2018年1月26日金曜日

1/21こども説教「誰が、どうやって救われるのか?」ルカ18:18-27

 1/21 こども説教 ルカ18:18-27
 『誰が、どうやって救われるのか?』

      18:18 また、ある役人がイエスに尋ねた、「よき師よ、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。19 イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。20 いましめはあなたの知っているとおりである、『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証を立てるな、父と母とを敬え』」。21 すると彼は言った、「それらのことはみな、小さい時から守っております」。22 イエスはこれを聞いて言われた、「あなたのする事がまだ一つ残っている。持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。23 彼はこの言葉を聞いて非常に悲しんだ。大金持であったからである。・・・・・・26 「それでは、だれが救われることができるのですか」と尋ねると、27 イエスは言われた、「人にはできない事も、神にはできる」。                  (ルカ福音書 18:18-27

  神さまからとても良い贈り物をぜひいただきたいと願って、それで、その人は主イエスのところに来ました。「永遠の生命。天に積む宝」というのは、そういうことです。例えば、ただ90年も100200年もずっと長く生きることができたとしても、それだけでは幸せになんかなれません。「自分が本当に幸せに生きて死ぬことができるために、必要なものを、必要なだけ全部ほしい」と願ったのです。それなら、私たちだってほしいですね。なにをしたらいいでしょうと質問されて、「神を心から愛し、神さまの御心に従って生きて、隣り人を自分のように愛し、大切にしてあげること」だと主イエスは答えました。「なんだあ。それなら小さい子供の頃から皆ちゃんと守ってきましたよ」とその人は、エヘンと胸を張って、得意になって答えました。
 主イエスの言葉を聴いてください。22節、「あなたのする事がまだ一つ残っている。持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。でも、どうぞ安心してください。聖書の中で、ここまで厳しく命令されたのは、この人独りだけです。「持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやれ」と、救い主イエスは、誰彼かまわず、私たち皆に命令なさるわけではありません。大好きな大事な宝物をたくさん持っていて、しかも自惚れ屋さんのこの人だから、とくに、こんな厳しい命令をなさいました。大事なたくさんの宝物のほうが、この人には、「神さまに従って生きること」よりも何倍も大切でした。しかも、「自分はちゃんとやってきた。何でも分かっている立派な私だ」と自惚れる気持ちがとてもとても大きかったので、それが邪魔でした。神を信じて生きるためには、へりくだった慎ましい心を与えられて、小さな小さな貧しい自分になる必要があったのです。でも、それは大嫌いだったので、この人はガッカリして帰っていきました。


1/21「土の中に隠した理由」マタイ25:14-30

                          みことば/2018,1,21(主日礼拝)  146
◎礼拝説教 マタイ福音書 25:14-30               日本キリスト教会 上田教会
『土の中に隠した理由』
 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

25:14 また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。15 すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。16 五タラントを渡された者は、すぐに行って、それで商売をして、ほかに五タラントをもうけた。17 二タラントの者も同様にして、ほかに二タラントをもうけた。18 しかし、一タラントを渡された者は、行って地を掘り、主人の金を隠しておいた。19 だいぶ時がたってから、これらの僕の主人が帰ってきて、彼らと計算をしはじめた。20 すると五タラントを渡された者が進み出て、ほかの五タラントをさし出して言った、『ご主人様、あなたはわたしに五タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに五タラントをもうけました』。21 主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。22 二タラントの者も進み出て言った、『ご主人様、あなたはわたしに二タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに二タラントをもうけました』。23 主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。24 一タラントを渡された者も進み出て言った、『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。25 そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』。26 すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。27 それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。28 さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、十タラントを持っている者にやりなさい。29 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。30 この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。
                                       (マタイ福音書25:14-30
                        
                                        
  今日の『タラントのたとえ』は、先週ご一緒に読んだ『十人の花嫁候補者たちのたとえ』(マタイ25:1-13とよく似ています。両方共が、とても大切な1つの出来事へと私たちの心を向けさせます。救い主イエスがやがて再び来られる。だから、気をしっかり持って、背筋をピンと伸ばして精一杯に暮らしなさいと。
  この『タラント』(あるいはタレント、才能? 豊かな素質や並外れて秀でた能力?)という言葉は、元々の意味から大きく外れ、また神さまご自身の御心を置き去りにして、好き放題に独り歩きしつづけています。芸能界で活躍するアイドルや輝くようなスターたちが持っているような豊かな素質や並外れて秀でた能力のことだと、人々は誤解しつづけます。クリスチャン同士でも、うっかりすると、お互いに「まあ。あなたは豊かな才能や賜物がたくさんあって羨ましいわ」「いえいえ、あなたこそご立派で才能たっぷりで」などと。このたとえ話の中で主イエスが仰ったのは、そういうこととはずいぶん違っています。洗礼を受けたクリスチャンたちは何の区別も分け隔てもなく、この『主人のものである財産』を皆がそれぞれとてもたくさん委ねられています。大事に用いるようにと信頼され、主人からの委託を受けて。主人は旅行に出かけるにあたって、しもべたちを呼んで、それぞれの力に応じて、1人には5タラント、1人には2タラント、1人には1タラントをそれぞれ預けて出かけていきました。聖書の末尾に付いている換算表によって、それがどれほどの価値なのかが分かります――

   タラント(通貨の単位) ギリシャで用いた計算用の単位で6000デナリオンに相当する
(1デナリオンは1日分の労働賃金)

5タラント預かったしもべに比べて1タラントしか預けてもらわなかったしもべは、少なすぎるような、1人だけ損したみたいな気分になるかも知れません。けれど大間違いでした。換算表を見ると、1タラントでさえ6000日分の賃金、つまり25年から30年、真面目にコツコツ働いて得るほどの莫大な額の財産です。2タラントならその倍。5タラントなら、125年から150年真面目にコツコツ働いて得るほどの莫大な額の財産。しかもこれは『天の国のたとえ』であり、この主人こそが神さまです。神さまの目には、30年働いて得る賃金も150年働いて得るほどの莫大な財産も、同じく変わらず「ほんの少しのもの」に過ぎません。金額や価値がわずかばかり多いか少ないかを見て目くじら立てる神様ではなく、むしろ私たち人間の心の中に隠してあるものをつくづくとご覧になる神さまです。もう1つ、目を向けるべき大きな着眼点は、1タラントを預けられたこの最後のしもべが、なぜ土の中に主人のものである財産を隠したのか。その理由です。26節で、「悪い怠惰なしもべだ」と叱った言葉に騙されてはいけません。働くのが面倒で怠けていたから叱られた、のではありません。多く働いたか、少ししか働かなかったか、成果をたくさんあげたか、失敗してあまり成果をあげられなかった、儲かったとか損したなどとソロバン勘定してと一喜一憂する神さまでもなかったのです。むしろ、主人の財産を土の中に隠した理由も、叱られた理由も、暗闇の中に放り出された理由も、このしもべがどんな主人なのかをすっかり見誤っていたことです。「一タラントを渡された者も進み出て言った。『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』」(24-25)
  はっきり分かりましたね。今日のこの箇所の最大の山場はここです。蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しく恐ろしいご主人さまだ、と彼は思い込んでいました。だから、「1タラントもの莫大な財産を預かって何か失敗でもしてしまったらどんな目に合わされるか分からない、恐ろしい恐ろしい」と土の中の奥深くに預かった財産を隠すほかなかったのです。このしもべのことを、あなたはどう思いますか? 確かに、ひどく愚かではある。悪いのかというと、そうは言えません。むしろ、この彼は騙された可哀想な被害者です。誰かが、主人についての根も葉もない作り話を彼の耳に吹き込みました。「へえ、そうだったのかあ」と彼は鵜呑みにして、そのロクでもない作り話をうっかり信じてしまいました。とても悪かったのは、この彼に、主人についての根も葉もない作り話を聞かせて信じ込ませた者たちです。
で、あなたは、どんな主人であり、しもべたちをどのように取り扱う主人だと教えられてきましたか? あの愚かなしもべがつい誤解してしまったように、種を蒔かない所からさえ無理矢理にも刈り取り、散らさない所からかき集められる、意地汚く厳しい、恐ろしいご主人さまだと? それとも、「恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされる」(ヨナ書4:2,出エジプト記34:8,86:5-15)と? そこが、「忠実な良いしもべだ。よくやった。一緒に喜んでくれ」と誉めていただけるか、あるいは「悪いしもべよ」と外の暗闇に放り出されてしまうかの決定的な分かれ道です。もし本当のことを教わって、よくよく習い覚えてきたのなら、私たちは幸いです。

