2017年6月26日月曜日

6/25こども説教「家の主人が帰ってくる」ルカ12:35-48

 6/25 こども説教 ルカ12:35-48
 『家の主人が帰ってくる』

12:37 よく言っておく。主人が帯 をしめて僕たちを食卓につかせ、進み寄って給仕をしてくれるであろう。・・・・・・42 そこで主が言われた、「主人が、召使たちの上に立てて、時に応じて定めの食事をそなえさせる忠実な思慮深い家令は、いったいだれであろう。43 主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。44 よく言っておくが、主人はその僕を立てて自分の全財産を管理させるであろう。45 しかし、もしその僕が、主人の帰りがおそいと心の中で思い、男女の召使たちを打ちたたき、そして食べたり、飲んだりして酔いはじめるならば、46 その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰って来るであろう。そして、彼を厳罰に処して、不忠実なものたちと同じ目にあわせるであろう。47 主人のこころを知っていながら、それに従って用意もせず勤めもしなかった僕は、多くむち打たれるであろう。            (ルカ福音書 12:37-47

  ケンちゃん。この世界全部は、一つの大きな大きな家です。家の中にいろいろな生き物がいっしょに住んでいます。鳥や動物や魚や小さな色々な虫たち、そして人間も。その一つの大きな大きな家の主人は神さまです。その家に住む生き物たち皆が、神さまのしもべ同士です。そのたくさんの色々な生き物たちのために、主人は、その生き物たちの中から、他の生き物たちのためのお世話係を立てました。お世話係の仕事は、他の生き物たち皆が安心して嬉しく暮らしていけるように心配りをし、お世話をし、ご飯を食べる時間には、三度三度、ちゃんと皆に公平に食べ物を配り、だれも困ったことや都合の悪いことがないようにしてあげることです。そのうち、あるお世話係たちは悪いお世話係になってしまいました。自分たちだけでおいしい食べ物を独りじめし、ほかのしもべたちに意地悪したり、乱暴したり、食べ物をちゃんと配ってあげなかったり。どうして悪いお世話係になってしまったのか? 家の主人がもう帰ってこないだろうと思い込んでしまったからです。「自分たちが主人の代わりにご主人様になって、自分たちだけ飲んだり食べたりし、好き勝手に思いのままにふるまっていいんだ」と思い込んでしまったからです。
 さて37節の中程、「よく言っておく。主人が帯を締めてしもべたちを食卓につかせ、進み寄って給仕をしてくれる」と書いてあります。腰に帯をしめて食事の世話をするのは、しもべの仕事でしたね。家の主人が、自分からしもべになって、それをなさる。しもべたち皆を大切なお客さまとして食卓につかせ、主人である自分はしもべの身支度をして、食事の世話をなさる。なぜ、そんなことを? それくらいに、しもべたち皆を大切に思い、とても愛してくださっている主人だからです。他のどこにもいないほどの、とてもとても珍しい主人。これが、私たちの神さま(*)。この神さまにこそお仕えして、神さまの心をよくよく知らされて、そのしもべとして働かせていただいている私たちです。



     【補足/しもべとなる救い主】
      ()しもべとなって仕えてくださる主人。これが、救い主イエスの心(ルカ12:47です。十字架におかかりになる前の晩、手拭いを腰に巻き、弟子たちの足を洗って、「あなたがたも互いに身を屈めて互いの足を洗い合いなさい。わたしのしたように、あなたがたもしなさい」と弟子たちに命じました。また弟子たちに、「偉くなりたい、かしらになりたいと思うものはしもべとなり、仕える者になりなさい。わたしは仕えるために、多くに人のあがないとして自分の命を与えるために来たのと同じように」(ヨハネ福音書13:1-17,マタイ福音書20:25-28と命じました。他にも、ピリピ手紙2:5-11「(キリストは)おのれをむなしうして僕のかたちをとり、おのれを低くして、十字架の死に至るまで従順であられた」,イザヤ書53:1-12,コリント手紙(1)9:19「わたし(=主の弟子パウロ)は自ら進んですべての人の奴隷になった」。


6/25「小さい者の一人に」マタイ18:2-11

 ◎とりなしの祈り
 主なる神さま。「わたしが憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となれ」と、また「身を屈めて仕えるしもべとなりなさい」と命じられたことを私たちは覚えています。そのように毎日の生活を生きる私たちとならせてください。
 自分たち自身の幸いや満足ばかりではなく、他の人々や隣人たちの幸いを願い求める私たちとならせてください。世界中の紛争地域のどこへでも送り出されて、人を殺したり殺されたりさせられることになってしまった自衛隊員たちと家族の安全と幸いを、私たちにも本気で願い求めさせてください。米軍基地を押し付けられ、ないがしろに扱われ、踏みにじられつづける沖縄の人々の怒りと悲しみを、どうか神さま、私たち自身の怒りと悲しみとさせてください。福島原子力発電所の事故はまだまだ少しも収束していません。そこで暮らす人々や避難している人々や、原子力発電所で働く下請けの下請けの労働者たちに対して、私たちには責任があります。安く働かされ、貧しく暮らす労働者たちと多くの子供たちに対して私たちには責任があります。農業実習生、職業訓練生という名目で安く便利に利用され、搾取されつづけるアジアからの出稼ぎ労働者たちに対して、「してはいけない悪いことを自分たちがしている」と知りながら、この国も地方自治体も、それぞれの農家も雇い主も行いを改めようとせず、責任を負おうとしません。ですからこの私たちには、果たすべき大きな責任があります。憐れみ深い神さまの御心にかなって生きることを、どうか私たちにも願い求めさせてください。なにより、この大きな危機と苦難の時代に、神さまにこそ全幅の信頼を寄せ、よくよく聴き従って生きる私たちとならせてください。
主イエスのお名前によって祈ります。アーメン


                            みことば/2017,6,25(主日礼拝)  117
◎礼拝説教 マタイ福音書 18:2-11                 日本キリスト教会 上田教会
『小さい者の一人に』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
  18:2 すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、3 「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。4 この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。5 また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。6 しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる。7 この世は、罪の誘惑があるから、わざわいである。罪の誘惑は必ず来る。しかし、それをきたらせる人は、わざわいである。8 もしあなたの片手または片足が、罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。両手、両足がそろったままで、永遠の火に投げ込まれるよりは、片手、片足になって命に入る方がよい。9 もしあなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。両眼がそろったままで地獄の火に投げ入れられるよりは、片目になって命に入る方がよい。10 あなたがたは、これらの小さい者のひとりをも軽んじないように、気をつけなさい。あなたがたに言うが、彼らの御使たちは天にあって、天にいますわたしの父のみ顔をいつも仰いでいるのである。 (マタイ福音書 18:2-10)
                                             


