みことば/2017,9,24(主日礼拝) № 129
◎礼拝説教 マタイ福音書 20:29-34 日本キリスト教会 上田教会
『何をしてほしいのか?』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
20:29 それから、彼らがエリコを出て行ったとき、大ぜいの群衆がイエスに従ってきた。30
すると、ふたりの盲人が道ばたにすわっていたが、イエスがとおって行かれると聞いて、叫んで言った、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」。31
群衆は彼らをしかって黙らせようとしたが、彼らはますます叫びつづけて言った、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」。32 イエスは立ちどまり、彼らを呼んで言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。33
彼らは言った、「主よ、目をあけていただくことです」。34 イエスは深くあわれんで、彼らの目にさわられた。すると彼らは、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。
(マタイ福音書 20:29-34)
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31節、目の不自由な者たちは主イエスに向かって、「ダビデの子よ」と呼びかけました。ダビデの子孫の中からやがて救い主が遣わされると約束されつづけていたことを受け止めて、つまり『約束されつづけていた救い主』という意味でそう呼ばわっています。それは適切な理解です。
目の見えない2人の人が、主イエスと出会いました。不自由さと心細さを抱え、どうやって生きていこうかと悩みを抱えている彼らが、だからこそそこで主イエスに目を向け、出会い、このお独りの方から格別な平安と希望を受け取っています。わたしたちもそうでした。目の不自由なこの人たちは、道端に座って物乞いをしていました。「道端がいい。わたしはここに座っていよう」と、彼らは心を決めました。ここでなら、自分たちの惨めな様子が人目を引き、誰かが気がついて心を向けてくれるかも知れないから。当てもなく、ただ虚しく家の奥深くに引っ込んでいることを、この人たちは選び取りませんでした。ただ漠然と、いつか何か良いことが起こるかも知れないと、ただ何となく待っていませんでした。そうではなく、この人たちは自分自身をそこに運んでいき、そこに自分を座らせました。主イエスが通りかかったことを知り、主イエスの憐れみを求めて叫びました。とても不思議なことが、ここですでに起こっています。もし、この日、この道端に座っていなかったら、この人たちは主イエスとは出会えませんでした。主イエスがここを通りかかると知ったとき、もし、「わたしを憐れんでください」と叫ばなかったら、あるいは1度か2度か叫んでみた後で、「やっぱり無理だ。どうせわたしなんかに」とすぐに諦めてしまったとしたら。誰かに「しっ。静かにして」などと注意され、苦情や文句を言われてガッカリし、もし、それっきり押し黙ってしまったとするならば、この人たちは主とは出会えず、一生涯ず~っと、目が見えないまま、物淋しく虚しいままだったかも知れません。たまたま偶然に出会った、のではありません。たまたま偶然に憐れみを求めて叫んだのではありません。そうではないのです。この人たちは自分で判断し、自分自身でその幸いを選び取り、自分でそれを掴み取りました。
「彼らが主イエスとその福音をどれだけ的確に理解していたかは疑問だ。ただ、熱心に物乞いしただけかも知れない。せいぜい、目が見えるようになることを素朴に求めただけかもしれない」などと、うかつに考える人がいるでしょう。「熱心に叫びさえしたら、信仰を認められて救われるのか。違うはずだ。あまりに素朴に単純に受取られてしまっては困るじゃないか」と、分かったつもりになって案じる人もいるでしょう。そうでしょうか? けれどポイントは、たとえ彼の求めが不完全で未熟で単純すぎるものであったとしても、なお主イエスがそれを「信仰」と認めてくださった点にある。それを喜び、受け入れてくださった点にある。『彼らが○○したから。△□だったから』という彼の素質や態度や努力・根性などを軽々と飛び越えて、まったくの恵みの出来事でした。しかもなお問わねばなりません。まったくの恵みであるとして、現に差し出されているその恵みを彼らはどのようにして受け取ったのか。この私たち自身は、どうやって受け取ろうか、そこで主イエスを信じるその人の信仰はどう働くのかと。
