日本キリスト教会 上田教会 みことば/2016,9,25(主日礼拝) № 78
◎礼拝説教 マタイ福音書 10:40-42,同25:31-40,士師記7:1-3
『この小さな一人の者に』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
10:40 あなたがたを受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。41
預言者の名のゆえに預言者を受けいれる者は、預言者の報いを受け、義人の名のゆえに義人を受けいれる者は、義人の報いを受けるであろう。42 わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」。 (マタイ福音書 10:40-42)
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救い主イエスがどうして「この小さな一人の者に」とおっしゃったのか? それは、マタイ福音書 10:40-42を読んだだけでは分かりません。聖書全体に照らして、この発言を受け止めなければなりません。それで、マタイ福音書25:31-40と士師記 7:1-3も合わせて読み味わいます。
まず、このマタイ福音書10:40-42と同25:31以下とは、対になっていて、ひと組です。両方共で、「この小さな一人の者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」「この小さな一人の人にしてくれたことは、わたしにしてくれたのである。してくれなかったのは、わたしにしてくれなかったのである」と主イエスは仰る。10章42節で「わたしの弟子であるという名のゆえに~」と書いてあるので、もし仮にここだけを読むと、つい早合点して『この小さな一人の者』とは主イエスを信じるクリスチャンたちのことか、ご自分の弟子だからと格別に目をかけ、ヒイキ(=自分が好意をもつ相手や店などに格別な便宜をはかったり、力添えをすること)にしてくれるのか、と勘違いしてしまいます。けれど25章31節以下にまで目を広げると、決してそうでなかったと気づかされます。クリスチャンも『小さな者』の中に含まれるけど、そればかりではないと。クリスチャンであろうとなかろうと、主イエスを信じる者であろうがそうではなかろうが、そんなこととは何の関係もなしに、なにしろその小さな一人の者に神の憐れみは注がれつづけます。ただただ『小さな一人の者』です。例えば、大きくてご立派な大人物や優れた大人物たちのためには「親切にして手助けしてやれ」などとわざわざ言いません。その必要もありません。けれど、小さく弱く貧しい者たちは手助けを必要としており、うっかりすると、いつまでも踏みつけにされ、ないがしろに扱われつづけます。小さな弱い貧しいものがないがしろに扱われつづけることを、神はお許しになりません。なぜ、そうだとはっきり分かるかと言うと、マタイ福音書25章31節以下がはっきりと告げているからですし、それだけでなく、聖書全体がそのことを語りかけて止まないからです。どんな神さまを、どのように告げ知らされて、この私たちはどう信じてきたでしょうか。天と地のすべて一切をお造りになり、ご自分が造ったすべてのものをご覧になって、「とてもいい。良かった、嬉しい」(創世記1:31-2:3,同9:10-17,同12:1-3,マタイ福音書24:45-51,ローマ手紙8:18-22,コリント手紙(1)15:22-28)と大喜びに喜び、それらすべてを祝福なさった神。天地万物の造り主なる神です。この世界をご自分のものとしつづけ、支え、保ちつづける王さまである神だからです。ご自分が造ったすべて一切を憐れむ神であり、神の憐れみはそれらすべて一切に及びます。しかも主イエスを信じる私たちは、『神からの平和と和解の使者』(コリント手紙(2)5:17-21)の役割を託されているからです。そのことをよくよく弁え、心に収めつづけながら、10:40-42を読みましょう。
