9/18 こども説教 ルカ7:18-23
『来たるべき救い主か?』
7:18 ヨハネの弟子たちは、これらのことを全部彼に報告した。するとヨハネは弟子の中からふたりの者を呼んで、19
主のもとに送り、「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」と尋ねさせた。20 そこで、この人たちがイエスのもとにきて言った、「わたしたちはバプテスマのヨハネからの使ですが、『きたるべきかた』はあなたなのですか、それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか、とヨハネが尋ねています」。21
そのとき、イエスはさまざまの病苦と悪霊とに悩む人々をいやし、また多くの盲人を見えるようにしておられたが、22 答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしたことを、ヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、重い皮膚病の人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。23
わたしにつまずかない者は、さいわいである」。
(ルカ福音書 7:18-23)
18-19節。「旧約聖書によって約束され、予告されつづけていた、来るべき救い主はあなたですか」と、洗礼者ヨハネは二人の弟子を送り出して、主イエスに直接に質問させました。なぜ質問させたのかが分かりますか? 洗礼者ヨハネは、自分自身では、『イエスこそ救い主である』と、初めからはっきりと分かっていました(ルカ1:76-77,同3:1-22,ヨハネ福音書1:35-42,同3:27-30)。しかも洗礼者ヨハネは領主ヘロデに捕らえられて牢獄におり、間もなく殺されようとしています。「自分に残された時間があとわずかしかない」と、自分ではっきりと分かっています。残されたわずかな時間をどう使おうか。このまま大切なことを弟子たちに伝えずに自分が死んでしまえば、弟子たちは何も分からないまま、何を信じていいか、どう生きていいかもよく分からないままに、道端に虚しく放り出されてしまうことになります。「来るべき方はあなたですか。それとも、他に誰かをなおまだまだ待たなければなりませんか?」と質問しなさい。その最も大切な答えを、あなたたちは、自分自身の耳と頭と心で掴み取りなさい。ですから、自分自身のための質問ではなく、自分の愛して止まない弟子たちのための質問だったのです。彼らもまた、ついにとうとうイエスこそ約束されていた救い主だと信じて、この方によって、永遠の生命を得ることができるために。22-23節、主イエスは彼らに答えました。「行って、あなたがたが見聞きしたことを、ヨハネに報告しなさい。目の不自由な人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病の人はきよまり、耳がよく聞こえない人は聞えるようになり、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまずかない者は、さいわいである」。
例えばユダヤ教徒たちは、「約束どおりに救い主がきっと来てくださる。来年か再来年か、あるいは40年後か50年後か1000年か2000年後くらいには多分」と、他の誰かを今でもずっと待ちつづけています。例えば洗礼者ヨハネの弟子たちのうちの何人かは、主イエスの弟子とされました(ヨハネ福音書1:35-42)。けれど多くの者たちは、ただただ首を傾げながら、誰かほかの者を、ほかの何かを待ち侘びつづけています。今日でもおびただしい数の人々が、キリスト教会の玄関口まではなんとか辿り着いて、けれど、しばらくウロウロしたあげくに首を傾げながら、あるいは悲しみながら立ち去っていきます。戸口は狭すぎるわけではありません。見分かりにくい玄関ではないはずなのに、「どうしても探し当てられなかった」と多くの人々が言います。どうしたわけか、十分に広く開けてあるはずの戸口から入って、格別な祝福と幸いへと至る者はいつもごく少ない。不思議なことです(マタイ福音書7:13-14を参照)。「来るべき方はイエスではないかも知れない。やがていつか、もしかしたら別の誰かが現れるかも知れない。来年か再来年か、あるいは40年後か50年後か1000年か2000年後くらいには多分」などと。他の人々のことは、ほどほどのことです。けれども! あなた自身はどうでしょう。十分に見聞きしましたか。確かな福音を耳にしたでしょうか、それとも、そうではなかったでしょうか。最も大切な答えを、私たちは、年配の方々も若い父さん母さんも、小学生や中学高校生や大学生も、自分自身の耳と頭と心で掴み取らねばなりません。ナザレ村から出て来られたこのイエスというお独りの方。「この方による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、天下の誰にも与えられていない」(使徒4:10-12)。主イエスにつまずかない者は幸いです(*)。この方につまずく者はとても不幸せで、あまりに残念なことです。
【補足/つまずきの石=十字架につけられたキリスト】
(*)「わたしにつまずかない者は幸いである」(23節)と主イエスは言いました。「多くの者らが救い主につまずく」と旧約聖書であらかじめ予告されていました。ただただ憐れみによって、恵みによって救われるからであり、救い主が十字架の上で殺され、復活することをとおして救いが成し遂げられるからです。その救いの有様や道筋は私たち人間の思いとははるかに隔たって、遠く離れていたからです。神ご自身が、その人に気づかせ、受け入れさせてくださるのでなければ、誰一人も救い主とその救いの御業を信じることができません(ヨハネ福音書6:52-65,マタイ福音書26:31-35,イザヤ書28:16,ペテロ手紙(1)2:6-10,コリント手紙(1)1:18-31,ローマ手紙9:27-33)。