のキリスト教会とともに私たちも告白しています。主を待ち望みつつ一日一日を暮らしている私たちです。「いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」と弟子たちは問いかけました。主イエスは答えて言われました、4節、「人に惑わされないように気をつけなさい」。戦争のうわさ、ききん、また地震や洪水や津波、崖崩れが起こる。しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。『赤ちゃんを産むときのお母さんの苦しみ』だと言い表されているのは、その苦しみや痛みの何倍もの喜びと幸いがその後ろに待ち構えている。だから勇気を出せ、と励まされているのです。そのとき人々は、私たちを苦しみにあわせ、また殺すこともする。また私たちは、主イエスの名のゆえにすべての民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合う。また多くの偽預言者が起って、多くの人を惑わす。また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。主イエスによって語られたこれらの言葉を、私たちは覚えておきましょう。例えば、世界の終わりの日が来るまでは、世界中に平和や幸いや繁栄が満ち溢れることをあまり期待することができません。むしろ、きびしい迫害や貧しさや心痛む事件を数多く目にしつづけることを覚悟しなければなりません。そうでなければ、私たちははなはだしく心を惑わされてしまうでしょう。救い主イエスは私たちに、戦争や飢饉や迫害の噂を聞くとき、その噂に注意して耳を傾けるようにお命じになります。「不法がはびこり、多くの人々の愛が冷える」(12節)と予告されています。多くの人々が心を閉ざして、自分とその仲間たちさえ良ければそれでいいと、自分の国と自分の民族さえ良ければそれでいいと、他の人々を排除し、踏みつけにしはじめます。産みの苦しみが、すでにはっきりと始まっています。平和の王が戻ってきてくださるときまでは、世界中に争いや迫害が絶えず、多くの者たちがないがしろに扱われ、踏みにじられつづけるからです。
例えば世界の終わりの日が来るまでは、多くのキリスト教会と私たちクリスチャンの信仰は惑わされつづけます。そのことも心得ておく必要があります。主イエスがはっきりと仰ったように、多くの者たちがキリストの名を名乗り、あるいはその代弁者だと語って、多くの人々を惑わすからです。多くの偽預言者たちが起こって、多くの人々を惑わすはずだからす。14節、「そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そして、それから最後がくるのである」。全世界に宣べ伝えられる。けれども全世界のすべての人々がこの聖書の神を信じるわけではありません。信じる者たちもおり、信じない者たちも多く残されるでしょう。それでもなお、最初のクリスマスのとき、赤ちゃんの姿の主イエスが神殿に連れて来られたとき、おじいさんのシメオンはその赤ちゃんを腕に抱いて、神をほめたたえ、喜びにあふれてこう言いました。「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに、この僕を安らかに去らせてくださいます、わたしの目が今あなたの救を見たのですから。この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので、異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光であります」(ルカ福音書2:29-32)。それまで神を知らなかった、信じなかった者たちの中から、神を信じる者たちが一人また一人と生み出されつづけます。この私たちもそうでした。それでもなお、この世界の終わりの日がいつ来るのか、それがいつのことなのかを、私たちは知りません。32-39節、「いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。そのように、すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう」。「だから目を覚ましていなさい」と命じられます。いつの日に私たちの主が来られるのか、私たちには分からないからです。だからこそ世々のキリスト教会と私たち自身は告白し、自分たちの魂に深く刻みつづけてきました。「主の委託により正しく御言葉を宣べ伝え、聖礼典を行い、信徒を訓練し、終わりの日に備えながら主が来てくださることを待ち望む」(日本キリスト教会信仰の告白,前文の末尾)と。預言者たちも語りかけ、仲間たちを励ましつづけました、「ヤコブよ、何ゆえあなたは、『わが道は主に隠れている』と言うか。イスラエルよ、何ゆえあなたは、『わが訴えはわが神に顧みられない』と言うか。あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」(イザヤ書40:27-31)と。終わりの日に備え、ふたたび来られます救い主イエスを待ち望んで生きるのでなければ、そうでなければ、私たちもまた他の多くの者たちと同じように、弱り、疲れ果てて、ついには倒れてしまうということです。「年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる」と告げられているのは、今のところは若々しく元気はつらつとしているとしても、それは将来に対して何の保証にもならず、どんな慰めにも支えにもならないということです。今しばらくの間は、バリバリで、何でも思い通りにできて、よく働き、自分自身と家族と仲間たちをよく支えることができるとしても、その『輝かしく明るい、昼間の時間』はつかの間に過ぎてゆきます。何に希望をたくすことができるでしょうか? 主を待ち望む信仰だけが、私たちを支え、主ご自身こそが私たちにとって頼みの綱でありつづけます。
