2016年12月6日火曜日

12/4「人間とは何者か?」創世記1:26-2:3

                             みことば/2016,12,4(待降節第2主日の礼拝)  88
◎礼拝説教 創世記 1:26-2:3                            日本キリスト教会 上田教会
『人間とは何者か?』

  牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
  1:26 神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。27 神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。28 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。29 神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。30 また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。31 神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。                         (創世記1:26-31)




  「この世界に生命が誕生したことはまったくの偶然だった。たまたまちょうど良い具合で、いろいろな材料と条件がそろって、最初はごく簡単な造りの、バクテリアやアメーバーやミジンコのような小さな小さな生命が生まれ、それらは発展し改良され、より複雑なものへと進化していった。世界や自然の条件にたまたまピッタリ合う都合の良いものや、数の多いものや強くて優れたものたちが勢力を増し、生き残り、そうではない弱くて数が少なくて劣ったものたちは片隅へ片隅へと押し退けられ、ついに滅びていった。弱肉強食の、とても冷たく厳しい世界。だから、私たちもうかうかしてはいられない。賢く立ち回り、強くなり数と勢力を増し、優れたものにならなければ」などと人々は言います。そんなふうに家庭でも学校でも社会でも習い覚えてきたからです。けれど、まったく違うことを聖書は語りつづけます。「神さまが、この世界すべてとすべての生き物と私たちをお造りになった」と。科学的で合理的な物の見方や考え方が身に着いた私たちには、それがなんだか絵空事のような、根も葉もない夢物語のような馬鹿げた作り話に思えるかも知れません。人から笑われるかもしれません。けれど、私たちはそれを信じています。神さまが、この世界と私たち一人一人を造ってくださった。神によって造られた私たちであると。創世記1章は神がこの世界をお造りになったと証言し、そこでは「神は見て、良しとされた」(1:10,12,18,21,25)と5回繰り返されます。創造のそれぞれの区切りのところで「神は見て、良しとされた」とシンバルや太鼓のように鳴り響きつづけ、すべての仕事を終えて、「神が造ったすべてのものを見られたところ、それは、はなはだ良かった」(1:31)。一日毎に、神は「よし。なかなか素敵じゃないか。これもよし。これもよし」とおっしゃったのです。海と陸地を見て「よし」。草木が芽生えるのを見て「よし」。太陽と月と星々を見て「よし」。魚と鳥を見て「よし」。地上の生き物たちと人間を見て「よし」。神はご自分がお造りになったすべてのものをご覧になり、「とてもとても良い、はなはだ良い。よかった」と大喜びに喜んでくださいました。それが6日目までの出来事でした。第7の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさいました。その満ち足りた安らかさの中で、神は造られたすべてのものをご自分のものとし(=聖別せいべつ)、祝福されました。ここで、ついにようやく神の仕事が完成したのです。
  さて、その6日目の人間の創造の記録は、私たち人間の目と心を曇らせつづけました。26-28節、「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう』。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、『生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ』」。神にかたどって造られた私たちは優れた存在であり、価値も高く、他の何にもまさって尊い。しかもだからこそ、「治めさせよう。従わせよ、治めよ」と命じられた。私たちこそがこの世界の王さまであり、ご主人さまであり、支配者だ。思いどおりに、好き勝手に、他の生き物や大地や空や海を従わせ、服従させ、この世界を自分のものとしていいのだと。いいえ とんだ大間違いでした。
  なぜ、とんだ大間違いであると分かるのか? 神さまこそが、この世界すべてを造ったのであり、神さまこそがこの世界のただお独りの主人であるからです。また、その神は、ご自分が造ったものすべて一つ一つをご覧になり、「はなはだ良い」と大喜びに喜んだのであり、だからこそご自分のものとなさり、祝福を与えました。神のものとされ、神ご自身からの祝福を与えられたものたちを、人間が思いどおりに、好き勝手に取り扱い、従わせ、服従させ、自分のものとしていいでしょうか。良いはずがありません。そのことは、折々に念を押されつづけました。例えば創世記2章は、1章と対になっていてひと組です。神さまによってこの世界が造られたその初めのとき、地上は草一本も生えない、虚しく物淋しい大地だったと報告されます。土を耕す人も、わざわざ土の塵から形づくりました(6,7)。神さまがその鼻に生命の息を吹き入れた。それで人は生きる者となった。そのことを、ずっと考え巡らせてきました。「地を従わせよ。治めよ、支配せよ」と語られていたその同じ中身が、創世記2章では、「エデンの園に連れて来られたのは、ゆだねられたその土地を耕させ、守らせるためである」(創世記2:15参照)と、はっきりと告げられていました。幸いな豊かな土地になるために、その土地を耕し守る働き人として、私たちはそれぞれの持ち場に据え置かれた。これが、他の様々な生き物たちと共に、この世界に人間が置かれたことの根本の意味です。土地を耕し守るという使命と役割を授けられ、神からの祝福を贈り与えられ、「これだけはしてはならない」と神さまからの最低限の戒めも付け加えられた。しかも、耕す人は土の塵で造られたのです。だからこそ、神は人に言われました。「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」2:18と。「オレって何て馬鹿なんだろう。なんて臆病でいいかげんで、ずるくて、弱虫なんだろう。ああ情けない」とガッカリして、自分が嫌になるときがあります。そういうとき、この箇所を読みました。「どうして分かってくれないんだ。なんで、そんなことをする」と周りにいる身近な人たちにウンザリし、すっかり嫌気がさしてしまいそうになるときに、この箇所を読みました。どんなに強くてしっかりしているように見える人でも、それでもなお、堅い石や鉄やダイヤモンドで造られた人なんか誰1人もいないのです。土の塵で、泥をこねて造られた私たちです。土を耕して生きるはずのその人も、土でできている。どういうことか分かりますか? その人の中に小さな1粒の種が芽生え、大きく育ち、素敵な花を咲かせ、やがて嬉しい実を結ぶためには、その人のためにも、やっぱり

