2016年11月14日月曜日

11/13「権威者とは何者か?」ローマ13:1-2

 ◎とりなしの祈り

 慈しみ深い父なる神さま。あなたは私共に隣人を愛することをお命じになり、とくに「親から引き離されて暮らす子供たち、夫と死に別れた未亡人、外国からの出稼ぎ労働者(=寄留者)たちのために正しい裁きを行ない、食べ物と着るものを与え、彼らを愛しなさい。あなたがたもエジプトの国で外国からの出稼ぎ労働者たちだったのだから」(申命記10:18-参照)と指図をなさいました。あなたからのご命令とご委託を、私共の心に刻ませてください。
  主なる神さま。この国では経済的な格差がますます広がり、毎日の生活と食べるものにも困る貧しい人々が置き去りにされつづけています。未亡人のような、遠い国からの出稼ぎ労働者のような彼らです。親から引き離されて暮らす子供たちのような彼らです。外国からの出稼ぎ労働者たちも、また日本人も過酷な労働条件で働かされ、モノや道具のように扱われ、使い捨てにされる人々が大勢います。主よ、私たちを憐れんでください。沖縄と福島と原発施設を設置されているそれぞれの地元の人々を顧みてください。原発施設で働く下請け労働者たちと東京電力の社員たちの健康をお守りください。とても危ない紛争地域に送り出されて、戦争に参加させられようとしている自衛隊員とその家族をどうか助けてください。無駄に粗末に命を捨てさせられないように、彼らをお守りください。保育園、幼稚園と、すべての学校教師たちの働きをお支えください。お父さんお母さんたちが、自分の子供たちを十分に愛し、心を砕き、精一杯に養い育てることができるように、その心と毎日の生活とをお支えください。福祉施設と医療現場で働くすべての職員が公正に正しく、また思いやり深く誠実に務めに当たることができますように。貧しく心細く暮らす多くの人々がいます。彼らの毎日の暮らしがあなたの憐れみによって支えられ、心強く守られますように。その彼らのためにも、私たちの家族と地域のためにも、この国と後から来る新しい世代のためにも、私たちをどうか地の塩、世のための光(マタイ5:13-16参照)として十分に用いてください。神さまからの憐れみを受けたものたちとして、私たちには、果たすべき役割と大きな責任があるからです。天に私たちの主人がおられます。そのことを信じます。主よ、どうか私たちを憐れんでください。主イエスのお名前によって祈ります。アーメン。



                                         みことば/2016,11,13(主日礼拝)  85
◎礼拝説教 ローマ手紙 13 12                    日本キリスト教会 上田教会
『権威者とは何者か?』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
  13:1 すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。2 したがって、権威に逆らう者は、神の定めにそむく者である。そむく者は、自分の身にさばきを招くことになる。  (ローマ手紙 13:1-2)

4:1 あなたがたにも主が天にいますことが、わかっているのだから。
                        (コロサイ手紙 4:1)
 


