みことば/2017,10,15(主日礼拝) № 132
◎礼拝説教 マタイ福音書 21:18-22 日本キリスト教会 上田教会
『いちじくの木のように』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
21:18 朝はやく都に帰るとき、イエスは空腹をおぼえられた。19
そして、道のかたわらに一本のいちじくの木があるのを見て、そこに行かれたが、ただ葉のほかは何も見当らなかった。そこでその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえには実がならないように」と言われた。すると、いちじくの木はたちまち枯れた。20
弟子たちはこれを見て、驚いて言った、「いちじくがどうして、こうすぐに枯れたのでしょう」。21 イエスは答えて言われた、「よく聞いておくがよい。もしあなたがたが信じて疑わないならば、このいちじくにあったようなことが、できるばかりでなく、この山にむかって、動き出して海の中にはいれと言っても、そのとおりになるであろう。22
また、祈のとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう」。 (マタイ福音書 21:18-22)
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まず18-20節。救い主イエスが間もなく十字架にかけられて殺され、その三日目に復活なさろうとしています。その直前の一週間がはじまっています。日中は神殿の境内で人々に神の国の福音を教えつづけ、夜のあいだはエルサレムの都から出て、ベタニアの村で過ごしました。朝早く都に入ってくるとき、主イエスは空腹をおぼえ、道のかたわらの一本のいちじくの木の傍らに近寄りました。けれど実がなっていなかった。その木に向かって、「今から後いつまでも、おまえには実がならないように」と言われた。すると、いちじくの木はたちまち枯れました。――少し分かりにくい難しい箇所です。この出来事を、マタイとマルコ、二つの福音書が報告しています。何が、どう分かりにくいのか。主イエスは救い主であり、神です。なんでもよくよく分かっておられるはずのそのお方が、その木に実がなっているかどうかが分からなかったというのは奇妙なことです。腹が減っていたからといって、どうして、たかだか木に対してこんなに腹を立てたり、トゲトゲしい荒っぽい口調で呪ったりなどなさるのか。私たち、ごく普通の人間なら、度々つまらないことでカンシャクを起こしたり八つ当たりをしたり、本当はどうでもいいようなささいなことでカンカンに腹を立てて怒鳴ったりなどもするでしょう。けれど主イエスは救い主であり、神であられます。もし本当に、こんなことで腹を立てたとするなら、あまりに幼稚で子供っぽいし、バカバカしい怒りようです。例えば別のときに、多分おなかが空いておられるはずだと弟子たちが食べ物をお持ちしたとき、「わたしにはあなたがたの知らない別の食べ物がある。わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである」と涼しい顔をして仰ったかたです。また例えば、40日40夜のあいだ荒野をさまよって、腹が減って腹が減って疲れ果てたはてに、このお方はサタンの誘惑を退けてみせてくださったではありませんか(ヨハネ福音書4:34,マタイ福音書4:1-11)。ね? ですから、腹が減って腹が減って、ついつい子供のように、いつもの私たちのように、カンシャクを起こしたわけではありません。
旧約聖書以来、預言者たちが『たとえ』を用いて神の御心を伝えるやり方は2種類あります。そのまま言葉でたとえて語る場合と、動作や身振りや立ち居振る舞いによってそれらをたとえ話のように用いて語る場合と。この出来事全体が、たとえ話のようにして大事なことを伝えようとしています。呪われたいちじくの木は、エルサレムの都とそこに住む神の民イスラエルとをたとえています。それを目に見えるはっきりした姿で示すために、このように『ある人がいちじくの木に実を捜しにして見当たらず、腹を立てて、木を呪った』という光景をご自分で演じてみせました。このように実のならないいちじくの木のような先祖と私たちのために、神が悲しんだり、嘆いたり、とても腹を立てたりなさると。