              ◇

  それでは、仕上げをしておきましょう。神さまから良い贈り物をたくさん与えられているとして、それはほんの一時だけ貸し与えられていると自分を戒めておくことは、私たちが脱線してしまわないために、役に立ちます。自分のものだと思った途端に、私たちは直ちに自分勝手になり、独りよがりになり、うぬぼれたり僻んだりしはじめるからです。一日分ずつの生命もそうです。土地建物も、仕事も家族も友人たちも、名誉も様々な財産も、やがてすっかり主人にお返しし、私たちは骨も肉体も土に還し、何も持たず手ぶらで裸で主のもとへと帰ります。それら、主人から委ねられ預けられている、主人のものである財産について、主人に感謝してもいい。また、主人に願い求めてもいい。「大切に、喜んで感謝して、良く用いさせてください。どうぞ、よろしくお願いたします」と。
  1タラントのあのしもべを、神さまの本当の心を何も知らなかった、とても愚かなしもべを、思い起こしましょう。あの彼こそが、私たちのための悪い手本です。彼の振り見てわが振り直せ。あの彼は、どういう主人に仕えているのかがすっかり分からなくなりました。どうしたわけか耳が塞がりはじめました。すると、どんどん聞こえなくなりました。それでますます臆病風に吹かれました。主人から厳しく恐ろしい仕方で扱われると勘違いしただけではなく、人様や世間様からも どんな意地悪をされたり、ひどい目にあわされるかと恐ろしくて恐ろしくて、とても心細くなりました。アダムとエバがエデンの園に連れて来られて以来、伝統的に、私たちの仕事は自分自身が据え置かれたその土地を耕し守ることでした(創世記2:15-18参照)。しかも土の塵で造られた農業作業者たち、その労働は必ずきっと実を結びます。たとえ荒れ果てた土地でも。たとえ未熟で粗忽な働き人たちだとしても。結んだ実はすくすくと成長しつづけます。なぜ? どうしてでしょうか? 神さまが放ってはおかないからです。水をやる者があり、雑草をむしる者らがあり、土を耕し、石ころや木の根を取り除く者らもあり、しかも決定的に神さまこそが成長させてくださいます。神さまご自身が私たちの土地に種を蒔いてくださったからです。神さまご自身のものである慈しみから芽生えて、やがて結ぶ実そのものも、やはり慈しみです。その実を施す者も施される者も共々に、神さまに感謝するようになります。感謝はますます溢れ出て、次の実を結び、また次の実を結び、また次の実を結んでいきます。
  私たち、神の国の土地を耕す労働者たち皆は、わざわざ土の塵から形づくられました。神さまがその鼻に生命の息を吹き入れてくれました。それで、私もあなたも生きる者となりました。土の塵で、泥をこねて造られた私たちです。土を耕して生きるはずのその人も、土でできている。どういうことか分かりますか? その人の中に小さな1粒の慈しみの種が芽生え、大きく育ち、素敵な慈しみの花を咲かせ、やがて嬉しい慈しみの実を結ぶためには、その人のためにも、やっぱり(1)恵みの雨と、(2)その人を耕してくれる別の耕す人が必要だってことです。もし、そうでなければ、その人も直ちにカラカラに乾いて、干からびて、草一本も生えない寒々しく荒れ果てた淋しい人間になってしまうかも知れなかった。踏み荒らされて壊された砂の道路や、砂の山や砂の家のようになってしまうかも知れなかった。思い煩いの茨に覆い尽くされて、陽の射さない薄暗いジメジメした庭になってしまったかも。で、その人を耕してくれる人もやっぱり同じく土の塵で造られていて、神さまからの恵みの雨と別の耕す人を必要とした。その耕す人もやっぱり。土の塵から造られ、鼻に生命の息を吹き入れられた私たちです。壊れ物のような、とても危っかしい存在です。そうだとして、けれどその千倍も万倍も大切なことがあります。どういう主人なのか。どんな主人であり、しもべたちをどのように取り扱う主人だと教えられてきましたか? あなたは、この神の国の信仰の学校で何を、どのように習い覚えてきましたか。あのたとえ話の中の彼がニセモノのペテン師たちに教えられ、騙されていたとおりに、『種をまかない所からも無理矢理にも刈り取り、散らさない所から集める、あまりに強欲で酷な、厳しく恐ろしいご主人さま』だと。それとも、『恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされる神である』(ヨナ書4:2,出エジプト記34:8,86:5-15と? 
それによって、私たちの毎日毎日の暮らし方や働き方が大きく変わってしまうでしょう。あなたはどんな主人に、どのように仕えて暮らしているのでしょうか? 困ったことや恐ろしいこともなく、安心して、神さまに「ありがとうございます。わあ嬉しい」と感謝し喜ぶこともできて、毎日毎日を暮らしておられますか? では、どうぞ良い一週間を。







2018年1月16日火曜日

1/14こども説教「神の国に入るための条件」ルカ18:15-17

 1/14 こども説教 ルカ18:15-17
 『神の国に入るための条件』

18:15 イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちはそれを見て、彼らをたしなめた。16 するとイエスは幼な子らを呼び寄せて言われた、「幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない。神の国はこのような者の国である。17 よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。                  (ルカ福音書 18:15-17

  「小さな子供たちを私のもとに来させなさい。邪魔してはいけない」と主イエスが確かに言いました。けれど、主イエスも、神が生きて働いておられる神の国も、もっぱら小さな子供たちのためにあるとか、お子様ランチなどのように、小さなお子様向けの神様だというわけではありません。じゃあ、どうしてこんなことを言うんでしょうか? 例えば、「こらア、つまみ喰いしちゃいけませ~ん」とお母さんが恐い顔を睨んでいます。どういう場面か分かるでしょう。誰かが、そおっと、つまみ喰いしようとしています。そんなふうに、もし主イエスが「邪魔しちゃダメですよ。ほらほら、小さな子供たちを私のところに来るままにしておきなさい」。それは、「どこかヨソへ行きなさい。シッシ」と、子供たちを迷惑そうに追い払おうとする大人たちがすぐ目の前にいるからです。あの弟子たちだけではなく、その当時のほとんどの大人たちが勘違いをして、そういう悪い態度を取っていました。小さな子供たちが邪魔者扱いされて、神さまの前から追い払われようとするようなとても悪い時代だったのです。もちろん、大人も年寄りも分け隔てなく皆を主イエスが招こうとしておられるし、神のお働きの只中へと入らせてあげたいと誰に対しても願っておられます。
その上で、「神の国は子供のような小さな者たちのためにある」と仰り、17節で「誰でも小さな子供のようにならなければそこに入ることは決して出来ない」と言われたことを、よくよく考えてみなければなりません。へりくだった低い心です。例えば、小さな子供が父さん母さんによく信頼しているように、神さまによく信頼して、神さまにこそよく聞き従うことです。そのためには、「私はよく知っている。何でもできるし、強くて大きいぞオ」と大きな大人のつもりでいると、神の国には決して入れない。神さまと出会うことも、そのお働きを知ることもできないと厳しく注意されています。このことが、とても大切です。


