みことば/2016,12,18(待降節第4主日の礼拝) № 90
◎礼拝説教 コロサイ手紙 3:12-4:1 日本キリスト教会 上田教会
『隣人を愛する』
+こども説教『主イエスにこそ聞け!』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
3:12 だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。13
互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。14
これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。いつも感謝していなさい。16
キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。17
そして、あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい。18 妻たる者よ、夫に仕えなさい。それが、主にある者にふさわしいことである。19
夫たる者よ、妻を愛しなさい。つらくあたってはいけない。20 子たる者よ。何事についても両親に従いなさい。これが主に喜ばれることである。21 父たる者よ、子供をいらだたせてはいけない。心がいじけるかも知れないから。22
僕たる者よ、何事についても、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、目先だけの勤めをするのではなく、真心をこめて主を恐れつつ、従いなさい。23
何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から働きなさい。24 あなたがたが知っているとおり、あなたがたは御国をつぐことを、報いとして主から受けるであろう。あなたがたは、主キリストに仕えているのである。25
不正を行う者は、自分の行った不正に対して報いを受けるであろう。それには差別扱いはない。
4:1 主人たる者よ、僕を正しく公平に扱いなさい。あなたがたにも主が天にいますことが、わかっているのだから。 (コロサイ手紙 3:12-4:1)
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「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」と命じられています。「それでは、私の隣人は誰ですか。どこにいるでしょうか」(マタイ福音書22:34-40,ルカ福音書10:29参照)と涼しい顔をした人もいました。わたしの隣人。私たちが出会う一番最初の隣人は自分の家族であり、連れ合いであり、自分の親であり子供たちです。いつも一緒に暮らし、あまりに身近でありすぎて、どういうふうに付き合うべきなのか。その人々をどのように愛し、尊ぶべきなのか、よく分からなくなる日々もあります。
12-17節。難しい言葉や文章はここには一つもありません。けれど、たとえこれらの言葉を暗記して、人前でスラスラ唱えることができても、またたとえ、それはこういう意味だと格調高く感動的に説明できたとしても、もし、ここで命じられていることと私たちの普段のいつもの暮らしぶりや腹の思いが何の関係もないなら、その人の信仰も知識もただ虚しいだけです。「あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい」と命じられています。「互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい」と、主なる神ご自身から私たちは命じられています。そのように普段のいつもの暮らしを、朝昼晩と生きるようにと。言葉や言い方ではなく、命じられていることの中身がとても難しい。「あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容」を、いったいどうやって身に着けることができるのか。互いに忍び合い、ゆるし合うにはどうしたらいいのか。しかも誰も彼もが罪人であり、頑固でかたくなで怒りの子であるのに。道は一つしかありません。『主が私たちを、この私をさえゆるしてくださった。ああ本当に』と理解し、受け入れ、つくづくと味わうのでなければ、とうてい誰にもできません。『キリストの平和』も、同じ一つのことを指し示しています。キリストの救いの御業をとおして、主なる神は私たち罪深い者たちをゆるし、忍耐し、迎え入れてくださった。それが、『キリストの平和』です。