2018年1月16日火曜日

1/14「灯火が消えそうです」マタイ25:1-13

                          みことば/2018,1,14(主日礼拝)  145
◎礼拝説教 マタイ福音書 25:1-13                 日本キリスト教会 上田教会
『灯火が消えそうです』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
25:1 そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。2 その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。3 思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。4 しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。5 花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。6 夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。7 そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。8 ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。9 すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。10 彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。・・・・・・13 だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。                   (マタイ福音書 25:1-13)
                                                


 主イエスご自身が、たとえ話を用いて、説き明かしておられます。神さまがどういう神さまなのか。神を信じて、どんなふうに毎日毎日を暮らすことができるのか。その希望や慰めはなんなのかということを。「天国は~に似ている。神の国は」などという中身は、それです。その大切なことをこの私たちにもぜひ伝えようとして、救い主イエスが語っています。さて、10人の若い女性たちが花婿を待っていました。救い主イエスこそが花婿。クリスチャンは、その花婿イエスと添い遂げようとする花嫁たちです(ヨハネ福音書3:27-30,マタイ福音書9:15,エペソ手紙5:22-32。子供の頃の運動会や遠足の前の夜のように、ワクワクしながら、今か今かと、喜びと期待に胸をふくらませて。けれど、どうしたわけか、花婿の到着がずいぶん遅れてしまいました。こんなに遅くなるとは思っていませんでしたし、長く待ち続けるための準備も全然できていませんでした。まったく想定外だったのです。それで、花婿との喜びの祝宴に座ることができたのは、10人のうち、たった5人だけ。ほかの5人はともし火の油が尽きてしまって、暗闇の中に残されてしまいました。なんと痛ましいことでしょうか。
  暗闇の中に残されてしまった5人の花嫁候補者たちのことが、心に掛かります。からっぽの油受け皿があり、その受け皿を抱えて闇の中に飲み込まれていった、考えの足りない、やや浅はかで愚かな5人の花嫁がいました。彼女たちは確かにともし火を持っていました。火を燃やすための質の良い芯も持っていました。油受け皿も持っていました。そして、ほんの少しの油と。けれど、それでは全然足りなかった。長い夜がつづき、その暗がりの中を彼女たちは長く長く耐え忍ばねばならないなどとは思ってもみませんでした。それぞれが手にしていたともし火こそが彼女たちを励まし、格別な勇気を与え、彼女たちを心強く支えるはずでした。私たちは、多くの礼拝と祈りを積み重ねてきました。差し出されて、あの格別なパンと杯を受け取りつづけました。そこで、「このパンを食べ、この杯から飲み干すたびに、私たちのための主の苦しみと死を告げ知らせる。それは、主が来られるときまでつづく」と説き明かされました。けれど、救い主イエスの2度目の到来は、それがいつ起ころうとも、私たちを深く驚かせるに違いありません。まるで突然、真夜中に、主が来られるように。花婿を出迎えようとする花嫁たちは、やがてウトウトしはじめ、ぐっすりと眠り込んでしまいます。十字架の前の晩に主が祈っておられた間、弟子たちがうっかり眠り込んでしまったように(マタイ26:36-)です。思い煩いと疲れとに襲われて、あの花嫁たちばかりでなく、あの弟子たちばかりでなく、この私たちもまたいつの間にか眠り込んでしまいます。私たちの心を惑わすものはとても多いのです。神を愛し、神の義を求めるよりも、この世界を愛し、この世界で受け取るさまざまな楽しみをむさぼうるようにと、私たちを誘います。「神さまなど2の次、3の次でいいじゃないか。ほかにもっと有意義な、もっと楽しく充実した時間の過ごし方があるじゃないか。あなたをもっと豊かにしてくれるものがいくらでもあるじゃないか」と。だから私たちは、「目覚めて祈っていなさい」と戒められたのです。熱心で信仰深い者たちが特に見込まれて「祈れ」と勧められた、のではありません。むしろ逆です。例えば祈りは、川で溺れそうな人に向かって差し出された浮き輪であり、一本のロープです。信仰の弱い者たちのために。たやすく眠り込んでしまいやすい危うい者たちに、「あなたは目覚めていなさい。あなたこそは、祈りつづけよ」と。たやすく神を見失ってしまいそうな者たちにこそ、「あなたは眼を凝らせ」と促されました。なぜなら。目覚めて祈っていることなしに、神に向かうことはできません。神に向かうことなしに、この世界の誘惑と試練を耐え抜くことは、とうていできません。ひたむきな熱心さと忙しさの只中で、自己中心の思いとむさぼりと、心の緩みと、高ぶりと恐れとが、疲れと失望とが、あっという間にあなたを飲み込んでしまうでしょう。神が生きて働いておられることなど、思いもよらないあなたに成り下がってしまうでしょう。ほんの一瞬心が燃え上がることがあるとしても、あなたの肉体は弱いのですから。あなたや私の心も信仰も、とても弱いのですから。それなのに、まだ眠っているのか。まだ眠っているのか。その眠りを引き裂いて、突然に「さあ、花婿だ。迎えに出なさい」(6)と叫ぶ声がします。主イエスがこの世界に再び来られるとき、まったく同じことが起るでしょう。
 8-9節。考えの足りない浅はかで愚かな女性たちは必死に訴えます。「あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから。油を分けてください。どうかほんの少しでも分けてください。だって、私のともし火は消えそうなんですから」。けれど考え深い賢い女性たちさえこう答えます。「わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。自分の分を用意して蓄えておくだけで精一杯でしたから。どこかそのへんのコンビニか終夜営業のホームセンターにでも行って、自分で自分の分を買い求めるがよいでしょう」と。受け皿の中の油は、受け取った恵みであり、救いの確信です。主への信頼であり、主に対する感謝です。油受け皿の中の油は、それゆえ主に対するさらなる願いであり、期待です。だからこそ、それは誰からも分けてもらうことなどできなかった。この私自身の受け皿の中に、1滴また1滴と溜まり、集められてゆくのでなければ、それは私自身の信仰のともし火を燃やす油とはなりませんでした。長い夜がつづき、その暗がりの中を私たちは長く長く耐え忍ばねばなりません。このともし火こそが、私たちを励まし、勇気を与え、私たちを心強く支えるはずなのです。

