10/8 こども説教 ルカ15:1-7
『いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩く』
15:4 「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。5
そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、6 家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。7
よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。
(ルカ福音書
15:1-7)
ケンちゃん。とても良い羊飼いである救い主がやがて来てくださる、と約束されていました。その救い主を、みんなは待っていました。その羊飼いがどんなふうに良いかというと、100匹の羊を飼っていたとして、もし一匹の羊が迷子になったら、その一匹を捜し出すまでどこまでもどこまでも、いつまででも捜し歩き、ついにとうとう見つけ出して、羊といっしょに大喜びで帰ってきてくださる。羊の一匹一匹をとても大切に思っているからです。迷子になって、その可哀想な羊が崖の小道の先の先へまで迷い歩いて、ガラガラガラと谷底へ転がり落ちてしまうかも知れないからです。羊ドロボウに誘拐されてしまうかも知れないからです。恐ろしい獣にガブガブムシャムシャと食べられてしまうかも知れないからです。寂しくて恐ろしくて心細くて、その羊がエンエンエンエン泣いている様子が目に浮かぶからです。それで、なんとしてでも助け出して連れ戻してあげようとどこまでも捜し歩いてくださいます。助け出して連れ戻してあげるためには、良い羊飼いは自分の生命さえ投げ出してくださいます。「ああ、そうだった。この私もそうやって捜し出されて、とうとう連れ戻していただいた」と思い出せますか? 自分が迷子の羊の一匹だったと思い出せる羊は、だからとてもとても幸せです。ちっとも思い出せず、何だか他人事のようであまりピンと来ない羊は、いつまでもとても寂しくて惨めで、心細いままで、あまり幸せではありません。
【補足/忘れっぽい羊たち】
ある人は正直なところ、自分が羊だなどとは思ってもいませんでした。大きな熊か、素敵なカモシカか何かもっと強い、もっと足の速い、もっと利口でたくましい生き物だと思っていました。また別の人は、「たしかに私は羊かも知れないが、それでも、あの迷子の1匹なんかじゃなくて99匹の中の1匹だ。迷子になるなんて迂闊すぎる」と、他人事のように冷ややかに眺めていました。・・・・そうでした。羊のもう一つの性質は、とても忘れっぽいこと。『喉元過ぐれば熱さを忘るる』と言いました。苦しいことや辛かったことを忘れてしまうだけではなく、嬉しかったことも驚いたことも、「ああ本当にそうだ。このことだ」と噛みしめたことも、ごく簡単に忘れて、つまらないような虚しいような、みじめな寂しい気持ちになってしまいました。あーあ。