11/20 こども説教 ルカ8:43-48
『出血の病気の女性が』
8:43 ここに、十二年間も長血をわずらっていて、医者のために自分の身代をみな使い果してしまったが、だれにもなおしてもらえなかった女がいた。44
この女がうしろから近寄ってみ衣のふさにさわったところ、その長血がたちまち止まってしまった。45 イエスは言われた、「わたしにさわったのは、だれか」。・・・・・・47
女は隠しきれないのを知って、震えながら進み出て、みまえにひれ伏し、イエスにさわった訳と、さわるとたちまちなおったこととを、みんなの前で話した。48 そこでイエスが女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。 (ルカ福音書 8:43-48)
ずいぶん長い間、12年間もずっと出血の病気に苦しめられ、財産をすっかり全部使いつくしても誰にもその病気を治してもらえなかった女性がいました。その人は、一つの希望をもちました。主イエスなら、私の病気をきっと治してくださると。彼女は、主イエスに「うしろから」そっと近寄って衣のふさに触り、そのまま黙って立ち去ろうとし、「隠しきれないと知って震えながら」進み出ました。その病気にかかった者は汚れたものとされて、他の人々の中に決して入ってはいけないと厳しく禁じられていたからです。見つかれば、とてもきびしい罰や懲らしめを受けるだろうと、恐ろしかったからです。
主イエスは、「わたしに触ったのは誰か。どこにいる」(45-46節を参照)と探しつづけます。顔と顔を合わせて、自分が病気を治してあげた相手とちゃんと向き合い、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と語りかけてあげる必要があったからです。どうしても、そうしなければなりません。その彼女のためにも、ここにいるこの私たちのためにもです。あなたの信仰があなたを救った。みなさんは、どうですか。主イエスを信じているのでしたね。その信仰によって、自分自身も、自分の大切な家族もぜひ、主イエスを信じる信仰によって救ってもらいたいと、あなたも心から願っているのですか? じゃあ、それならば、彼女の信仰のどこがどう彼女自身を救ったのかを、この私たちもはっきりと知らねばなりません(*)。彼女の信仰は、人々の顔色や空気や誰彼が言うことに従いません。みんながしていることをし、していないことはしないなどと世間様の言いなりにされません。それよりも、主イエスに救っていただくほうが千倍も万倍も大切だと腹をくくる信仰です。「ダメだ。止めなさい」と皆から言われていることをし、何をされるかと恐れながら、けれどもこの1人の人は主イエスへと手を伸ばしました。彼女の信仰は、なにしろ主へと手を伸ばし、主へと向かいたいと願い求める信仰です。悩みがあり、とても抱えきれない困難があり、重すぎる課題があります。それらを抱えて、あの一人の人は、そこで、そのようにして主イエスへと向かいました。貧しく身を屈めさせらるとき、そこで、そのようにして主へと向かう私たちです。恐れと心細さに飲み込まれそうになるとき、ガッカリし、疲れ果てて、心がすっかり挫けそうになるとき、そこで、そのようにして主へと向かう私たちです。「一体どうしたらいいんだろう。誰が私を助けてくれるんだろうか」と途方に暮れるとき、そこで、そのようにして主へと向かう私たちです。だからこそ、私たちはここにいます。それは、まったく恵みであり、自由な贈り物でした。それは、この私が何者であるのかをもはや問いません。この恵みとゆるしのもとに据え置かれて、私たちはもう互いに、大きいだの小さいだの、貧しいだの豊かだの強いだの弱いだの、見苦しいだの見劣りがするだのと見比べ合うことをしなくてよいのです。私たちには一つの確信があります。主イエスに対する確信です。この主に私たち自身の一切をゆだねることができる、という確信です。ゆだねるに足るお独りの方と出会った、という確信です。
【補足/あなたの信仰が】
(*)48節。そうである場合と、そうではない場合とがありました。信仰が小さすぎる場合があり、まったく無い場合さえあり、無くても救われた人々もいます。けれど、せっかく主イエスを信じたのなら自分と家族を救いうる信仰がほしいですね。その信仰もまた神からの恵みの贈り物。それなら、願い求めましょう。「わたしを救いうる信仰を、主よ、与えてください。神を知りたい。信じたい」と。願いは、かなえられます。かなえてくださる慈しみ深い真実な神がおられますから。