  3-4節、「よく聞きなさい。心を入れかえて幼子のようにならなければ、幼子のように自分を低くするのでなければ、天国に入ることはできない」。つまり、「身を低くかがめ、心も低く屈めて神の憐れみを受けるのでなければ、主イエスの弟子になることも神の国に入れていただくこともできない」と主イエスは仰る。しかも、すでに主イエスの弟子とされているはずの者たちに向かって。この私たちはこのままでは、主イエスの弟子になれないかも知れないし、神の国に入り損ねてしまうかも知れないと。恐ろしいことが語られています。幼子のような低さとは、弱く小さく無力であり、無防備であり、それゆえもし、支えも助けもなくただ独りで放り出されるなら生き延びてゆくこともできない。だからこそ神からの助けと支えを願い求め、確信し、神に信頼を寄せ、一途に聴き従う。これこそが、主イエスの弟子であることの根本的な性質でありつづけます。そうであるからこそ、自分自身の力や知恵や働きなどを誇り、「大きくて強くて仕事がよくできてとても役に立って、だから」と人間的な業績、取り柄や働きの多い少ないにばかり心を奪われつづける代わりに、そうではなく、ただただ神の憐れみをこそ願い求めて、受け取ることもできるのです。
  まず、一つのことを確認しておく必要があります。6節「わたしを信ずるこれらの小さい者をつまずかせる者は」。主イエスを信じているという条件が、ここでは付けられています。他のときには、主イエスを信じているかどうかなど一切問うことなしに、「これらの最も小さい者の一人にしてくれたのはわたしにしてくれたことであり、してくれなかったのはわたしにしてくれなかったことである」(マタイ25:40と。誰が主イエスの友であり兄弟であるのかをはっきりと見分けることは私たちにはできません。しかも神は、ご自分が造ったこの世界とすべての生き物の生命を愛したのであり、ご自分に逆らい背を向け続ける罪人や悪人をさえ愛して止まない神であるからです。「わたしは悪人の死を好むであろうか。むしろ彼がそのおこないを離れて生きることを好んでいるではないか。・・・・・・あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」(創世記1:31,ヨハネ福音書3:16,ローマ手紙5:6-11,エゼキエル書18:23-32。このことを、私たちは決して忘れてはなりません。
  そのことをよくよく胸に収めた上で、主イエスを信じて生きることをしはじめた小さな、身を低く屈めた弟子たちを助け、支え、その世話をするようにと命じられています。5節、「また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである」。主イエスは途中から言葉を使い分けています。「身を低く屈めた幼子」を「主を信じる小さな者の一人」と。また、「罪を犯させる」を「つまずかせる」と。仰ろうとする意味は同じです。6-7節、「しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる。この世は、罪の誘惑があるから、わざわいである。罪の誘惑は必ず来る。しかし、それをきたらせる人は、わざわいである」。「罪を犯す」ことと「つまずく」こと。言葉を言い換えたことには良い意味がありました。罪を犯さない者は一人もいません。むしろ、『神を信じて生きてゆく』という長い道のりが、ここで見据えられています。うっかりして無分別な悪いことを軽はずみにしでかしてしまうことは、誰にでもあり得ます。けれどその度毎に、悔い改め、神へと立ち帰り立ち帰りしつづけ、神の憐れみとゆるしをうけることができるなら、それならば、その人は幸いです。神の憐れみのもとに生きるはずの一人の人の心を惑わせ、その歩んでゆく道を迷わせ、神から離れ去らせてしまうならば、その責任はあまりに重大です。償うことも取り戻すこともできないほどに。「この世は、罪の誘惑がある。罪の誘惑は必ず来る。しかし、それをきたらせる人は、わざわいである」。そのとおり。だから8節以下、「もしあなたの片手または片足が、罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。両手、両足がそろったままで、永遠の火に投げ込まれるよりは、片手、片足になって命に入る方がよい。もしあなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。両眼がそろったままで地獄の火に投げ入れられるよりは、片目になって命に入る方がよい。あなたがたは、これらの小さい者のひとりをも軽んじないように、気をつけなさい。あなたがたに言うが、彼らの御使たちは天にあって、天にいますわたしの父のみ顔をいつも仰いでいるのである」。
  主イエスは、ご自身を信じる弟子たち同士の互いの付き合い方について警告しつづけています。「これらの小さい者のひとりをも軽んじないように、気をつけなさい」と。「小さな一人の者」とは、ここでは、無力な小さな幼子のように身を低く屈めている主の弟子たちです。それでマタイ福音書18章とともに、コリント手紙(1)4:6-8をご一緒に読みました。「兄弟たちよ。これらのことをわたし自身とアポロとに当てはめて言って聞かせたが、それはあなたがたが、わたしたちを例にとって、『しるされている定めを越えない』ことを学び、ひとりの人をあがめ、ほかの人を見さげて高ぶることのないためである。いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。あなたがたは、すでに満腹しているのだ。すでに富み栄えているのだ。わたしたちを差しおいて、王になっているのだ。ああ、王になっていてくれたらと思う。そうであったなら、わたしたちも、あなたがたと共に王になれたであろう」。痛いところを突かれました。ひとりの優れた大きく賢そうに見える人をあがめ、ほかの人を見さげて高ぶることのないため。これが世の中の人々のほとんど全部と私たちが普段いつもの暮らしの中でお互いにいつもやっていることです。何人かの人々がいる。その中の誰かを「たいしたものだ。立派だ、すばらしい」などと誉めたり、あがめたり、尊敬したり見上げたりする。その一方で、そうでもないように見える他の誰かを「たいしたことないなあ。つまらない人だ」と見下したり、侮ったり軽んじたりしている。そうしながら、周囲の人々に対しても神に対しても侮り、高ぶっている。コリント教会で起きていたことは、私たちの間でもたびたび有りつづけています。やがて同じ手紙の中で、主の弟子はこう語りかけます。「神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか」(コリント手紙(1)11:22。主に仕えて生きている一人の小さな者を軽んじ、辱め、侮るとき、それは直ちに、主イエスご自身と神の教会を軽んじ、辱め、侮っているではないかと。
  身を低くかがめ、心も低く屈めて神の憐れみを受けること。神を信じて生きはじめる前には、私たちは自分自身の努力と甲斐性で自分の立場を獲得し、それを強く大きく高くしていこうとあくせくし続けていました。今では、その代わりに、天の国の贈り物として生命を受け取りはじめました。神に願い求め、神から受け取り、神にこそ感謝をしながら。するといつの間にか、大きいとか小さいとか賢いとか愚かだとか役に立つとかそうでもないとか、偉いとか偉くないなどと得意になったりいじけて僻んだりする虚しさをようやく手離しはじめていました。受け取った恵みの大きさに比べて私たち自身は小さい。受け取った恵みの豊かさに比べて、私たちは貧しい。恵みの賢さ、力強さに比べて、私たちはあまりに愚かであり、弱々しく、その恵みにまったく値しない者たちであると。値しないにもかかわらず、それなのに受け取った。だから、ただただ恵みなのだと。

