2017年10月24日火曜日

10/22「何の権威なのか?」マタイ21:23-27

 ◎とりなしの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。
 衆議院選挙が行われます。18才以上のすべての大人たちが、自分自身のことばかりではなく、この国に対しても地域社会や隣人たちの生活に対しても大きな責任があることをはっきりと心に留めることができるように、私たちを目覚めさせてください。同時に、「選挙に行く気にもなれない」と絶望している人々の惨めさや心の虚しさを、この私たちにも自分自身のこととして感じ取らせてください。日本と私たち国民が誰に対しても力で押しのけたり、踏みつけにすることがないように、健全な正しい判断力と良心と、他者の人格と権利を重んじる心を私たちにも持たせてください。世界中の多くの人々が自分たちさえ良ければそれでいいと、心を狭くさせられようとしています。私たちもそうです。北朝鮮の国家、イスラム教徒、日本に住む外国人の方々に対して、また特定の人種や民族、少数の者たちを差別するヨコシマな心を抱いてしまわないように、自分たちとは違う価値観や文化をもつ人々を憎んだり軽蔑したり、むやみに排除しようとしませんように。寛大さと、へりくだった低い心とをどうか私たちに贈り与えてください。キリスト教会の建物ばかりではなく、洗礼を受けた初めの日からずっと、神を信じる私たち一人一人の心と体が『神の住む、神のものである祈りの家』とされつづけています。自分の気持ちやあり方ばかりを愛し重んじて、他の人たちを軽蔑したり憎んだり押しのけようとするとき、私たちは自分自身を強盗の巣にしています。心の中で誰かをバカと言い、陰口や悪口をささやく時、私たちは自分自身を強盗の巣にしています。自分さえ良ければそれでいいと、小さな弱い人々の苦しみや心細さに目をつぶるとき、またサタンや自分の腹の思いに囚われ、その言いなりにされつづけるとき、そのときこそ私たちは自分自身を強盗の巣にしています。そういう時がたびたびあります。とても恥ずかしく、申し訳のないことです。そのことを、いつも心に覚えていさせてください。あなたが生きて働いておられますことを、今こそ堅く信じさせてください。御心にかなった歩みをしようと、私たちにも願い求めさせつづけてください。
主イエスのお名前によって祈ります。アーメン


                        みことば/2017,10,22(主日礼拝)  133
◎礼拝説教 マタイ福音書 21:23-27                日本キリスト教会 上田教会
『何の権威なのか?』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
21:23 イエスが宮にはいられたとき、祭司長たちや民の長老たちが、その教えておられる所にきて言った、「何の権威によって、これらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか」。24 そこでイエスは彼らに言われた、「わたしも一つだけ尋ねよう。あなたがたがそれに答えてくれたなら、わたしも、何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言おう。25 ヨハネのバプテスマはどこからきたのであったか。天からであったか、人からであったか」。すると、彼らは互に論じて言った、「もし天からだと言えば、では、なぜ彼を信じなかったのか、とイエスは言うだろう。26 しかし、もし人からだと言えば、群衆が恐ろしい。人々がみなヨハネを預言者と思っているのだから」。27 そこで彼らは、「わたしたちにはわかりません」と答えた。すると、イエスが言われた、「わたしも何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言うまい。                       (マタイ福音書 21:23-27) 



 救い主イエスが間もなく十字架にかけられて殺され、その三日目に復活なさろうとしています。その直前の一週間がはじまっています。日中は神殿の境内で人々に神の国の福音を教えつづけ、夜のあいだはエルサレムの都から出て、ベタニアの村で過ごしました。23-27節です。神殿に主イエスと弟子たちが入っていくと、祭司長たちや民の長老たちが来て、こう問いかけました。「何の権威によって、これらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか」。主イエスは彼らに言われました、「わたしも一つだけ尋ねよう。あなたがたがそれに答えてくれたなら、わたしも、何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言おう。ヨハネのバプテスマはどこからきたのであったか。天からであったか、人からであったか」。すると、彼らは互に論じて言った、「もし天からだと言えば、では、なぜ彼を信じなかったのか、とイエスは言うだろう。しかし、もし人からだと言えば、群衆が恐ろしい。人々がみなヨハネを預言者と思っているのだから」。そこで彼らは、「わたしたちにはわかりません」と答えた。するとイエスが言われました、「わたしも何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言うまい」。
