2016年11月27日日曜日

11/20「権威者の限界と慎み」ローマ13:3-7

                                        みことば/2016,11,20(主日礼拝)  86
◎礼拝説教 ローマ手紙 13:3-7                          日本キリスト教会 上田教会
『権威者の限界と慎み』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
  13:3 いったい、支配者たちは、善事をする者には恐怖でなく、悪事をする者にこそ恐怖である。あなたは権威を恐れないことを願うのか。それでは、善事をするがよい。そうすれば、彼からほめられるであろう。4 彼は、あなたに益を与えるための神の僕なのである。しかし、もしあなたが悪事をすれば、恐れなければならない。彼はいたずらに剣を帯びているのではない。彼は神の僕であって、悪事を行う者に対しては、怒りをもって報いるからである。5 だから、ただ怒りをのがれるためだけではなく、良心のためにも従うべきである。6 あなたがたが貢を納めるのも、また同じ理由からである。彼らは神に仕える者として、もっぱらこの務に携わっているのである。7 あなたがたは、彼らすべてに対して、義務を果しなさい。すなわち、貢を納むべき者には貢を納め、税を納むべき者には税を納め、恐るべき者は恐れ、敬うべき者は敬いなさい。
(ローマ手紙 13:3-7)




 ローマ手紙 13:3-7です。「いったい、支配者たちは、善事をする者には恐怖でなく、悪事をする者にこそ恐怖である。あなたは権威を恐れないことを願うのか。それでは、善事をするがよい。そうすれば、彼からほめられるであろう。彼は、あなたに益を与えるための神の僕なのである。しかし、もしあなたが悪事をすれば、恐れなければならない。彼はいたずらに剣を帯びているのではない。彼は神の僕であって、悪事を行う者に対しては、怒りをもって報いるからである。だから、ただ怒りをのがれるためだけではなく、良心のためにも従うべきである。あなたがたが貢を納めるのも、また同じ理由からである。彼らは神に仕える者として、もっぱらこの務に携わっているのである。あなたがたは、彼らすべてに対して、義務を果しなさい。すなわち、貢を納むべき者には貢を納め、税を納むべき者には税を納め、恐るべき者は恐れ、敬うべき者は敬いなさい」。私たちの上に、この地上の世界に、さまざまな権威者と支配者・指導者たちが立てられており、それら大小様々なすべての権威者の権威と責任とは神に由来する。そのことを権威者自身も、また私たち一人一人もよく弁えている必要があります。「従うべきだ」と日本語に翻訳された言葉は、元々の意味としては、『その権威のもとに立って、その権威者を下から支える』『協力してあげて、きちんと責任と務めを果たすことができるように助けてあげる』という意味です。何をされても、ただただ闇雲に、ご無理ごもっともと目もつむり耳もふさいでペコペコ従いなさいなどという意味では決してありません。しかも兄弟たち。「いたずらに剣を帯びているのではない」はずのその権威者たちが、剣や委ねられた権力をいたずらに、正しい用い方ではなく理不尽に用いることはありえるからです。神による、神によって立てられたはずの、神のしもべであるはずの権威者が、けれども、ならず者の暴君と化し、どこまでも暴走し、道を踏み外しつづけることはありえます。世界中のどの国でも、私たちの住むこの国でも。
  ここで読み解いてゆくためのカギとなるのは、5節で「良心のためにも」と言われ、6節でも「彼らは神に仕える者として、もっぱらこの務めに携わっている」と指摘されている点です。良心とは、神の御心にこそ従うという『信仰の良心』であり、『神さまの御心への服従』です。また、その権威者も私共一人一人も、クリスチャンであろうがなかろうが、皆共々に「神に仕える者として、もっぱら神に仕える務めに携わっている」からです。目の前にいる権威者に仕え、従う以前に、神にこそ仕え、神に従って生きる私たちです。その土台の上に立って、目の前にいる、神によって立てられた権威者が神の御心にかなって務めを忠実に果たしてゆくことができるように支え、できるかぎり協力もする。他の聖書箇所で、「すべて人の立てた制度に、主のゆえに従いなさい」「神をおそれ、王を尊びなさい」(ペテロ手紙(1)2:13,17と告げられていることも、まったく同じ道理です。はっきりした優先順序があり、決して棚上げすることのできない根源的な土台があります。「主のゆえに、目の前のその権威者に従う」のですし、『主にこそ従う』という弁えの範囲内で、それに矛盾しない限りにおいてだけ、その権威者に従うことがゆるされます。神をこそおそれ、神に聞き従うという土台の上に立って、目の前の王や大小様々な支配者、権威者、指導者らに従います。つまり、「神によって立てられた権威に従う」とは、その「立てられた権威」が神に逆らう場合にはその権威と命令とに抵抗する権利と義務が生じることを教えています。なぜなら、その彼らの上にも、私共の上にも、天に主人がおられます。しかも私たちは、そのことをよくよく教えられ、習い覚えてもきたからです(コロサイ手紙4:1