  身を低くかがめ、心も低く屈めて神の憐れみを受けること。神を信じて生きはじめる前には、「他人よりも偉くありたい。もっと賢く強く大きく立派な人間だと思われたい」と渇望して、周囲の人々と虚しい競争をしつづけていました。今では、その代わりに、兄弟や家族や連れ合いや友人たち、隣人たちに身を屈めて仕える者とされはじめました。その人々の益となり、互いの徳を高めるために。神さま御国の御用のためにこんな私をさえぜひ用いていただきたいと願いながら。「どちらが偉いだろう。誰がいちばん大きく賢くて役に立つだろう」と目の色を変えて競争し合い、他人よりも自分を高くあげようとして、その生臭い魂胆は、私たちの互いの結びつきやつながりを粗末で貧しいものにしつづけました。身を屈め、自分を低くし、幼子のようになるのでなければ誰も決して天国に入ることはできないと、救い主イエスご自身からキッパリと宣言されています。しかも主イエスこそが、わが子を愛して止まない親の心を覚えている『幸いな幼な子である』ことの手本を、それがいったいどういうことであるのかを、私たちに見せ、差し出してくださいました。十字架にかかる前の晩、ゲッセマネの園で。「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」と。その幸いな幼な子の心をこの私たちも贈り与えられ、子である身分と中身を受けました。聖霊なる神を受け、その御霊に導かれつづけて。聖書は証言します;「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる」(マルコ14:36,ローマ8:14-16と。神の国に入り、そこで幸いに暮らすために授けられた幼な子の身分と中身はこれです。そのようにしてだけ天国に入れていただけるので、私たちは同じように、小さな一人の者たち同士として、互いに守り、支え、養い合う者たちとされました。ずいぶん昔、国を滅ぼされて遠い外国に捕虜として連れて行かれた人々が何十年も経ってようやくエルサレムの都に戻ってきました。神殿も町も打ち壊されてガレキの山です。その廃墟の中の何もない広場で、神の民はずいぶん久しぶりに礼拝をささげました。ともに祈り歌い、聖書朗読とその説き明かしを聴きました。「この日はあなたがたの神、主の聖なる日です。嘆いたり、泣いたりしてはならない。あなたがたは去って、肥えたものを食べ、甘いものを飲みなさい。その備えのないものには分けてやりなさい。この日はわれわれの主の聖なる日です。憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です」(ネヘミヤ記8:9-10。すべての民は去って自分たちの村に帰り、告げられたとおりに飲み食いし、食べ物の備えのない者たちには分け与えて、大いに喜びました。「これは読み聞かされた言葉を、彼らが理解し、悟ったからである」と記されています。備えのまるで全然なかった私たちが、にもかかわらず肥えた良い肉と格別な甘い飲み物に預かっている。受け取って、それを味わっている。備えのまるで全然ない、ちっとも弁えない誰かに分け与えてあげるとき、「こんな私がいただいていいんですか。本当ですか。ありがとう。嬉しい」と、その驚いたような恐縮したような、恥ずかしそうな嬉しそうな顔に見覚えがあります。それは、ほんの少し前の私たち自身の驚きであり、喜びの顔だったのです。思い起こしました。「あなたがたは去って、肥えたものを食べ、甘いものを飲みなさい。その備えのないものには分けてやりなさい。この日はわれわれの主の聖なる日です。憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です」。主を喜び祝うことの中身は、主への感謝です。感謝は、主が惜しみなく分け与えてくださる方であることへと深い認識であり、信頼です。あなたも私自身も今まで、何か他のことを喜び祝っていました。自分自身の長所や短所をこね回して、それで喜んだり悲しんだりしていました。自分のまわりにいる他の誰彼の良い働きや悪い行いに一喜一憂し、泣いたり笑ったり、苛立ったりホッとしたり気を揉んだり。周囲の人々や私自身のいたらなさや貧しさや不足を嘆き悲しみ、そこに閉じ込められて上がったり下がったりしていた私たちが、けれどこれからは主の豊かさ、主の慈しみ深さへと思いを向け返される。主にこそ期待し、主に信頼し、主に願い求めて生きることをしはじめる。それを、この日から、ここから、改めてしはじめましょう。ずいぶん手間取り、あっちこっちで道草を食ってしまいましたが、それでもまだ遅すぎることはありません。まだ間に合います。人々はついに、語られた言葉をはっきりと理解しました。何を、どんなふうにして理解したのでしょう。「すべての民は去って自分たちの村に帰り、告げられたとおりに飲み食いし、食べ物の備えのない者たちには分け与えて、大いに喜びました。「これは彼らが読み聞かされた言葉を、彼らが理解し、悟ったからである」。はっきりと理解し、腹にすえたからです。帰ってゆくべき所に帰ったこと。食べたり飲んだりしたこと。備えのない者と分かち合ったこと。大いに喜び祝ったこと。それらの全体が、聞いて理解したことの中身であり、実態です。恵みによって与えられた豊かなものの一つ一つをもって、あなたは、主を喜び祝いなさい。それこそ、私たちにとっての力と喜びの源です。力と喜びそのものです。

2017年6月20日火曜日

6/18こども説教「宝のあるところに心もある」ルカ12:33-34

 6/18 こども説教 ルカ12:33-34
 『宝のあるところに心もある』

12:33 自分の持ち物を売って、施しなさい。自分のために古びることのない財布をつくり、盗人も近寄らず、虫も食い破らない天に、尽きることのない宝をたくわえなさい。34 あなたがたの宝のある所には、心もあるからである。     (ルカ福音書 12:33-34

