2016年9月19日月曜日

9/18「平和ではなく剣を?」マタイ10:34‐39

わたし(=主イエス)は平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。
                     (ヨハネ福音書 14:27)


 ◎とりなしの祈り
  主なる神。「外国からの出稼ぎ労働者(=寄留者・きりゅうしゃ)をしいたげてはならない。あなたがたはエジプトで外国からの出稼ぎ労働者だったので、彼らの心細さや惨めな心を知っているからである」(出エジプト記23:9参照)と戒められている私たちです。この国では、東南アジアからの出稼ぎ労働者も沖縄の人々も、日本人自身さえも、まるでヨソ者のようにしてしいたげられつづけています。原子力発電所を設置されている住民も、危険な作業に従事する下請け労働者たちも、自衛隊員も、ますます増える非正規雇用の労働者たちも、多くの子供も親たちも年配の人々もそれぞれ貧しく心細く暮らしていて、皆ともどもにしいたげられ、踏みつけにされつづけています。国家とほんの少数の裕福な人々の利益こそが、なにより優先されるからです。国家の利益の中には、しいたげられる人々の安全も幸いな暮らしも勘定に入っていません。この日本でもアメリカでもイギリスでも、世界中のどの国でも、『自分たちの国と、自分たちの同胞と、自分たちの生活こそが第一だ。他の人々はどうでもいい』と人々は叫び立て、他の国や人々を力づくで押しのけつづけます。私たちは身勝手になり、どんどん心を狭く貧しくさせられています。
  主なる神さま。どうか私たちを憐れんでください。神を信じて生きるはずの私たちもまた、人間中心の自己中心の、独りよがりな狭くて小さな世界にしばしば深く閉じ込められてしまうからです。神さまこそが主人であり中心だと、まず私たちクリスチャンにこそはっきりと弁えさせてください。すべての子供たちが十分に愛され、安心して暮らし、やがて慈しみ深い広く暖かい心をもつ大人に育つことができますように。親と周囲の大人たちがそれぞれの務めを精一杯に果たして子供たちの心と体を守ってゆくことができますように。あなたの御心になかって生きることを、どうか今日こそ、この私たちにも願い求めさせてください。
主イエスのお名前によって祈ります。アーメン



                                          みことば/2016,9,18(主日礼拝)  77
◎礼拝説教 マタイ福音書 10:34-39                      日本キリスト教会 上田教会
『平和ではなく剣を?』


   牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
  10:34 地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。35 わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。36 そして家の者が、その人の敵となるであろう。37 わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。38 また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。39 自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。
                                           (マタイ福音書 10:34-39)


