◎とりなしの祈り
父なる神さま。
暗黒の地に私たちは住み、薄暗がりの中を私たちは歩いていました(ルカ福音書 1:77-79)。神さまにも人さまにも逆らい続けるわがまま勝手であまりに頑固な心を抱えていたからです。自分は賢いし、物が分かっていると思い込んでいました。恥ずかしくない、正しく良い行いを十分にしていると自惚れていたからです。そのために他人を見下したり、軽んじたり、自分とほんの少し違う物の考え方や、文化や言葉、ほんの少し違う生活習慣をもつ他の人々を押しのけたりしてしまいました。申し訳ありません。いつの間にか、心がとても貧しくなっていました。どうか、あなたの憐れみによって、この私たちを平和の道へと導いてください。いつもの職場で仲間たちとともに働くとき、家で家族の世話をし、子供を養い育てるとき、年老いた親の世話をするとき、誰かの世話を受けるときにも、いつでも、どこで何をしていても、そこでそのようにして、あなたに仕える思いをもって生きることができるようにさせてください。主よ、わたしたちを憐れんでください。助けを求める声に応えて自分の手を差し伸べることができますように。助け起こされ、ゆるされ、多くを与えられてきた私たちですから、そのように人を助け、また寛大な心でゆるしたり受け入れたりもできますように。なすべきことをし、してはならないことをしないで、言ってはならない言葉を口にださずにいられますように。自分の願いや計画や欲望のままにではなく、むしろただあなたの御心にこそかなって生きることを、この私たちにも願い求めさせてください。
保育園、幼稚園と、すべての学校教師たちの働きをお支えください。お父さんお母さんたちが、自分の子供たちを十分に愛し、心を砕き、精一杯に養い育てることができるように、その心と毎日の生活とをお支えください。福祉施設と医療現場で働くすべての職員が公正に正しく、また思いやり深く誠実に務めに当たることができますように。貧しく心細く暮らす多くの人々がいます。彼らの毎日の暮らしがあなたの憐れみによって支えられ、心強く守られますように。その彼らのためにも、私たちの家族と地域のためにも、この国と後から来る新しい世代のためにも、私たちをどうか地の塩、世のための光として十分に用いてください。天に私たちの主人がおられます。そのことを信じます。主よ、どうか私たちを憐れんでください。主イエスのお名前によって祈ります。 アーメン。
みことば/2016,11,6(主日礼拝) № 84
◎礼拝説教 ローマ手紙 12:1-2 日本キリスト教会 上田教会
『神の御旨にこそ従って生きる』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
12:1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。2
あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。
(ローマ手紙 12:1-2)
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まず1節。「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」。「そういうわけで」と語りはじめられました。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝であり、本当の礼拝なのだ。これまで語られつづけてきた中身(ローマ手紙3:21-28,同5:6-11,同6:1-18,同8:1-17,同10:8-13,同11:17-36)が、そのような生き方、そのような信仰生活をせよと命じているというのです。ごく簡単に言ってしまえば、救い主イエス・キリストによって神の憐れみを受け、罪をゆるされ、神に逆らって「私が私が」と強情をはりつづける罪の奴隷状態から救い出され、神の御旨に素直に従って生きることができる者とされた。そういうあなただからこそ、自分の心も体も丸ごと全部を神への生きた供え物としてささげ、そのように一日一日を生きてゆくことができる。ただ日曜日の午前中に礼拝堂で礼拝をささげているだけではなくて、あなたの毎日毎日の朝昼晩のいつもの生活こそが礼拝そのものじゃないか。それこそ、なすべき霊的な礼拝であり、本当の礼拝じゃないかと。
この私たち自身も恵みにまったくふさわしくない罪人であったのに、けれど罪をゆるされ、救い主イエスを信じる者とされ、新しい生命に生きる者とされました。それは、ただただ神の憐れみの取り扱いでした。差し出され、受け取った憐れみという土台の上に立って日々を生きるようにと命じられ、促されています。このご命令自体もまた、同じく、ただただ神の憐れみの取り扱いです。