 このまえ買ってもらった素敵なロボットのおもちゃとか、おもちゃの小さな自動車とか小さなトラックとか小さな赤い消防自動車とか、お気に入りの本とかゲームとか。「これがあるから私は幸せだ。もし壊れたり無くしてしまったらとてもガッカリだ」と思う大事な大事な宝物を誰でも持っています。「自分のその大事な大事な宝物のあるところに、自分の心もある。自分の心も、それにくっついている」と主イエスが言いました。その通りですね。いろんな種類の宝物があります。例えば、「勉強がよくできて賢くて、仕事もよくできて、なんでもよく分かっていて、それで皆から誉められたり、頼りにされたりしている」という宝物がります。「体が上部で健康で、足腰しっかりしていて元気で、だから私は幸せで安心だ」という宝物もあります。「若くて、美人で、かっこよくて、髪の毛フサフサで」という宝物もあります。「銀行にたくさんお金を貯金してあるので、だから私は幸せで安心だ」という宝物もあります。さて、たいていの宝物はあまり長持ちしません。ガシャーンと落として、壊れちゃったり。泥棒に盗まれたり、悪い友だちが勝手に持っていっちゃったり。「健康で元気で若くて丈夫で、だから安心だ。幸せだ」と思っていたら、あっという間に年をとって足腰弱って、目も耳も衰え、物忘れもひどくなって、あまり仕事もできなくなって、それで淋しくなったり心細くてガッカリしている人たちもいます。
困りましたね。だから、ガシャーンと落として壊れちゃったり、泥棒に盗まれたり、虫に食べられたりしない、古くなったり破れたりしない財布に自分の宝物と自分の心を入れて、それを神さまのところに蓄えておきなさい。ああ、それなら安心だ。それなら何があっても、どんなときにも、ず~っと幸せだ。


【補足/とても良い格別な宝】
天に積んだ宝は、この地上に私たちの只中にも積み上げられてゆきます。ただ貯め込んで密かに積み上げられるだけじゃなくて、その宝や財産は生きて働きます。使徒行伝3:1-が、その実例。主イエスの弟子たちが神殿に上っていきました。すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれてきて、神殿の門のそばに置かれていました。「さあ、私たちを見なさい。この私を、よくよく見なさい。私には金や銀はない。格別に頭がよいわけでもなく、仕事がよくできるわけでもなく、自慢できるような何かを持っているわけでもない。が実は、飛びっきりの格別な宝を一つを持っている。それをあげよう。ナザレの人イエスの名によって立ち上がり、歩きなさい。だって何しろ、この私も、そうやって立ち上がり、歩きはじめた。イエスの名によってこそ、心強く晴れ晴れとして、毎日毎日、歩きつづけている。それはとてもとても心強い。それは、すご~く晴れ晴れしている。もし良かったら、あなたもどうぞ」と。


6/18「誰がいちばん偉いか病」マタイ18:1-5

                            みことば/2017,6,18(主日礼拝)  116
◎礼拝説教 マタイ福音書 18:1-5                        日本キリスト教会 上田教会
『誰がいちばん偉いか病』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

18:1 そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。2 すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、3 「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。4 この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。5 また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。  (マタイ福音書 18:1-5)
                                               

 
「天国では」と弟子たちが問いかけています。天国、あるいは神の国とも言います。神が王さまとして力を発揮し、そこに住む者たち皆が安心して嬉しく暮らしていけるようによくよく心を配って、ちゃんと働いて治めておられる領域であり、領土です。救い主イエスがお働きをはじめたとき、「時は満ちた、神の国は近づいた」と仰り、また弟子たちに「神の国はあなたがたの只中にある」(マルコ1:15,ルカ11:20,17:21と宣言なさったのはこのことです。天と地のすべて一切の権威を御父から委ねられた王の中の王として、救い主がこの地上に降りて来られ、力を発揮し、働きはじめた。だから神の国は近づき、すでに私たちの只中にある。するとすでに、世界中のあらゆる場所が天国であり、神の国であるはずです。それでもなお、3節で告げられたとおり、天国(=神の国)に入ることがゆるされる者と、入り損なってしまう者がある。どういうことでしょう? それは、聖晩餐のパンと杯の秘密とよく似ています。神を信じる目と心でなければ、パンと杯を『主イエスの体と血』として受け取ることも味わうこともできない。同じように、神が私たちの只中ですでに力を十分に発揮し、世界中を治めておられるとしてもなお、その働きを知ることも触れて確かめることも、恵みと平和をそこから受け取って喜びと感謝にあふれることも、神を信じる目と心でなければ誰にも出来ません。ここも、またどこもかしこもすでに天国だとしてもなお、そこに入り損ねつづける者たちもいるのです。
  さて、「誰が一番偉いだろう。素晴らしい立派だと人から誉められたい。皆から認められたい。賢く立派な大きな私になりたい」。それがこの世の多くの人々が望んだことでした。あなたにとっても、やっぱりそれが望みでしょうか? どうでしょう。私たちは洗礼を受け、キリスト者とされました。それはとても幸いなことでした。神の子供たちの一人とされ、一回一回の礼拝に連なることをゆるされ、祈ることを教えられ、聖書の言葉に聞き従って生きることができ、信仰の兄弟姉妹たちを贈り与えられ、様々な恵みの手段をもって養われ、生かされてきました。「すべての人々の中で最も祝福されたものたちの中の一人だ、もちろんこの私もそうだ」と私たちはかみしめることが出来ます。けれどここで改めて、主イエスご自身から問われています。「ところで、あなたは心を入れ替えて子供のようになったのか? 自分を低くすることを、ついに習い覚えたのか」(3-4節,ピリピ2:3-5,ローマ12:10)と。『だれが一番えらいか病症候群』。聖書の中にも外にも、この上田界隈にも佐久や小諸や丸子、真田町や長野市あたりにも、この病気にかかった人々は大勢います(創世記4:1-16,4:19-24,9:18-28,11:1-9,12:10-,20:1-,26:1-,37:1-11,出エジプト3:11-4:13,32:1-6,列王記上12:25-33,マタイ福音書20:1-16,ルカ福音書10:38-,15:25-32,マルコ9:30-,コリント(1)1:11-13, 26-31, 3:3-9, 4:6-。例えば、白雪姫の義理の母親のことをご存知でしょうか。そうそう、この病気にかかった人は誰でも不思議な鏡を持っています。もちろん、そのお妃も鏡を持っていました。で、鏡の前に立って、そこに写る自分の姿を眺めながら、こう質問します。この病気にかかった人たちが誰でも尋ねてみるように、です。「壁にかかった鏡や鏡。国一番の美人は誰じゃ?」。「ああ、お妃さま。あなたこそ国一番のご器量よし」。朝も昼も晩も、お妃は鏡に問いかけ、ぜひ聞きたかった答えを聞いて満足します。けれどついに、鏡は聞きたくなかった答えを言い始めます。「お妃さま、実は。まことに申し上げにくいことなんですけれども、……それより白雪姫は千倍も万倍も美しい」。これを聞いたお妃はたいへん驚き、妬ましさのあまり、黄色くなったり青くなったりしました。それからというもの、おきさきは白雪姫を見るたびに、憎らしくて憎らしくて、はらわたが煮えくり返るような気がしました。そして、この妬ましさや悔しさは、雑草がはびこるように心の中で伸び広がり、お妃は、昼も夜も、心の休まる時がなくなりました(「子どもに語るグリムの昔話2」こぐま社)例の病気にかかったお妃は、間違った治療法を選んでしまいました。たとえ白雪姫を毒殺し、うまく葬り去っても、やがてきっと第二第三の白雪姫たちが現れることでしょう。それどころか、もっともっと美しく器量のよい眩いばかりの人々が100200人と、誇らしげに大挙してやってくる日が来ます。しかもあの彼女もこの私たちも年を取って、誰でもおじいさんおばあさんになります。得意なことや自慢に思っていたことが一つ、また一つと出来なくなります。誰かに何かをしてあげることよりも、してもらうことの方がだんだんと多くなります。聖書は、一つの治療法を提案しつづけます。《神の憐みを受け取る。そして喜び、感謝する》という提案です。神さまがどんなに気前の良い神さまであり、あの救い主が私たちのために何を成し遂げてくださったのかを、思い起こすことです。兄弟たち。自分が神さまの恵みのもとへと招かれたときのことを思い起こしてみなさい。それから、どんなに慈しみ深い御計らいを受け取りつづけてきたのかを。
 「へりくだった心をもって互に人を自分より優れた者としなさい」(ローマ12:10, ピリピ2:3)と聖書は私たちを戒めます。一方が他方を尊敬し、重んじ、ということではなく。互いに相手を、あの人もこの人も互いに相手を。つまりは誰に対しても自分よりも優れた者とみなし、そのように扱えと。兄弟たち。一人の子供の手を取って、私たちの真ん中に立たせ、主イエスは仰いました。「だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そして、わたしを受けいれる者は、わたしを受けいれるのではなく、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである」(マルコ9:37)。そして勿論、知恵や賢さの少ない小さな一人の人を主イエスの名のために受け入れる者は。無学で無力で無に等しいと思われている一人の者を、なお主イエスの名のために受け入れる者は。身分の卑しい者や見下げられている者を、けれどなお主イエスの名のために受け入れる者は。なるほど。他者をこのように尊び、このように受け入れる人は、それだけではなく、貧しく小さな自分自身をもそのように受け入れる者とされるでしょう。たとえ私たちに知恵や賢さが少ないとしても。たとえ私たちが他の誰彼から「無学で無力で、無に等しい。つまらない」と思われるときにも。たとえ私たちが「貧しい。いたらない。当てにならない」などと見下げられるときにも、「主イエスがこんな私をさえ受け入れ、迎え入れてくださっている」と思い返し、そこで心を鎮め、晴れ晴れとして胸を張るならば。そのとき、ついに主の恵みは私たちのために十分となります(コリント(2)12:9)。その時ついに、「誇る者は主を誇れ」と書いてあることが私たちの只中に実現しています。