群衆は彼らを叱りつけて黙らせようとしました。あるいは、気をきかせた弟子たちも、「静かに。主は、お忙しいのだから」など彼らを黙らせようとしたり、片隅へ片隅へと押しのけようとしたかもしれません。けれど主イエスご自身は、別の観点と、ずいぶん違う熱情をもっておられる。1人の人と出会おうとする伝道指針であり、1人の人を救いに導きいれようとなさる熱心な教育です。主イエスのこの同じ1の熱情が繰り返し報告されつづけてきたではありませんか。あらかじめなんでも分かっておられる主が、十分に分かった上で、「何をしてほしいのか」とわざわざ問いかけておられます。彼らに、改めて求めさせるために。自分を主に委ねさせ、恵みをしっかりと受け取らせるために。自分にはいったい何が欠けていて、誰に助けを願えばよいかを彼らは知って、だからこそ彼らは主イエスに向かって必死に叫んでいます。叫び続けていました。私たちは主イエスに何をして欲しいのでしょう。あなたは? 何がどうであったら、あなたや私は幸いと喜びに満たされて生きて死ぬことができるでしょう。その願いを、他の誰に対してでもなく、主であられる神にこそ本気で願い求めることのできる人々は幸いです。
この人たちの姿はまた、私たちの日々の祈りの手本でもあります。主イエスが通りかかると知って、この人たちは叫びました;「主よ、ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」(30,31節)と。「静かにしていなさい。後ろに下がっていなさい」と叱りつけられたとき、この人たちはそこで黙り込んでしまわなかった。それどころか、ますます必死にますます一途に、ひたむきに叫び続けて、止まないのです。この人たちは自分の貧しさや乏しさを知っていました。そのうえ、語り出すべき言葉も知っていました。それは、ごく簡単な短い言葉でした;「約束された救い主イエスよ、私たちを憐れんでください」。わたしを憐れんでください。『主よ。約束された救い主イエスよ、わたしを憐れんでください』という祈り、そういう人間、そういう居場所がクリスチャンだというのでしょうか? それがキリストの教会の基本姿勢だというのでしょうか。そうです、その通り。このへりくだった低い場所こそが、恵みを恵みとして受け取るための、クリスチャンのいつもの場所です。なぜなら、ほんの少し前には、「お恵みや憐れみだって? 冗談じゃない。人様からも何様からだって、お恵みも憐れみも施しも受けない。馬鹿にするんじゃないよ」と肩肘張っていたプライドやら埃やらがあまりに高かった、高すぎた私たちです。けれど身を屈めて、へりくだることをついに習い覚えた私たちです(ローマ手紙3:21-28)。誰がこの人を叱りつけても、誰が立ち塞がっても、もうこの人を押し止めることなどできません。この人がどんなに切実に助けを求めているのかを、誰も知りません。けれど、この人たち自身は分かっています。しかも、主イエスご自身がよくよくご存知です。主イエスは、この目の不自由な人たちを喜んで受け入れます。深く憐れんで、それで迎え入れる(34節)。主イエスが私たちを迎え入れるやり方は、ただただこのなさり方の一本槍です。可哀想に思って、深く憐れんで迎え入れる。そうではない仕方で迎え入れられた者など、ただの1人もいません。
32節。主イエスは、彼らの呼び声に耳を傾け、足を止められます。大事な用事があろうが、予定が組んであろうがお構いなしに、ピタリと立ち止まります。他のどんな予定よりも用事よりも、今ここで彼らのために立ち止まることが極めて重要だからです。彼らを呼んで来させました。「何をしてほしいのか」と主イエスは二人に問いかけます。彼らは、探し求めてきたものをとうとう見つけ出しました。このとき、彼らは、一筋のはっきりした光を掴み取りました。肉体的な病気と不自由さや心細さのためにこの人がしたことを、今度は私たち自身が、私たちの魂のためにすることができます。なぜならあの彼の乏しさよりも私自身の乏しさの方がもっと大きく、もっと深刻であるからです。罪と悲惨の病いは、目が見えないことよりも、耳が遠いことよりも、足腰が弱くなって衰えたことよりももっともっと厳しい。はるかに徹底的にその人を痛めつけ、その人を弱らせ、そこないます。「でも、どう祈っていいか分からない。どんな言葉で、何をどう祈ったらいいのか」とためらう人々がいます。けれど例えば病院に行って医者にかかって「どうしました?」と聞かれて、そのとき、どんなに内気で口下手な人でも、小さな子供でさえ答えます。「おなかの下の方がシブシブ痛い。昨日の夕方ころから、なんだか痛くなった」と。身体のこと。おなかの下の方のシブシブとした痛み。腰や膝の痛みについて、あなたの口と舌が説明できるなら、それなら、あなたの普段の生活の心細さや、いじけたり僻んだり恐れたりすることについても、物淋しさや虚しさについても、もちろん魂のことについても、あなたのその口と舌は十分に説明できます。たとえもし、今まで一度も祈ったことがないあなたであっても、祈り始めることができます。どうやって。医者に「どうしました」と聞かれて答えるときのように、祈り始めるのです。まず、こう言ってみましょう。「主なる神さま。どうか、私を憐れんでください」と。