【補足/幼な子のようになる】
      ただ小さくて無力で弱くて危うい存在であるだけではなく、精一杯に十分に愛情を注がれ受け取り、養い育てられてきた、そのことを覚えている幼な子である必要があります。「幼な子のようにならなければ天国に入ることはできない」、その最も大きな秘密は、わが子を愛して止まない親の心を覚えている幼な子です。主イエスこそが、わが子を愛して止まない親の心を覚えている幼な子であることの手本を、それがいったいどういうことであるのかを、私たちに見せ、差し出してくださいました。十字架にかかる前の晩、ゲッセマネの園で。「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」(マルコ14:36)と。受け取った恵みの大きさに比べて、私たち自身は小さい。受け取った恵みの豊かさに比べて、私たちはとてもとても貧しい。恵みの賢さ、力強さに比べて、私たちはあまりに愚かであり、弱々しく、その恵みにまったく値しない者たちであると。値しないにもかかわらず、それなのに受け取った。だから、ただただ恵みなのだと。分かりますか?


1/14「灯火が消えそうです」マタイ25:1-13

                          みことば/2018,1,14(主日礼拝)  145
◎礼拝説教 マタイ福音書 25:1-13                 日本キリスト教会 上田教会
『灯火が消えそうです』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
25:1 そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。2 その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。3 思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。4 しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。5 花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。6 夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。7 そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。8 ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。9 すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。10 彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。・・・・・・13 だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。                   (マタイ福音書 25:1-13)
                                                


 主イエスご自身が、たとえ話を用いて、説き明かしておられます。神さまがどういう神さまなのか。神を信じて、どんなふうに毎日毎日を暮らすことができるのか。その希望や慰めはなんなのかということを。「天国は~に似ている。神の国は」などという中身は、それです。その大切なことをこの私たちにもぜひ伝えようとして、救い主イエスが語っています。さて、10人の若い女性たちが花婿を待っていました。救い主イエスこそが花婿。クリスチャンは、その花婿イエスと添い遂げようとする花嫁たちです(ヨハネ福音書3:27-30,マタイ福音書9:15,エペソ手紙5:22-32。子供の頃の運動会や遠足の前の夜のように、ワクワクしながら、今か今かと、喜びと期待に胸をふくらませて。けれど、どうしたわけか、花婿の到着がずいぶん遅れてしまいました。こんなに遅くなるとは思っていませんでしたし、長く待ち続けるための準備も全然できていませんでした。まったく想定外だったのです。それで、花婿との喜びの祝宴に座ることができたのは、10人のうち、たった5人だけ。ほかの5人はともし火の油が尽きてしまって、暗闇の中に残されてしまいました。なんと痛ましいことでしょうか。
  暗闇の中に残されてしまった5人の花嫁候補者たちのことが、心に掛かります。からっぽの油受け皿があり、その受け皿を抱えて闇の中に飲み込まれていった、考えの足りない、やや浅はかで愚かな5人の花嫁がいました。彼女たちは確かにともし火を持っていました。火を燃やすための質の良い芯も持っていました。油受け皿も持っていました。そして、ほんの少しの油と。けれど、それでは全然足りなかった。長い夜がつづき、その暗がりの中を彼女たちは長く長く耐え忍ばねばならないなどとは思ってもみませんでした。それぞれが手にしていたともし火こそが彼女たちを励まし、格別な勇気を与え、彼女たちを心強く支えるはずでした。私たちは、多くの礼拝と祈りを積み重ねてきました。差し出されて、あの格別なパンと杯を受け取りつづけました。そこで、「このパンを食べ、この杯から飲み干すたびに、私たちのための主の苦しみと死を告げ知らせる。それは、主が来られるときまでつづく」と説き明かされました。けれど、救い主イエスの2度目の到来は、それがいつ起ころうとも、私たちを深く驚かせるに違いありません。まるで突然、真夜中に、主が来られるように。花婿を出迎えようとする花嫁たちは、やがてウトウトしはじめ、ぐっすりと眠り込んでしまいます。十字架の前の晩に主が祈っておられた間、弟子たちがうっかり眠り込んでしまったように(マタイ26:36-)です。思い煩いと疲れとに襲われて、あの花嫁たちばかりでなく、あの弟子たちばかりでなく、この私たちもまたいつの間にか眠り込んでしまいます。私たちの心を惑わすものはとても多いのです。神を愛し、神の義を求めるよりも、この世界を愛し、この世界で受け取るさまざまな楽しみをむさぼうるようにと、私たちを誘います。「神さまなど2の次、3の次でいいじゃないか。ほかにもっと有意義な、もっと楽しく充実した時間の過ごし方があるじゃないか。あなたをもっと豊かにしてくれるものがいくらでもあるじゃないか」と。だから私たちは、「目覚めて祈っていなさい」と戒められたのです。熱心で信仰深い者たちが特に見込まれて「祈れ」と勧められた、のではありません。むしろ逆です。例えば祈りは、川で溺れそうな人に向かって差し出された浮き輪であり、一本のロープです。信仰の弱い者たちのために。たやすく眠り込んでしまいやすい危うい者たちに、「あなたは目覚めていなさい。あなたこそは、祈りつづけよ」と。たやすく神を見失ってしまいそうな者たちにこそ、「あなたは眼を凝らせ」と促されました。なぜなら。目覚めて祈っていることなしに、神に向かうことはできません。神に向かうことなしに、この世界の誘惑と試練を耐え抜くことは、とうていできません。ひたむきな熱心さと忙しさの只中で、自己中心の思いとむさぼりと、心の緩みと、高ぶりと恐れとが、疲れと失望とが、あっという間にあなたを飲み込んでしまうでしょう。神が生きて働いておられることなど、思いもよらないあなたに成り下がってしまうでしょう。ほんの一瞬心が燃え上がることがあるとしても、あなたの肉体は弱いのですから。あなたや私の心も信仰も、とても弱いのですから。それなのに、まだ眠っているのか。まだ眠っているのか。その眠りを引き裂いて、突然に「さあ、花婿だ。迎えに出なさい」(6)と叫ぶ声がします。主イエスがこの世界に再び来られるとき、まったく同じことが起るでしょう。
 8-9節。考えの足りない浅はかで愚かな女性たちは必死に訴えます。「あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから。油を分けてください。どうかほんの少しでも分けてください。だって、私のともし火は消えそうなんですから」。けれど考え深い賢い女性たちさえこう答えます。「わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。自分の分を用意して蓄えておくだけで精一杯でしたから。どこかそのへんのコンビニか終夜営業のホームセンターにでも行って、自分で自分の分を買い求めるがよいでしょう」と。受け皿の中の油は、受け取った恵みであり、救いの確信です。主への信頼であり、主に対する感謝です。油受け皿の中の油は、それゆえ主に対するさらなる願いであり、期待です。だからこそ、それは誰からも分けてもらうことなどできなかった。この私自身の受け皿の中に、1滴また1滴と溜まり、集められてゆくのでなければ、それは私自身の信仰のともし火を燃やす油とはなりませんでした。長い夜がつづき、その暗がりの中を私たちは長く長く耐え忍ばねばなりません。このともし火こそが、私たちを励まし、勇気を与え、私たちを心強く支えるはずなのです。