「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい」。「からだをささげなさい」と言われ、「生きた供え物としてささげなさい」と念を押されました。生きた供え物であるのは、その供え物が息を吸ったり吐いたり、立ち上がったり横になったり、歩き回ったりして毎日毎日の暮らしを生きて生活するからです。この私共のその普段の暮らしの、ひとコマひとコマずつを、神さまへの供え物とせよ。『せよ』と命じられているのですから、当然そうできるし、私共自身の毎日の暮らしがそのような神への供え物となると太鼓判を押されています。では、自分自身のいつもの暮らしを、ここで具体的に思い巡らせてみましょう。子育て最中のお母さんはご飯支度をし、掃除洗濯をし、子供たちの養育のあれこれに思い悩んだり、喜んだり困ったりしながら暮らしています。その一つ一つが、自分自身のためであり子供のためでもあり、同時に、神さまへの『生きた供え物』でもある。だからその折々に、神への願いと感謝をもって事柄に取り組み、神の御心にかなって判断し、御心にかなって選び取ることを願い求めて働いてゆく。会社や職場で働くときにもまったく同じで、同僚たちと互いに助け合ったり、心を配りあったりしながら、また上司の指示にも従いながら、けれどそれだけではなく、そこでそのようにして、神への願いと感謝をもって事柄に取り組み、神の御心にこそかなって判断し、御心にかなって選び取る。それをこそ本気で願い求めながら働いてゆく。たしかに、その折々の現場で私たちは主婦であり、父さん母さんであり、職場の労働者でもありつつ、それだけではなく紛れもなくクリスチャンでありつづける。なによりも神への願いと感謝をもって事柄に取り組み、自分のしたいようにでもなく上司が命じるままにでもなく、むしろただただ神の御心にかなって判断し、御心にこそかなって選び取ることを願い求めて働いてゆく。いつ、どこで誰と何をしているときにも、「天に主人がおられます。そのことをよくよく習い覚えてきたはずの私だ」(コロサイ手紙4:1参照)と自分を戒め、励ましつつ、その一つ一つの事柄に取り組んでゆく。親の介護をして暮らす人々も同じです。食事の世話をし、風呂に入れてあげ、あるいはオムツの始末をしながら、ただ年老いた父親母親のお世話をしているというだけでなく、そこでそのようにして神さまに仕えて働いています。目の前に横たわっているその小さな人は、姿を変えた主イエスご自身であるからです。主はおっしゃいました、「コップ一杯の水を飲ませるとき、手を引いて散歩をするとき、オムツを取り替えてお尻をきれいに拭いてあげるとき、風呂に入れてあげ、背中をさすってあげるとき、その人の悩みや辛さに耳を傾けてあげるとき、その一人の小さな者にしてくれたのは、私にしてくれたことだ。してくれなかったのは、私にしてくれなかったことだ」(マタイ福音書10:40-42,同25:31-40)と。するとそれは逆に、自分自身が年老いて、身も心も衰え弱って、家族や施設の職員の助けを受けて暮らす日々でもまったく同じです。自分が何をできるか、どれほど人様のお役に立てるか、足手まといで世話を受けるばかりで申し訳ないなどと思ってはなりません。もっと、その千倍も万倍も大切なことがあったのです。神さまが、こんな私にさえ、いったい何をしてくださったか。何をしてくださりつづけているか。なにしろ、神の憐れみの取扱いを受けつづけいる私どもですから、若く元気だった頃とまったく同じに! その折々に、神への願いと感謝をもって事柄に取り組み、神の御心にかなって判断し、御心にかなって選び取ることを願い求め、喜びと感謝と希望を神さまからも人さまからも十分に受け取りつづけて生きることができます。
それこそが、なすべき礼拝そのものです。他の人たちには理解できないでしょうし、分からないでしょう。けれどその一人のクリスチャンは、この私たちは、ご飯支度をしながら、掃除洗濯をしながら、子供たちの養育のあれこれに思い悩んだり、喜んだり困ったりしながら、そこでそのように神さまを礼拝し、自分自身を生きた供え物として神さまにささげています。会社や職場で同僚たちと互いに助け合ったり、心を配りあったりしながら、また上司の指示にも従いながら、「お言葉ですが」と時には勇気を振り絞って言いづらい意見や渋い顔をされながらも言うべき要望を申し述べながら、そこでそのようにして神の御心にこそかなって判断し、御心にかなって選び取ることをこそ本気で願い求めています。そのように、いつもの仕事をしながら神さまを礼拝しています。いつ、どこで誰と何をしているときにも、「天に主人がおられます。そのことをよくよく習い覚えてきたはずの私だ」と自分を戒め、励ましつつ。なんということでしょう。ついにとうとう、なすべき霊的な礼拝を、まことの礼拝をささげ、礼拝にあずかっています。サマリヤの山の上でもなくエルサレムの神殿ででもなく、どこかのキリスト教会の礼拝堂でさえなく、家の中で、職場で、道を歩きながら、施設のベッドにじっと横たわりながら、痛みに耐えながら、そこでそのようにして霊とまこととをもって天の御父を礼拝しています。今がその時です。神は霊であるから、礼拝する私共も霊とまこととをもってなすべき礼拝し、自分のからだと暮らしを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげています。朝も昼も晩も。いつ、どこで、誰と何をしていても、たとえ何一つもしていなくたって。