どんな祈りが、どうやって聞き届けられるでしょうか。その人自身を救う信仰があり、その人を救わない信仰があるのでしょうか。聞き届けられる祈りがあり、聞き届けられない祈りがあるのでしょうか。どんな信仰が、どうやって、その人を救いへと至らせるのでしょう。どんな祈りが、どうやって聞き届けられるのでしょう。あるいは、どんな人々が、どうやって救われるのでしょうか。これらは、同じ1つの福音をめぐる1つの事柄です。自分自身を救う信仰とは何だろうか。助けと恵みを求めて、道端だろうがどこだろうが座り込んで待ち受ける信仰です。「イエスよ、わたしを憐れんでください」と呼ばわる信仰です。叱られても、周囲の誰彼に嫌な顔をされても、「止めておきなさい」となだめられても邪魔されても、なお「憐れんでください。憐れんでください」と声を限りに呼ばわり続ける信仰です。「見えるようになりたい。あなたに、そうしていただきたい」と主イエスに求める信仰です。救われるに値しないと人々から思われるはずの罪人が、けれど周囲の人々や人様・世間様の思いなどとはまったく関係なしに! 神さまの憐れみによって、救われます。神の恵みより、無償で、ただただ恵みによって。私たちを憐れむ神さまの救いの御業が主イエスによって成し遂げられてあるので、だから主イエスによって、この方を信じることによって、救われます。そのように救われたのですし、救われ続けます。どんなに罪深い極悪人でさえ、ただただ神の憐れみによって、救われます。どんな信仰がと問うならば、主イエスを信じる信仰が。では、どんな祈りがどうやって聞き届けられるのかと問うならば、どんな祈りでも、「主イエスのお名前によって祈ります」という祈りこそが(ヨハネ福音書14:13,15:16,16:23-24,ローマ手紙3:21-26,テモテ手紙(1)15)。慈しみ深い真実な神ご自身が、私たちのどの祈りをさえも聞き届け、必ずきっとかなえてくださるからです。私たちはそれを知っています。
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本当のことを申し上げましょう。最低最悪の、ひどく自分勝手な、見当違いの、間違った、貧弱で粗末な祈りさえ、けれどなお神さまの憐れみによってきっと必ず聞き届けられます。憐れんでくださる神さまがおられ、私たちのためにも主イエスが執り成していてくださり、ぜひとも聞き届けたいと天の父が耳を傾けていてくださって、だからこそ、その貧しく粗末な小さい祈りさえ聞き届けられます。祈りがそうであるなら、ここにいるこの私たち人間も、そのように取り扱われるのです最低最悪の、ひどく自分勝手な、見当違いの、貧弱で愚かで粗末な罪人さえ。主イエスに向かって「私を憐れんでください」と呼ばわる信仰が、その人を救うのです。主イエスのお名前によって、この方が成し遂げてくださった救いのお働きに信頼し、より頼んで、だからこそ、こんな私のこんな祈りさえ聞き届けられると知る祈りこそが、その人を、憐れみの神さまの御もとへと連れ出し、神と出会わせ、その憐れみを受け取らせます。アーメン。神ご自身にこそ、私たちのための真実があります。アーメン。神ご自身の中にこそ、私たちのための救いがあります。憐れんでくださる神さまがおられ、主イエスが執り成してくださり、ぜひとも救いたいと心を注ぎ出してくださりつづけて、だからこそその貧しい小さな人さえも救われます。あなたや、この私でさえもが。しかもなお主イエスご自身こそが、この1人1人を、この叫びを求めておられた。主こそが探しておられました。御心に留めつづけ、深く憐みつづけておられました。だからこそ、こうして主と出会いました。見えるようにしていただいた彼らは、主イエスに従って生きることを選び取りました。それは、なぜ? 何のために。お返しやお礼をするためではなく、もっともっと見えるようになりたかったからです。もっともっと喜びにあふれたかったからです。この私のためにも家族や隣人たちのためにさえある神の現実を、神が確かに生きて働いておられますことを、この目ではっきりと見るために。自分の考えや計画や願いに従って生きるのではなく、御心に信頼して、御心に従い、主イエスに従って生きることがどんなに幸いなことであるのかを現実的に具体的に、ますますはっきりと知るために。自分自身にとってもこの世界のすべて一切に対しても、なにしろ主こそが主であられることを知るための旅がつづきます。私たち自身の旅が。