  ――神学生だった頃から25年ほど、この10人の花嫁の箇所をおよそこんなふうに読み、人にも説明してきました。けれどそれは、ごく表面的に眺めただけの、考えの足りない浅はかすぎる理解でした。神さまからの灯火や油や油壺がどんなものであるのかもすっかり誤解しつづけていた、とほんの数日前に気づきました。それまで、ぼくの心はとても鈍っていたのです。鈍くされて曇った僕の目と心には、神ご自身もその恵みもとても小さくて弱々しく、安っぽいものに見えていました。恥ずかしいことであり、とても申し訳ないことです。さて、思慮深いとされた5人の女性たちは答えていました、9節、「私たちとあなたがたとに足るだけは多分ないでしょう」。つまり、「自分たちを明るく照らす分には十分ある。けれど分けてあげて、一緒にその光と暖かさを喜び味わうほどには全然足りない。どこからヨソに行って、他の誰かから自分で手に入れなさい」と。本当でしょうか? その灯火が、もし本当に神さまからの福音と恵みの光だとするならば、その光はなんだかケチ臭くて、薄汚れていて、あまりに薄情です。しかも花婿(=救い主イエス)を待つとても幸いな花嫁(=クリスチャン)であるはずなのに、けれども、どういうわけか親切心や思いやりのかけらもない。こういうことについて、聖書自身はなんと証言しつづけてきたんでしたっけ? 「起きよ、光を放て。あなたを照らす光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから」と語りかけられていました。主イエスご自身からも、「あなたがたは地の塩であり、世のための光である。救い主である私こそが世を照らすまことの光であり、その光と出会い、その光を信じて、その光に朝も昼も晩も照らされつづけ、そのキリストの光を照り返して明るく輝いているはずのあなたではないか」と励まされてきた私たちです(イザヤ書60:1-7,マタイ5:13-16,ヨハネ8:12
  もう一つ、「油を分けてください。油が尽きかけて、私の灯火がもう消えそうですから」とあなたにすがってきた人たちは、あなたにとって縁もゆかりもない、ただの通りすがりの赤の他人だと思っていたでしょうか? そうかも知れません、そうではなかったかも知れません。もし、それが、生涯添い遂げると誓い合った、あなたの愛する連れ合いだったらどうでしょう。あるいは、かけがえのない息子や娘たちだったら。それでもあなたや私は、「自分の分は十分ある。けれど分けてあげて、一緒にその光と暖かさを喜び味わうほどには全然足りない。残念でした。どこからヨソに行って、他の誰かから自分の努力と力と甲斐性で手に入れなさい」などと冷たく薄情に追い払うでしょうか。いいえ、決してそうではないでしょう。たとえ、ほんのわずかしか持っていなくたって、最後の油の数滴でさえ、「はい。どうぞ」と惜しみなくその人に差し出すのではありませんか。もし、本当に大事に思っている相手になら、それくらいのことを誰でもしてあげるでしょう。
私たち自身の家族のことも、ここで思い出しました。「家族への伝道。伝道」と言われ、何回か試して断られたあとで、「信仰は自由だから。無理に強制することもできないし、だから本人の判断に任せて放っておいたほうがいいのよ」などと澄ました顔をして私たちの何人かは言い出しはじめました。一見、道理があるかのように見えて、けれどそれは嘘ッパチのゴマかしです。もちろん無理強いしてもだめです。じゃあ何もしないのか、大事な家族なのに、ただただ放っておくのか。それは薄情で無責任なだけで、内心ではガッカリして諦めているだけです。もし大事なことなら、しかも大事に思っている相手には精一杯に伝えようとしつづけます。子供に箸の持ち方を教えてあげるように。横断歩道の渡り方、自転車の乗り方を教えてあげたように。信仰のことも、最後には自分で判断します。けれどその前に、自分で判断できるために必要な情報や材料を精一杯に伝えます。どんな神様なのか。どんな救いと恵みなのか。神を信じてどんなふうに心強く生きてゆくことができるのかを、精一杯にその人に伝えます。そこまでの責任が私たちにはあります。その後で、その人自身が自分で判断し、自分で選び取ります。神を信じることができるかも知れません。できないかも知れません。それは、神さまとその人自身に任せます。また、新しく教会に来はじめた人たちに対しても、家族への伝道とだいたい同じです。何回か、何十回か試しに来てみて、もし、それでピンと来なかったなら仕方がない。それで良い。あとは、神さまとその人自身にお任せします、ね?
 さて、「せいぜい自分の分だけなら十分ある。けれど、分けてあげるには全然足りない」という証言に、聖書自身も、「異議あり。それは違うだろう」と言い立てつづけます。聖書が語りつづけてきた福音の道理とはかなり隔たっていて、どうしても相容れないからです。思慮深いと言われた5人の女性たちが手に持っている油と油壺と灯火がもし神ご自身からの恵みであり、福音の喜びであるならば、もちろんいくらでも分けてあげることができます。しかも「はいどうぞ」「はい。あなたもどうぞ」と分けてあげたって、少しも油は減りません。あ~ら不思議、それどころか分ければ分けるほど、かえって逆に増えつづけて溢れ出すはずでした。旧約聖書の時代にも、薄暗い谷間にうずくまっている人々に向かって、「起きよ、光を放て」と預言者をとおして神が語りかけたとき、虚しく座り込んでいるその人々自身は光も灯火も油も油壺も持ってはおらず、何の準備も備えもありませんでした。けれど、たとえそうであっても誰でも起き上がって光を放つことができる理由は、ただただ神ご自身の憐れみ深さと真実にだけありました。光であられる神があなたの上にも昇っているから、その光に、あなたも照らされているのだから。今日のたとえ話の中の灯火も油も、ゆたかな井戸からこんこんと湧き出るおいしい水のようでした。井戸の前で、サマリア人の一人の女性に、主イエスご自身も仰っていたではありませんか。「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(ヨハネ福音書4:13-14と。

