「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ。主は、ふつかの後、わたしたちを生かし、三日目にわたしたちを立たせられる。わたしたちはみ前で生きる。わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう。主はあしたの光のように必ず現れいで、冬の雨のように、わたしたちに臨み、春の雨のように地を潤される」。 (ホセア書 6:1-3)
◎とりなしの祈り
主なる神さま。この国に生きるすべての人々から生きる希望が奪い取られてしまわないように、また私たちが自分だけの狭く小さな世界に閉じこもって、自分の都合と目先の損得にばかり執着して、無気力に、どこまでも無責任になってしまわないように、どうぞお守りください。なぜなら神さま、この国がますます悪い、よこしまな国に成り下がっていこうとしているからです。とても不平等で、ひと握りのごくわずかな人々が豊かさを独り占めし、ますます強く豊かになっていきます。その傍らで、多くの貧しい人々が貧しいままに取り残されつづけ、格差がどんどん広がっていく一方だからです。
神さま。どんな紛争も武力によっては解決できないことに、平和と安全のための正しい戦争などありえないことに、この私たちに、今日こそはっきりと気づかせてください。しかもこの国はとうとう国家の都合と利益のために、どこへでも出かけて行って戦争をできる国になろうとしています。自衛隊員とその家族の多くの生命と生活が無駄に使い捨てにされようとしています。恐ろしいことです。政治家と大企業の経営者たちのせいばかりではなく、そういう社会のしくみを、他の誰でもなく私たち大人が選び取ってきたからです。この国がますますとても悪い社会になっていこうとするのは、身勝手で自分たちの目の前の損得しか考えてこなかった、この私たち大人の責任です。もちろんキリスト教会とすべてのクリスチャンを含めて。日本で暮らす外国人労働者とその家族の生活と生きるための当然の権利が十分に守られず、尊ばれもせず、彼らを憎んで押しのけようとする人々が声高に叫んでいます。沖縄が植民地扱いされ、そこに暮らす人々の生活と権利がないがしろにされつづけています。放射能に汚染された危険で有害な土地に、無理矢理に縛りつけられて暮らす人々が大勢います。まるで何もなかったかのように、とても危ない原子力発電所は次々と再稼働しつづけています。老人たちの生活も若い親たちと子供の生活も、置き去りにされ、少しも顧みられず、破綻しかけてます。非正規雇用で不安定な中で、多くの労働者たちがただ安く便利に使い捨てられつづけています。企業も国家も、彼らの生活に責任をまったく負おうとしません。痛くも痒くもないからです。彼らのはなはだしい苦境に対して、私たち大人には大きな責任があります。神さま、まったく申し訳ないことです。
思いやり深く温かな社会を築いてゆくことを、この私たちにも、今日こそ本気で願い求めさせてください。心を新たにされ造りかえられて、何が良いことであなたに喜ばれることなのか、何が悪いことなのかを弁え知って、そのようにして、あなたの御心にかなって生きる私たちにならせてください(ローマ手紙12:1-2を参照)。
主イエスのお名前によって祈ります。アーメン
みことば/2016,7,10(主日礼拝) № 67
◎礼拝説教 マタイ福音書 9:9-13 日本キリスト教会 上田教会
『医者である神に』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
9:9 さてイエスはそこから進んで行かれ、マタイという人が収税所にすわっているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った。10
それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。11 パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。12
イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。13 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。 (マタイ福音書 9:9-13)
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神ご自身であり救い主である主イエスは、貧しい大工の息子として育ちました。初めにこの方の弟子とされたのは、ごく普通の無学な漁師たちでした。次に弟子とされたのは、人々から嫌われ馬鹿にされていた取税人でした。オギャアと生まれる場所のためには、わざわざ家畜小屋のエサ箱を選びました。神の国の教えを広める弟子としては、漁師や取税人たちを、無きに等しい者たちを! わざわざお選びになりました(コリント手紙(1)1:26-31を参照)。人間の知恵や力や賢さによらず、そんなものには全くお構いなしに、神ご自身の知恵と慈しみによって救いを成し遂げてゆくために。
