2016年12月26日月曜日

12/25「夜はふけ、朝が近づいた」ローマ13:11

 ◎とりなしの祈り

 慈しみ深い父なる神さま。あなたが憐れみ深くあってくださいますように、その憐れみを贈り与えられつづけてきた私共も、隣人に対して憐れみ深い者であらせてください。小さな貧しい人々に、温かく手を差し伸べる私たちであらせてください。多くの良い者を豊かに贈り与えられてきた私共に、もう一つ、隣人を愛する心をどうか贈り与えてください。なぜなら主よ、片隅に押しのけられて貧しく暮らし、身を屈めさせられている多くの人々がいます。ないがしろに扱われ、貧しく心細く暮らす彼らの喜びと悲しみを、彼らの惨めさと心細さを、どうか今日こそ、この私たち自身のものとして、はっきりと感じ取らせてください。主イエスのお名前によって祈ります。   アーメン


                                  みことば/2016,12,25(クリスマス礼拝)  91
◎礼拝説教 ローマ手紙 13:9-14                         日本キリスト教会 上田教会
『夜はふけ、朝が近づいた』
  

  牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
13:9 そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する。10 愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである。11 なお、あなたがたは時を知っているのだから、特に、この事を励まねばならない。すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている。なぜなら今は、わたしたちの救が、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。12 夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。13 そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。14 あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。                                                             (ローマ手紙 13:11-14)

1:1 はじめに神は天と地とを創造された。2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。3 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。                                                   (創世記 1;1-5)





 12節。「夜はふけ、日が近づいている」と語りかけられています。どういうことでしょう。ごいっしょに思い起こしましょう。はじめに、神は天と地とをお造りになりました。地は形なく、むなしく、大きな水の面を真っ暗闇がおおっていました。神は「光あれ」とおっしゃいました。神はその明るく輝く暖かな光を見て、「良し」とされ、光と闇とを分け、光を朝、やみを夜と名づけられました(創世記 1:1-5参照)『夜。薄暗がり、真っ暗闇』。それらは、毎日繰り返されるいつもの夜と朝ばかりではなく、私たち人間の心がもらたしつづけた薄暗がりや真っ暗闇でもあります。この日本でも、日本だけではなく世界中のあちこちでも、神をおしのけ、自分の隣り人を憎んだり押しのけたり踏みつけたりしようとする人間の心がますます強く大きく、あからさまになってこようとしています。「自分と自分の家族さえよければそれでいい」と多くの人々が声高に叫びはじめ、自分たちの周りに高い高い壁を築きあげようとしています。子供たちが、多くの大人たちのそういう薄暗い姿や真っ暗な心のあり方をすぐそばで見たり聞いたりしつづけています。
  「自分自身を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」8-10節参照)と、私たちは神から命じられています。命じられているだけではなく、「愛することが、あなたにもできるから」と堅く約束されてもいます。ただ誰かに意地悪をしたり、誰かを除け者にしたり困らせたりしないというだけではなく、愛することはその人に平和と憐れみと友情を示し、その人にふりかかる困ったことを精一杯にふせいであげ、自分に反対したり嫌なことをしてくる相手にさえ良いことをしてあげることだと教えられています(ハイデルベルグ信仰問答 問107参照,1563年)。国語辞典を引くと、隣人とは『わりと近くに住んでいて、ほんのちょっとでも何か自分と関わりのある人たち』のことだそうです。でも、それだけじゃあ、よく分かりませんね。わたしたちの隣人とは例えば、ヨソの国から来てこの国で暮らしている人たちです。彼らはののしられたり、あざけり笑われたり、しばしばひどく汚い言葉を投げかけられながら、肩身の狭い惨めな思いをして日本で暮らしています。アジア諸国からの農業研修生、職業実習生たちも同じです。彼らは安く便利に使い捨てられようとし、働いた分の賃金を勝手にむしり取られ、きびしい労働条件で働かされています。「仕事の仕方を教えて育ててあげる」というフリをしながら、本当にはただ便利に安く働かせ、自分たちに都合がいいようにその人たちをコキ使っています。日本中どこででも、この地域でも、そういうことが起こっています。たくさんの農家の人たちと農協と工場経営者と日本国政府は、また、見ても見ない聞いても聞こえないフリをしている私たち普通の人々も その悪いことを悪いことだと分かりながら放ったらかしにしています。また隣人は、沖縄の同胞たちです。彼らは、いまだに植民地扱いされ、ないがしろにされつづけています。本当に申し訳ないことです。アメリカ軍のヘリコプター施設の建設に抵抗する人々を同じ日本人である大阪府警察の中の警察官2人が「土人。支那人」と怒鳴りつけ、その様子はTVで放送されました。その警官たち以上に、その5倍も6倍も悪いのは、権力と大きな責任をもたされている人たちです。大阪府知事、沖縄北方関係大臣、そしてなんと日本国政府さえも「差別とは言えない。撤回も謝罪も不要で、何の問題もない」と総理大臣と他ぜんぶの大臣たちとで決めてしまいました(大阪府知事、松井一郎。沖縄北方担当大臣、鶴保庸介。政府答弁書、1118日閣議決定)。この国は今やとても悪い国です。もし見過ごしにするなら、この私たち自身も悪者たちの仲間です。わたしたちの隣人とは、見舞金9000万円と危険手当を受け取る約束をし、南スーダンで無駄に殺したり殺されたりさせられようとしている350人の自衛隊員たちとその家族です。隣人は、まともな避難計画もなしに、ただ「安全だ。安全だ」と言い含められ、見舞金や保証金を握らされ、危険な原子力発電所施設の地元でビクビクしながら暮らしている人々です。5年前の震災からの被害はまだまだ続いており、福島原発の事故はほんの少しも収まっていないのに、そこに住んではいけないはずの放射能汚染地域で暮らすようにと仕向けられている人々です。政府もこの私たちも何もなかったかのように自分たちだけの満足と豊かさと自由をむさぼりつづけています。その片隅で貧しく暮らし、身を屈めさせられている多くの人々がいます。わたしたちの隣人が(出エジプト記22:21-27参照)。また、原子力発電所施設で命と健康を削りながら働いている下請け労働者たちです。非正規雇用で不安定なまま安く便利に、誰も責任を負おうとしない労働環境で働かされつづけるおびただしい数の労働者たちです。劣悪で過酷な環境で働かされる正社員たちもそうです。給食費も払えず、毎日毎日の生活費や食費にも事欠き、上の学校に通うための学資も希望もなく貧しく心細く暮らす子どもたち、父さん母さんたち、高齢の方々です。数百年も差別されつづけている被差別部落出身の人々。かつて「らい病」と呼ばれた病気があって、違う呼び方をしても、次々と名前を変えても、扱いも中身もそう簡単に変わっていない同じような悪い扱いを受けつづけている人々がいます。住むところがなくて、仕方なしに駅の地下道や公園や川べりや道端で寝起きしているたくさんの人々がいます。隣人とは、私たちの小学校、中学校高校や職場でいじめられている人、除け者にされ、心細く惨めな思いをさせられている人たちです。その人たちがひもじい思いを噛みしめても、悩んでも、心細がっても、多くの場合、私たちは痛くも痒くもありませんでした。心が少しも痛みませんでした。どこか遠くの知らない世界の、自分たちとは関係のない他人事だったからです。けれど、その人たち一人一人にかけがえのない人生があり、その彼らはわたしたちの隣人です。「その彼らを悩ませてはいけない。彼らがわたしに向かって叫ぶならば、わたしはこれに聞く。わたしは憐れみ深いからである。あなたがたも、わたしがそうであるように憐れみ深い者であれ」と、私たちは神ご自身から命じられているからです。