            ◇

  兄弟たち。神が人となられました。しかも、理想的で上等な人間にではなく、生身の、ごく普通の人間にです。あがめられ、もてはやされる、ご立派な偉い人間にではなく、軽蔑され、見捨てられ、身をかがめる低く小さな人間に(ピリピ手紙2:5-11,ヘブル手紙2:17-18,4:15-16。それは、とんでもないことです。あるはずのない、あってはならないはずのことが起りました。私たちの主、救い主イエス・キリストは固執なさらなかったのです。自分で自分を無になさったのです。無にされたのではなく、自分から進んで「ぜひそうしたい」と、しもべの身分を選び取ってくださいました。無理矢理に嫌々渋々されたのではなく、「はい。喜んで」と自分で自分の身を屈めました。しかも徹底して身を屈めつくし、十字架の死に至るまで、御父への従順を貫き通してくださいました。なぜ神の独り子は、その低さと貧しさを自ら選び取ってくださったのか。何のために、人間であることの弱さと惨めさを味わいつくしてくださったのでしょう。ここにいる私たちは、知らされています。よくよく知らされています。兄弟たち。それは、「罪人を救うため」(テモテ(1)1:15)でした。善良な人や高潔で清らかな人々を救うことなら簡単でした。罪人を救うとしても、ほどほどの罪人やそこそこの罪人を救うことなら、まだたやすいことでした。けれども、極めつけの罪人をさえ救う必要があったのです。罪人の中の罪人を、その飛びっきりの頭であり最たる極悪人をさえ、ぜひとも救い出したいと神は願ったのです。極めつけの罪人。それがこの私であり、あなたです。
  子供たちは、必ずしも素直だとか純粋で無垢だというわけではありません。それは、弱く小さく、とても危うい存在です。わが身を守る手立てもなく、もし独りぼっちで捨て置かれるならば、すぐにも死んでしまうほかない、はかなく脆い生命です。そうか、それならば小さな子供ばかりではなく私たち大人も一緒です。おじいさんやおばあさんも皆同じです。それぞれに弱さと危うさを抱えて生きていたのでした。背伸びをしてみせても空威張りをして虚勢を張っても、それでも、誰でも本当はとても心細いのです。自分を守ってくれるものを必要とし、しっかりした支えを必要としています。だからこそ愛情と慈しみをたっぷりと注がれ、心強く支えられて、そこでようやくすくすくと育っていくはずの生命です。
 神の国とは、神さまご自身の憐れみと恵みの王国です。もし、その国に入り、そこで幸いに暮らしたいと願うなら、その者たちは自分自身の力や才覚や賢さを頼りとし、それらを誇ろうとすることを止めて、身勝手さを手放さねばなりません。身を低く屈め、神の憐れみを受けて御国に入れていただくことを願い求めねばなりません。「幼な子のようにならなければ天国に入ることはできない」;するとそれは、ただ小さくて無力で弱くて危うい存在であるだけではなく、精一杯に十分に愛情を注がれ受け取り、養い育てられてきた、そのことを覚えている幼な子である必要があります。ほどほどの力や才覚や賢さなどよりも、注がれ受け取ってきた愛情こそが千倍も万倍も私の宝物だと。そうでなければ、物寂しいその幼な子は臆病で生ズルくて僻みっぽくてイジケた、ただただ生臭いことばかりを思い煩いつづける幼子でありつづけてしまうかも知れないからです。「幼な子のようにならなければ天国に入ることはできない」、その最も大きな秘密は、注がれつづけ受け取ってきた愛情をよく覚えている幼な子です。わが子を愛して止まない親の心を覚えている幼な子です。それならば、たとえ708090歳になった後でさえ、『幸いな幼な子である自分』をついにとうとう思い出して、晴れ晴れワクワクしながら、天国に入れていただくことができるかもしれません。しかも、それが主イエスの弟子であることの中心的な中身でありつづけます。なぜなら主イエスの弟子たちよ。自分自身の罪深さをゆるしていただいて神の国に入るには、ただただ神の憐れみによる他なかったからです(ローマ手紙3:21-27参照)。救い主イエス・キリスト。ほかの誰によっても、救いはない。私たちを救うことができる名は、天下に、この名のほか人間には与えられていない(使徒4:12)。そして、このお独りの方、救い主イエスがちゃんと与えられております。もちろんこの私にも、あなたにも。主なる神さまを心から愛し、敬い、尊ぶこと。これこそ最も重要な第一の掟です。第二の掟は、隣人を自分自身のように愛し、尊ぶこと(マタイ22:34-参照)。なにしろ第一の掟。その後で、それに続いて、第二の掟。この優先順位こそ大事です。けれどその区別や順序がいつの間にか紛れて、あやふやにされました。「主よ主よ」と口では言いながら、主ではない他様々なモノを取っかえ引っ変え主人としている私たちです。信仰も何もかも、あまりに人間中心なものにスリ替えられていきました。心が鈍くなると、その証拠に、「誰が一番偉いだろうか。二番目は、三番目は。だれが一番働きが少なくて、役立たずだろうか。二番目は、三番目は」と眺め渡したくなります。神さまのことを忘れ、神さまこそが一番偉くて、よくよく働いてくださることも、分からなくなったからです。心細くなったり、惨めな恐ろしい気持ちになるときも同じです。思い煩うあまりにすっかり心が鈍くされてしまいました。天に主人がおられることをすっかり忘れ、多分、ほとんどもう信じてさえいない。それなら心細いのも惨めなのも恐ろしくて仕方がないもの当たり前です。目を覚ましましょう。心淋しい兄弟たち。よくよく知るべきことは、神ご自身が身を低く屈めてくださったことです。救い主イエスこそが自分に固執しようとなさらず、低く下り、かえって自分を無にし、しもべの身分をとり、十字架の死に至るまで天の御父への従順を貫きとおしてくださった(ピリピ手紙2:6-)ことを。そのへりくだりの神こそが私たちの唯一の主人であることを。