キリストが、罪人である私たちの救いのために十字架の上で殺され、葬られ、三日目によみがえってくださり、その救いの御業に率いられて私たち自身も古い罪の自分を殺され、葬られつづけ、新しい生命に生きる者とされた。そのことに私たちの目と心を向けつづけるように、それこそ自分の心がすっかり支配されるまでに向けつづけよと命じられています。「キリストの平和が心を支配するように」とは、このことです。罪人であり、神に逆らう者だった私たちのためにキリストが死んで復活してくださり、だからこそ私たちもまた、神との平和をキリストによって贈り与えられて生きる者とされました(ローマ手紙5:6-11参照)。その上で、18-21節までは家族の間での具体的な付き合い方。22-4:1は、社会全体の中でのお互い同士の付き合い方が現実的に具体的に指図されています。4:1の「あなたがたにも主が天にいますことが分かっているのだから」と語りかけられているこの一言が、他者との私たちのすべての関係に及びます。主が天にいますことが、この私たちにも習い覚えさせられ、よくよく分かっているはずの私たちなのだから。この一点に照らして、夫や妻との私たち自身の関わり方、親や子としての私たち自身の関わり方、そこからはじまって私たちの社会生活の全体像、そして一つ一つが改めて問い直されています。
まず、18-21節。この私たちそれぞれの家族関係です。「仕えなさい。従いなさい」についてはすでに、ローマ手紙13:1-2(2016,11,13 礼拝説教を参照)によって確認しています。神によって上に立てられた大小様々な権威との付き合い方とまったく同じです。すでに、それは、「何があっても、ただただご無理ごもっともと従うこと」ではありません。神が立てた、神による権威であり、責任や役割であり、神の御心に従うことを抜きにしては、それらとの共存関係はありえなかったからです。「仕える。従う」は、目の前のその相手が、神からゆだねられた責任と使命を、神の御心にかなって果たすことができるように手助けし、精一杯に協力することです。その手助けと協力には、その相手が道を踏み外すときに、「それは間違っています。神の御心に背くことになりますから、してはいけませんよ。分かりますね」と諭すことも含まれます。もし、それでもどうしてもその相手が正しく公正な在り方へと立ち返らないならば、私たちは彼らに精一杯に抵抗し、立ち塞がることさえします。なぜなら彼らもこの私たち一人一人も、神によって立てられ、天の主人にこそ仕えて働く者同士だからです。
22節-4章1節。この私たちそれぞれの、社会の中でのあり方の全体像です。かつてのような形での奴隷や主人は今のこの社会にはないかのように見えます。けれど、基本的にはまったく同じであることに気づきます。責任と強い権威と使命が与えられ、他の者たちの上に立てられている者たちがいます。例えば幼稚園や保育園を含めた学校教師たちは、生徒に対して大きな重い責任があり、権威と力が与えられています。福祉や介護施設の職員、医療従事者たちも同様です。だからそこでは与えられた権威や力がしばしば不適切に不当に用いられたり、そこで弱い立場に立つ者たちが暴力をふるわれたり、虐待されたり、踏みつけにされたりする場合もありえました。労働者たちは今では細々と区別され、互いに隔てられ、引き離されています。パートタイム労働者、非正規雇用の労働者たち、正社員、それぞれの役職につく者たちと。私たちはあるときには上の立場に立ち、別のときには下の立場に立ち、従ったり従わせたり、命令したりされたりしあって働いています。けれど『主人の役割』を担うときにも、『しもべの役割』を担って働くときにも、いつでも、どんな場合にも、天に、すべての者たちのための唯一の主人がおられます。下の立場に立って、『しもべの役割』を担って働くとき、「肉による主人に従いなさい。従いなさい」と命じられます。どうやって、どんなふうに? 同じです。その目の前の相手も私たち自身もまた同じく、天の主人によって立てられ、責任と使命と役割をゆだねられ、天の主人にこそ仕え、天の主人にこそ従って生きるはずのしもべ同士であるからです。目の前のその相手が、神からゆだねられた責任と使命を、神の御心にかなって果たすことができるように手助けし、精一杯に協力することです。22-24節で、とてもていねいに説き明かされています。「人にへつらおうとして、目先だけの勤めをするのではなく、真心をこめて主を恐れつつ、従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から働きなさい。あなたがたは、主キリストに仕えているのである」。主の御心に叶うことを願ってです。