2016年7月5日火曜日

7/3こども説教「わたしの血による新しい契約、と主イエスがおっしゃった」ルカ5:33‐39

 7/3 こども説教 ルカ5:33-39
 『わたしの血による新しい契約、
と主イエスがおっしゃった』

5:37 まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、新しいぶどう酒は皮袋をはり裂き、そしてぶどう酒は流れ出るし、皮袋もむだになるであろう。38 新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。(ルカ福音書 5:37)

 「わたしたちこそが神さまのことをくわしく知っているし、よくよく信じているし、正しく清らかな生活をしている」と思い込んでいる人々が主イエスに文句を言ってきました。33節。彼らの言い分です。「ヨハネの弟子たちはしばしば断食をし、また祈をしており、パリサイ人の弟子たちもそうしているのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています」。断食は、祈りの一つの形です。もちろんあの彼らも他の皆と同じように、普通に食べたり飲んだりしていました。けれどせっかく断食するときには、まるで何日も何週間も食べていないかのようにすごくお腹がすいている顔つきや様子をわざと取り繕いました。祈るときにも、わざと大勢の人目につくように通りの角や広場で美しく格調高く感動的に祈って見せました。そういう中身のない見せかけばかりのやり方が流行っていました。人様に見せつけるために信仰深そうに振舞っている人々は、「神さま。そして紳士淑女の皆様方。わたしは一週に二度断食しており、たくさんの献げものをし、清く正しく生活し、一日に2時間以上たっぷりと祈りつづけています」などと自慢したり、そうではない他の人々をバカにしたりしていました(ルカ18:9-14,マタイ6:5-18を参照)。「偽善者どもめ」と神さまから叱られますし、とても恥ずかしいことです。
 34-35節。主イエスはご自分が『花婿』であり、キリスト教会とクリスチャン一人一人が『その花嫁』であると教えられました。「花婿が奪い去られる日が来る」とは、主イエスが十字架にかけられ、殺され、葬られることです。けれど、その三日目に復活なさり、今も生きて働いておられ、私たちといつまでも共にいてくださるのでしたね(ヨハネ福音書3:26-30,マタイ福音書25:1-13,エペソ手紙5:23-30,黙示録19:7-10,21:2。そのことは、別の機会に改めてお話しましょう。
  さて、37節以下。『新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れる』というのは、どういうことでしょうか。ぶどう酒とそれを入れる袋。それは、神さまを信じる信仰の中身と、信じている人のいつもの暮らしぶりやいつもの腹の思いのことです。神さまを信じる信仰の中身がすっかり新しくされました。だから その中身にふさわしい心構えや、毎日の暮らし方があり、その新しい中身にちょうどピッタリするいつもの心の在り方や、人との付き合い方がある、ということです。ちょうど今日は聖晩餐のパンと杯のある礼拝です。周りの大人の人たちがパンを食べ、ぶどう酒を飲む様子を、子供たちはよくよく観察してみてください。そのときだけではなく、夕方にも何日か後にも家にいても道を歩いているときにも、誰といっしょの時にも その人が『新しい皮袋』にだんだんとなってゆく様子が分かってきます。「ああそうか。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れるってこういうことだったのかあ」とよく分かりますよ。パンと杯を差し出して救い主イエスは仰いました。「これは私の体である。皆、この杯から飲みなさい。わたしの血による新しい契約である」と。「わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパン、それはキリストの体にあずかることではないかパンが一つであるから、わたしたちは多くいても一つの体なのである」(コリント手紙(1)10:16-17,11:23-29を参照)救い主イエスが十字架の上でご自分の体を引き裂き、ご自分の血を流し尽くして、私たちのための救いを成し遂げてくださいました。その体と血を飲み食いさせられている私たちは、だんだんとその中身にふさわしい新しい皮袋になってゆきます。「ああ、そうだったのかあ」と自分自身も周囲の人々も、はっきりと気づくときが来ます。神さまの憐れみとゆるしを受けて、神さまの子供たちとされたからです。