             ◇

  遠い昔、預言者は語りかけました。「起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから。見よ、暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおう。しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる」と。しばらくして、約束されていたその光がとうとう昇りました。救い主イエス・キリストです。救い主イエスは、「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と断固としておっしゃり、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」と約束してくださいました。その約束を受け取り、その約束を抱えて歩いている私たちです(マルコ福音書1:15,ヨハネ福音書8:12,イザヤ書60:1-5そうそう、友だちの茶の間に掛けられた額に素敵な言葉が刻まれていました。「主イエスは、この家の主人であり、いつもの食卓にいっしょに座っておられる隠れたお客さまです。私たちの、いつもの何気ない会話やおしゃべりに静かに耳を傾けておられます」。その通り。だからこそ、自分の家で家族といるときにも、独りきりでいるときにも、わが家の主人である主イエスにニッコリ座っていていただけるように、つつましく、思いやり深く、心温かくありたい。いつもどこででも、誰といっしょのときでも。
 そしてまた14節、「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい」と命じられています。神ご自身である救い主イエスがこの私たちを神の国へと迎え入れ、神の子供たちとしてくださるために、何をしてくださったか。そのすべての恵みを覚え、よくよく魂に刻みつけて、そのように日々を生きる私たちでありたい。肉の欲ではなく、自分の腹の思いでもなく、ただただ天の御父と主イエスの御心にかなって生きてゆきたい。しかも、その願いはかなえられます。主イエスを信じる者たちはすでに主イエスを着させられているからであり、主イエスご自身こそが、朝も昼も晩もどこで何をしていても、他の何にもまさって私たちのための光の武具であるからです。他のどこにもないこの格別な光の武具を私たちも身にまといつづけ、救い主イエスを信じて暮らしてきました。「初め信じた時よりも、わたしたちの救いがもっともっと近づいている」とは、このことです。

 自分自身と隣人たちのために祈りましょう。