  今日のたとえ話は、私たちの信仰を激しく揺さぶって、どんな神をどう信じているのかと問いかけるものでした。私たち皆がたびたび心を鈍くされ、貧しくされつづけるからです。習い覚えて、よくよく知っていたはずのことがすっかり分からなくなってしまいやすいからです。手に持っている灯火が井戸の水のようだとして、あなたや私は、誰の井戸から水を汲んで飲みつづけてきたでしょう。もちろん主イエスの井戸からです。手にそれぞれ灯火と油と予備の油を蓄えておく灯油タンクのような油壺をもっているとして、それをいったい誰から手渡されたでしょうか。もちろん、救い主イエス・キリストご自身からです。それならば花婿を待つ花嫁たちよ。薄暗い夜の闇が長くつづくとしても、油の蓄えが少なすぎ、もうすぐ底をつきそうだと思える日々があるとしても、それでもなお私たちは信じることができます。主イエスを。主イエスから手渡された自分のための灯火と油と油壺を。もし、あなたに「油を分けてください」と頼んでくる人がいるなら、その人はとても思慮深いし、賢い。あなたからなら、きっと必要なだけたっぷりと分けてもらえると知っているからです。「自分の分しかなくて、分けてあげられません」と答えようとしていたその臆病で薄情すぎる彼らこそが、むしろ考えが足りず、あまりに愚かで浅はかすぎました。なぜなら神さまはもっと寛大で、もっと憐れみ深く、強く大きい神だからです。「分けてほしいとあなたが言い出すのを、今か今かとずっと待っていました。さあ、どうぞ」と大喜びで分けてあげましょう。あなたや私が持っている灯火は十分に明るい。しかも油もその予備の分も、誰にでもいくらでも分けてあげられるだけ、十分に、たっぷりとあります。だから長持ちさせようと倹約して、小さな弱々しい光にしなくても大丈夫。景気よくボーボーと灯火を燃やしましょう。燃やせば燃やすほど、分け与えれば分け与えるほど、あら不思議、油はどんどん溜まって蓄えられていきます。神さまのなさることは、この世の道理や一般常識とはずいぶん違っているからです。神のなさることは、この世の道理や一般常識とはずいぶん違っているからです。「この家に平和があるように」(ルカ10:5-6とあなたは祈りなさい。私も祈りつづけ、言いつづけます。教会の中でも外でも、自分の家でも、いつもの職場でも。もし平和の子がその家にいるなら、平和も灯火も油もその人々が受け取るでしょう。もし、平和の子がそこに誰一人もいなければ、そのときには、あなたが願った平和も灯火も油も、あなたや私のもとに帰ってきます。これが、神さまからの変わることのない約束です。

2018年1月9日火曜日

1/7こども説教「神殿で祈る2人」ルカ18:9-14

 1/7 こども説教 ルカ18:9-14
 『神殿で祈る2人』

18:9 自分を義人だと自任して他 人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。10 「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。11 パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します・・・・・・』。13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。14 あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。      
(ルカ福音書 18:9-14

  自分こそは正しくて信仰深い人間だと自惚れて他人を見下している人のために、主イエスはたとえ話でお話になりました。二人の人がそれぞれ神殿に来て祈りました。一人はパリサイ人で、とても正しくて信仰深いと人にも思われ、自分自身でもそう思い込んでいる人です。もう一人は取税人で、人々から見下されつづけている人でした。パリサイ人の祈りとその心の間違いは小さな子供にもよく分かります。こんなに自分は偉いんだと自慢して人を見下すばかりで、神への感謝が少しもないからです。取税人は神さまに申し訳なくて顔向けできないと思って神殿の入口の隅に立って、神さまに向かって顔をあげることも目を向けることもできずに、胸を打ち叩いて祈りました。「神さま。罪人のわたしをおゆるしください」。14節の主イエスの言葉に聞きましょう、「あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。そのとおりです。自分を恥じて惨めな気持ちになっているこの取税人に、自分の家に帰る途中か、どこかで誰かが、いつか大切なことをこの人にも伝えてあげられるといいですね。「神さまは、あなたをゆるしてくださっているし、あなたを迎え入れようと待ち構えておられる。神さまは、あなたのことを大切に思って、大好きでいてくださる。だから、あなたはいつもいつも顔を上げて暮らしていいんです。本当ですよ」と。


   【補足/2種類の良い手本】
ここに、私たちが信仰をもって生きるためのよい見本があります。取税人のように心細そうで惨めな人たちが目の前にもいます。しばしば私たち自身が、あの彼のようです。けれど私たちは、神がこの小さな1人の人と私たちをさえ憐れんでくださったと知っています。いつ、どこで、どんなふうにして、その憐れみは示され、はっきりと差し出されたでしょうか。ローマ手紙5:6-11


1/7「家の主人が帰ってくる」マタイ24:44-51

                     みことば/2018,1,7(主日礼拝)  144
◎礼拝説教 マタイ福音書 24:44-51           日本キリスト教会 上田教会
『家の主人が帰ってくる』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
24:44 だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。45 主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。46 主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。47 よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。48 もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、49 その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、50 その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰ってきて、51 彼を厳罰に処し、偽善者たちと同じ目にあわせるであろう。彼はそこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。     (マタイ福音書 24:44-51)
                                               