(1)恵みの雨と、           
(2)その人を耕してくれる別の耕す人  ・・・・・・  創世記 2:5

が必要だってことです。もし、そうでなければ、その人も直ちにカラカラに乾いて、干からびて、草一本も生えない寒々しく荒れ果てた淋しい人間になってしまうかも知れなかった。で、その人を耕してくれる人もやっぱり同じく土の塵で造られていて、神さまからの恵みの雨と別の耕す人を必要とした。その耕す人もやっぱり・・・・・・。土の塵から造られ、鼻に生命の息を吹き入れられた私たちです。壊れ物のような、とても危っかしい存在です。それぞれに貧しさと足りなさを抱え、時には、パサパサに乾いた淋しい気持ちに悩んだりもします。恵みの雨に潤され、耕されるのでなければ、この私たちだって草一本も生えない、荒れ果てた、淋しい人間になり果ててしまいます。しかも土の塵。石や鉄やダイヤモンドでできたビクともしない人など1人もいません。ですから、あんまり乱暴なことを言ったりしたりしてはいけません。あんまりその人が困るような無理なことをさせてはいけません。壊れてしまっては大変です。しかも土で造られた私たち人間はあまりに不完全で、ひどく未熟でした。意固地になり、独り善がりになりました。ね、だからです。だからこそ、人が独りでいるのは良くない。独りでは、その土地を耕して守るという大きな重い務めを担いきれないからです。独りでは、あまりに気前よく与えられた祝福と恵みを本当に嬉しく喜び祝うことができないからです。もし助ける者がいてくれるなら、その人は祝福と恵みを十分に受け取って、「こんなに良いものを私なんかがいただいていいんですか。本当ですか。ああ嬉しい。ありがとうございます」と喜び祝い、感謝にあふれて生きることができます。独りでは、『これだけはしてはいけない。ダメだよ、止めなさい』という戒めのうちに身を慎んで留まることなどとうていできないからです。もし、その人を助けてくれる者がいてくれるならば、その人は、たとえあまりに不完全で、ひどく未熟だとしても、たびたび意固地になり、独り善がりになってしまいやすいとしても、それでもなおその土地を耕して守りながら生きることができます。2章の終わりに、「2人とも裸であったが恥ずかしがりはしなかった」2:25参照)と書いてあります。見栄を張って取り繕うことも要らず、虚勢を張ることも要らない。恥ずかしいことや後ろめたいこと、未熟なふつつかさを山ほど抱えている。お互い様です。土の塵から、泥をこねて造られた者同士です。目の前のその人の不出来さ、了見の狭さ、うかつさをどうぞゆるしてあげてください。何度でも何度でも大目に見てあげてください。さらに、創世記910-17節の『虹の契約』です。「『またあなたがたと共にいるすべての生き物、あなたがたと共にいる鳥、家畜、地のすべての獣、すなわち、すべて箱舟から出たものは、地のすべての獣にいたるまで、わたしはそれと契約を立てよう。わたしがあなたがたと立てるこの契約により、すべて肉なる者は、もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は、再び起らないであろう』。さらに神は言われた、『これはわたしと、あなたがた及びあなたがたと共にいるすべての生き物との間に代々かぎりなく、わたしが立てる契約のしるしである。すなわち、わたしは雲の中に、にじを置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる」。

       ◇

  だからこそ、神ご自身によって時が満たされました。

 薄暗い死の陰の谷に、すべての生き物たちと私たち人間は住みつづけたからです。天と地のすべて一切をお造りになった神は、ご自分がお造りになった世界を、見捨てることも見放すことも決してなさらないからです。神が、この世界と私たちを憐れむからです。預言者は呼ばわりました。「荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ。もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ、高低のある地は平らになり、険しい所は平地となる」(イザヤ書40:3-4と。荒野や砂漠に主の道を備えることは、けれども私たち人間には至難の業でした。かえってますます私たちは、荒れ果てた乾いた土地に成り下がり、曲がりくねった凸凹道になり、自惚れて思い上がり高い山や丘のようになりました。いじけてひがんで薄暗い谷間のようになりました。私たちの庭には茨と雑草が生え伸びて、日が差す隙間もないほどにすっかり覆い尽くされようとしました。そのようにして、素敵な庭になるはずのエデンの園は荒れ果てて乾いた地になり、薄暗い谷間に成り下がりました。何度も繰り返して。神ご自身が主の道を備えてくださるほかなかったのです。神ご自身が、高い山や丘のようになった私たちを低く押し下げてくださり、薄暗い谷間のようだった私たちを高く持ち上げてくださるほかありませんでした。荒れ果てた乾いた土地であったわたしたちを耕し、曲がりくねった凸凹道であった私たちをまっすぐな広い道に整備し、茨と雑草を抜いて手入れをしつづけてくださる必要がありました。それをしていただいたのです。この私も、みなさん一人一人も。救い主イエスはおっしゃいました、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と。また、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」(マルコ福音書1:15,ヨハネ福音書14:6-7と。つまり、主イエスというただ一本の道を通りさえすれば、誰でも天の御父のもとに辿り着ける。主イエスから学びさえすれば、幸いに生きて死ぬことができるために誰でも十分な真理を知ることができる。主イエスから受け取りさえすれば、誰でも必ず、格別な生命を生きることができる。このことを、私たちは信じました。