9節。取税人のことは、少しは説明しておきましょう。なぜ彼らが人々から嫌われ馬鹿にされ、仲間外れにされていたのか。そのころユダヤの国はローマ帝国の植民地にされ、ローマの国の言いなりにされていました。取税人はユダヤ人からお金を集めて、ローマの国に渡しました。家に住むための税金、道路や橋を渡るための税金、食べ物を買うための税金、いろいろな形で集められたたくさんの税金は、しかしユダヤ人のためにではなく、もっぱらローマの国のために使われました。ユダヤ人たちはローマの国にたくさんの税金を払うのも、好きなように利用されるのも、言いなりにされて支配されるのも嫌でした。「そんなことはしたくない。私たちは嫌だ」と言いたかったのです。けれど相手の方が強かったので、逆らうことが出来ませんでした。心の中では、彼らはローマの国を憎みました。また心の中では、言いなりにされて「はい。分かりました。いいえ喜んで従いますよ、はいはい」と従っている自分たちのあり方も大嫌いでした。けれどローマの国や自分自身の悪口を言う代りに、あの彼らの悪口を言いました。自分たち自身の不甲斐なさに腹を立てて嘆く代わりに、あの彼らを馬鹿にしました。自分の不幸や貧しさを彼らのせいにしました。すると、少しは心が晴れました。貧しい不幸な時代には、またそういう貧しく淋しい社会では、人はそういうふうに誰かを馬鹿にしたり、いじめたり憎んだり、仲間外れにしたりするのです。この国や世界中あちこちでそうなりつつあるように。自分の辛さや惨めさをその誰かに肩代わりさせて、それで心の憂さを晴らすために。彼らを踏みつけて惨めにさせて、その分だけ、ほんのちょっと良い気分になろうとして。けれどご覧ください。その踏みつけられた惨めな人々の傍らに寄り添って、そこに! 私たちの主イエス・キリストが立っておられます(マタイ10:42,同18:1-6,同25:31-46)。
10-11節。主イエスの弟子にしていただいたあの彼は、友だちを大勢招いてパーティーを開きました。どうしてでしょう。何のためでしょうか。とても嬉しかったからです。その喜びをぜひ分かち合いたい、と願ったからです。昔からの友だちや、家族や仕事仲間たち。彼はその人たちをとても大切に思っています。しかも、救われた今となっては、「その一人一人にとっても、主イエスと出会うことが嬉しく心強いことにちがいない。彼らにも格別な喜びや力を与えるだろう。彼らの魂もまた、救い主を必要としている。それがあれば彼らはどんなに慰められ、心強いだろうか」と知っているからです。あの友だちもそうだ。この人もこの人もと。ここでも、信仰のことや神様のことをよく分かっているはずの人たちが怒ったり、文句を言ったり馬鹿にしたりします。このパリサイ人たちの考え方や物の見方をよくよく観察しておきましょう。プンプン腹を立てているあの彼らは、私たちの姿をよく映し出す鏡であり、『悪い先生。真似をしてはいけない悪い手本』であるからです。「なぜ、あんな人たちと一緒に飲んだり食べたりする?」と彼らは言います。どうしてなんだろうかと質問しているのではありません。非難しているのです。「主と共に座るその喜ばしい食卓には、あの人たちはふさわしくない。この立派な私たちこそがふさわしい」と言いたい。
では質問。神さまの御前でのふさわしさとは、一体どんなものだったでしょうか? コリント手紙(1)1:26-31は、それをはっきりと物語ります。「愚かな者。弱い者。身分の低い者、軽んじられている者を。無きに等しい者をわざわざ選んだ」のだと(ほかにもコリント(1)4:6-,9:22,11:30,ローマ4:17,ルカ1:48-54,マルコ10:31,マタイ18:3,20:26)。私はよく知っている、私は強いと思い込んでいる者をはずかしめるために。どんな人間でも、神さまの前でも人様の前でも誇ったり自惚れたり思い上がってしまうことがないために。そのために、わざわざそうした。もちろん、あなたや私に対してもまったくそうだった、と。これらの言葉を繰り返し聞きつづけながら、朝も晩も読み返しながら、なおいつの間にかずいぶん偉そうな私たちです。賢いつもりの私たちであり、分かっているつもりの、豊かで強いつもりの、大きなつもりの、しっかりしているつもりの私たちです。神の前でも人様の前でもずいぶん誇っている。あるいは逆に、なんだかいじけて首をすくめている。同じことです。どっちにしても主ご自身を誇ることからずいぶん遠い。知恵ある私たちは、その自分自身の知恵について恥をかかねばなりません。力ある私たちは、その私たちの力について恥をかかねばなりません。そこそこの地位と名誉を手に入れている私たちは、そのそこそこの地位と名誉について恥をかかされ、無力な者とされねばなりません。あなたも私も、まだまだ恥をかき足りません。