「この小さい者のひとりに」と、主イエスは目を凝らしつづけます。「大きい者」ではなく、「強く賢い、役に立つ、取り柄のある優れた者」でもなく、わざわざ「この小さい者のひとりに」と。それこそがこの世界を愛し、独り子イエスを救い主としてこの世界に贈り与えてくださった神の憐れみの御心です。神の民とされたイスラエルは、そもそもの初めから強さや大きさや数の多さを誇る世界の只中に、『小さい者。数少ない者。弱い者』たちとして据え置かれつづけました。強い者や大きく数の多い者どもを恐れつづけ、心を惑わされて生きる他なかったのです。その彼らに神は、「恐れるな」と語りかけ、励ましつづけます。もし、強い者や大きく数の多い者どもを恐れないで生きていきたいと心底から願うならば、それらよりも遥かに強く大きい神と出会い、その神を知り、信じて、その神にこそ十分な信頼を寄せつづけて生きる他ありません。けれど神の民イスラエルは、つまり先祖とこの私たちは、神に十分な信頼を寄せて生きることに失敗しつづけました。だからこそ、神ではない様々なものを恐れ、おじけずき、アタフタオロオロしつづけています。遠い昔に預言者の口を通して神がこう呼びかけていました、「主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、「『あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る』。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった」(イザヤ書30:15-17)と。この自分自身こそが『小さい、数少ない、弱い者たち』であることをよくよく心に覚えて、それゆえますます神にこそ十分な信頼を寄せて生きること。けれど、先祖と私たちはそれを好まなかった。プライドが許さず、性分にも合わなかった。だからこそますます、神ではない様々な人やモノゴトを恐れつづけました。なんと哀れで、虚しい生き様でしょうか。
その私たちに、神は目を留め、憐れみの心を寄せつづけます。「飼う者のない羊のように弱り果て、倒れている」(マタイ9:36)その哀れな痛ましい姿を見て、深く憐れんだからです。私たちが生き延びてゆく道筋は二通りありつづけます。一つは、神にこそ十分な信頼を寄せること。もう一つは、無理矢理にでも何としてでも『強い、大きく数の多い私たち』になることです。神に信頼することを好まなかった先祖と私たちは、『強くて賢い、大きく、数の多い私たち』になることを願い求めつづけました。例えば、敵の強大な軍勢を前にして、ハロデの泉のほとりに陣を敷いたとき、ギデオンは、知恵を振り絞って必死に戦局の分析をしていました。何度も何度も戦略会議を開いたかもしれません。たった32,000人の軍勢で、どうやってこのきびしい戦いを勝ち抜くことが出来るだろうか。待ち構える困難と苦戦を予想して、身の縮む思いでした。たったの32,000人の軍勢、それだけしかありません。どう考えても無理です。彼の恐れと不安は尽きません。ますます募ってきます。2-3節の、その彼らに向けて語られた主の言葉は、きわめて理不尽な、まったく道理にかなわない非常識な発言でした;「あなたと共におる民はあまりに多い。ゆえにわたしは彼らの手にミデアンびとをわたさない。おそらくイスラエルはわたしに向かってみずから誇り、『わたしは自身の手で自分を救ったのだ』と言うであろう」(士師7:2)。え? 聞き間違いかと思いました。あるいは悪い冗談かと。もっと兵力の増強を、もっと生産性と作業効率をあげて増収を、というのではありません。「多すぎる。削減を」というのです。そして直ちに、主なる神さまは、ご自身の兵力を削減なさいます。心痛む、彼らの願いも希望も粉々に打ち砕きかねない、恐るべき兵力削減。32,000から10,000へ、さらに300へ。300人を選んだ時の選び方(=水の飲み方の区別,5-7節)にどんな意味があるのか、あるいは300という数字にどんな意味があるのかなどと詮索する必要はありません。むしろ、それら一切の理由は、士師記7:2-3の主ご自身の言葉の中にこそ凝縮されていきます。目を凝らしましょう。神さまの目から見た時、その32,000人という数は多すぎた。だから減らした。まだまだ多すぎた。だから、さらにもっともっと減らして、目の前に待ち構える圧倒的多数の強大な軍勢に対して、300人を残した。多分これなら、多すぎないだろうと。
なにしろギデオンの目にも、イスラエルの1人1人の目から見ても、「無に等しい。これでは、何もないのと同じじゃないか」としか思えませんでした。「とてもとても無理だ。こんな貧弱な私たちには勝てるわけがない。もし万一、これで生き延びることができたとすれば、それは到底、自分の力と手の働きで勝ち取ったものではない」と言えるほどの兵力です。まるで、思いがけない贈り物のようにして与えられた幸いは、驚きと感謝となり、魂に深々と刻まれて、1つまた1つと積み重ねられ、大切に語り継がれ、やがて主に対する大きな信頼へと育まれていく。主に対する熱い期待と、それゆえ心安く聞き従っていくことへと彼らの腹の据え方を方向づけていく。