 
  難解な箇所の一つです。なぜなら私たちは聖書から、また当の主イエスご自身の口から、正反対の語りかけを聴きつづけてきたのですから。最初のクリスマスの夜、羊と羊飼いたちが野宿しているその夜空の上から、おびただしい数の天の軍勢と天使たちが救い主イエスの誕生を祝って歌い交わしました。「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」と。預言者はやがて来られる救い主について、あらかじめこう告げていました。「すべて戦場で、歩兵のはいた靴と、血にまみれた衣とは、火の燃えくさとなって焼かれる。ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる」。また主イエスご自身こそが格別な祝福を弟子たちに告げました、「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」、そして復活の朝に弟子たちの前に現れて、「安かれ。」と二度つづけておっしゃり、手と脇腹の傷跡を見せて、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす。聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は誰の罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。だからこそ主イエスの弟子たちは、主イエスからの平和を携えて出てゆき、それを人々に差し出し、手渡す平和の使者とされたはずでした(イザヤ9:5-6,ルカ2:14,ヨハネ14:27,20:19-23,コリント手紙(2)5:18-21
  もう少し詳しく眺めてみましょう。「平和ではなく剣を」と仰ったところを、ルカ福音書は「平和ではなく、分裂を」(ルカ12:51とかなり踏み込んで具体的に言い表しています。「今から後は、一家の内で五人が相分れて、三人はふたりに、ふたりは三人に対立し、また父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに、対立するであろう」。しかも分裂や争いをと言い始めながら、直ちに、それにすぐ続けて、「偽善者よ、あなたがたは天地の模様を見分けることを知りながら、どうして今の時代を見分けることができないのか。また、あなたがたは、なぜ正しいことを自分で判断しないのか」(ルカ12:56-57と。つまり、「神の御心にかなう、神に喜んでいただける正しいことを、自分自身の頭と心で判断し、自分で選び取りなさい」と命じておられます。「偽善者よ」と、きびしく叱りかけながら。事柄はすでに明らかです。もしかしたら、「クリスチャンはいつでも何をされても、どんな間違った悪いことに直面しても、いつでもニコニコヘラヘラと笑っていなさい」とでも教わってきましたか。絵本の中のサンタクロースのように。ケンタッキーの鶏肉屋さんの店先に飾ってあるカーネルサアンダース人形のように。いいえ それは平和ではなく偽善です。ただ上辺を取り繕って、なごやかで愛情溢れて和気あいあいとしているふうに装っているだけです。そんな安っぽいつまらない見せかけのために、救い主がこの世に来られたはずがないではありませんか。確かに、「平和をつくり出す人たちは幸いである。彼らは神の子と呼ばれるであろう」(マタイ5:9と主イエスご自身がはっきりとおっしゃいました。そのとおり。しかも、それと「平和ではなく剣を。分裂と争いを」とおっしゃったことは少しも矛盾しません。造り出すべき平和は、神さまから差し出された平和であり、主イエスがご自分の体を十字架にかけ、肉を引き裂かれ、血を流し尽くして勝ち取ってくださった平和であり、「わたしの願いや思いどおりではなく、父なる神の御心にかなうことが成し遂げられますように」という平和であるからです。その平和のためには、きびしく争ったり、互いに対立したり分裂したりすることも有り得ます。そのために夫婦が争い、親子や兄弟が争うことも有り得ます。そうした悪戦苦闘の果てに、ようやく神の御心と神の平和が地上に打ち立てられていきます。そうそう、最初のクリスマスの夜、天の軍勢と天使たちが救い主イエスの誕生を祝って歌い交わしました歌は、「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。主なる神の御心にこそかなって、御心にこそ従って生きていこうと腹をくくることなしにはありえない平和が指し示されていました。
  「今から後は、一家の内で五人が相分れて、三人はふたりに、ふたりは三人に対立し、また父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに、対立するであろう」。ごく表面的な平和を思い描いてきた人々は、こう語り出されれて眉をしかめ、渋い顔をするでしょう。「クリスチャンは従順で柔和な、いつでも嫌な顔をせず、ニコニコしつづけている人々だと聞いてきたのに」と。朝から晩までニコニコニヤニヤしている、そんな人はずいぶん変わり者です。聖書にはそんなことはほんの一言も書いてありません。渋い顔をすべきときはあります。断固として、事を荒立てねばならないときもあります。言い逆らって、ほんの一歩も後に引いてはならないときもあります。家族の中でも職場でも、学校でも地域社会でも、国家権力に対してさえも。例えば、「あなたの父母を敬え。これは、あなたの神、主が賜る地で、あなたが長く生きるためである」(出エジプト記20:12と命じられています。これは、モーセがシナイ山で神から授けられた十の戒めの真ん中に配置されています。つまり、『神を愛し尊ぶこと』と『隣人を自分自身のように愛し尊ぶこと』との間の橋渡しとして。とくに年老いた父母は、尊んで精一杯に配慮し、労わり愛するべき、もっとも身近な隣人です。同時に、その人が最初に出会う『神によって配置された地上の権威者の代表』です。どのように父母を敬い、重んじ、どのように父母に従うべきでしょうか。「お父さん、お母さんがこれこれだと言うので。