みことば/2017,10,1(主日礼拝) № 130
◎礼拝説教 マタイ福音書 21:1-11 日本キリスト教会 上田教会
『主が用いてくださる』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
21:1 さて、彼らがエルサレムに近づき、オリブ山沿いのベテパゲに着いたとき、イエスはふたりの弟子をつかわして言われた、2
「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつながれていて、子ろばがそばにいるのを見るであろう。それを解いてわたしのところに引いてきなさい。3 もしだれかが、あなたがたに何か言ったなら、主がお入り用なのです、と言いなさい。そう言えば、すぐ渡してくれるであろう」。4
こうしたのは、預言者によって言われたことが、成就するためである。5 すなわち、「シオンの娘に告げよ、見よ、あなたの王がおいでになる、柔和なおかたで、ろばに乗って、くびきを負うろばの子に乗って」。6
弟子たちは出て行って、イエスがお命じになったとおりにし、7 ろばと子ろばとを引いてきた。そしてその上に自分たちの上着をかけると、イエスはそれにお乗りになった。8
群衆のうち多くの者は自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの者たちは木の枝を切ってきて道に敷いた。9 そして群衆は、前に行く者も、あとに従う者も、共に叫びつづけた、「ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。10
イエスがエルサレムにはいって行かれたとき、町中がこぞって騒ぎ立ち、「これは、いったい、どなただろう」と言った。11 そこで群衆は、「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスである」と言った。 (マタイ福音書
21:1-11)
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エルサレムの都がほんの目と鼻の先に近づいてきました。そこに何が待っているのかを救い主イエスは知り、私たちも知っております。主の十字架の苦しみと死が待ち構えています。ご自分の惨たらしい無残な死に向かって、それを見据えながら、主は進んでいかれます。それこそが、私たち罪人を救うためにぜひとも必要なことでした。もし、それがなかったとしたら、私たちの誰1人として救われず、神の子とされることも、主イエスの福音を信じて生きることも、決して有り得なかったのです。ここにいる私たちも、それぞれに、ずいぶん違った生涯をそれぞれに歩んでいたはずだったのです。もし、そうでなかったならば。
聖書は、やがて救い主がどんな姿でどのようにやって来るのかを、繰り返し繰り返し予告していました;「やがて時が来て、私たちの王が私たちの所へ来てくださる。救いと解放をもたらすために。その方は高ぶることなく柔和に謙遜に、低く身をかがめて、そのとおり子供のロバの背にまたがってやってくる」(ゼカリヤ書9:9)。子供のロバを手に入れて、そのロバの背に乗り、主イエスはエルサレムの都に入っていかれます。聖書に親しんできた人々は、誰もが皆気づきました。「ああ、聖書に書いてあったとおりだ」と。聖書に書いてあった救いの光景そのままだ、この方こそ待ち望まれていた救い主だ、と。人々は道の両側に立ち並んで、旗を振るようにシュロの枝を振り、神様を誉めたたえて叫び、自分の衣服を主が通っていかれる道に敷き詰め、そのようにして主イエスを喜び迎えます。
神は、どんな神だったのでしょう。人間の目に見えない隠れている事柄にも目を向け、人間の心の中にあるものを知り、先にある出来事のすべてをも見通す神でした。人間が生まれる前から、何事かを心に思ったり、考えたり、なにかを行ったりし始める前から、その1人1人をすっかり丸ごと知り尽くす神です。ここにいるこの私たちに対しても、まったくそうです。2-3節。今日のこの箇所の冒頭で、一同に先立って2人の弟子をある村に遣わそうとして、主イエスは指図を与えます;「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつながれていて、子ろばがそばにいるのを見るであろう。それを解いてわたしのところに引いてきなさい。もしだれかが、あなたがたに何か言ったなら、主がお入り用なのです、と言いなさい。そう言えば、すぐ渡してくれるであろう」。彼らが使いに出ていくと、言われた通りでした。ですから彼らは主から命じられた通りにしました。出掛けて行った先で彼らが何を見るのか、どんな言葉を聞くのかを、主イエスは確信を持ってはっきりと告げます。まるで、すっかり全部そうなるようにあらかじめ決められていたかのように。まるで、すっかり見通しておられるかのように。その通りです。子供のロバのことも、主には分かっていました。私たちそれぞれのことも、もちろん、主イエスはすっかり十分に分かっておられます。