  大きな大きな、とっても大きな一軒の家があり、大勢の召し使いたちが一緒に暮らしています。その家には、小さな小部屋がたくさんあって細々区切られていたりする。それでも、なんと地球1個を丸ごと包み込むほどの1つの大きな大きな家です。また、さまざまな生き物たちがその1つの家に住んでいます。彼らは皆、その家のただお独りの主人に仕える召し使い同士である。しかも44節で「思いがけないときに人の子が来る」と言われたので、救い主イエス・キリストこそがその家の主人であるとはっきり分かります。これがこの世界全体と私たち全員を包む『神の真実・神の現実』である、と聖書は語りだします(創世記1:26,28「支配せよ。従わせよ」,コリント手紙(1)4:1-5「管理人」,コロサイ手紙4:1「天に主人」,マタイ福音書11:28-「わたしの軛を負え、学べ」,20:25-28「しもべになり、仕えよ」,そして本箇所)。しかもこの家の主人は思いがけないときに帰ってくるから、ちゃんと準備をしていなさい。主人がいつ帰ってきても困らないように、いいえ、むしろ「お待ちしていましたよ~っ。ああ嬉しい」と大喜びでお迎えできるように、あなたは暮らしていなさい。――ここまでは単純素朴で、とても分かりやすい。
  45-51節をもう一度読みましょう;「主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰ってきて、彼を厳罰に処し、偽善者たちと同じ目にあわせるであろう」。いかがでしょう。この自分も主人の召し使いの1人であることを思い出しましたか。――それなら、よかった。恥ずかしく、またとても申し訳ないことですが、実は、僕もたびたび忘れていました。それでずいぶん的外れなことをしたり、他の召し使いたちを困らせたり、いじめたり、苦しめたりしてしまいました。その家に住む皆が、ただお独りの主人に仕える召し使いです。召し使いたちの中に、また彼らの上に、多くの責任を任せられた管理人が立てられていました。管理人でもある召し使いです。思い起こしてみてください。それぞれの小さなグループの中で、ちょっとした役割や責任や権限を与えられている小さなリーダーたちがいますね。幼稚園、保育園の小さな園児たちの中にも、小中学校、高校にも、地域にも、職場にもキリスト教会にも、それぞれの組織の中程に小さなリーダー、中くらいのリーダー、やや大き目のリーダーなどが立てられ、上の方に取締役員会や社長や会長などがいるかも知れません。国家にも総理大臣や幹事長などもいるでしょう。そして、それぞれの家にお父さん、お母さんがいます。その彼らもやっぱりただお独りの主人に仕える召し使いであり、召使たちの中で、彼らの上に立てられた管理人です(ローマ手紙13:1,コリント手紙(1)4:1-2注意しておきますけど、教会のことは教会のこと、世の中のことは世の中のこと、自分の家の中のことは家の中だけのことなどと、ここに区別や分け隔てを持ち込んではいけません。そうでないと、すっかり分からなくなってしまいます。キリスト教会の中でも、一件の家の中でも、また社会の様々な組織の中でも、いつも同じただお独りの絶対的な唯一の主人がおられます。主なる神さまが。私たちは皆、その主人に仕えているしもべ同士です。なぜ? なぜなら私どもは、どこで何をしていてもクリスチャンだからです。いつでも、どこで何をしているときにも、天におられますご主人さまにお仕えしながら、そうやって一日一日を暮らしているからです(コロサイ手紙3:22-4:1参照)
  「あなたがたにも主が天にいますことが分かっているのだから。そうでしたね?」と釘を刺されました。また、「どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである」(コロサイ手紙4:1,ルカ福音書16:13)と。天におられます主人に仕えるか、あるいは別の主人に仕えるかどちらかだ、とはっきり告げられています。もし、あの主人に仕えるのでないなら、「自分の腹の思い」を主人とし、罪を主人とする他ないと告げられています(ローマ手紙6:15-18参照)。どの主人を選ぶのか、どの主人に仕えるのか、このことをよくよく心に留めつづけねばなりません。どうしてかというと、せっかく天の主人に仕えはじめたはずだったのに、気がつくと、別の主人の言いなりにされてしまうことが度々起こったからです。「だって、○○さんがこう仰るので、だから私は」などと。「虫が好く好かない。なんとなく気が進まないとか、進むとか。シャクに障る、障らない。だからついつい」などと。それは、目の前の誰かさんや自分自身の腹の虫やシャクという、腹の中の腹の思いを自分のご主人さまとしてしまっている(ローマ手紙16:18,ピリピ手紙3:19参照)。だからこそ天の主人に対して誠実に仕えて生きているはずのクリスチャンに向かってわざわざ釘を刺されました。「あなたがたにも主が天にいますことが分かっているのだから。そうでしたね? どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるのだから」と。生活のために、いくつかの職場で掛け持ちのアルバイトをしている人もいます。何時から何時まではこの会社で働いてこの主人に仕えて、その後、何時から何時までは別の職場で別の主人に仕えて。それは結構ですが、信仰をもって生きることに関して、あの主人とこの主人と、それからまた別の主人ってわけにはいきません。どこの誰にとっても主人はただ1人。もう1度読みましょう。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。例外はない。
  私たちも、また他の誰も彼もが召し使いである。天の主人に仕えて働いていることを知っている者もいれば、知らない者もおり、またいつの間にかすっかり忘れてしまっている召し使いもいるけれど。じゃあこの自分自身はこの物語の中でどういう役割を与えられているのか、自分自身は、この家の中でいったい誰なのか。もうお分かりですね。私たち一人一人はそれぞれ仲間の召し使いたちの中に、また彼らの上に、果たすべき責任と役割を与えられて立てられています。主人の莫大な財産を委ねられてもいます。主人がどんな主人なのか、その主人の願いや思いをよくよく知らされてもいます。多くのものを与えられた召し使い。管理人でもある召し使い。それが私たちです。なぜ? クリスチャンだからというだけではなく。ずいぶん長く生きてきたからです。具体的な責任や役割も委ねられているからです。例えば夫婦であることの互への責任や役割があり、父親、母親であることの責任と役割が私共にはあり、それぞれの職場でも、地域社会でも、この国に対しても、周囲に住む人々に対しても、私たちは大きな責任と役割をゆだねられた管理人たちです。連れ合いと接するときも、子供たちや年老いた親の世話をするときにも、地域社会でもいつもの職場でも、どこで何をしているときにも天の主人に対する忠実こそが私たちには求められています(コロサイ手紙4:1,コリント手紙(1)4:3-5)

              ◇

  私たちの役割を確認しておきましょう。ぜひともすべきことがあり、また、してはいけないこともある。45-50節;「主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、もしそうなら」。管理人として立てられていることの第一の役割は食べ物を皆に公平に配ることでした。主イエスが教えてくださった主の祈りの第4の願い、『我らの日用の糧を今日も与えたまえ』を心に刻んでいる私共です。生きるために必要な糧を神さまが与えてくださる。だからこそ何の不足もなく、安らかに満たされて生きている。感謝し、信頼し、期待を寄せて神さまから1日分ずついただく。そのとき、『わたしの日用の糧』ではなくて、『わたしたちの日用の糧』をと願い求めさせられたのでした。願い求めるべき、また互いに配慮すべき兄弟や隣人たちが私たちの傍らにいます。けれどなお、私たちは度々ワガママ勝手になりました。「自分さえ良ければそれでいい」と小さく閉じこもって、心を狭く貧しくしてしまいました。父親母親として、あなたもわが子に真剣な顔をして厳しい口調で語りかけたことが2回や3回はあるでしょう。親のような神さまです。自分の子供である私たちをきびしく戒めなければならない場合は度々ありました。若い頃や子供だった頃に私たちは、親の戒めをしばしば軽んじました。たびたび、軽々しく聞き流してしまいまいました。そのおかげで仲間の召し使いたちが殴られたり蹴られたり、踏みつけにされたり、粗末な扱いを受けて片隅で惨めな思いを噛み締めるようであれば、親であり主人である神さまの憐れみの心が台無しです。あなたを大事に思って憐れむ神さまは、同じく変わらず、あなたの兄弟姉妹や家族や隣人たちをも慈しみ、あなたの見知らぬ人々をさえ深く憐れむからです。
  この箇所全体を振り返ってみますと、神さまからの律法こそが改めて差し出されていることに気づかされます。『神さまを愛すること』と『仲間たちを愛し、互いに尊び合って、その世話を誠実に行うこと』とは一組のこととして命じられます(マタイ22:34-40。仲間たちに時間どうりに食事を与えること。そのために、家の主人の全財産の管理という大きな重い責任さえも委ねられました。けれど、あるしもべたちは愚かになり、悪いものに成り下がってしまいました。よくよく考えめぐらせてみるべきなのは、この管理人でもある召し使いはクリスチャンであり、またすべての18歳以上の大人たちであるということです。多くのものを与えられ、仲間の召し使いたちの間に、彼らの上に立てられた管理人。私たちは主人に対して忠実に賢く生きることもでき、あるいは逆に、不忠実に愚かに生きることもできます。――考えてみましょう。なぜ、あの彼は自分勝手になり、不忠実になり、愚かに成り下がってしまったのでしょうか。なぜ、仲間の大切な下男や女中を殴ったり、蹴ったりし、彼らが腹を空かせているのを横目で見ながら、自分たちだけ食べたり飲んだりできたのでしょう。そういう仲間の管理人を黙って見ているだけで、「悪いことだから止めなさい。ご主人様に申し訳ないしね」と、なぜ忠告できなかったでしょうか。もし自分で何一つ手出しをしなくたって、黙って眺めるだけで見過ごしにしてしまったならば、目の前の悪者たちと同じだけ私たちもとても悪い。子供たちや大人の職場でのいじめの場面も同じです。管理人として立てられ、主人から「よろしく頼むよ」と任された最初の数日は、数ヶ月、2、3年くらいは、まあまあ忠実に働いたかも知れません。時間どおりに公平に食べ物を分配し、心配りもし、互いに助けたり助けられたり、支えたり支えられたりし合って暮らしていたかも知れません。そのうちに、天に主人がいることをうっかり忘れてしまいました。その主人がきっと必ず帰ってくることも忘れてしまいました。まるで自分や他の誰彼が主人や殿様であるかのように勘違いしました。『天に主人がおられる。その主人はきっと必ずこの家に帰ってくる。もしかしたら明日か明後日にでも』;これだけは、二度と決して忘れてはなりません。もし万一忘れてしまうならば、ここに書いてある通りに私たちも振る舞いはじめるでしょう。よくよく覚えていさえすれば、良い働きをすることができるでしょう。家の者たちに食べ物を配ることが、この私たちにもできるでしょう。時間どおりに公平に、区別も分け隔てもせず、天の主人への感謝と忠実をもって1日また1日と嬉しく働くこともできるでしょう。その食べ物は、『天からの憐れみの食べ物』です。皆で食べたり飲んだりし、備えのない者には分けてあげることができ、いっしょになって主を喜び祝うこともできるでしょう。それを、こんな私たちが配らせていただけるなんて。なんて素敵なことでしょう。「主われを愛す」というあの子供の歌が歌う通りに、「わたしの主人でありボスであるイエスよ、私の心も行いも、口から出る何気ない言葉もすっかり清くしてください。自分勝手でワガママで臆病でナマズルイ私ですけれど、こんな私にも良い働きをなさせてください」(♪主われを愛す,461)。この私にも、良い働きをなさせてください。なぜそう願っているのか。必ずさせてくださると知っているし、信じてもいるからです。よい働きをぜひしたいからです。『善かつ忠なるしもべよ、よくやった。私も嬉しいよ』(マタイ福音書25:23参照)と、この天の主人に私自身のためにも、ぜひ大喜びに喜んでいただきたいからです。   