  ――神学生だった頃から25年ほど、この10人の花嫁の箇所をおよそこんなふうに読み、人にも説明してきました。けれどそれは、ごく表面的に眺めただけの、考えの足りない浅はかすぎる理解でした。神さまからの灯火や油や油壺がどんなものであるのかもすっかり誤解しつづけていた、とほんの数日前に気づきました。それまで、ぼくの心はとても鈍っていたのです。鈍くされて曇った僕の目と心には、神ご自身もその恵みもとても小さくて弱々しく、安っぽいものに見えていました。恥ずかしいことであり、とても申し訳ないことです。さて、思慮深いとされた5人の女性たちは答えていました、9節、「私たちとあなたがたとに足るだけは多分ないでしょう」。つまり、「自分たちを明るく照らす分には十分ある。けれど分けてあげて、一緒にその光と暖かさを喜び味わうほどには全然足りない。どこからヨソに行って、他の誰かから自分で手に入れなさい」と。本当でしょうか? その灯火が、もし本当に神さまからの福音と恵みの光だとするならば、その光はなんだかケチ臭くて、薄汚れていて、あまりに薄情です。しかも花婿(=救い主イエス)を待つとても幸いな花嫁(=クリスチャン)であるはずなのに、けれども、どういうわけか親切心や思いやりのかけらもない。こういうことについて、聖書自身はなんと証言しつづけてきたんでしたっけ? 「起きよ、光を放て。あなたを照らす光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから」と語りかけられていました。主イエスご自身からも、「あなたがたは地の塩であり、世のための光である。救い主である私こそが世を照らすまことの光であり、その光と出会い、その光を信じて、その光に朝も昼も晩も照らされつづけ、そのキリストの光を照り返して明るく輝いているはずのあなたではないか」と励まされてきた私たちです(イザヤ書60:1-7,マタイ5:13-16,ヨハネ8:12
  もう一つ、「油を分けてください。油が尽きかけて、私の灯火がもう消えそうですから」とあなたにすがってきた人たちは、あなたにとって縁もゆかりもない、ただの通りすがりの赤の他人だと思っていたでしょうか? そうかも知れません、そうではなかったかも知れません。もし、それが、生涯添い遂げると誓い合った、あなたの愛する連れ合いだったらどうでしょう。あるいは、かけがえのない息子や娘たちだったら。それでもあなたや私は、「自分の分は十分ある。けれど分けてあげて、一緒にその光と暖かさを喜び味わうほどには全然足りない。残念でした。どこからヨソに行って、他の誰かから自分の努力と力と甲斐性で手に入れなさい」などと冷たく薄情に追い払うでしょうか。いいえ、決してそうではないでしょう。たとえ、ほんのわずかしか持っていなくたって、最後の油の数滴でさえ、「はい。どうぞ」と惜しみなくその人に差し出すのではありませんか。もし、本当に大事に思っている相手になら、それくらいのことを誰でもしてあげるでしょう。
私たち自身の家族のことも、ここで思い出しました。「家族への伝道。伝道」と言われ、何回か試して断られたあとで、「信仰は自由だから。無理に強制することもできないし、だから本人の判断に任せて放っておいたほうがいいのよ」などと澄ました顔をして私たちの何人かは言い出しはじめました。一見、道理があるかのように見えて、けれどそれは嘘ッパチのゴマかしです。もちろん無理強いしてもだめです。じゃあ何もしないのか、大事な家族なのに、ただただ放っておくのか。それは薄情で無責任なだけで、内心ではガッカリして諦めているだけです。もし大事なことなら、しかも大事に思っている相手には精一杯に伝えようとしつづけます。子供に箸の持ち方を教えてあげるように。横断歩道の渡り方、自転車の乗り方を教えてあげたように。信仰のことも、最後には自分で判断します。けれどその前に、自分で判断できるために必要な情報や材料を精一杯に伝えます。どんな神様なのか。どんな救いと恵みなのか。神を信じてどんなふうに心強く生きてゆくことができるのかを、精一杯にその人に伝えます。そこまでの責任が私たちにはあります。その後で、その人自身が自分で判断し、自分で選び取ります。神を信じることができるかも知れません。できないかも知れません。それは、神さまとその人自身に任せます。また、新しく教会に来はじめた人たちに対しても、家族への伝道とだいたい同じです。何回か、何十回か試しに来てみて、もし、それでピンと来なかったなら仕方がない。それで良い。あとは、神さまとその人自身にお任せします、ね?
 さて、「せいぜい自分の分だけなら十分ある。けれど、分けてあげるには全然足りない」という証言に、聖書自身も、「異議あり。それは違うだろう」と言い立てつづけます。聖書が語りつづけてきた福音の道理とはかなり隔たっていて、どうしても相容れないからです。思慮深いと言われた5人の女性たちが手に持っている油と油壺と灯火がもし神ご自身からの恵みであり、福音の喜びであるならば、もちろんいくらでも分けてあげることができます。しかも「はいどうぞ」「はい。あなたもどうぞ」と分けてあげたって、少しも油は減りません。あ~ら不思議、それどころか分ければ分けるほど、かえって逆に増えつづけて溢れ出すはずでした。旧約聖書の時代にも、薄暗い谷間にうずくまっている人々に向かって、「起きよ、光を放て」と預言者をとおして神が語りかけたとき、虚しく座り込んでいるその人々自身は光も灯火も油も油壺も持ってはおらず、何の準備も備えもありませんでした。けれど、たとえそうであっても誰でも起き上がって光を放つことができる理由は、ただただ神ご自身の憐れみ深さと真実にだけありました。光であられる神があなたの上にも昇っているから、その光に、あなたも照らされているのだから。今日のたとえ話の中の灯火も油も、ゆたかな井戸からこんこんと湧き出るおいしい水のようでした。井戸の前で、サマリア人の一人の女性に、主イエスご自身も仰っていたではありませんか。「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(ヨハネ福音書4:13-14と。

