2018年1月26日金曜日

1/21「土の中に隠した理由」マタイ25:14-30

                          みことば/2018,1,21(主日礼拝)  146
◎礼拝説教 マタイ福音書 25:14-30               日本キリスト教会 上田教会
『土の中に隠した理由』
 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

25:14 また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。15 すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。16 五タラントを渡された者は、すぐに行って、それで商売をして、ほかに五タラントをもうけた。17 二タラントの者も同様にして、ほかに二タラントをもうけた。18 しかし、一タラントを渡された者は、行って地を掘り、主人の金を隠しておいた。19 だいぶ時がたってから、これらの僕の主人が帰ってきて、彼らと計算をしはじめた。20 すると五タラントを渡された者が進み出て、ほかの五タラントをさし出して言った、『ご主人様、あなたはわたしに五タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに五タラントをもうけました』。21 主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。22 二タラントの者も進み出て言った、『ご主人様、あなたはわたしに二タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに二タラントをもうけました』。23 主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。24 一タラントを渡された者も進み出て言った、『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。25 そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』。26 すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。27 それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。28 さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、十タラントを持っている者にやりなさい。29 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。30 この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。
                                       (マタイ福音書25:14-30
                        
                                        
  今日の『タラントのたとえ』は、先週ご一緒に読んだ『十人の花嫁候補者たちのたとえ』(マタイ25:1-13とよく似ています。両方共が、とても大切な1つの出来事へと私たちの心を向けさせます。救い主イエスがやがて再び来られる。だから、気をしっかり持って、背筋をピンと伸ばして精一杯に暮らしなさいと。
  この『タラント』(あるいはタレント、才能? 豊かな素質や並外れて秀でた能力?)という言葉は、元々の意味から大きく外れ、また神さまご自身の御心を置き去りにして、好き放題に独り歩きしつづけています。芸能界で活躍するアイドルや輝くようなスターたちが持っているような豊かな素質や並外れて秀でた能力のことだと、人々は誤解しつづけます。クリスチャン同士でも、うっかりすると、お互いに「まあ。あなたは豊かな才能や賜物がたくさんあって羨ましいわ」「いえいえ、あなたこそご立派で才能たっぷりで」などと。このたとえ話の中で主イエスが仰ったのは、そういうこととはずいぶん違っています。洗礼を受けたクリスチャンたちは何の区別も分け隔てもなく、この『主人のものである財産』を皆がそれぞれとてもたくさん委ねられています。大事に用いるようにと信頼され、主人からの委託を受けて。主人は旅行に出かけるにあたって、しもべたちを呼んで、それぞれの力に応じて、1人には5タラント、1人には2タラント、1人には1タラントをそれぞれ預けて出かけていきました。聖書の末尾に付いている換算表によって、それがどれほどの価値なのかが分かります――

   タラント(通貨の単位) ギリシャで用いた計算用の単位で6000デナリオンに相当する
(1デナリオンは1日分の労働賃金)

5タラント預かったしもべに比べて1タラントしか預けてもらわなかったしもべは、少なすぎるような、1人だけ損したみたいな気分になるかも知れません。けれど大間違いでした。換算表を見ると、1タラントでさえ6000日分の賃金、つまり25年から30年、真面目にコツコツ働いて得るほどの莫大な額の財産です。2タラントならその倍。5タラントなら、125年から150年真面目にコツコツ働いて得るほどの莫大な額の財産。しかもこれは『天の国のたとえ』であり、この主人こそが神さまです。神さまの目には、30年働いて得る賃金も150年働いて得るほどの莫大な財産も、同じく変わらず「ほんの少しのもの」に過ぎません。金額や価値がわずかばかり多いか少ないかを見て目くじら立てる神様ではなく、むしろ私たち人間の心の中に隠してあるものをつくづくとご覧になる神さまです。もう1つ、目を向けるべき大きな着眼点は、1タラントを預けられたこの最後のしもべが、なぜ土の中に主人のものである財産を隠したのか。その理由です。26節で、「悪い怠惰なしもべだ」と叱った言葉に騙されてはいけません。働くのが面倒で怠けていたから叱られた、のではありません。多く働いたか、少ししか働かなかったか、成果をたくさんあげたか、失敗してあまり成果をあげられなかった、儲かったとか損したなどとソロバン勘定してと一喜一憂する神さまでもなかったのです。むしろ、主人の財産を土の中に隠した理由も、叱られた理由も、暗闇の中に放り出された理由も、このしもべがどんな主人なのかをすっかり見誤っていたことです。「一タラントを渡された者も進み出て言った。『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』」(24-25)
  はっきり分かりましたね。今日のこの箇所の最大の山場はここです。蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しく恐ろしいご主人さまだ、と彼は思い込んでいました。だから、「1タラントもの莫大な財産を預かって何か失敗でもしてしまったらどんな目に合わされるか分からない、恐ろしい恐ろしい」と土の中の奥深くに預かった財産を隠すほかなかったのです。このしもべのことを、あなたはどう思いますか? 確かに、ひどく愚かではある。悪いのかというと、そうは言えません。むしろ、この彼は騙された可哀想な被害者です。誰かが、主人についての根も葉もない作り話を彼の耳に吹き込みました。「へえ、そうだったのかあ」と彼は鵜呑みにして、そのロクでもない作り話をうっかり信じてしまいました。とても悪かったのは、この彼に、主人についての根も葉もない作り話を聞かせて信じ込ませた者たちです。
で、あなたは、どんな主人であり、しもべたちをどのように取り扱う主人だと教えられてきましたか? あの愚かなしもべがつい誤解してしまったように、種を蒔かない所からさえ無理矢理にも刈り取り、散らさない所からかき集められる、意地汚く厳しい、恐ろしいご主人さまだと? それとも、「恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされる」(ヨナ書4:2,出エジプト記34:8,86:5-15)と? そこが、「忠実な良いしもべだ。よくやった。一緒に喜んでくれ」と誉めていただけるか、あるいは「悪いしもべよ」と外の暗闇に放り出されてしまうかの決定的な分かれ道です。もし本当のことを教わって、よくよく習い覚えてきたのなら、私たちは幸いです。