 私たちの救い主は、「仕えられるためではなく、仕えるために、また多くの人のあがないとして自分の命を与えるために」(マタイ福音書20:28)来てくださったのです。聖書66巻は「仕えなさい」「身を低く屈めて、へりくだりなさい」「慎みなさい」と戒めつづけてきただけではありません。何よりまず私たちがよくよく知るべきことは、神ご自身が身を低く屈めてくださったことです。救い主こそが自分に固執しようとなさらず、低く下り、かえって自分を無にし、しもべの身分をとり、十字架の死に至るまでご自分を献げてくださった(ピリピ手紙2:6-)ことを。あなたや私を、この『だれが一番えらいか』病から救い出して、ついにとうとう自由にするために。いったいなぜ《後ろの、下っ端の、仕えるしもべの場所》に身を置きなさいと命じられるのか? いったいなぜ、自分を賢いとか、案外に物の道理が分かっているとか、優れているなどとうぬぼれてはならないと戒められるのか。なぜ、低い場所と、へりくだった低い心へと誘われつづけるのか。へりくだってくださった、低い心の神さまを信じているからです。柔和で謙遜な救い主とすでに出会っているからです(マタイ福音書11:25-30)。そこが、福音を福音として受け止め、慈しみの神と出会うための、いつもの待ち合わせ場所だからです。

2017年6月12日月曜日

6/11こども説教「御国をくださる心」ルカ12:22-32

 6/11 こども説教 ルカ12:22-32
 『御国をくださる心』

12:22 それから弟子たちに言われた、「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようかと、命のことで思いわずらい、何を着ようかとからだのことで思いわずらうな。23 命は食物にまさり、からだは着物にまさっている。24 からすのことを考えて見よ。まくことも、刈ることもせず、また、納屋もなく倉もない。それだのに、神は彼らを養っていて下さる。あなたがたは鳥よりも、はるかにすぐれているではないか。・・・・・・あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要であることを、ご存じである。31 ただ、御国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられるであろう。32 恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。      (ルカ福音書 12:22-32

 3週間前(こども説教『スズメ一羽、草一本と同じに』ルカ12:4-72017,5,21に話したばかりですが、また同じことをおさらいします。24節と28節は、勘違いしやすいことをわざと言っています。「カラスやスズメよりも、あなたがたははるかに優れているじゃないか。だから、鳥よりももっともっと大切に養って、もっと親切に世話してくださる。道端の草花よりも、あなたがたははるかに高級で上等で、値打ちがある。だから草花の何倍も良くしてくださる」と言っているかのように聞こえます。でも、もし仮にそうだとしたら、私たち人間のいつもの物の考え方とすっかり同じですね。まるで、エリート社員を採用しようとしている大手大企業の人事担当者みたいで、あまりにケチくさくて安っぽい。聖書からよくよく習い覚えてきたはずの、心優しい、気前の良い神さまの心と、まるで正反対(創世記8:21,マタイ福音書20:1-16「わたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか」,ローマ手紙3:21-27「価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって~」,5:5-10,テモテ手紙(1)1:15「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世にきてくださった」,ペテロ手紙(1)2:10「あわれみを受けた」)『優れているか、値打ちがあるか、役に立つかどうか』と、神さまの恵みも救いも何の関係もありません。分かりますか? ここが分からないと、すっかり全部が分からなくなってしまいます。
  さて生きてゆくのはとても大変で、もし、神さまがちゃんと養い、支え、守りつづけてくださると信じられなければ、心細くて心細くて仕方がありません。神さまご自身のお働きと愛情深いまごころとを、よくよく信じることができるといいですね。天の父なる神さまは、私たちすべての生き物のことをとても大切に愛して、守ってくださいます。子供を愛して止まない親の心で。大事なことは31-32節で、「ただただ御国を求めなさい」「御国をくださることが天の父の御心だ」と教えられています。神さまが王さまとして働いておられる場所で、神さまに信頼し、聞き従って、安心して嬉しく暮らしていくことができる。それを信じ、願い求めなさい。必ずきっと、そうしてくださる。





