2017年10月3日火曜日

10/1こども説教「罪人を迎え入れる救い主」ルカ15:1-3

 10/1 こども説教 ルカ15:1-3
 『罪人を迎え入れる救い主』

15:1 さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。2 するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。3 そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった、        (ルカ福音書15:1-3

  ケンちゃん。救い主イエスの様子を見て、見下してバカにしたり悪口を言ったり、プンプン腹を立てる人々がいます。「罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と。でも、これは本当のことです。神に逆らって、「自分が自分が」と強情に自分勝手になりつづけることが罪の中身です。そ神に逆らいつづける罪人を迎え入れて、その哀れで惨めなつまらない生き方から救い出してくださるために、そのためにこそ救い主イエスはこの世界にこられました。「罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」。そのとおりです。いっしょに仲良く愉快に過ごすし、楽しく食事もするし、「自分勝手に強情を張りつづけることがどんなにつまらない生き方なのか。そんなことを止めて神に従って生きることがどんなに幸せで嬉しいことなのか」もていねいに教えてあげながら。でも、パリサイ人と律法学者たちが勘違いしていることが1つだけありました。主イエスと一緒に食事をしている人たちだけが罪人なのではなくて、一人残らず誰も彼もが神に逆らう罪人だし、実は、そうやってその人たちを見下している彼らこそがその千倍も万倍も罪深く、神さまに逆らってばかりいる人間たちだったのです。そのままでは、人を見下して自惚れているその人たちこそが、神さまのもとに辿り着きそこねてしまうかも知れません。神さまからの祝福も恵みも、すっかり受け取りそこねてしまうかも知れません。ああ大変だ。

     【補足/誰と誰がふさわしいか?】
主イエスとその人々との食卓にも、やはり格別な喜びが満ちていました。種々雑多な人々が、いつのもように主イエスの周囲に集まっていました。小さな子供や赤ちゃんもそこにいて、大工も漁師も取税人もいて、病いを抱えた人も、さまざまな貧しさや困窮を抱えた者も、さげすまれ身を屈めさせられていた者たちも主イエスと共に食卓につき、話を聞き、語り合いながら、愉快に飲み食いさえしていました。その一方で、「選りにも選って、どうしてあんな人たちと」と眉をしかめ、苦々しく思う者たちもありました。救い主と共に食卓につく。それこそがキリストの教会の姿であり、キリスト者の姿です。『キリストの教会がキリストの教会であること。キリスト者がキリスト者であること』。それを、私たちはどんなふうに思い描いていたでしょう。『救い主と一緒にうれしい食事の席につく』のに、誰と誰がふさわしいか? それが、キリストの教会を思うとき、一個のキリスト者である私たち自身を思うとき、いつも立ち帰ってゆくべき根源的なイメージです。そこで主イエスは、たとえ話を話されました。この15章の3つのたとえ(15:3-7,8-10,11-32)は3つで1組であり、『ルカ福音書の心』だと言い習わされてきました。いいえ、聖書66巻全体の心だと言っていいでしょう。今日から5回つづけて、たとえ話をごいっしょに味わってゆきます。お楽しみに。