12/4 こども説教 ルカ9:12-17
『5つのパンと2匹の魚』
9:12 それから日が傾きかけたの で、十二弟子がイエスのもとにきて言った、「群衆を解散して、まわりの村々や部落へ行って宿を取り、食物を手にいれるようにさせてください。わたしたちはこんな寂しい所にきているのですから」。13
しかしイエスは言われた、「あなたがたの手で食物をやりなさい」。彼らは言った、「わたしたちにはパン五つと魚二ひきしかありません、この大ぜいの人のために食物を買いに行くかしなければ」。・・・・・・16
イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福してさき、弟子たちにわたして群衆に配らせた。17 みんなの者は食べて満腹した。そして、その余りくずを集めたら、十二かごあった。 (ルカ福音書 9:12-17)
弟子たちのための、とても大切な実地訓練です。主イエスの弟子として、毎日毎日のいつもの暮らしをどのように生きることができるのか。何を頼みの綱として、何に支えられ、助けられて生きることができるのか。それを、「頭では分かっているつもりなんですけどねえ」などと心細そうな顔をするばかりではなく、「ああ、本当にそうだ」と心底から分かり、そのように主イエスの弟子として毎日毎日を生きることができるために。
主イエスは大勢の人々に神の国の福音を語り聞かせていました。12節です。夕暮れどきが迫って、弟子たちは主イエスに言いました。「群衆を解散して、まわりの村々や部落へ行って宿を取り、(それぞれ自分たちで)食物を手に入れるようにさせてください。わたしたちはこんな寂しい所に来ているのですから」。13節。すると主イエスは、「あなたがたの手で食物をやりなさい」。そこでようやく本気になって食物を探して集めました。「わたしたちにはパン5つと魚2匹しかありません、この大勢の人のために食物を買いに行くかしなければ」。もちろん、そんなお金など持ち合わせていませんでした。とうとう弟子たちは、主イエスの弟子として生きるための出発点にたちました。「あなたがたが、自分の手で」と突きつけられて、つくづく思い知らされました。食物がなくて貧しいのは目の前のこの人たちばかりではなく、この自分たちも同じだ。「パン5つと魚2匹しかない。これじゃあ、何も無いのと同じだ。どうしようもない」と。それにしても、この弟子たち、物忘れがひどいですね。ついこの前、手ぶらで町々村々へと送り出されて、無事に戻ってきて、そこでどんなふうだったか何があったかと主イエスに報告したばかりじゃないですか(9:1-6,10-11参照)。つえ、袋、パン、お金、二枚以上の下着も持たず、つまりほとんど手ぶらで出かけていって、なんの不都合もなく、むしろ豊かに満たされて、収穫と喜びにあふれて帰ってきたばかりだったのに。あの時と今と、まったく同じ実地訓練なのに。しかも私たちだって、「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」と口癖のように祈りつづけてきたのに。「われらの」の中には、この大勢の人々も入っていました。「日用の糧」の中にはもちろん、この日暮れ時のみんなのための食物も含まれているはずでした。毎日の暮らしの電気代水道代、家賃、月々のローン、食費、子供たちの養育費も必要なすべて一切も。けれどピンと来ませんでした。その祈りと今のこの困った状況とがどういう関係があるのか、さっぱり分かりませんでした。困った弟子たちですね(*)。でも大丈夫。あの彼らも私たちも物覚えが悪いのはお互い様です。それでもだんだんと習い覚えていきます。主なる神さまにこそすがって、神さまを頼みの綱とし、助けていただき、神さまにこそ聴き従いながら働き、暮らしていく。今も、そしていつでもどこでも。自分たちの手元にないのをわざわざ確かめさせたのは、自分たちの手元ではなく、天の御父から良い物を贈り与えられ、感謝して受け取り、天の御父にますます信頼を寄せて生きるためです。「われらの日用の糧を」という祈りを本気で祈り求め、受け取り、感謝し、信頼し、そのようにして私たちのいつもの現実として毎日毎日を生きるためです。
17節のおしまい、「余りクズを集めたら12カゴあった」と書いてあります。『12カゴ』と聞いて、はっと気づきましたね。あの12人の弟子たちに一人一つずつカゴを持たせて集めて回らせました。『余りクズを集める』ことこそ、今回の、弟子たちのためのいちばん大切な実地訓練です。「ああ、こんなにたくさんあったのか」と弟子たちにビックリさせるためです。だって! ちょっと前には「パン5つと魚2匹しかない。これじゃあ、何も無いのと同じだ」と渋い顔をしていた弟子たちです。集めたカゴの中身を見て、その彼らも私たちも目ん玉を真ん丸にして、「神さまからの恵み、恵み、恵み。ありがとうございます、ありがとうございます」と心によくよく刻み、神さまへの信頼をだんだんと習い覚えてゆくのです。
【補足/一つ一つの『日毎の糧』と、神からの救い】
(*)今日の私たちクリスチャンは、いつ、どういう時に、神の恵みと祝福とを実感するだろうか? 家族と共にいつものごく普通の食卓を囲むとき? あるいは、思いがけない困難や災いをまぬがれたときに? 順風のときにも逆境の日々にも、この自分たちのためにさえ神が生きて働いておられることを実感したい。「ああ、本当にそうだ」と。例えばマルコ福音書は、湖畔での5000人の給食の直後に「湖上の小舟で溺れそうになった出来事」を報告し、その末尾に、弟子たちが恐れ驚いたのは「先のパンのことを悟らず、心が鈍くなっていたからである」(マルコ6:52)と報告する。5つのパンと2匹の魚で大勢が十分に養われたことと、湖の上で大きな危機から救い出されたこととは大いに関係があった。つまり両方共が、ただただ神の恵みの同じ一つの御業だった。けれども、弟子たちは心が鈍くなっていたせいで、その恵みを受け取れずにいたと。この痛切な指摘は、日頃の具体的・現実的な恵みに対して、神ご自身の働きに対して、「ああ! あのときと同じことが、今ここで起こっている」とこの私たちの目が開かれるためである。御父と主イエスからの恵み、憐れみ、平和が、あなた自身とご家族にもありますように。どうぞ、よい日々を。