 このローマ手紙13:4に、「彼(=神のよって立てられた大小様々な権威者たち)は、あなたに益を与えるための神のしもべなのである」と書いてあります。神が立ててくださったその権威と力の目的を履き違えて、その権威者が人々に害を与え、ないがしろに扱い、踏みつけにするとき、とくに、益を与えるはずの権威者がかえって逆に人々の生活と命と安全を奪うなどして機能不全に陥った場合です。例えばユダヤ民族の絶滅の危機に瀕して、モルデカイは王妃となったエステルを諭します、「あなたは王宮にいるゆえ、すべてのユダヤ人と異なり、難を免れるだろうと思ってはならない。あなたがもし、このような時に黙っているならば、ほかの所から、助けと救がユダヤ人のために起るでしょう。しかし、あなたとあなたの父の家とは滅びるでしょう。あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」。また例えば、人々がイエスを救い主だと誉めたたえて叫ぶ声を聞いてパリサイ人らが弟子たちと群衆皆に黙るように命じてくれと訴えたとき、主イエスは答えました、「あなたがたに言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」(エズラ記4:13-14,ルカ福音書19:40。重大局面にあたって、私たちが何かをしなければ国が滅び、神の国が後退りしてしまうなどとは語られません。私たち次第ではなく、私たちの両肩にこの国と世界の命運がかかっているわけではありません。なぜなら神ご自身が、確かに生きて働いておられますからです。あなたがもし、このような時に黙っているならば、ほかの所から、助けと救がユダヤ人のために起るでしょう。しかし、あなたとあなたの父の家とは滅びるでしょう。もしこの人たちが黙れば、道端の石っころさえもが叫ぶであろう。
  もう一度、思い浮かべてみましょう。私たちの目の前にいる大小様々な権威者たち。例えば幼稚園や保育園、小学校中学校高校の教師たちがそれです。職場の主任や管理職がそれです。医療機関や介護福祉施設の職員たちがそれです。また、国家権力、政府与党、内閣総理大臣、警察官、裁判官などがそれです。地方行政団体の首長や議員たち役人たちがそれです。キリスト教会の牧師、長老、執事などがそれです。いいえ、それどころか 子供たちを養い育ててきたお父さんお母さんたち。子供たちが人生で最初に出会う、最も身近な権威者は、子供たちのお父さんお母さんです。それらすべては、神による権威であり、神に由来する権威です。しかも、そうでありながら、彼らは生身の人間にすぎません。良いこともするし、してはならない悪いことをする場合もあるでしょう。なぜ? だって人間だもの。「従いなさい」と命じられていましたね。それは、『その権威のもとに立って、その権威者を下から支える』『協力してあげて、神の御心にかなって、きちんと責任と務めを果たすことができるように精一杯に助けてあげる』という意味です。あなたの目の前にいるその権威者が、神ご自身の権威にはなはだしく逆らい、脱線し、ならず者の暴君に成り下がってしまうとき、この私たちはどうしたらいいでしょう。一つの家族の中でも、それはありえます。社会全体の中でもキリスト教会の中でも、それはありえます。神によって立てられた権威が暴走し、ならず者の暴君と化すとき、私たちはどうしたらいいでしょう。私どもには果たすべき義務と責任があります。彼らを下から支える責任です。協力してあげて、きちんと責任と務めを果たすことができるように助けてあげる義務と責任です。「それは間違っていますから、してはいけません。分かりますね」となだめたり、誤りを正したり、できるだけ優しい口調で諭したりもしながら、共々に、委ねられた権威と責任とを神の御心にかなって果たしてゆく。彼らと共同の義務と責任です。幼稚園や保育園、小学校中学校高校の教師たちに対しても、私たちには共同の責任と義務があります。職場の主任や管理職に対しても。医療機関や介護福祉施設の職員たちに対しても。