主ご自身のご用のために、主が、この私たちをも用いてくださる。
では、私たち自身のそれぞれの生活の必要のためには、また、この上田教会のためには、私たちは、その必要なものをどこから手に入れたり、どんなふうに調達したりできるでしょう。よく思い出すのですが、何年も前の教会の会議の中で、集まった者たちは『引退牧師たちの生活のための年金をどうやって維持しようか』と頭を悩ませていました。社会保険や厚生年金と同じ状況です。このままではあと数年のうちに財政破たんしてしまう。北海道の夕張と同じになってしまう、どうしよう。呼びかけて、もっとたくさん献金が集まるように工夫しよう。それぞれの負担金の割り当て額を増やそう。年金を差し上げ始める年齢を70歳から75歳へ、さらに80歳に引き上げよう。支給額を毎月7万円から6万円へ、さらに5万円へと引き下げよう。いやあ、それでは生活できない。申し訳ない。すると、すでに現役を退いている高齢の引退牧師の一人が手をあげて発言しました;「どうぞ、皆さん。あまり心配しすぎないでください。大丈夫ですから。だって私も、我らの日毎の糧を今日も与えたまえと毎日祈っています。ただ口先だけで祈っているだけではなく、本気で、心底から、そう信じていますから。皆さんも、そうでしょう?」と。神さまが、私たちに必要ないつもの生活の糧を今日も明日も明後日も、ちゃんと与えてくださる。日毎の糧、そこには引退牧師の月々の生活費も、もちろん含まれます。私たちのそれぞれの家の電気代、ガス水道代、光熱費、さまざまなローンの返済などもそうです。『自分たちで稼いで、工面して、自分たちで働いて、だから成り立っている』と、もし思うなら、その腹の据え方はずいぶん危うい。神さまは生きて働いておられ、ご自身を自分自身で養い支えておられるばかりでなく、この神さまは、全世界とこの私たち一人一人の生活をも養い支えておられます。これまでもずっとそうだったし、今も確かにそうであり、今後とも変わらずにそうです。神さまから、日毎の必要で十分な糧を与えられ、養われて生きる私たちです。あの引退牧師は、皆が心配しすぎるあまりに、その肝心要をすっかり忘れて、すっかり分からなくなってしまっては一大事だと案じたのです。いつのまにか、生きて働く神さまをそっちのけにして、『人間たちのための・人間たちによる・人間たちのものである教会』に成り下がってしまう。「感謝だ」と言いながら、感謝ではないものがそこにどんどんどん紛れこんできてきてしまう。「感謝だ」と言いながら、いつの間にか、それは「感謝」とは似ても似つかないものにすっかり変わり果ててしまう。「神さまへの信頼。神さまの御心に聴き従い、全面的に神に服従し、神にこそ仕えて生きる」と言いながら、それらがどんどんどんどん似ても似つかない別のものへとすり替わっていってしまう。そのことをこそ深く恐れました。『神に信頼し、神に聴き従って生きる』のか、それとも『サタンと自分の腹の思いに聴き従いつづけ、やがて死と滅びへと行き着く』のか、そのどちらかしかないからです。だから、心底から恐れたのです。私たちが働いて、献げて、維持しているだけでなく、《神ご自身こそが第一に、豊かに、十分に、生きて働いておられる》とのです。毎月の私たちの教会の働きも、教会員が十分にしっかり担って、必死に維持しつづけなければ破綻してしまうのかといえば、決してそうではありません! 当たり前ですよね。神ご自身が断固として、第一に、全責任を負って維持なさり、牧師とその家族の生活もやはり神ご自身が恵みによって養ってくださっているということです。私たち自身のそれぞれの生活もまったく同様です。教会も一個のキリスト者もすでに、自分の力と手の働きによって自分自身を養っているのではありません(申命記6:10-12,8:17-18,9:4-6)。また、「教会のため神さまのために、私には何ができるか」と考えることは尊いことですが、そればかりでなく、「こんな私のためにさえ、神は何をしてくださるのか」と目を凝らしたいのです。私たちの神は、私たちが支えなければ倒れてしまう神ではなく、私たちが担いで運ばなければ動けない神ではありません。私たちが食べ物を供えなければ飢えて腹ペコになってしまう神でもありません。むしろ、神は御自身を養い、この私たち一人一人をもただ恵みによって豊かに養ってくださる方でした(詩40:7,同51:18,同127:1-2,イザヤ1:11,同46:1-2,エレミヤ10:5)。