 1-2節です。「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。したがって、権威に逆らう者は、神の定めにそむく者である。そむく者は、自分の身にさばきを招くことになる」。これは難しい箇所です。「すべての人は」と語りかけられているのですから、一人の例外もなく誰も彼もがと命じられています。私たちの上に、この地上の世界に、さまざまな権威者と支配者・指導者たちが立てられており、それら大小様々なすべての権威者の権威と責任とは神に由来する。そのことを権威者自身も、また私たち一人一人もよく弁えている必要があります。「従うべきだ」と日本語に翻訳された言葉は、元々の意味としては、『その権威のもとに立って、その権威者を下から支える』『協力してあげて、きちんと責任と務めを果たすことができるように助けてあげる』という意味です。ですから何をされても、ただただ闇雲に、ご無理ごもっともとペコペコ従いなさいなどという意味では決してありません。どうぞ、安心してください。なぜならば、たとえ神による権威、神に由来する権威であるとしても、その権威者たちは、『自分は神によって立てられた者だから、神の御心にこそ忠実に従って、神の御心にかなって仕事を果たさねばならない』などとはほんの少しも知らない場合も大いにあるからです。あるいは知っていても、神ご自身の権威に自分がはなはだしく逆らい、脱線し、ならず者の暴君に成り下がってしまう場合もありえたからです。それは今日でも、世界中でもこの日本でも 大いにありえます。神によって建てられた権威が暴走し、ならず者の暴君と化すとき、私たちはどうしたらいいでしょうか? 問うまでもありません。『その権威者が、立ててくださった神の御旨にかなって健全に働くことができるように、下から支える』。『協力してあげて、責任と務めを彼らがふさわしく適切に果たすことができるように助けて』あげます。そのためには時には、反対意見を権威者に対してはっきりと申し述べたり、その誤りを正したり、立ち向かうこともします。そのようにして権威と役割をゆだねられた彼らを支えたり、手助けしてあげるのです。
  少し前に、「牧師という職業の人間に対して、私たちはどう考え、どのように付き合ったらいいでしょう」と問いかけていました。それについてのまったく正反対の二種類の判断が、私たちの教会の中にありつづけます。ある人々は、『牧師は教会の責任者であり、ボスだ。お父さんのようなリーダーだ。だから、なにしろこの人の判断に聞き従い、この人の指示に従っていく。この人の思い通りの、望むままの仕方で教会を運営していくことが良いことなのだ』と。別の人々は言います。『いや、そうじゃない。その考え方は間違っている。牧師は頭ではなく、ボスでもない。ましてや神でもなく神の代理人でもない。確かに責任を持つ者であるとしても、それはキリストに仕えるしもべとしての責任だ。聖書はそう言っていたじゃないか。私たちは皆共々に、主に仕えるしもべ同士である。主にこそ従うのだ』と。「牧師が間違ったことや悪いことなどするはずがない」という人々さえいます。いいえ、牧師も学校教師も警察官も裁判官も内閣総理大臣も、たかだか生身の人間にすぎません。あなたや私と同じに 良いこともすれば悪いこともする。それら生身の人間にすぎないものを神に替えて、むやみに信用しすぎたり、ただ言いなりに従ってよいわけではありません。信じたり拝んだりしていい相手は、ただただ神さまだけ。しかももちろん、牧師も神父もとんでもない悪事を働くこともありえます。「正しい人は一人もおらず、みな罪人にすぎず、罪人の中の罪人だ」(ローマ手紙3:9-19,テモテ手紙(1)1:15と聖書が告げる大切な真実を、人間理解の根本原理を、中身のないただの絵空事にしてはなりません。「牧師や神父の中の何人かが」というだけでなく、キリスト教会は繰り返し繰り返し何度も「組織ぐるみの大犯罪」に手を染め、神にはなはだしく背きました。キリストの教会とその教えは、何度も何度も泥にまみれ、世俗化し、中身のない形式主義に堕落しました。ちょうど一ヶ月前にも、そのことを紹介しました(マタイ福音書11:20-24『悔い改めない町を叱る』2016,10,9 礼拝説教)。今から500年ほど前のこと。『罪のゆるし。罪からの解放』は、中身のない形ばかりのものへ、教会のただの金儲けの道具へと変質していました。『免罪符、天国行きの格安チケット』の格安販売です。たった一人の修道士が立ち上がって、「それは間違っている。そんなイカサマをしてはいけない、主なる神に背いてしまうではないか」と。そこから教会全体を真っ二つに引き裂く宗教改革がはじまり、教会はローマ・カトリックとプロテスタント諸派(プロテスタントとは、『抗議する者たち』という意味)とに分裂して今に至ります。キリスト教会が腐敗し堕落するとき、ひと握りの人々が立ち上がって、「それは間違っている。神へと立ち戻ろう」と呼びかけ、正しい道へと導き返すことができた場合もあり、けれど立ち戻ることがなかなかできなかった長い暗黒の時代もありました。しかも何度も繰り返して。例えば、インディアンやその土地に元から住んでいた住民を弾圧し、虐殺し、土地や財産を取り上げて商売人たちと手を組んで大儲けしたのは、キリスト教会です。商売人たちと一緒になって黒人奴隷を売り買いしたのも、キリスト教会です。黒人たちを差別し、奴隷やモノのように扱いつづけたのも、キリスト教会です。南アフリカ共和国で人種隔離政策を取りつづけたのも、キリスト教会とクリスチャンたちであり、しかも私たちの教会と近しい親戚筋の改革教会のものたちでした。これらのはなはだしい悪事を正すことは難しく、何十年もの長い長い歳月を必要としました。兄弟姉妹たち。キリスト教会と私たちすべてのクリスチャンは罪人の集団にすぎないのです。そのことを、心底から本気になって弁えつづけねばなりません。「自分たちは正しい」とする傲慢こそが、罪のいつもの最大の根っこです。彼らの振り見て、我がふり直せ。
 これら、延々と繰り返されたはなはだしい悪事の責任者が誰であるのかは明らかです。王や教会上層部の指導者たちは、もちろん逃れようもない責任者です。けれど彼らだけが責任者なのか。いいえ、それは違います。王や指導者たちと共に、その悪事に加担した全員が一人残らず責任者です。「それは間違っている。神に背いているから、そんなことはしてはいけない」と、もしそこで、ほんの一握りの人々が立ち上がるなら、その国は神の国でありつづけることができます。「それは間違っている。そんなことはしてはいけない」と判断し、声をあげることのできる国民がそこにたった一人でもいるならば。モーセであれ安倍首相や日キの大会議長であれ、尊敬された大先輩の牧師であれ、他のどんな王様たちであれ、神に代わることなどできません。人間を神に代えることなど、決してしてはいけません。そのためには、神を信じて生きるはずの一人一人に、つまりこの私たちにこそ責任があります。どうぞ思い浮かべてみてください。教会では牧師や長老に従い、家に帰ったら夫や父親に従い、町内会では班長や世話役に従い、職場では上司や現場主任の言うことに何でもハイハイと従うのか。神への信頼と、目の前の人間にすぎない指導者・権威者への信頼。この二つが互いに相容れない場合はあります。なぜなら、目の前のその権威者は生身の人間にすぎないからです。間違った判断をしてしまうこともあるからです。だって、人間だもの。そのとき、神を信じて生きるはずの私たちは、どうするでしょう。「それは間違っている。そんなことはしてはいけない。あなたは神ではなく神の代理人でもない」と立ちはだかって、彼らの心得違いや判断の間違いを、あなたは正すことができるでしょうか。それとも言いなりにされて、どこまでも流されていってしまうでしょうか。それが、いつもの別れ道。キリストを頭と仰ぐキリストのものである教会なのか、キリストに従って生きるクリスチャンなのか、それともそうではないのか。