    【割愛した部分の補足】
    (*)主イエスの血による新しい契約。神さまは、救われて神の子とされるに価しない、ふさわしくない罪人たちを、けれどゆるし、憐れみ、救うと決めておられました。そもそもの最初からの、救いのご計画です。かつて奴隷にされていたエジプトから連れ出されたときに子羊の血が流されたように、この世界と私たちが罪から救い出されるために、神の独り子イエス・キリストの血が流されました(ローマ手紙3:21-28,5:6-11,8:31-39,11:30-32,ヨハネ福音書1:29-30,3:14-21,6:47-66,ピリピ手紙2:5-11,テモテ手紙(1)1:15, コリント手紙(1)10:16-17,11:23-29,ヘブル手紙2:14-18,ペテロ手紙(1)2:10,エレミヤ書31:33-34「神の律法を彼らのうちに置き、彼らの心に記す。彼らの不義をゆるし、その罪を思わない。彼らは皆、主を知るようになるからである」,出エジプト記12:1-27を参照)。

 ◎とりなしの祈り

 主なる神さま。「わたしたちの日毎の糧を今日も与えてください」と天の御父に向けて願い求めて生きるように、と教えられている私たちです。「わたしたちの~」とは、この私たちのことだけではありませんでした。「わたしたちの~」とは、この私たちのことばかりではありませんでした。自分と家族と、身近な親しい人々のためだけではなく、すべての隣人たちのためにも、生きるための必要十分な糧が贈り与えられること。それを本気で願い求める私たちとならせてください。なぜなら私たちのこの国はとても不平等で、ひと握りのごくわずかな人々が豊かさを独り占めし、ますます強く豊かになっていき、多くの貧しい人々が貧しいままに取り残されつづけ、格差がどんどん広がっていく一方だからです。
 神さま。どんな紛争も武力によっては解決できないことに、平和と安全のための正しい戦争などありえないことに、この私たちに、今日こそはっきりと気づかせてください。しかもこの国はとうとう国家の都合と利益のために、どこへでも出かけて行って戦争をできる国になろうとしています。自衛隊員とその家族の多くの生命と生活が無駄に使い捨てにされようとしています。恐ろしいことです。政治家と大企業の経営者たちのせいばかりではなく、そういう社会のしくみを私たち大人が選び取ってきたからです。この国がますますとても悪い社会になっていこうとするのは、身勝手で自分たちの目の前の損得しか考えてこなかった、この私たち大人の責任です。日本で暮らす外国人労働者とその家族の生活と生きるための当然の権利が十分に守られず、尊ばれもせず、彼らを憎んで押しのけようとする人々が声高に叫んでいます。沖縄が植民地扱いされ、そこに暮らす人々の生活と権利がないがしろにされつづけています。放射能に汚染された危険で有害な土地に、無理矢理に縛りつけられて暮らす人々が大勢います。まるで何もなかったかのように、とても危ない原子力発電所は次々と再稼働しつづけています。老人たちの生活も若い親たちの生活も、置き去りにされ、少しも顧みられず、破綻しかけてます。非正規雇用で安く不安定な中で、多くの労働者たちが働かされています。企業も国家も彼らをただ安く便利に利用するばかりで、彼らの生活に責任を負いません。痛くも痒くもないからです。経済的に貧しい親に育てられた子供たちは貧しいままで、十分な教育を受ける希望をさえ諦めさせられています。毎日の三度三度の食事にも困る子供たちが数多くいます。彼らのはなはだしい苦境に対して、私たち大人には大きな責任があります。神さま、まったく申し訳ないことです。
 あなたから憐れみを受け、罪をゆるされた私どもですから、互いに対して、また隣人に対して温かく憐れみ深くあることができますように。思いやり深く温かな社会を築いてゆくことを、この私たちにも強く願い求めさせてください。心を新たにされ造りかえられて、何が良いことであなたに喜ばれることなのか、何が悪いことなのかを弁え知って、そのようにして、あなたの御心にかなって生きる私たちにならせてください(ローマ手紙12:1-2を参照)。
 主イエスのお名前によって祈ります。アーメン