6/11「彼らをつまずかせないために」マタイ17:24-27,コリントⅠ6:12-20

みことば/2017,6,11(主日礼拝)   日本キリスト教会 上田教会   115
◎礼拝説教 マタイ福音書 17:24-27,コリント手紙(1) 6:12-20  
『彼らをつまずかせないために』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
17:24 彼らがカペナウムにきたとき、宮の納入金を集める人たちがペテロのところにきて言った、「あなたがたの先生は宮の納入金を納めないのか」。25 ペテロは「納めておられます」と言った。そして彼が家にはいると、イエスから先に話しかけて言われた、「シモン、あなたはどう思うか。この世の王たちは税や貢をだれから取るのか。自分の子からか、それとも、ほかの人たちからか」。26 ペテロが「ほかの人たちからです」と答えると、イエスは言われた、「それでは、子は納めなくてもよいわけである。27 しかし、彼らをつまずかせないために、海に行って、つり針をたれなさい。そして最初につれた魚をとって、その口をあけると、銀貨一枚が見つかるであろう。それをとり出して、わたしとあなたのために納めなさい」。    (マタイ福音書 13:24-30,36-43)
                                               
6:12 すべてのことは、わたしに許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは、わたしに許されている。しかし、わたしは何ものにも支配されることはない。13 食物は腹のため、腹は食物のためである。しかし神は、それもこれも滅ぼすであろう。からだは不品行のためではなく、主のためであり、主はからだのためである。14 そして、神は主をよみがえらせたが、その力で、わたしたちをもよみがえらせて下さるであろう。15 あなたがたは自分のからだがキリストの肢体であることを、知らないのか。それだのに、キリストの肢体を取って遊女の肢体としてよいのか。断じていけない。16 それとも、遊女につく者はそれと一つのからだになることを、知らないのか。「ふたりの者は一体となるべきである」とあるからである。17 しかし主につく者は、主と一つの霊になるのである。18 不品行を避けなさい。人の犯すすべての罪は、からだの外にある。しかし不品行をする者は、自分のからだに対して罪を犯すのである。19 あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。20 あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。        (コリント手紙(1) 6:12-20)



  24-26節、そして27節。二つの、互いに相反するかのように見える道理が並べて語られています。まず24-26節。救い主イエスのがどういうお方なのか、そのご本質について。神殿の納入金を救い主イエスは収める義務はない、とご自身が主張しています。なぜなら、神殿は父なる神の家であり、神ご自身の所有物であり、だから天の御父の独り子である救い主イエスには、納入金を収める義務はない。そのとおり。
  次に27節。「納入金を収める義務はまったくないけれど、収める」と救い主イエスは仰います。税金を集める人たちが困るだろうし、弟子たちも「師匠が収めないなら、その弟子である私たちももちろん収めなくていいはずだ」などと勘違いしてしまうかもしれません。「住民税も固定資産税も消費税も電気代水道代も何もかも払わない、クリスチャンは何者にも膝を屈めない自由な存在なのだから」などと乱暴な屁理屈を振り回すようになるかもしれません。それでは多くの者たちが福音と救いの中身をすっかり誤解してしまうかも知れないからです。税金を集める者たちと、主イエスの弟子たち皆のために、主イエスは「収める義務も責任も自分にはまったくないが、収めよう」と。今日は、クリスチャンの自由について考え巡らせましょう――