さて兄弟姉妹たち。ここにいる私たちはいったい何者でしょうか。『主がお入り用なのです』と答えて、それをするようにと命じられたあの2人の弟子たちです。また私たちは、ロープで柵に繋がれていたあの子供のロバです。また私たちは、道端で歓声をあげるあの群衆です。思い浮かべていただきたい。私たちは、あの2人の弟子です。見知らぬ村へと主に先立って遣わされ、そこに繋がれている子供のロバを連れてきます。あるいは別のときには、疲れ果てたおじいさんおばあさんの姿形をしたロバかも知れません。お父さんお母さんの姿形をしたロバ、中学生高校生、もしかしたらもっと若い子供の姿形のロバかも。病気がちで、この頃は歩くのもやっとのロバかも知れません。とても貧弱で貧相な、誰にも顧みられないような小さな弱々しいロバかも知れません。柵に繋がれている彼らを見つけ、ロープを解こうとして、「何をするつもりか」と問い詰められるかも知れません。「止めなさい。勝手なまねはするな」と厳しく叱られるかも知れません。どうしましょうか? 『はい。主がお入り用なのです。主が、このロバを、ご自分のご用のために用いてくださいます』と答えましょう。聞き入れられず、跳ね除けられるかも知れません。馬鹿にされ、罵られ恥をかくかも知れません。それどころか不当に逮捕され、何の道理も根拠もなく何ヶ月も不当に留置所に閉じ込められるかも知れません。今日では、それは大いに有り得ます。それでもなお私たちは、『主が、この私をも用いてくださるのです。神に聴き従うよりもあなたがたに聴き従うほうが神の御前に正しいかどうか、判断してもらいたい。私たちはとっくの昔から判断していますけれども』と答えましょう。1度だけでなく、3度4度5度6度と、誰に向かっても繰り返し答えましょう。思い起こしていただきたい。私たちは皆、あの貧弱な子供のロバでした。村の片隅で、何をするでもなく、ただ柵に繋がれていました。そして、「自分は貧弱で貧相な、何の取り柄もないただの普通のロバだ。人を乗せたこともなく、重い荷物を運んだこともない」と思っていました。けれど柵につながれたそのロープを解いてくれる者たちがいて、彼らはなんと、「あなたを主が用いてくださる。主の大切なご用のために、あなたを使うと仰っています」と告げたのです。「え? まさか、こんな私をですか。人違いじゃありませんか」。もちろん私たちは、自分自身の小ささや貧しさを知っています。人を乗せたこともなく重い荷物を運んだこともない、どこにでもいるような、ほんの小さな、ごく普通の子供のロバです。それでもなお、主が、こんな私をさえ用いてくださる。「ぜひ使いたい」と仰った。主の御前へと連れ出され、それ以来、背中に主をお乗せして歩いている私たちです。それがクリスチャンの姿であり、実態であり、それがキリスト教会の姿です。なぜなら主は、大きいとか小さいとか、貧しいとか豊かだとか賢いとか愚かだとか、取り柄や働きがどれだけあるかと、上がったり下がったり、見上げたり見下したりするくだらなさから、私たちを救い出し、そこから自由にしてくださるために来てくださいました。美しいサラブレットでもなく、高級なロールスロイスやベンツでもなく、戦車や飛行機でもなく、無に等しいこんな私たちを。主は、わざわざ選び取って用いてくださいました(コリント手紙(1)1:26-31)。高ぶることなく、柔和に謙遜に、低く身を屈めて道を進んでいかれたこの方こそが、私たちの王であるからです。用いて下さると仰るので、私たちは、「それなら用いていただきましょう」と腹を据えました。「末永く、どうぞ、よろしくお願いします」と仰ぎ見ました。それで、子供のロバである私たちは、例えば礼拝の中で献げものをするときに、こう祈りました;「主なる神さま。袋の中のものと一緒に、私は私自身をあなたの御前に差し出し、あなたに献げます。どうぞ、こんな小さな貧しい私ですけれど、主のご用のために用いて下さい。私が生きてきましたこの1週間の働きも、あなたの御前に差し出し、あなたに献げます。正直に申しますと、とても小さな貧しい働きでした。ブツブツ不平や文句を言ったり、『こんなにしてやっているのにどうして』などと恨んだり、苛立ったり怒ったりしながらの働きもあったのです。溜め息をつきながら嫌々渋々とした働きもありました。けれど憐れみによって、あなたが清めてくださって、そこに生命を与えて用いてください。どうぞ、あなたからの憐れみとゆるしを受け取りながら生きる私たちとならせてください」と。主が清めてくださるなら、私たちは清くなります。主が用いて下さるならば、こんな私たちの粗末な働きであっても、なお豊かに用いられ、きっと実を結びます。憐れみによって主が活かしてくださるならば、私たちは生きます。たとえ弱々しく危うい生命であっても。それこそが、いつでも、私たちの喜びと力の源でありつづけるからです。
なにしろ、こんな私たちをさえ救い出して、神の子供たちとして迎え入れてくださるために、《神の子羊》として救い主イエス・キリストが遣わされました。世界と、この私たち自身の罪をすっかり取り除くことのできる神の子羊。十字架の上で引き裂かれた主の体と、流し尽くされた主イエスの尊い血潮を注がれて、それで、だからこそ、私たちはここにいます。今日こうしてあるを得ております。罪を、神に逆らう腹の思いを取り除かれ、日毎に新しくされて、神の御心に素直に従って生きる者とされつづけるために。神に用いていただける祝福された子供のロバたちよ、さあ喜びの叫びを上げなさい。私たちに救いと平和をもたらす平和の王が来られました。すでに、私たちの只中に来ておられます。その方は、救い主イエスは、高ぶることなく身を屈め、子供のロバに乗って。子供のロバのような私たちの背にまたがって。なんという恵み、なんという幸いでしょうか。