12/31こども説教「失望しないで祈り求める」ルカ18:1-8

 12/31 こども説教 ルカ18:1-8
 『失望しないで祈り求める』

18:1 また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官がいた。3 ところが、その同じ町にひとりのやもめがいて、彼のもとにたびたびきて、『どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください』と願いつづけた。4 彼はしばらくの間きき入れないでいたが、そののち、心のうちで考えた、『わたしは神をも恐れず、人を人とも思わないが、5 このやもめがわたしに面倒をかけるから、彼女のためになる裁判をしてやろう。そしたら、絶えずやってきてわたしを悩ますことがなくなるだろう』」。6 そこで主は言われた、「この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。7 まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。8 あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」。               (ルカ福音書 18:1-8

  もし、神さまに向かって願い求めつづけることができるなら、その人たちは幸せで、とても心強いです。私の願いなんか聞いてくれないんじゃないか、いくら祈っても無駄じゃないかとガッカリしたり、へこたれたりしてしまいやすい私たちです。神さまへの信頼が弱くなってしまいやすいからです。そこで主イエスが、このたとえ話を話してくださいました。「やもめ」というのは夫に先に死なれてしまって、心細く暮らす女の人です。私たち一人一人も、このやもめに似ています。まわりを見回すと、力と権力をもっている人たちがたくさんいます。お父さんお母さん、学校の先生とかお巡りさんとか。私たちは誰でもみな心細いし、困ったことも次々あるので、力をもっている誰かに助けてもらいたい。その同じ町に偉くて立派で力のあるらしい裁判官がいました。やもめはこの裁判官に助けてもらおうと考えました。その裁判官は、あまり真面目な裁判官ではありませんでした。いい加減に、不真面目に働いていましたし、正しいことをしようとも町の人々を助けてあげたいとも思っていませんでした。でも、あんまりしつこく頼まれたので、かもめのためにとうとう良い裁判をして助けてあげました。6-7節、「この不義な裁判官の言うことを聞いたか。まして神は」。分かりますか? いい加減で不真面目で、正しいことをしようとも町の人々を助けてあげたいとも思ってなかった悪い裁判官でさえ、これくらいのことをしてくれる。神さまは、この裁判官よりも千倍も万倍も正しくて思いやり深くて、あなたのことも大切に思ってくださるじゃないか。とても頼りになる神さまだと、あなたも知っているはずじゃないか。ね 神さまに助けてもらえると信頼して、願い求めて、聴き従って生きることができるなら、そうであるならば、とても安心です。とてもとても幸せです。


12/31「最後まで耐え忍ぶ者は」マタイ24:3-39

                       みことば/2017,12,31(主日礼拝)  143
◎礼拝説教 マタイ福音書 24:3-39                  日本キリスト教会 上田教会
『最後まで
耐え忍ぶ者は』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
24:3 またオリブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとにきて言った、「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」。4 そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。・・・・・・8 しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。9 そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。10 そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。11 また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。12 また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。14 そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。(マタイ福音書 24:3-14)
                                               


 聖書が告げていたとおりに、「やがてこの世界の終わりの時が来る」ことを私たちは知っています。知っているばかりではなく、「終わりの日に備えながら、救い主イエス・キリストが再び来てくださることを待ち望む」と世々のキリスト教会とともに私たちも告白しています。主を待ち望みつつ一日一日を暮らしている私たちです。「いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」と弟子たちは問いかけました。主イエスは答えて言われました、4節、「人に惑わされないように気をつけなさい」。戦争のうわさ、ききん、また地震や洪水や津波、崖崩れが起こる。しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。『赤ちゃんを産むときのお母さんの苦しみ』だと言い表されているのは、その苦しみや痛みの何倍もの喜びと幸いがその後ろに待ち構えている。だから勇気を出せ、と励まされているのです。そのとき人々は、私たちを苦しみにあわせ、また殺すこともする。また私たちは、主イエスの名のゆえにすべての民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合う。また多くの偽預言者が起って、多くの人を惑わす。また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。主イエスによって語られたこれらの言葉を、私たちは覚えておきましょう。例えば、世界の終わりの日が来るまでは、世界中に平和や幸いや繁栄が満ち溢れることをあまり期待することができません。むしろ、きびしい迫害や貧しさや心痛む事件を数多く目にしつづけることを覚悟しなければなりません。そうでなければ、私たちははなはだしく心を惑わされてしまうでしょう。救い主イエスは私たちに、戦争や飢饉や迫害の噂を聞くとき、その噂に注意して耳を傾けるようにお命じになります。「不法がはびこり、多くの人々の愛が冷える」12節)と予告されています。多くの人々が心を閉ざして、自分とその仲間たちさえ良ければそれでいいと、自分の国と自分の民族さえ良ければそれでいいと、他の人々を排除し、踏みつけにしはじめます。産みの苦しみが、すでにはっきりと始まっています。平和の王が戻ってきてくださるときまでは、世界中に争いや迫害が絶えず、多くの者たちがないがしろに扱われ、踏みにじられつづけるからです。
  例えば世界の終わりの日が来るまでは、多くのキリスト教会と私たちクリスチャンの信仰は惑わされつづけます。そのことも心得ておく必要があります。主イエスがはっきりと仰ったように、多くの者たちがキリストの名を名乗り、あるいはその代弁者だと語って、多くの人々を惑わすからです。多くの偽預言者たちが起こって、多くの人々を惑わすはずだからす。14節、「そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そして、それから最後がくるのである」。全世界に宣べ伝えられる。けれども全世界のすべての人々がこの聖書の神を信じるわけではありません。信じる者たちもおり、信じない者たちも多く残されるでしょう。それでもなお、最初のクリスマスのとき、赤ちゃんの姿の主イエスが神殿に連れて来られたとき、おじいさんのシメオンはその赤ちゃんを腕に抱いて、神をほめたたえ、喜びにあふれてこう言いました。「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに、この僕を安らかに去らせてくださいます、わたしの目が今あなたの救を見たのですから。この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので、異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光であります」(ルカ福音書2:29-32。それまで神を知らなかった、信じなかった者たちの中から、神を信じる者たちが一人また一人と生み出されつづけます。この私たちもそうでした。それでもなお、この世界の終わりの日がいつ来るのか、それがいつのことなのかを、私たちは知りません。32-39節、「いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。そのように、すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう」。「だから目を覚ましていなさい」と命じられます。いつの日に私たちの主が来られるのか、私たちには分からないからです。だからこそ世々のキリスト教会と私たち自身は告白し、自分たちの魂に深く刻みつづけてきました。「主の委託により正しく御言葉を宣べ伝え、聖礼典を行い、信徒を訓練し、終わりの日に備えながら主が来てくださることを待ち望む」(日本キリスト教会信仰の告白,前文の末尾)と。預言者たちも語りかけ、仲間たちを励ましつづけました、「ヤコブよ、何ゆえあなたは、『わが道は主に隠れている』と言うか。イスラエルよ、何ゆえあなたは、『わが訴えはわが神に顧みられない』と言うか。あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」(イザヤ書40:27-31と。終わりの日に備え、ふたたび来られます救い主イエスを待ち望んで生きるのでなければ、そうでなければ、私たちもまた他の多くの者たちと同じように、弱り、疲れ果てて、ついには倒れてしまうということです。「年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる」と告げられているのは、今のところは若々しく元気はつらつとしているとしても、それは将来に対して何の保証にもならず、どんな慰めにも支えにもならないということです。今しばらくの間は、バリバリで、何でも思い通りにできて、よく働き、自分自身と家族と仲間たちをよく支えることができるとしても、その『輝かしく明るい、昼間の時間』はつかの間に過ぎてゆきます。何に希望をたくすことができるでしょうか? 主を待ち望む信仰だけが、私たちを支え、主ご自身こそが私たちにとって頼みの綱でありつづけます。