もし、そうではなく人に喜んでもらおうとして、あるいは自分自身の喜びや満足、虚栄心のために何かをしようとするとき、あのときのペテロのように私たちも厳しく叱られます、「サタンよ、引き下がれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。人間のことばかり思い煩っている。だからそのおかげで神を思う暇がほんの少しもないのだ」(マタイ福音書16:23参照)と。そうではなく、主への真心と信頼をもって、あなたは主にこそ従いなさい。家で家族の世話をし、洗濯をし、掃除をし、食事の支度をするとき、家族に仕えているだけでなく、そこでそのようにして主キリストに仕えている私たちです。いつもの職場で同僚や上司と共に働き、お客の相手をするとき、ただ同僚や上司と働いているだけではなく、ただお客の相手をしているだけでもなく、そこでそのようにして主キリストに仕えている私たちです。年老いた親の介護をして暮らしている人たちもいますね。同じです。目の前の父さん母さんのお世話をし、手助けをし、支え合って暮らしているというだけでもなく、そこでそのようにして主キリストに仕えている私たちです。目の前にいるその一人の小さな人は変装をして姿を変えた主イエスご自身である、と神の不思議な現実が打ち明けられ、私たちは折々に深く襟を正されます。思いやり深く親切にしてあげる時もあり、逆に、冷淡に厳しくあまりに薄情にその人を取り扱ってしまうことも度々あったからです。「あの時はとても悲しく辛く惨めだった。残念で嫌な気がした。わたしが空腹の時、あなたは食べさせてくれなかった。ノドが渇いていたとき、コップ一杯の水さえ飲ませてくれなかった。宿も貸してくれず、着物を着せかけてもくれず、どうしているかと見舞うことも尋ねることも、あなたはしてくれなかった」と主キリストから非難されたくはありません。むしろ、「ありがとう」と喜んでいただきたいのです。「わたしが空腹の時に食べさせてくれた。ノドがカラカラに渇いていたとき、コップ一杯の水を飲ませてくれた。宿を貸し、着物を着せかけ、どうしているかと見舞ってくれたし、尋ねてくれた。とても嬉しかった」(マタイ福音書25:31-46参照)と。その一人の小さな者にしてくれたのは私にしてくれたことだ。してくれなかったのは、私に対してしてくれなかったことだと主キリストはおっしゃいます。
また、上に立てられ権威と責任を負う者たちがうっかりして心得違いをしてしまうこともありえます。生身の人間にすぎないからです。その手助けと協力には、その相手が道を踏み外すとき、してはならないことをうっかりしようとするときに、「それは間違っています。神の御心に背くことになりますから、してはいけませんよ。分かりますね」と諭すことも含まれます。もし、それでもどうしてもその相手が正しく公正な在り方へと立ち返らないならば、私たちは彼らに精一杯に抵抗し、立ち塞がることさえします。「何が神の御旨であるのか。何が善であり神の喜ばれることであるのか。何が悪いことで、神を怒らせたり悲しませたりすることであるのか」と信仰の道理に従ってそれぞれ自分自身で精一杯に考え、判断し、選び取りつつ、そのように生きる私たちです。何事についても、何をするにもです。目の前の、その肉による主人にへつらってはならず、その主人に恐れおののいてはなりません。主をこそ恐れ、主にこそ十分に信頼を寄せ、そこでそのようにしてただお独りの主人であるキリストにこそ仕えている。
隣人を愛することは、私たちの只中で、そのようにして実現され、積み重なってゆきます。その隣人が強くても弱くても、貧しくても豊かであっても、大きくても小さくても、あるいは自分と仲良しで親切にしてくれる相手でもそうでなくたって、何の分け隔ても区別もなく、自分自身を愛し尊ぶようにして、目の前のその人を愛し尊ぶことができればどんなに幸いでしょうか。ある人が主イエスに質問しました、「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。イエスは答えて言いました、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』(マタイ福音書22:36-39)。心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なる神を愛そうと願い、主の御心にかなって生きていきたいと願い求めつつ生きる私たちは、やがてだんだんと、自分自身を愛し尊ぶのに負けず劣らずに隣人を愛し、尊ぶ者たちとされてゆきます。神ご自身が私たちを憐れんでゆるしてくださったからであり、それほどに愛してくださったからです。神ご自身が私たちの間に、この私自身のためにもあなたのためにも、それをきっと必ず実現させてくださいます。