次に2節。「あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである」。この世と妥協するとは、『この世界の在り方や習慣や流儀と同じ形になる』という意味です。この世と同じ形ややり方にならずに、ではどういう形になるのか? キリストの在り方、キリストが示し、教えてくださったやり方と心得をもって、神の憐れみのもとに据え置かれた者たちとして生きるということです。「むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである」。いいえ、弁え知ることができるし、ちゃんと知っているはずだし、そのように弁え知りつつ生きるものとされている、という神からの約束です。
しかも月に一回、私どもの目の前に格別なパンと杯が据え置かれています。「だから、ふさわしくないままでパンを食し、主の杯を飲む者は、主の体と血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ、杯を飲むべきである。主の体をわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分に裁きを招くからである」(コリント手紙(1)11:27-29)。「ああ! 全然ふさわしくない私」。その通り。当たっています。けれど、それは聴き取るべき真理の中の半分にすぎません。大事な半分ですが、残りの、その千倍も万倍も大事な半分は、「その、ふさわしくない、不十分な人間を、神さまは憐れんでゆるし、喜んで迎え入れ、きっと必ず救う」ということです。宗教改革者はこう説明しました;「このお祝いパーティは、(パン&杯も、他なにもかもも)神さまからの贈り物です。病いを抱えた者には医者の薬。罪人には慰め。貧しい者には贈り物。しかし自分は健康だと思っている者や、『自分はただしい、ちゃんとやっている』と買いかぶっている人や、すでに豊かに満たされている者には何の意味もありません。ただ一つの、最も善いふさわしさは、神さまの憐れみによってふさわしい者とされるために、私たち自身の無価値さとふさわしくなさを神さまの前に差し出すことです。神さまによって慰められるために、自分自身においては『ダメだ、ダメだ』と絶望すること。神さまの憐れみによって立ち上がらせていただくために、自分自身としては低くへりくだること。神さまによって『ただしい。よし。それで十分』としていただくために、自分自身のうぬぼれや卑屈さ、了見の狭さ、ズルさ、臆病さ、独りよがりな悪さをまっすぐに見詰めること。それらを憎むこと。神さまによって晴れ晴れと生きさせていただくために、古い罪の自分と死に分かれること」と(J.カルヴァン『キリスト教綱要』。Ⅳ篇17章40-42節を参照)。
さて、これがパンを食べ杯を飲み干すときの心得であるとして、それならば、パンと杯が目の前にないときは、主を信じて生きて死ぬはずのこの私たちはどう心得たらいいでしょう。同じです。パンと杯が目の前にあっても無くても。兄弟姉妹たち。私たちは、ただただ、主なる神さまの憐れみによってだけふさわしい者とされます。神さまご自身からの慰めと力づけを、ぜひ受け取りたい。主によって立ち上がらせていただき、主によって生きることをし始めたい。他のナニモノでもなく、主ご自身への信頼によって生き、他のナニモノに従ってでもなく主イエスの福音に従って選び取り、判断しながら生きること。日曜の午前中と午後と、教会の敷地内で、このように心得ていたいと願っています。それなら自分の家に帰って、連れ合いや子供たちや年老いた親の前では? 町内会や親戚たちの前では? いつもの職場や学校では?
〈次週からの礼拝内容〉
11月13日 ローマ手紙 13:1-2 『権威者とは何者か?』
20日 同13:3-7 『権威者の限界と慎み』
27日 サムエル記下12:1-15 『預言者が立ちふさがる』
12月4日 創世記1:26-2:3 『人間とは何者か?』
11日 マタイ福音書24:44-51
『どう生きて、死ぬか?』
18日 コロサイ手紙 3:12-4:1,ローマ手紙13:8-10『隣人を愛する』
25日 ローマ手紙 13:11-14
『夜はふけ、朝が近づいた』(クリスマス)