2016年9月5日月曜日

9/4こども説教「大きな大きな権威のもとにある」ルカ7:1‐10

 9/4 こども説教 ルカ7:1-10
 『大きな大きな権威のもとにある』

7:6 百卒長は友だちを送ってイエスに言わせた、「主よ、どうぞ、ご足労くださいませんように。わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。7 それですから、自分でお迎えにあがるねうちさえないと思っていたのです。ただ、お言葉を下さい。そして、わたしの僕をなおしてください。8 わたしも権威の下に服している者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。           (ルカ福音書 7:6-8)


(補足。読んでいて、ええ? と首を傾げるところがありましたね。4-5節。使いに送られてきたユダヤの長老たちの発言、「あの人はそうしていただく値打ちがあります」。その理由は、ユダヤの国を愛し、ユダヤ人のために会堂を建ててくれたので。神さまや信仰のことがよく分かっているはずの長老たちが、けれど心を鈍くさせ、トンチンカンなことをいっています。どういう神さまなのかが、すっかり分からなくなっています。百卒長自身も、「家にお迎えする資格がない」「出迎える値打ちもない」などと似たようなことを言っています。神さまの考え方は、ずいぶん違っています。値打ちや資格があるかないかと何の関係もなしに、ただただ可哀そうに思って、それで救ってくださるのです。むしろ、資格のない、値打ちのない罪人たちをこそ真っ先に恵みと祝福へと招き寄せました。正しい人をではなく、病人である罪人をこそ招く医者である神です。ルカ福音書5:31-32参照)

  9節、「これほどの信仰を見たことがない」と主イエスは仰いました。ですから、何がどれほどなのか、どういうところが兵隊100人を率いる隊長の信仰のとても良いところなのかと目を凝らしましょう。7節後半から8節です。「ただ、お言葉をください。そして、わたしの僕(しもべ=手下、部下)を治してください。わたしも権威の下に服している者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、しもべに『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。一言おっしゃってください。私も権威のもとに置かれています。私の部下の兵隊は、私が行けといえば行く。来いと言えば来る。そのように「治れ」と命じてください。そうすれば彼を苦しめる病いも、彼もこの私自身も、あなたの権威に従います。こういう隊長と部下たちが、この地上に現実にいるかどうか。それはどうでもいいことです。多分いません。本当には、私たち人間同士のことではないからです。そんなことよりも、そういうただお独りの飛びっきりの隊長と、この私たちクリスチャンは、ともに死地をくぐり抜け長く深く付き合ってきた。その中で、このただお独りの隊長によくよく信頼して従うことを習い覚えてきた。『全幅の信頼を寄せるに足る相手である。ひたすらに聴き従うに価する相手である、本当にそうだ』と深く頷くことを積み重ねてきたということです。こうして隊長と部下は、『主イエス』と『主イエスに従って生きる私たち』との本来の姿を指し示します。もちろん、そうした信頼関係は簡単には形造られません。
  奇妙なことに、ある一人のクリスチャンは洗礼を受けた後でも、ずっと長い間なんだかピンと来ませんでした。「イエスは主なり」と唱えていたし、「御心のままに。御心のままに」と口癖のように言い続けながら、それと裏腹に、自分のその時々の気分や腹の虫に従って生きていました。人々の顔色をうかがい、周囲の人々の言いなりに聞き従うばかりで、イエスを自分の主人としてよくよく信頼して従って生きてゆくことの幸せが、なかなかピンと来ませんでした。だって、イエスという主人が強くてしっかりした主人だとは思っていなかったし、どうせチッポケな小さな小さな権威だろうと軽く見ていたからです。「誰を自分の主人として聴き従って生きてゆくつもりですか」と聞かれても、知らんぷりしていました。けれどある時ようやく気づきました。この私は、他のどんな権威や支配のもとでもなく、ただただ主なる神さまの真実と慈しみの只中に置かれ、その大きな大きな権威のもとにだけ据え置かれている。だから、その分だけ自由だ。それが私たちのための神さまからの約束だった。一番下っ端の下っ端の下っ端の、ただの一兵卒にすぎない私たちの力と安らかさの源でありつづける。主イエスを信じた私たちは、あの百卒長と同じくこの世界へと、いつもの生活の現場へと、自分の家や職場や学校へと送り出されます。100人分の隊長も1000人分の隊長も、ただの下っ端の兵隊もこの私も、皆同じでした。ああ、そうだったのかと。そうであるなら、やがて「あなたは行きなさい」と命じられるときに、私たちは安らかにここを立ち去ってゆこう。「来なさい」と命じられるときに、どこへでもいつでも、私の準備ができていようがいまいが、気が進もうが進むまいが、虫が好こうが好くまいが、そんなこととは何の関係もなしに 「はい分かりましたア」と出かけていこう。それまでは、ここに留まろう。「しなさい」と命じられることをし、「してはならない」と禁じられることをしないでおこう。この私自身こそは。天に主人がおられますことを、その主人の大きな大きな権威の下に据え置かれてることを、この私自身も、よくよく分からせていただいたのだから。とうとう、はっきりと気づかせていただけたのだから。