 何の権威によって、これらの事をするのか。だれが、そうする権威を授けたのか。とても良い質問です。主イエスの働きを邪魔して追い払うためにこれまで様々な悪巧みや策略をめぐらせつづけてきて上手くいかなかったので、指導者たち権威者たちは遠回しなやり方を試すことにしました。なんとかして神の国の福音を教えるのを主イエスに止めさせようとして、「何の権威があって、神殿で神さまのことを教えているのか。誰がそうする権威を授けたのか。許可証や免許証はあるのか」などと。彼らはもう、「本当のことなのか。デマカセなのか」などと教えそのものについては、主イエスと討論しようとはしません。そういう中身と本質については、これまで十分に論じ合ってきて、けれど、ちっとも上手くいかなかったからです。
  何の権威によって、これらの事をするのか。だれが、そうする権威を授けたのか。それは、神の国の福音を宣べ伝える職務に誰が主イエスを招いたのか。誰から、この《救い主》という職務を委託されたのかということです。大祭司であろうがユダヤ最高評議会であろうが、たかだか人間にすぎない者たちにそんな権威などありません。神ご自身が、その《救い主》という職務に選び、その職務にご自身で任命したのでなければ、救い主として神の国の福音を宣べ伝えることなどできないし、してはなりません。このイエス・キリストこそが、そのように救い主として選ばれ、職務に任命されたおかたです。「主なる神ご自身が誓われた。あなたこそは永遠に祭司である」(ヘブル手紙7:21,110:4と。
  重い皮膚病の人々や目や手足の不自由な人々が癒され、そのように多くの奇跡によって主イエスに神からの権威があると十分に証明され、それでもなお彼らは悪意あるよこしまな態度をとり、「この男はどこから来たのか。いったい何者なのか」などと問いかけます。まるで、これまで主イエスが語ったことや行ってきたことのすべてを何一つも見なかったし、聞かなかったかのように。救い主イエスが天から遣わされてきたのであり、神ご自身こそが救い主イエスをその職務に任命したのだと、十分すぎるほどの証拠が突きつけられ、それでもなお彼らは、「その権威は神からの正当な権威だろうか、違うんじゃないか」と異議申し立てをしたいのです。大祭司や祭司長、ユダヤ最高評議会議員からの承諾や賛成を得たのか、教会会議で正式に決議されたのかどうかなどと。まるで、神からの権威が大祭司や祭司長、ユダヤ最高評議会に独占的かつ絶対的に与えられているかのように。それは今日でもまったく同様です。もし仮に、キリスト教会の会議で正式に規則通りに選ばれた者たちや委員会であるとしても、それでもなお、もし神の御心に逆らってその者たちが立ち上がろうとするならば、その彼らはサタンの手下になりさがっており、よこしまな怪物になろうとしています。そのとき、その彼らの言いなりに従ってはなりません。牧師や長老であろうが大中会の議長・書記、常置委員会のおエライ人々であろうがどこの何様であろうとも、その人々が神の御心にかなうことをしているときにだけ彼らの言うことに聞き従って良い。そうでないときは、決して言いなりにされてはなりません。なぜなら、その権威者たちやご立派そうに見える大先生たちは、もちろん神の使いではなく、神の代理人でもありません。たかだか人間にすぎないからです。御心にかなう良いことをすることもあり、そうではなく、してはならない悪いことを次々としでかしてしまう場合もあるからです。「神に聞き従うよりも人間に聞き従うほうが正しいかどうか」(使徒4:19を、私たちクリスチャンは一人一人責任をもって判断しなければならないからです。しかも、私たちには精一杯に判断することができるからです。キリスト教会の歴史の中で、そうしたことは度々繰り返されてきました。彼らの問いかけに対して主イエスがなぜ「あなたがたもよくご存知のように、神からの権威である」と直接に答えなかったのか、ここまでくれば、よく分かります。すっかり明らかにされていることについて、彼らがなお恥じることもなく問いかけてきているからです。
  24-27節。「そこでイエスは彼らに言われた、「わたしも一つだけ尋ねよう。あなたがたがそれに答えてくれたなら、わたしも、何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言おう。ヨハネのバプテスマはどこからきたのであったか。天からであったか、人からであったか」。すると、彼らは互に論じて言った、『もし天からだと言えば、では、なぜ彼を信じなかったのか、とイエスは言うだろう。しかし、もし人からだと言えば、群衆が恐ろしい。人々がみなヨハネを預言者と思っているのだから』。そこで彼らは、『わたしたちにはわかりません』と答えた。すると、イエスが言われた、『わたしも何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言うまい』」。洗礼者ヨハネのバプテスマはどこからきたのか。天からであったか、人からであったか。洗礼者ヨハネのことをここで主イエスがわざわざ持ち出したのは、彼ら祭司長たちや民の長老たちが神から遣わされた聖なる預言者たちを侮り、ないがしろに扱ってきたからです。その彼ら自身はどんな権威にも値しないことを示すだけではなく、彼ら自身が本当にはよく分かっていたはずの神の真理をないがしろにし、あなどってきたやり方を暴き、彼らのその答えによって彼ら自身に有罪宣告をし、その彼らがどんなによこしまで罪深いのかを自分ではっきりと悟らせるためにです。