例えば主イエスは、別の時に、こういうたとえ話を語っておられました。ぶどう園の主人が自分のぶどう園で、いちじくの木に実がなっていないかどうかを何年も何年も探しに来て、やがて腹を立てて「木を切ってしまえ」と園丁に命じた。「いいえ、ご主人様。もう一年待ってください。私が木のまわりを掘って、肥料をやってみます。手入れをし、世話をしてみますから」と。なかなか実のならないいちじくの木は、神を信じて生きる先祖と私たちです。ぶどう園の主人は父なる神。「いいえ、もう一年待ってください。私が木のまわりを掘って、肥料をやってみます。手入れをし、世話をしてみますから」ととりなしている園丁は、救い主イエスご自身です。あのたとえ話の中で、いちじくの木を植えた、あのぶどう園の主人は神さまです。広々としたぶどう園は、私たちが生きるこの世界です。あわれみ深い主なる神は、その広大なぶどう園に生きるたくさんの人々のために、いちじくの木を植えておきました。格別に甘くておいしい実を、彼らみんなに食べさせてあげるために。彼らみんなを慰め、元気づけ、彼らに喜びと力を与えてあげるために。おじいさんやおばあさんにも、お父さんやお母さんにも小さな子供たちにも、毎日いろんなことがあって、悩みや困ったことや辛いこともあって、その中で、それぞれ精一杯に生きています。そういういろいろな人たちの只中に、広い広いぶどう園のあちこちに一本また一本と、いちじくの木が植えられています。この私たちのことです。甘くておいしい実を結ぶはずのいちじくの木は、すべてのキリストの教会であり、一人一人のクリスチャンです。この私たちが一本一本のいちじくの木です。ぶどう園の主人である神さまは、楽しみにして畑を見てまわります、「甘くておいしい実がなれば、ここで生きている人たちを喜ばせてあげられる。うれしい元気な気持ちをみんなに分けてあげられる。まだかな、どうだろう?」。『もう3年もの間、このいちじくの木に実を探しにきているのに、それなのに見つけたためしがない。だから切り倒してしまえ。なぜ土地をふさがせておくのか』。どうしましょう? 実がならないなら、こんな木は切り倒してしまいましょうか。臆病で意固地でひがみっぽくて、自分勝手で、すぐにプンプン怒ったり恨んだりすねたりしてしまうこんな木は、切り倒してしまいましょうか。ところが、木の世話をするお独りの方が、とてもやさしい園丁がいました。主人といちじくの木の間に立って、1人の園丁が答えます、『今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、栄養のある力のつく肥料をやってみますから。水を朝も夕方もちゃんとかけてやります。悪い虫がつかないように、いつも手入れをしてやりますから。カラスが来たら追い払い、イバラが生えたらすぐに抜いてやりますから。大事に大事に、私が育てます。そうすれば、来年は実がなるかも知れません。お願いです』。この心優しい園丁は、いったい誰のことだろう? ぶどう園といちじくの木の世話をしているこの園丁こそ、私たちの主イエス・キリストです。この方がどんなふうにぶどう園といちじくの木の一本一本を世話してきたのかを、私たちはよく知っています。教会学校の小さな子供たちも、このことを教わってきました。じゃあ、質問。さらに一年たって、実がならなかったら、そのとき、救い主イエスはどうなさるでしょう。これまで、どうして来られたでしょう。何とおっしゃるでしょう。「だめでした。じゃあ約束ですから、切り倒しましょう」? 確かに、そう書いてあって、そう仰ったけれど、本当にそうでしたか? ここにいるいちじくの木たちは、皆、3~4年以内に甘くておいしい良い実を実らせた木ですか? ・・・・・・いいえ、そうではありませんでした。だって、いちじくの木はかなり手強くて頑固で強情だったのです。そう簡単には実を結びませんでした。むしろ手に負えず、箸にも棒にも引っかからず、「あれはダメだよ。いくら世話しても、待っても、無駄だって」と周りのみんながあきれました。『さあ一年たったぞ』と主人も言います。まだ実を結んでいません。その気配も、ほんの小さな兆しさえも見えません。いよいよ切り倒してしまいましょうか。『待ってください。今年もこのままにしておいてください。木の周りをもっと掘って、肥料をやってみます。そうすれば来年は』。やがてその格別に良い園丁は、実のならないその木を切り倒してしまう代わりに、自分自身の体を切り倒していちじくの木の根元に自分を肥料として埋めてくださいました。甘くて良い実がなるようにと願って。