2017年9月27日水曜日

2017年日曜学校夏期学校「神のみこころ(2)」

《主題のお話》
  『羊と銀貨をさがす神さま』     201783
                                     牧師 かねだせいじ

15:1 さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。2 するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。3 そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった、4 「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。5 そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、6 家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。7 よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。8 また、ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその一枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。9 そして、見つけたなら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と言うであろう。10 よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」。                (ルカふくいんしょ15:1-10


  10まいの銀貨をもっていた女のひとがその中の1まいをなくしてしまいました。すると、家中ひっくりかえして夜どおし捜しつづけ、見つけたら大喜びに喜ぶというのです。それはちょうど、100ぴきの羊を飼っている羊飼いがその中の1ぴきを見うしない、たいへんな苦労をしてさがしだし、大喜びで連れ帰るのと同じように。それはちょうど、二人の息子がいる父さんが一人の息子がようやく家に帰ってきたのを出迎えて喜びにあふれるのと同じように。1まいの銀貨。1ぴきの羊。出て行ってもどってきた一人の息子。そして、ずっと家にいっしょにいたはずのもう一人の息子。それらが、神を見うしなってはぐれていた私たちじしんである、と聖書は語ります。例えば、あの羊がどんなふうに迷子になったのかは、私たちには分かりません。うっかりしていたのかも知れないし、自分勝手だったのかも知れません。おおかみや羊ドロボウに目をつけられていたのかも知れません。迷子になって、どうしていいか分からなくなって、「帰りたい帰りたい」とメエメエ鳴いたのかも知れないし、あるいは、迷子になったとも気づかず気楽に気ままに草をムシャムシャ食べつづけていたのかも知れません。さて、あの銀貨は、うっかりしていたのでもなく自分勝手だったのでもなく、帰りたいと鳴いたのでもなく、自分で帰ってこようとしたのでもありませんでした。だって、ただの銀貨だったのですから。ただ財布から落ちて、コロコロころがって、タンスとタンスのすきまかテーブルのしたか本や古しんぶんのページのあいだかどこかにまぎれこみました。自分がどこかにいなくなった、とも知りませんでした。放っておけば100年でも200年でもそのままいなくなったままでしょう。見つけだされて主人の手にもどっても、たとえ持ち主が大喜びに喜んだとしても、けれど銀貨は、うれしくも何ともない。持ち主の手にもどったことに気づきもしないでしょう。
 ここで、ひとつ気づくことがあります。3つのたとえ話を始めるきっかけとなったばめん(1-2せつ)。主イエスといっしょに楽しいゆかいな食事の席についている人々。そして、遠くからながめて「どうしてあんな人たちと」とプンプン怒っていた人々。主イエスとともに食卓についていたあの人たちは、それをうれしく思っていました。ちょうど羊飼いのもとに連れもどされた羊のように。ちょうど、父の家に迎え入れられたあの弟のように。そのいっぽうで、遠くから眺めて「どうして」と腹立たしく思っていた人たちはどうでしょう。いっしょに席についたとしても、ソッポをむいて、つまらなそうにしているかもしれません。ちょうど、見つけだされて持ち主の手の中にもどった銀貨がうれしくも何ともないのと同じように。けれど兄弟たち。連れもどされた羊が喜ぼうが喜ぶまいが、見つけだされた銀貨がそれを何とも思わなくたって、なにしろ羊飼いはうれしい。なにしろ銀貨の持ち主はうれしい。なにしろ、あの父親はうれしい。

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 あの羊飼い。そして銀貨をなくした女のひと、そして息子がいなくなってしまった父さん。それらはみな、神さまのことです。すると、「銀貨10まいをもっている女」と言いましたけど、ほんとうには、10まいしかもっていない貧乏な女のひとが、とても貧しくて貧しくてその1まいがなかったらごはんを食べるにも困るほどで、それでとても困って必死にさがしまわる、ということではありません。むしろこの女はビックリするほどの大金持ちで、財布のなかにはありあまるほどのたくさんのお金がウジャウジャはいっています。神さまなんですから。その1まいが見つからなかったら毎日毎日の暮らしに困る、というわけでもありません。困る困らない、都合がいい都合がわるいという話でもありません。

 7,10せつ。「大きな喜びが天にある。神の天使たちのあいだに喜びがある」。神の喜びは、神の悲しみや痛みとひと組です。神さまのほうに向いていたはずの一人のゆるされた罪人が、いつのまにか人間のほうへ人間のほうへと思いを曇らせ、心をまどわせてゆく。ついに人間のことばかり思いわずらい、神を思うことを忘れてしまう。すると、その一人の魂を思って、天に大きな大きな悲しみと痛みがある。その一人の迷い出てしまった10円玉か5円玉のようなかわいそうなかわいそうな罪人を思って、「どんなに心細く、おそろしくて、みじめだろうか。かわいそうだ、かわいそうだ」と神さまがどんなに心を痛め、どんなにふかく嘆き悲しむことか。だからこそ、立ち帰ってきたその一人の罪人を思って、神ご自身が大喜びに喜んでくださる。その喜びの大きさは、その人のための神さまご自身の悲しみや嘆きの大きさとひと組でした。とてもとても心配して悲しんでいた分だけ、それだけとても大喜びに喜んでいます。目をこらしてください。あの一人の羊飼いは大喜びに喜んでいます。「皆さ~ん、いなくなっていた羊をとうとう見つけましたア。いっしょに喜んでください」。あの一人の女も喜んでいます。「うれしい、うれしい。わあい。ほんとうにうれしい。どうぞ、いっしょに喜んでください」。