  祭司長たちや民の長老たちとともに、それより何よりこの私たち自身こそが、自分の心によくよく留めなければなりません。なぜ、何のために、洗礼者ヨハネが神の御もとから遣わされてきたのか? 彼の役割と務めは何だったのか。とくに何について、あの彼は強く説き明かしつづけていたのか。彼は、救い主が来られる前に遣わされた、救い主を人々が迎え入れるための道備えをする、先駆けの使者でした。「主を迎えるための準備をあなたがたにさせる。私の役割はそれだ」(マラキ3:1,マタイ3:1-12と、洗礼者ヨハネは弁えていました。自分の指先で、彼は救い主イエスを指し示し、この方こそが神の独り子であると宣言しつづけていました。彼と共に、すべての伝道者たちは同じく自分の指先で救い主イエスを精一杯に指し示しつづけます。ただそれだけが、伝道者たちの務めと役割でありつづけるからです。救い主イエスを指し示すこと以外には、神に仕える福音伝道者たちは何一つもしてはならないからです。イエス・キリストの新しい権威が証明されねばならないなどと、何を根拠にして、律法の書記官や祭司長たちや民の長老たちが言い張ることができるでしょう。洗礼者ヨハネの宣教によって、すでに十二分に説き明かされ、すでにすっかり証明されてきたというのに。あの彼らは互に論じて言いました、『もし天からだと言えば、では、なぜ彼を信じなかったのか、とイエスは言うだろう。しかし、もし人からだと言えば、群衆が恐ろしい。人々がみなヨハネを預言者と思っているのだから』。そこで彼らは、『わたしたちにはわかりません』と答えました。神の御心よりも自分自身のよこしまな欲望を選び取って、そのとき彼らは、「何が真理なのか」を問うことを手放してしまいました。残念なことです。
 洗礼者ヨハネの洗礼は神からのものか、それともただ単に人間たちからのものなのか? では、兄弟姉妹たち。私たち自身が受けた洗礼は神からのものだったでしょうか。それともただ単に人間たちからのものであり、制度や形式的な儀式にすぎなかったのでしょうか? 問うまでもありません。神からのものです。水によって、人間たちの手を用いて授けられましたが、それだけでなくそこに聖霊と火が注がれたからです。だからこそ、そのときから、私たちは身も心ももはや自分自身のものではなく、神のものとされました。この信仰の本質と生命は『神によくよく信頼を寄せ、神の御心に聴き従って生きる』ことの中にあります。二つの選択肢がありました。『神によくよく信頼を寄せ、神の御心に聴き従って生きる』のか、それとも『サタンと自分の腹の思いに聴き従い、自分の腹の思いに奴隷のように支配されつづけ、死と滅びに至る』のかと。あのとき、この私たちも一つを選び取り、別の一つを投げ捨てたのです。聖書は証言します、「では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである」(ローマ手紙6:1-11。「あなたがたは知らないのか。あなたがたは知らないのか、知らないのか」と耳元で語られつづけています。習い覚えて、よくよく知っているはずのことをすっかり忘れてしまうからです。あるいは、あの彼らのように神を侮って、せっかく授けられた神の恵みと祝福をたびたび投げ捨てようとしてしまうからです。思い起こしましょう。「わたしたちは、その死にあずかる洗礼によって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなる」と。「わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。このように私たち自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者である」と。そのとおりです。
  ですからこの私たちは、もう二度と決して罪と自分自身の腹の思いの奴隷となってはなりません。キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせた天の御父は、私たちの内に宿っている御霊によって、私たちの死ぬべき体をも生かしてくださるからです(ローマ手紙 8:8-11。そのことを、この私たちもまたよくよく知っているからです。肉の思いに囚われ、自分の腹の思いの言いなりにされ、サタンと自分の腹の思いと肉に従って生きてきた日々は過ぎ去りつづけます。なぜなら、私たちはすでに肉の思いとあり方に留まっているのではなく、神の御霊のもとにこそ据え置かれつづけているからです。キリスト・イエスが私たちの罪のためにもこの世界に遣わされ、ご自分の肉において罪を抜歯、このわたしたちのをさえ罪から解き放ってくださったからです。解き放ちつづけてくださるからです。