 神によって立てられた大小様々な権威者たち。一つ一つ思い浮かべてみましょう。幼稚園や保育園、小学校中学校高校の教師たちがそれです。職場の主任や管理職がそれです。医療機関や介護福祉施設の職員たちがそれです。また、国家権力、政府与党、内閣総理大臣、警察官、裁判官などがそれです。地方行政団体の首長や議員たち役人たちがそれです。キリスト教会の牧師、長老、執事などがそれです。子供たちが人生で最初に出会う、最も身近な権威者は、その子供たちのお父さんお母さんです。それらすべては、神による権威であり、神に由来する権威です。しかも、そうでありながら、彼らは生身の人間にすぎません。良いこともするし、してはならない悪いことをする場合もあるでしょう。だって人間だもの。「従いなさい」と命じられていましたね。それは、『その権威のもとに立って、その権威者を下から支える』『協力してあげて、神の御心にかなって、責任と務めをふさわしく適切に果たすことができるように精一杯に助けてあげる』という意味です。あなたの目の前にいるその権威者が、神ご自身の権威にはなはだしく逆らい、脱線し、ならず者の暴君に成り下がってしまうとき、私たちはどうしたらいいでしょうか。一つの家族の中でも、それはありえます。キリスト教会の中でも、それはありえます。神によって建てられた権威が暴走し、ならず者の暴君と化すとき、私たちはどうしたらいいでしょう。
  父さん母さんとその子供たちの場合が、分かりやすい良い実例です。子供たちは、どんなふうに育っていくでしょう。「お父さん。あなたを尊敬しているし、とても大切に思っています。でも、天に主人がおられます(コロサイ4:1)。あなたがしていることは間違っている。それは悪いことです」と、その息子や娘たちは父親に立ち向かって行けるでしょうか。それとも、「お父さんが言うのだから仕方がない」とその妻や子供たちは言いなりになるでしょうか。もし仮に40歳、50歳、60歳になっても、「だアって、ぼくのお父さんがこれこれだと言うので」などと何でも言いなりに従うなら、何一つも自分自身で考えたり判断したり選び取ったり、一人の人間として大人として責任を負おうとしないなら、その父さん母さんは子供の育て方をすっかり間違えてしまったことになるでしょう。その子はあまりに未熟な小さな小さな3歳の子供です。いいえ、決してそうであってはなりません。私たち人間一人一人に権威と責任と務めをお与えになった神が、天におられるからです。天におられます主人にこそ忠実に従い、天の主人にこそ仕えて生きるはずの私たちだからです。私たちは、キリストを主と仰ぐキリスト者です。だからこそキリスト者は自由な王であって、何者にも膝を屈めず、だれの奴隷にもされてはならず、何者にも決して屈服しません。たとえ絶大な権力を握るこの世の王や、権力者やどんな支配者たちに対しても(Mルター『キリスト者の自由』,1520年)。ここから、ついにとうとう、信仰をもって主に従って生きることの悪戦苦闘が始まります。
  やがて主イエスを信じる弟子たちは、警察官や役人や偉い議員たちに厳しく脅かされても、「二度とイエスの名を口に出していい広めてはならない」と叱られても、棒で打たれても、涼しい顔をしてこう言い返しました。「イエスは私に対しても主であり、この世界全体に対しても主である。神に聞き従わず人間すぎない者どもに聞き従うわけにはいかない。なぜなら神の御前に正しくはないし、間違ったことなので。ナザレのイエス。他に主人はおらず、私たちを救いうる名はイエスの他には、天下の誰にも与えられてはいない。この私としては、自分の見たこと聞いたこと、信じたことを語らないわけにはいかない」(使徒4:10-12,19-20参照。そのとおりです。目の前にいる大小様々な権威者に従ってもいいのは、その人間の言うことなすことが神の御旨に背いていないときだけです。なぜでしょう。なぜなら、天にただお独りの主人がおられることを私たちはよくよく習い覚えてきたからです(コロサイ手紙4:1を参照)


   【参考】(1)「日本キリスト教会 教会員の生活」の第四章三節『教会と国家』の項目、『現代日本の状況における教会と国家に関する指針』(2003年改訂版,p90-96,巻末付録p209-220)。
(2)『キリストが主だから ~いま求められる告白と抵抗~』(山口陽一,朝岡勝共著,新教出版社)