《この神こそ、私たちの主である》という確信の中に、少しずつ少しずつ、彼らの営みを揺るぎないものへと成長させていく――そのはずでした。朗読しませんでしたが、あの驚くべき戦いの結末は士師記8:24-27です。ギデオンは戦利品に飛びついて我が物とし、欲望のまま思いのままに貪りました。他の人々も、ギデオンにならって戦利品に飛びつき、欲望のまま思いのままに貪りました。心がおごってしまったからです。贈り物のようにして与えられた輝かしい勝利は、主に対する驚きと感謝を、生み出しませんでした。魂に深々と刻まれることも、ありませんでした。積み重ねられることも、大切に語り継がれることも、ありませんでした。主に対する信頼へと育まれていくことも、ありませんでした。《この神こそ、私たちの主である。主なる神は生きて働いておられます》という確信にも、その勝利は結び付きませんでした。なんということでしょう。驚くべきことには、たった300人でも多すぎたからです。彼らは思い上がり、主に対して心をおごらせてしまいました。「自分の力と手の働きで勝ち取った」という腹の据え方が、それこそが、彼らと私たちのための『罠』(士師8:27)とされました。
不思議です。神の民は、いつもごく少数でありつづけました。どうしてでしょう。そうでなくても良かったはずなのに、多数ではなく少数、格別に賢く優秀な強い者たちではなく、ごく普通の、どこにでもいるような、弱く無に等しい者たちこそが神さまからの格別な招きを受け取りました。また、「そのことをよくよく覚えているように」と、たびたび勧められました(コリント手紙(1)1:26-)。立ち塞がる圧倒的多数の強大なものたちを前にして、その彼らは、自分たちの小ささ、弱さ、貧しさをつくづくと思い知らされました。「自分は強い。豊かで賢い。自信があるし、ちゃんと心得ている」と思っていた者たちも、まったく同じ扱いを受けました。何度も何度も打ち砕かれ、追い返され、引き下ろされ、惨めさと心細さを味わう中で、自分自身のふつつかさと限界を知らされてきました。これでもか、これでもかと。けれど兄弟たち、それは一体なぜでしょうか?
小さな弱い者たちであることは恐ろしくて、とても心細いことです。どこにも居場所がないような惨めさを度々味わってきました。その中で、ある者たちはすっかり絶望し、諦めました。別の者たちは、ほかの強くて数の多い者たちに助けと支えを求めました。かつてアッシリアやエジプトに助けを求めて、その戦車や馬の数の多さに頼ろうとしたように。今日でも、そのように様々な助けと支えが私たちの周りには豊かに溢れ、私たちを取り囲み、私たちの目も心も奪おうとするのですから。けれど、ご覧ください。残ったさらにわずかの者たちは、憐れみ深い主の御前に膝を屈め、そこにこそ助けと支えを求めて仰ぎ見ました。文字通りに、社交辞令でも謙遜なふりでもなんでもなく、彼らはとても小さな、愚かで弱い、ものすごく数少ない者たちでした。不思議なことに、そこは晴れ晴れしていました。そこで、深く息を吸って楽~ゥになることができました。なぜなら、そこにはもはや、大きいも小さいもなかったからです。かなり信頼できる秀でた人物だとか、まあまあだ、ほどほどだなどという小賢しい品定めもなく、強い賢い豊かでよく働いて役に立つとか、あんまりそうでもないなどという騒がしさもなかったからです。なにしろ神さまが大きい。なにしろ神さまこそが、強く賢くあってくださる。なにしろ、神さまが生きて働いておられ、憐れみ深くあってくださる。その膝を屈めた無力な場所こそ、自分があるべき居場所と思い定め、その新しい彼らは、そこで主と出会いました。「主の恵みは、すでに私に十分である」(コリント手紙(2)12:7-10)と聞き分けました。主の力と豊かさは、ただただ、私の弱さの中で働く。そこでようやく、十分に発揮される。私のためにもぜひ発揮してあげたいと主は願い続けてくださったが、これまでは、私の強さと数の多さによって邪魔されていた。私の小さな賢さと貧しい豊かさが、主を愚かにし。主にこそ恥をかかせつづけていた。主からの助けも支えも、取るに足りない貧しいものとし、この私自身こそが、神さまを侮って退け続けていたのか」と。
クリスチャンであろうがなかろうが、顔見知りであろうが見ず知らずの赤の他人であろうが。通りすがりの小さい者の一人に冷たい水一杯を飲ませ、あるいはもっと多くの親切や心遣いを、どうして喜んでしてあげられるのか。不思議なことです。小さな一人の者を慈しむ神が自分と共におられると、ついにとうとう彼らは知ったからです。しかも、この自分自身こそが多くの親切を贈り与えられた小さい者だと、ようやく思い出しました。なんという恵み、なんという喜びでしょう。