きっと必ずそうさせてあげようと決断し、選び取って。救い主イエス・キリストこそが教会の土台であり、私たちクリスチャンが生きてゆくための土台であるとは、このことです。あなたの足元にもこの私の足元にも、自分で自分を切り倒してくださった救い主イエスが埋められています。だから良い実を結ぶことができます。だから、ここもキリストの教会であり、私たちもまたクリスチャンです。神ご自身の同じ一つの心が現されています。いよいよエルサレムの都の近くにきて、それが見えたとき、救い主イエスは神の都エルサレムのために、先祖と私たちのために泣いて言われました、「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら。しかし、それは今おまえの目に隠されている。いつかは、敵が周囲に塁を築き、おまえを取りかこんで、四方から押し迫り、おまえとその内にいる子らとを地に打ち倒し、城内の一つの石も他の石の上に残して置かない日が来るであろう。それは、おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである」(ルカ13:6-9,同19:41-44)。神ご自身の同じ一つの心が現されています。神のおとずれの時を知らず、平和をもたらす道を知らない先祖と私たちのための神の悲しみと嘆きの涙です。その同じ一つの心を現そうとして、ここで救い主イエスが木を呪ってみせています。先祖と、この私たち一人一人のために。
21-22節。「イエスは答えて言われた、『よく聞いておくがよい。もしあなたがたが信じて疑わないならば、このいちじくにあったようなことが、できるばかりでなく、この山にむかって、動き出して海の中にはいれと言っても、そのとおりになるであろう。また、祈のとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう』」。信じて疑わないならば、そのとおりになる。信じて求めるものは、みな与えられる。つまり、神を信じる信仰が足りない、と私たちは語りかけられています。神を信じる信仰とは、『なかなか実を結ぼうとしないそのいちじくの木は、この私自身のことだ。ああ、本当にそうだ』と気づいて、心を痛める信仰です。悔い改めて、神へと立ち返ろうとする信仰です。その信仰こそが、山を動かすどころか、自分自身の心と、口から出るいつもの言葉と、いつもの普段の暮らしの中での自分自身のあり方、自分自身のいつもの普段のモノの考え方とを大きく動かします。神を信じて生きてゆくとは、このことです。信じて疑わないならば、そのとおりになる。信じて求めるものは、すべて全部すっかり、与えられる。そのとおりです。
◇ ◇
たしかに、持って生まれた性分はなかなか変えることが難しいでしょう。短気な人は短気で、怒りっぽい人は怒りっぽくて、偏屈で意固地な人はずっと偏屈で意固地であるとしても。生涯ずっと同じ性分を抱えたままであるとしても、それでもなお、その性分の言いなりにされ、その性分と腹の思いの奴隷とされて、その虚しいものにただ従って生きるしかないのか。いいえ、決してそうではありません。『神の御心に従って、神の御心に服従して生きる』のか、それとも『サタンと自分の腹の思いに従って、やがて死と滅びへと行き着くのか』と問い詰められて、私たちは選び取ったからです。神を信じて生きることを決心したあの洗礼のときに。肉の思いに従って生きることを私たちはポイと投げ捨てたのですし、一日また一日と、投げ捨てつづけるからです。聖書は証言します;「なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださる」(ローマ手紙8:1-11参照)。もし、キリストがあなたがたの内におられ、キリストの霊をあなたがたがもっているなら。もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、と問われています。胸に手を当てて、静かに息を吸って吐いてみるなら、ちゃんと分かります。救い主イエス・キリストが、この私の内におられ、キリストの霊をこの私も、ここに、ちゃんともっていると。そうか。そうであるなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせた天の御父は、私たちの内に宿っている御霊によって、この私の死ぬべきからだと魂をも、きっと必ず生かしてくださる。