父さんが、こうしなさいとお命じになるので、だから」と何でもかんでも父さん母さんの言いなりに従うなら、304050歳になってもまだまだ「だあって、ぼくのお父さんがコレコレだというので。それで」と言うなら、その人はまだまだ小さな子供で、あまりに未熟です。なぜならば、神を信じて神にこそ聴き従って生きるはずの兄弟姉妹たち。「天に主人がおられますことを、私たちはよくよく習い覚えてきたはずですから」(コロサイ手紙4:1を参照)。父母に対しても、親戚の叔父さん叔母さん、学校の先生に対しても、町内の世話役に対しても、職場の主任や上司に対しても、国家権力に対しても、教会の牧師や長老に対しても、その対応はまったく同じです。誰の前でも、「良いことは良い。悪いことは悪い。してはいけないことは、してはいけない」と。子供たちはどんなふうに育っていくでしょう。お父さんお母さんは、どういう人間に育ってもらいたいと願いながら、子を養い育ててゆくでしょうか。しかも、父さん母さんといえども生身の人間にすぎず、とても良い立派なことをするときもあれば、してはいけない悪いことをついついしてしまうことも有り得ました。して良いことを自分の父母がするとき、従って良いでしょう。そうではないとき、してはいけない悪いことを自分の父母がしようとし、一緒に悪いことをしようと勧めるとき、あなたはその人たちの子供として、何と答えましょうか。「お父さん。あなたを尊敬しているし、とても大切に思っています。でも、天に主人がおられます(コロサイ4:1)。あなたがしていることは間違っている。それは悪いことです」と、その息子や娘たちは父親に立ち向かって行けるでしょうか。それとも、「お父さんが言うのだから仕方がない」とその妻や子供たちは言いなりになるでしょうか。主を信じ、主を主として生きる新しい世代が育つかどうか。それが、子供の親である私たちの試金石です。私たちは、キリストを主と仰ぐキリスト者です。だからこそキリスト者は自由な王であって、何者にも膝を屈めず、だれの奴隷にもされてはならず、何者にも決して屈服しません。たとえ絶大な権力を握るこの世の王や支配者たちに対しても(Mルター『キリスト者の自由』)。ここから、信仰をもって生きることの悪戦苦闘が、ついにとうとう始まります。神さまからゆだねられた平和が、いよいよ、そこから積み上げられ、育ってゆきます。
  けれど、ある人々は言いつづけます、『教会では牧師や長老に従い、家に帰ったら夫や父親に従い、町内会では班長や世話役に従い、職場では上司や現場主任の言うことを聞いていればいい。主に従うことなど、私たちにはできるはずがない』と。こうして私たちは、信仰をもって生きることの分かれ道に立たされつづけます。牧師や長老への信頼と服従。そして主ご自身に対する信頼と服従。その二種類の信頼が一致して、何の問題も不都合もないときもあります。けれど、互いに相容れない場合はありえます。なぜなら、牧師も長老も生身の人間であるからです。間違った判断をしてしまうこともあり、信仰の心を曇らせて道を逸れてゆくこともありえるからです。そのとき私たちは、どうするでしょうか? しかも月に一回、私どもの目の前に格別なパンと杯が据え置かれています。「だから、ふさわしくないままでパンを食し、主の杯を飲む者は、主の体と血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ、杯を飲むべきである。主の体をわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分に裁きを招くからである」(コリント手紙(1)11:27-29)「ああ 全然ふさわしくない私」。その通り。当たっています。けれど、それは聴き取るべき真理の中の半分にすぎません。大事な半分ですが、残りの、その千倍も万倍も大事な半分は、「その、ふさわしくない、不十分な人間を、神さまは憐れんでゆるし、喜んで迎え入れ、きっと必ず救う」ということです。宗教改革者はこう説明しました;「このお祝いパーティは、(パン&杯も、他なにもかもも)神さまからの贈り物です。病いを抱えた者には医者の薬。罪人には慰め。貧しい者には贈り物。しかし自分は健康だと思っている者や、「自分はただしい、ちゃんとやっている」と買いかぶっている人や、すでに豊かに満たされている者には何の意味もありません。ただ一つの、最も善いふさわしさは、神さまの憐れみによってふさわしい者とされるために、私たち自身の無価値さとふさわしくなさを神さまの前に差し出すことです。神さまによって慰められるために、自分自身においては「ダメだ、ダメだ」と絶望すること。神さまの憐れみによって立ち上がらせていただくために、自分自身としては低くへりくだること。神さまによって「ただしい。よし。それで十分」としていただくために、自分自身のうぬぼれや卑屈さ、了見の狭さ、ズルさ、臆病さ、独りよがりな悪さをまっすぐに見詰めること。それらを憎むこと。神さまによって晴れ晴れと生きさせていただくために、古い罪の自分と死に分かれること」と(J.カルヴァン『キリスト教綱要』。Ⅳ篇1740-42節を参照)
  さて、これがパンを食べ杯を飲み干すときの心得であるとして、それならば、パンと杯が目の前にないときは、普段の火曜日、水曜日、木曜日の朝昼晩は、主を信じて生きて死ぬはずのこの私たちはどう心得たらいいでしょう。同じです。パンと杯が目の前にあっても無くても。兄弟姉妹たち。私たちは、ただただ、主なる神さまの憐れみによってだけふさわしい者とされます。神さまご自身からの慰めと力づけを、ぜひ受け取りたい。主によって立ち上がらせていただき、主によって生きることをし始めたい。他のナニモノでもなく、主ご自身への信頼によって生き、他のナニモノに従ってでもなく主イエスの福音に従って選び取り、判断しながら生きること。神からの救いとともに、それと並べて、ほかからの救いもついつい望みたくなります。いいえ この私どもは神にだけ救いを願い、ただ神にだけ仕えます。日曜の午前中と午後と、教会の敷地内で、このように心得ていたいと願っています。
それなら自分の家に帰って、連れ合いや子供たちや年老いた親の前では? 
町内会や親戚たちの前では? 
いつもの職場や、学校では?