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さて13節、「しかし最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。
誰がどのようにして最後まで耐え忍ぶことができ、どのように救われるのでしょうか? ただただ聖書にだけ教えられて、キリスト教会ははっきりとそのことを語り伝えてきました。私たちの信仰が堅いか、やわらかいか、しっかりしているか、それともあやふやで弱くて脆いかということではありません。私たちの善い生き方や、断固たる強い志しや、信仰深さや決心の揺るぎなさでもありません。それらのこととは何の関係もなく、ただただ神ご自身が善いお方であり、恵み深くあってくださり、ご自身が選んでくださった神の民を必ず救いに至らせようとする神さまご自身の断固たる御意思。これこそが、私たちの救いの唯一の土台です。だからこそキリスト教会の信仰は、最初から終わりまで、『神中心の信仰』でありつづけます。生きて働かれる、しかも出来ないことは何一つもない神と出会い、その神を知り、その神をこそ信じています。他の誰でもなく何者でもなく、ただただ神ご自身が、私たちを救いへと選んでくださった。だからこそ、私たちは神の恵みとそのお働きによって、最後の最後まで必ずきっと耐え忍び、そのようにして救われる者とされています。つまり、「最後まで耐え忍ぶ」から「救われる」のではなく、すでに神によって恵みのうちに選ばれ、救われているし、救われつづける。だからこそ、「最後まで耐え忍ぶこともできる」。生きて働かれる神こそが、必ずきっと耐え忍ばせてくださる。これが、キリスト教信仰の中身です。
例えば士師ギデオンがとても臆病で弱虫で日和見で腰抜けだったのは、自分自身は弱くて、しかも心強い後ろ盾を何一つももっていないと考えたからでした。確かに彼も私たちと同じく、あまりに弱くて小さな存在です。しかも! 神さまに助けていただけるともなかなか思えませんでした。だから、『神が生きて働いておられ、出来ないことは何一つもないこと。こんな私をさえ見放さず、必ずきっとどこからでも助けてくださる』と知るために、「しるしと証拠を見せてください。見せてください。また、みせてください」と何度も何度も何度も確かめさせていただきました。肉とパンを岩の上に置いて真っ黒焦げにしてもらったり、羊の毛皮をびしょ濡れにしてもらったり、乾かしてもらって、またじしょ濡れにして、また乾かして、またびしょ濡れにしてもらったり。それでも信じられません。ギデオンと仲間たちがハロデの泉のほとりに陣を張ってミデアン人と対峙して戦おうとしたとき、相手はすでに十分に強大で圧倒的でした。それでもなお味方の軍勢を32,000人から10,000人へ、さらに300人へと減らされました。主は仰いました、「あなたと共におる民はあまりに多い。ゆえにわたしは彼らの手にミデアンびとをわたさない。おそらくイスラエルはわたしに向かってみずから誇り、『わたしは自身の手で自分を救ったのだ』と言うであろう」(士師6:19-40,同7:1-8)と。たった300人の、有るか無しかの、あまりに粗末な軍勢で何倍もの敵兵を打ち負かしたならば、そうしたら、『神が生きて働いておられ、出来ないことは何一つもないこと。こんな私をさえ見放さず、必ずきっとどこからでも助けてくださる』と知るだろうと。
例えば主の弟子ペテロはギデオンと正反対で、たいへんな自惚れ屋さんでした。自分には何でも出来ると思い上がって、神ではなく、ただただ自分自身を信じるだけの、うかつで愚かな自信家でした。主イエスが十字架におかかりになる前の晩、最後の晩餐の席で、ペテロは鼻高々で胸を張りました、「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません。たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」(マタイ26:33-35)。他の弟子たち皆も、だいたい同じようなものでした。「当てにならない弱くて小さな自分だ」と、これでもかこれでもかと思い知らされました。その上で救い出されたなら、多分、『神が生きて働いておられ、出来ないことは何一つもないこと。こんな私をさえ見放さず、必ずきっとどこからでも助けてくださる』とあの心のかたくなな頑固者たちでもとうとう知って、今度こそ神を本気で信じはじめるだろうと。
例えば主の弟子パウロもペテロと似ていて、たいへんな自惚れ屋さんで、神ではなく、ただただ自分自身の力や知恵や賢さを信じるうかつで愚かな自信家でした。他人の5倍も6倍も優秀な、信仰深くて賢くて大きな大きな彼でした。だから、コテンパンに痛めつけられ、ペシャンコにしていただく必要があったのです。なぜ? なんのために。『神が生きて働いておられ、出来ないことは何一つもないこと。こんな私をさえ見放さず、必ずきっとどこからでも助けてくださる』と、ついにとうとう骨身にしみて思い知るために。やがてあのパウロも謙遜にされて、こう言い始めます。ビックリです、「そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」(コリント手紙(2)12:7-10)。神の力は、私たちが小さくて弱いときにこそ十分にあらわれる。その反対に「私が私が」と強情を張って、見栄と体裁を取り繕いつづけて、人の顔色ばかり気に病みつづけていた間、強すぎる私たちのせいで神の力は邪魔されつづけて、なかなか働くことができませんでした。
兄弟姉妹たち。だからこそ『主の恵みはこの私のためにも十分である』と心底からつくづくと知りたいのです。私たちが身を屈めさせられ、謙遜にされ、弱くされるとき、とうとう神の恵みと憐れみの力によって私たちも本当に強くされますように。神が生きて働いておられ、出来ないことは何一つもない。こんな私たちをさえ見放さず、必ずきっと何度でも何度でも、どこからでも助け出しつづけてくださる。そのことを、神さまご自身が、この私たちにもよくよく習い覚えさせてくださいますように。