また、国家権力、政府与党、内閣総理大臣、警察官、裁判官などに対しても。地方行政団体の首長や議員たち役人たちに対しても。キリスト教会の牧師、長老、執事などに対しても。同じように子供たちは自分の父親や母親に対して果たすべき義務と責任があります。まったく同じく、父親たち母親たちは自分の子供たちに対して、果たすべき大きな義務と責任があります。神による権威であり、神に由来する権威です。しかも、そうでありながら、彼らもこの私たち一人一人も生身の人間にすぎません。良いこともするし、してはならない悪いことをする場合もあるでしょう。だって人間だもの。私たちは、キリストを主と仰ぐキリスト者です。だからこそキリスト者は自由な王であって、何者にも膝を屈めず、だれの奴隷にもされてはならず、何者にも決して屈服しません。たとえ絶大な権力を握るこの世の王や、権力者やどんな支配者たちに対しても(Mルター『キリスト者の自由』,1520年)。ここから、ついにとうとう、信仰をもって主に従って生きることの悪戦苦闘が始まります。
  皆さんがすでによくご存知のとおり、聖書によってご自身を知らせておられます神は、正しくあり、しかも慈しみ深い神です。しかもその神が、この世界全体と私たちの主人として生きて働いておられます。何をどうすべきか、何をしてはならないのか、聖書自身が語る内容は明らかです。けれどキリスト教会も含めて、私たち人間がそれを度々くりかえして歪めてしまいました。神によって立てられた権威、権威者たちとどう付き合うことができるのか。聖書自身からの最終的・決定的な答えは、主イエスが教えてくださった『主の祈り』の中にはっきりと刻み込まれていました。まず、『天にまします我らの父よ』と呼びかけています。神を我らの父よと呼びかけ、そのおかたが他の誰よりも高く卓越した力をもって『天にいる』と言い表しています。また主の祈りに含まれる6つの祈願の中の第二番目『御国をきたらせたまえ』は、神が王としてこの地上に支配を及ぼし、治めてくださいと願い求め、その支配に服従し、神にこそ従って生きる私たちであらせてくださいと願っています。第三の願い『御心の天になるごとく地にもなさせたまえ』。神の御心がこの地上世界で、私たちが生きる生活の只中で成し遂げられますようにと。その願いは、祈り求めるこの私たちが神の御心にかなって生きはじめようとすることから始まり、広がってゆきます。『御心をこの地上にもなさせてください』と願うようにとは、神ご自身がその願いを着々とかなえつつあり、そのように御心にかなって生きることを本気で願い求める私たちになってゆくという確固とした約束です。その幸いな生活が私たちの生活の只中ですでにはじまり、少しずつ少しずつ積み重ねられてきています。『主の祈り』の結びはさらに、国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなりと、つまり、『支配と権力と栄光とがどこまでも、いつでも、どういう状況においても、ただただ天の御父のものである』。その心強さと深い慰めと確かさとを、主の祈りを口にする度毎に私たちの魂に刻み込ませつづけます。
 ああ、そうだったのか 天の御父への十分な信頼の上に立って、その信頼に幾重にも包み込まれてこそ、私たち自身の手厳しく困難な現実問題(=第4,5,6祈願)に立ち向かうことができます。(祈願)日用の糧を神から受け取り感謝すること。(祈願)神によって罪をゆるされつづける者同士として互いにゆるしあうこと。そして、(祈願)神に逆らう罪と誘惑から守られつづけて生きること。現実的・実践的な3つの願いと、そのための『御父への十分な信頼』という根源的・究極の只一つの願い。
目の前にいる具体的な権威者との付き合い方も、これとまったく同じです。天の御父への信頼と服従。だからこそ、目に前に据えられている大小様々な権威者らの職務と役割を重んじることもでき、だからこそ時には「それは間違っている。してはいけません」と逆らい、抵抗することさえ出来る。天に主人がおられると今やはっきりと私共は知りました。救い主イエスは、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」とおっしゃり、「神の国は実にあなたがたの只中にある」と断言なさいました。この主イエスから、私たちも、それぞれの働きと生活の場へと送り出されたのですし、送り出されつづけます。主はおっしゃいます、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マルコ福音書1:15,ルカ福音書17:21,マタイ福音書28:18-20