  今日のたとえ話は、私たちの信仰を激しく揺さぶって、どんな神をどう信じているのかと問いかけるものでした。私たち皆がたびたび心を鈍くされ、貧しくされつづけるからです。習い覚えて、よくよく知っていたはずのことがすっかり分からなくなってしまいやすいからです。手に持っている灯火が井戸の水のようだとして、あなたや私は、誰の井戸から水を汲んで飲みつづけてきたでしょう。もちろん主イエスの井戸からです。手にそれぞれ灯火と油と予備の油を蓄えておく灯油タンクのような油壺をもっているとして、それをいったい誰から手渡されたでしょうか。もちろん、救い主イエス・キリストご自身からです。それならば花婿を待つ花嫁たちよ。薄暗い夜の闇が長くつづくとしても、油の蓄えが少なすぎ、もうすぐ底をつきそうだと思える日々があるとしても、それでもなお私たちは信じることができます。主イエスを。主イエスから手渡された自分のための灯火と油と油壺を。もし、あなたに「油を分けてください」と頼んでくる人がいるなら、その人はとても思慮深いし、賢い。あなたからなら、きっと必要なだけたっぷりと分けてもらえると知っているからです。「自分の分しかなくて、分けてあげられません」と答えようとしていたその臆病で薄情すぎる彼らこそが、むしろ考えが足りず、あまりに愚かで浅はかすぎました。なぜなら神さまはもっと寛大で、もっと憐れみ深く、強く大きい神だからです。「分けてほしいとあなたが言い出すのを、今か今かとずっと待っていました。さあ、どうぞ」と大喜びで分けてあげましょう。あなたや私が持っている灯火は十分に明るい。しかも油もその予備の分も、誰にでもいくらでも分けてあげられるだけ、十分に、たっぷりとあります。だから長持ちさせようと倹約して、小さな弱々しい光にしなくても大丈夫。景気よくボーボーと灯火を燃やしましょう。燃やせば燃やすほど、分け与えれば分け与えるほど、あら不思議、油はどんどん溜まって蓄えられていきます。神さまのなさることは、この世の道理や一般常識とはずいぶん違っているからです。神のなさることは、この世の道理や一般常識とはずいぶん違っているからです。「この家に平和があるように」(ルカ10:5-6とあなたは祈りなさい。私も祈りつづけ、言いつづけます。教会の中でも外でも、自分の家でも、いつもの職場でも。もし平和の子がその家にいるなら、平和も灯火も油もその人々が受け取るでしょう。もし、平和の子がそこに誰一人もいなければ、そのときには、あなたが願った平和も灯火も油も、あなたや私のもとに帰ってきます。これが、神さまからの変わることのない約束です。