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  さて13節、「しかし最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。
 誰がどのようにして最後まで耐え忍ぶことができ、どのように救われるのでしょうか? ただただ聖書にだけ教えられて、キリスト教会ははっきりとそのことを語り伝えてきました。私たちの信仰が堅いか、やわらかいか、しっかりしているか、それともあやふやで弱くて脆いかということではありません。私たちの善い生き方や、断固たる強い志しや、信仰深さや決心の揺るぎなさでもありません。それらのこととは何の関係もなく、ただただ神ご自身が善いお方であり、恵み深くあってくださり、ご自身が選んでくださった神の民を必ず救いに至らせようとする神さまご自身の断固たる御意思。これこそが、私たちの救いの唯一の土台です。だからこそキリスト教会の信仰は、最初から終わりまで、『神中心の信仰』でありつづけます。生きて働かれる、しかも出来ないことは何一つもない神と出会い、その神を知り、その神をこそ信じています。他の誰でもなく何者でもなく、ただただ神ご自身が、私たちを救いへと選んでくださった。だからこそ、私たちは神の恵みとそのお働きによって、最後の最後まで必ずきっと耐え忍び、そのようにして救われる者とされています。つまり、「最後まで耐え忍ぶ」から「救われる」のではなく、すでに神によって恵みのうちに選ばれ、救われているし、救われつづける。だからこそ、「最後まで耐え忍ぶこともできる」。生きて働かれる神こそが、必ずきっと耐え忍ばせてくださる。これが、キリスト教信仰の中身です。
  例えば士師ギデオンがとても臆病で弱虫で日和見で腰抜けだったのは、自分自身は弱くて、しかも心強い後ろ盾を何一つももっていないと考えたからでした。確かに彼も私たちと同じく、あまりに弱くて小さな存在です。しかも 神さまに助けていただけるともなかなか思えませんでした。だから、『神が生きて働いておられ、出来ないことは何一つもないこと。こんな私をさえ見放さず、必ずきっとどこからでも助けてくださる』と知るために、「しるしと証拠を見せてください。見せてください。また、みせてください」と何度も何度も何度も確かめさせていただきました。肉とパンを岩の上に置いて真っ黒焦げにしてもらったり、羊の毛皮をびしょ濡れにしてもらったり、乾かしてもらって、またじしょ濡れにして、また乾かして、またびしょ濡れにしてもらったり。それでも信じられません。ギデオンと仲間たちがハロデの泉のほとりに陣を張ってミデアン人と対峙して戦おうとしたとき、相手はすでに十分に強大で圧倒的でした。それでもなお味方の軍勢を32,000人から10,000人へ、さらに300人へと減らされました。主は仰いました、「あなたと共におる民はあまりに多い。ゆえにわたしは彼らの手にミデアンびとをわたさない。おそらくイスラエルはわたしに向かってみずから誇り、『わたしは自身の手で自分を救ったのだ』と言うであろう」(士師6:19-40,7:1-8と。たった300人の、有るか無しかの、あまりに粗末な軍勢で何倍もの敵兵を打ち負かしたならば、そうしたら、『神が生きて働いておられ、出来ないことは何一つもないこと。こんな私をさえ見放さず、必ずきっとどこからでも助けてくださる』と知るだろうと。
  例えば主の弟子ペテロはギデオンと正反対で、たいへんな自惚れ屋さんでした。自分には何でも出来ると思い上がって、神ではなく、ただただ自分自身を信じるだけの、うかつで愚かな自信家でした。主イエスが十字架におかかりになる前の晩、最後の晩餐の席で、ペテロは鼻高々で胸を張りました、「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません。たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」(マタイ26:33-35他の弟子たち皆も、だいたい同じようなものでした。「当てにならない弱くて小さな自分だ」と、これでもかこれでもかと思い知らされました。その上で救い出されたなら、多分、『神が生きて働いておられ、出来ないことは何一つもないこと。こんな私をさえ見放さず、必ずきっとどこからでも助けてくださる』とあの心のかたくなな頑固者たちでもとうとう知って、今度こそ神を本気で信じはじめるだろうと。
  例えば主の弟子パウロもペテロと似ていて、たいへんな自惚れ屋さんで、神ではなく、ただただ自分自身の力や知恵や賢さを信じるうかつで愚かな自信家でした。他人の5倍も6倍も優秀な、信仰深くて賢くて大きな大きな彼でした。だから、コテンパンに痛めつけられ、ペシャンコにしていただく必要があったのです。なぜ? なんのために。『神が生きて働いておられ、出来ないことは何一つもないこと。こんな私をさえ見放さず、必ずきっとどこからでも助けてくださる』と、ついにとうとう骨身にしみて思い知るために。やがてあのパウロも謙遜にされて、こう言い始めます。ビックリです、「そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」(コリント手紙(2)12:7-10神の力は、私たちが小さくて弱いときにこそ十分にあらわれる。その反対に「私が私が」と強情を張って、見栄と体裁を取り繕いつづけて、人の顔色ばかり気に病みつづけていた間、強すぎる私たちのせいで神の力は邪魔されつづけて、なかなか働くことができませんでした。
兄弟姉妹たち。だからこそ『主の恵みはこの私のためにも十分である』と心底からつくづくと知りたいのです。私たちが身を屈めさせられ、謙遜にされ、弱くされるとき、とうとう神の恵みと憐れみの力によって私たちも本当に強くされますように。神が生きて働いておられ、出来ないことは何一つもない。こんな私たちをさえ見放さず、必ずきっと何度でも何度でも、どこからでも助け出しつづけてくださる。そのことを、神さまご自身が、この私たちにもよくよく習い覚えさせてくださいますように。