2016年11月27日日曜日

11/27こども説教「主の弟子として遣わされてゆく」ルカ9:1-6

 11/27 こども説教 ルカ9:1-6
 『主の弟子として遣わされてゆく』

9:1 それからイエスは十二弟子を呼び集めて、彼らにすべての悪霊を制し、病気をいやす力と権威とをお授けになった。2 また神の国を宣べ伝え、かつ病気をなおすためにつかわして3 言われた、「旅のために何も携えるな。つえも袋もパンも銭も持たず、また下着も二枚は持つな。4 また、どこかの家にはいったら、そこに留まっておれ。そしてそこから出かけることにしなさい。5 だれもあなたがたを迎えるものがいなかったら、その町を出て行くとき、彼らに対する抗議のしるしに、足からちりを払い落しなさい」。            (ルカ福音書 9:1-5

 主イエスは、ご自分が選んでご自分の弟子とした人々を町や村へと送り出します。神の国の福音を宣べ伝えさせるために、神の祝福を手渡し、神を信じる人々をご自分のもとへと招き寄せるために。まず12人を、次に72人を、さらに多くの弟子たちとこの私たち一人一人をも(当箇所,ルカ10:1-16,マタイ28:16-20
 神の国を宣べ伝えることと病気を癒すこと。それは今日でも同じです。さまざまな病気があり、その中で最も大きな病気は神に逆らって「私が私が」と強情をはりつづけることです。格別に良い医者である神さま、その医者に病気を治していただく私たち。誰も彼もがこの同じ一つの病気にかかり、弟子とされた人々皆もこの同じ一つの病気にかかっていました(ルカ5:27-32。神に逆らう病気を治していただきながら、私たちは自分でも、神さまがその病気にかかった人々を治してくださるのをお手伝いいたします。杖、袋、パン、お金、二枚の下着も持たずに、手ぶらで出かけてゆくようにと指図されました。主なる神さまにこそすがって、神さまを頼みの綱とし、神さまに助けていただきながら働くためにです。アブラムとサライ夫婦が故郷と父の家を離れて旅立ったことと同じです。また最初のとき、漁師だった弟子たちが舟も網も持たずに主イエスに従ったことと同じです。そしてまた、やがて湖のほとりで大勢の人々がほんのわずかなパンと魚によって十分に養われたことと同じです。また、主イエスの弟子とされた人々の中に「知恵のある者が多くはなく、権力のある者も身分の高い者も多くはなく、強いもの有力な者も多くはなく、かえって愚かな者、弱い者、貧しい者、身分の低い者、軽んじられている者、すなわち無きに等しい者たちがあえて選ばれた」こともまったく同じです(創世記12:1-9,ルカ5:1-11,9:12-17,コリント手紙(1)1:26-31。主なる神さまにこそすがって、神さまを頼みの綱とし、願い求め、感謝し、神さまに助けていただき、神にこそ聴き従いながら幸いに働くためにです。迎え入れてもらったらその家に留まれと指図されたことも同じです。5節。迎え入れる者が誰一人もいない場合もある、と言い添えられました。弟子たちは時には、嫌な扱いをされることもありえます。乱暴されたり、悪口を言われたり脅かされたり、ムチ打たれたり、足かせをはめられて牢獄に閉じ込められたり、そういうことも有り得ます。けれどそうであっても、弟子たちはほんの少しも困りませんし、ガッカリしないでその町を出てゆくこともできます。足腰についた埃やチリをパンパンと払い落として、晴れ晴れして出てくることもできます。主なる神さまにこそすがって、神さまを頼みの綱とし、願い求め、感謝し、神さまに助けていただき、神にこそ聴き従いながら幸いに働くために。それぞれの町や家や職場や学校や、いつもの生活の場所へと、日曜日毎に、天と地の一切の権威を御父から授けられた主イエスのもとから送り出されつづけます。しかも送り出す主イエスご自身が、私たちと共にいてくださると太鼓判を押してくださいましたから(マタイ28:16-20


     【補足/手ぶらで】
     (*)3-4節。支えや備えや後ろ盾、その他いっさいを持たずに出てゆくようにと指図されました。かえって邪魔になるからです。主なる神さまにこそすがって、神さまを頼みの綱とし、願い求め、感謝し、神さまに助けていただき、神にこそ聴き従いながら幸いに働くために。主イエスの弟子として世に遣わされ、御心にかなって働き、幸いに生きて死ぬために、『神への信頼』こそが最大最善の備えであり、唯一無二の安心材料であるからです。こども讃美歌も高らかに歌いました、「主われを愛す。主は強ければ、われ弱くとも恐れはあらじ。わが主イエス、わが主イエス、わが主イエスわれを愛す」(讃美歌461番,賛美歌21-484番)。主が私を愛してくださっており、その主は この私のためにも十分に強い。それさえ分かれば十分です。どうぞ、よい日々を。