              ◇

  それでは、仕上げをしておきましょう。神さまから良い贈り物をたくさん与えられているとして、それはほんの一時だけ貸し与えられていると自分を戒めておくことは、私たちが脱線してしまわないために、役に立ちます。自分のものだと思った途端に、私たちは直ちに自分勝手になり、独りよがりになり、うぬぼれたり僻んだりしはじめるからです。一日分ずつの生命もそうです。土地建物も、仕事も家族も友人たちも、名誉も様々な財産も、やがてすっかり主人にお返しし、私たちは骨も肉体も土に還し、何も持たず手ぶらで裸で主のもとへと帰ります。それら、主人から委ねられ預けられている、主人のものである財産について、主人に感謝してもいい。また、主人に願い求めてもいい。「大切に、喜んで感謝して、良く用いさせてください。どうぞ、よろしくお願いたします」と。
  1タラントのあのしもべを、神さまの本当の心を何も知らなかった、とても愚かなしもべを、思い起こしましょう。あの彼こそが、私たちのための悪い手本です。彼の振り見てわが振り直せ。あの彼は、どういう主人に仕えているのかがすっかり分からなくなりました。どうしたわけか耳が塞がりはじめました。すると、どんどん聞こえなくなりました。それでますます臆病風に吹かれました。主人から厳しく恐ろしい仕方で扱われると勘違いしただけではなく、人様や世間様からも どんな意地悪をされたり、ひどい目にあわされるかと恐ろしくて恐ろしくて、とても心細くなりました。アダムとエバがエデンの園に連れて来られて以来、伝統的に、私たちの仕事は自分自身が据え置かれたその土地を耕し守ることでした(創世記2:15-18参照)。しかも土の塵で造られた農業作業者たち、その労働は必ずきっと実を結びます。たとえ荒れ果てた土地でも。たとえ未熟で粗忽な働き人たちだとしても。結んだ実はすくすくと成長しつづけます。なぜ? どうしてでしょうか? 神さまが放ってはおかないからです。水をやる者があり、雑草をむしる者らがあり、土を耕し、石ころや木の根を取り除く者らもあり、しかも決定的に神さまこそが成長させてくださいます。神さまご自身が私たちの土地に種を蒔いてくださったからです。神さまご自身のものである慈しみから芽生えて、やがて結ぶ実そのものも、やはり慈しみです。その実を施す者も施される者も共々に、神さまに感謝するようになります。感謝はますます溢れ出て、次の実を結び、また次の実を結び、また次の実を結んでいきます。
  私たち、神の国の土地を耕す労働者たち皆は、わざわざ土の塵から形づくられました。神さまがその鼻に生命の息を吹き入れてくれました。それで、私もあなたも生きる者となりました。土の塵で、泥をこねて造られた私たちです。土を耕して生きるはずのその人も、土でできている。どういうことか分かりますか? その人の中に小さな1粒の慈しみの種が芽生え、大きく育ち、素敵な慈しみの花を咲かせ、やがて嬉しい慈しみの実を結ぶためには、その人のためにも、やっぱり(1)恵みの雨と、(2)その人を耕してくれる別の耕す人が必要だってことです。もし、そうでなければ、その人も直ちにカラカラに乾いて、干からびて、草一本も生えない寒々しく荒れ果てた淋しい人間になってしまうかも知れなかった。踏み荒らされて壊された砂の道路や、砂の山や砂の家のようになってしまうかも知れなかった。思い煩いの茨に覆い尽くされて、陽の射さない薄暗いジメジメした庭になってしまったかも。で、その人を耕してくれる人もやっぱり同じく土の塵で造られていて、神さまからの恵みの雨と別の耕す人を必要とした。その耕す人もやっぱり。土の塵から造られ、鼻に生命の息を吹き入れられた私たちです。壊れ物のような、とても危っかしい存在です。そうだとして、けれどその千倍も万倍も大切なことがあります。どういう主人なのか。どんな主人であり、しもべたちをどのように取り扱う主人だと教えられてきましたか? あなたは、この神の国の信仰の学校で何を、どのように習い覚えてきましたか。あのたとえ話の中の彼がニセモノのペテン師たちに教えられ、騙されていたとおりに、『種をまかない所からも無理矢理にも刈り取り、散らさない所から集める、あまりに強欲で酷な、厳しく恐ろしいご主人さま』だと。それとも、『恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされる神である』(ヨナ書4:2,出エジプト記34:8,86:5-15と? 
それによって、私たちの毎日毎日の暮らし方や働き方が大きく変わってしまうでしょう。あなたはどんな主人に、どのように仕えて暮らしているのでしょうか? 困ったことや恐ろしいこともなく、安心して、神さまに「ありがとうございます。わあ嬉しい」と感謝し喜ぶこともできて、毎日毎日を暮らしておられますか? では、どうぞ良い一週間を。