  救い主イエスが十字架について殺され、葬られ、よみがえったことは、私たちの信仰と毎日毎日の生活とにどんな良いことや祝福や恵みをもたらすのでしょう。神殿での祭儀儀式と犠牲の献げものは、救い主イエスご自身が十字架の上で我が身を献げたことによってすっかり完全に成し遂げられ、それによって主イエスの弟子である私たちは罪の奴隷状態から解放されました。主イエスがご自身の犠牲の死によって私たちの罪の代価を私たちの代わりに支払ってくださった。それはいったいどういうことだったのか、なんのためだったのか。そのようにして罪の奴隷状態から神の恵みのもとへと買い戻していただいた私たちは、では、どう生きることができるのか。そのことを、私たちはすっかり知らされてしまいました。
  びっくり仰天です。「自分がしたいことをし、したくないことをしない、思いのままに好き勝手に生きてゆく、それが自由だ」と思い込んでいました。もちろん、それも自由です。けれど、つまらない自由ですし、自分自身をも他の誰をも幸せにしてくれない虚しい自由です。むしろそれは、死と滅びへと向かう、罪に縛り付けられた、ただただ惨めなだけの奴隷状態でした。自分中心の、神の御心に逆らいつづける、罪の奴隷でした。けれど、それは虚しいだけだと教えられ、その奴隷状態から自由にしてくださるために主イエスは死んでよみがってくださったのだと知らされました。聖書は証言します;「それでは、どうなのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない。あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。しかし、神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教の基準に心から服従して、罪から解放され、義の僕となった」(ローマ手紙 6:15-18と。正しいことや良いことを、他の人々のために有益なことを、他の人々を助けたり支えたりすることを、ほんの少し前までは、私たちはすることができませんでした。けれど今は、できるのです。神さまが、こんな私たちにも、良いことや正しいことをさせてくださるからです。
  キリスト教会の中にもクリスチャンの中にも、「自由だ。自由だ。何をしてもいいし、何もしなくてもいい。思いのままに自由気ままに生きてゆくし、自分こそが自分のご主人さまなのだから」と言い張る者たちがありつづけます。これまでもそうでした。これからもそうでしょう。それで、コリント手紙(1)6:12-20をご一緒に読みました。この12節、「すべてのことは、わたしに許されている。すべてのことは、わたしに許されている」。実際に、当時のコリント教会に、そういうことを言い張りつづける人々がいて、兄弟たちを惑わしつづけていました。その無責任で不届きな、ただただわがまま勝手なだけの人々の口ぶりを思い起こしながら、主の弟子は、その不届き者たちとの語り合いを自分の頭の中で再現してみせています。「そうだろうか。いいや、違うんじゃないか」と。
「すべてのことは、わたしに許されている」と不届き者たちは言い張ります。
「しかし、すべてのことが益になるわけではない」と、主の弟子は反論します。
「すべてのことは、わたしに許されている」また、不届き者たちは言い張りつづけます。主の弟子はなお反論します、
「しかし、わたしは何ものにも支配されることはない。食物は腹のため、腹は食物のためである。しかし神は、それもこれも滅ぼすであろう。からだは不品行のためではなく、主のためであり、主はからだのためである。そして、神は主をよみがえらせたが、その力で、わたしたちをもよみがえらせて下さるであろう。あなたがたは自分のからだがキリストの肢体であることを、知らないのか。それだのに、キリストの肢体を取って遊女の肢体としてよいのか。断じていけない」と。
 同じコリント手紙(1)10:23-24でも、まったく同じです。「すべてのことは許されている」と不届き者たちは言い張ります。
「しかし、すべてのことが益になるわけではない」と、主の弟子は反論します。
「すべてのことは許されている」また、不届き者たちは言い張りつづけます。主の弟子はなお反論します、
「しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない。だれでも、自分の益を求めないで、ほかの人の益を求めるべきである」と。
  福音の教えを自分勝手に誤解して、屁理屈を並べ立てる者たちがコリント教会にいました。自己中心の、思いのままに好き勝手にふるまい続けようとする、偽りの自由主義者たちです。「私たちすべてのクリスチャンは神の恵みのもとへと解放された。だから今ではもう何をしてもいい。好き放題で思いのままだ。パウロ先生からそう教わった」と彼らは言い張ります。たぶらかされて、「そうかも知れない。ああ、そうだったのかあ」とフラフラしはじめる者たちも出てきました。困りました。それで、こういう手紙を書きました。
  生半可に中途半端に聞きかじって、『クリスチャンは自由だ。何をしても許されるし、誰に強制されることもない。したいことをすればいいし、したくないことはしなくていい』などと真面目な顔をして言う人々もいます。悪い先生に習ったのかも知れません。都合の良いところだけ聞きかじっているから、こういうことを言います。聖書の中に、よく似たことが確かに書いてあります。心を鎮めてよく読むと、全然違う正反対のことが。本当は、『罪と腹の思いに対しては自由で、その言いなりにされないで良い』と書いてあります。それは裏返せば、神の御心にだけ服従し、神さまにだけ仕え、神さまにだけ聞き従って生きることができる、という意味です(ローマ手紙 6:1-23,8:1-17,ガラテヤ手紙5:1-26。神さまにだけ聞き従って生きることができるので、それ以外の何者の言いなりにもされない。神さま以外の何に対しても、すっかり自由だ、という意味です。もし、そうではないなら、神の御心に従って生きることがいつまでたっても始まらないなら、ただただ自分自身の気分や、好き嫌いや、自分の脳みそと自分自身の腹の虫に従って生きてゆくなら、その人は神とは何の関係もない人でしょう。
 もう何年も前に、クリスチャンの友だちとこのことでお喋りしたことがありました。「ええっ。自分の気持ちや考えをすっかり引っ込めなくちゃならないなら、投げ捨ててしまわなければならないのなら、それじゃあ、私にはとてもとてもクリスチャンなど務まりませんよ。無理です。もう止めちゃおうかな」「いやいや、そうじゃなくてもいいですよ。すっかり引っ込めたり、全部丸ごと投げ捨てたりでなくたって、大丈夫です」「どういうこと? 自分の気分や好き嫌いや腹の虫があまりにも前に出すぎて、いつもいつも先頭に立っているんじゃ困ります。ほんの一歩二歩、少~しだけ後ろに回すことはできますか」「ほんの一歩二歩、少~しだけ?」「はい」「そうねえ。それじゃあ、なんとかなるかも」。「サタンよ引き下がれ。後ろへ回れ」(マタイ16:23と主イエスから指導を受けています。サタンと日頃からあまりに慣れ親しんできた私たちですから、いきなり自分の気持ちや考えをすっかり引っ込め、まるごと全部を投げ捨てるのは難しいかも。まず、ほんの一歩二歩、ほんの少~しだけ腹の虫を後ろに回すことくらいなら、し始めることができるかも知れません。どうでしょう? その人々の益になるかどうか、と主の弟子は問いただしています。その人と周囲の人々が神の御心にかなって幸いに生きることにつながるのかどうか。その人と自分たちの徳を建てあげてゆくことになるのかどうかと。これが、虚しい自由主義者たちに対する第一の歯止めです。第二には、「わたしは何ものにも支配されない」という歯止めです。「自由だ。自由だ」と言い張りながら、自分の腹の思い、自分の腹の虫の奴隷にされているじゃないか。罪に支配され、虚しい自己主張の思いにがんじがらめに縛りつけられているじゃないかと。
ただただ自由な人間など一人もいません。もし仮にいたとしても、その人はあまりに悲惨で、ただただ虚しく惨めです。しかも、何かに支配され、何かの奴隷にされて言いなりに従わせられてしまいやすい私たちです。糸の切れた凧のような、根無し草のような、どこにも行くあてのない、ただただ虚しいだけの、無責任で物寂しい独りぼっちの自由を、あなたは望んでいたのですか? 『クリスチャンは自由だ』と聖書が高らかに歌っているのは、神さまという唯一無二の、とてもよい主人を見つけて、その主人にこそ仕えて生きると腹を据えているからです。だから、その主人以外の何者にも支配されない。屈服しない。言いなりにされない。好き放題に引き回され、虚しく利用されることもない。「わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった」と聖書は証言します。「すべての人の奴隷である以前に、何にも増して、もっぱら神ご自身の奴隷。神の御心にこそ従って生きる、とても幸いな晴れ晴れした奴隷になった」のです。また、それは、「自分自身も福音と救いにあずかるため」であり、「そうでなければ、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になり、福音からも救いからもこぼれ落ちてしまいかねない」(コリント手紙(1)9:19-27参照)からでもあります。あなたにも、それは大いに有りうるでしょう。ぼくもそうです。ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になり、福音からも救いからもこぼれ落ちてしまいかねない。それで自分に、朝も昼も晩も、「危ない。危ない」と言い聞かせ言い聞かせしつづけています。それらのことを受け止めて、およそ500年前の一人の宗教改革者はこう説き明かしました。「クリスチャンとはいったい何者なのか。救い主イエス・キリストが獲得して、これに贈り与えてくださった自由とはどのようなものだろうか。これを土台のところからはっきりと分かるように、私は二つの命題をかかげてみたい。一つ、クリスチャンはすべての者の上に立つ自由な主人、王さまであって、誰にも屈服しないし、言いなりにもされない。一つ、クリスチャンはすべての者に仕えるしもべであって、誰にでも服従する」(『キリスト者の自由』Mルター,1520年)と。なぜでしょうか? どういうふうにでしょうか? なぜなら、「わたしたちがよくよく知らされ、習い覚えているとおりに、天に唯一の主人がおられるのだから。その主人にこそ仕え、聞き従い、朝も昼も晩も服従している私たちなのだから」(コロサイ手紙4:1参照)