その浅はかな知恵があるために、神の知恵に聞くことができないでいるからです。その小さな力があるために、神の力に信頼することができずにいるからです。そのそこそこの賢さとほどほどの強さがあるために、神の賢さと強さを願い求めることも、「はい。ありがとう」と受け入れることもできずにいるからです。誇るとは何でしょうか? 「それがあるから私は安心だ。心強い」と信頼し、支えとし、頼みの綱とすることです。振り返ってみて、神の前でも人様の前でも、自分自身に向かっても、私たちはあまりにたくさんのものを支えとし、拠り所としています。多くのものを頼みの綱としています。そのあなたのどこに、主ご自身をこそ誇る余地があるでしょう。一日が終わって、私たちはその日を振り返って「よく働いた。私はよくやった」などと思うのです。あるいは「まあまあ、よくやった。ほどほどだった」などと。順調な日々にも、悩みを抱えて途方にくれる日々にも、私たちは私たち自身を思います。そして周囲の人々やモノを眺め回します。私たちの働きと知恵と賢さと、私たちの強さと弱さと、私たちの賢さと愚かさと、私たち自身の豊かさと貧しさと。一体どこに神がおられるのでしょう。私たちの毎日の生活の中の、その眼差しと腹の据え方の中の、一体どこに、生きて働いておられます神がいるでしょうか。私たちは何者だったでしょう。
12-13節。主イエスはお答えになります;「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」と。ここで一番わかりづらいのは、真ん中に挟まれた『』の部分でしょう。『わたしが好むのは憐れみであって、いけにえではない』。旧約聖書にはこう書かれています;「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる。そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しいからである」「わたしは慈しみを喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ」「あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげても、あなたは喜ばれないでしょう。神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません」(サムエル記上15:22,ホセア6:6,詩51:16-17)。律法学者やパリサイ人たちは、心の中でこう考えます;「私はちゃんといけにえをささげている。掟に従い、正しく立派に行動している。神に仕え、たくさん献げ、精一杯に働いている。それなのにあの彼らは」と。もしかしたら私たちも、神さまに仕え、献げものをし、働くときにあの人たちと同じような気持ちになるかも知れません。それはありえます。けれど、主はおっしゃいます。「私は憐れみをこそ求める。私の声にあなた自身が聞き従うことを願う。打ち砕かれたあなたの心、悔いて神へと立ち返るあなた自身の心をこそ、わたしは求める。他のどんなものが欲しいのでもなく、ただただ、それをこそ私は願っている」と。私たちは思います;「私が仕えている。私たちが献げている。私たちが働いていると。いけにえも憐れみも、私たちが与えている」と。けれど、本当にそうだったでしょうか。それなら、十字架の上で神ご自身が差し出し、献げてくださったものは一体何だったでしょう。神こそが私たちのために、ご自身を犠牲として献げ、ご自身の憐れみを私たちに注ぎかけてくださったのではなかったでしょうか。献げるときも、仕えるときも働くときも、この私たちこそは! そのことをはっきりと思い起こしておきたいのです。救い主がこの地上に来たのは罪人を招くためであり、その罪と悲惨さから救い出し、神の恵みとゆるしのもとへと立ち戻らせるためでした。その罪人は病人のようだったのです。その神は、医者のような神だったのです。十分に健康だから、十分に正しくふさわしいからと招いたのではありません。そうではなく、その病人のような罪人をあわれむからであり、滅びるままに捨て置くことなど出来ないと惜しんでくださったからであり、ぜひとも救い出してあげたいと切望してくださったからでした。あなたも私も病人のようでした。いいえ、いまなお病人です。「わたしは正しい。私はちゃんとやっている。私は私は」と言い立てて止まない病気があります。「人からどう思われるだろ。どう見られてしまうか」と恐れてビクビクする病気があり、「認められたい。受け入れてもらいたい。それなのにどうして」と飢え渇きつづける病気があり、「けっして忘れない。ゆるせない」と憎みつづける病気があり、「貧しい。豊かだ。有り余っている。不足している。それに比べてあの人は、この人たちは」と目くじら立てて見比べつづける病気があります。夏風邪くらいに甘く見て、うまいものでも食べてグッスリ眠ればそのうち治るとでも思っていたのですか。これこそ死に至る病気です。この病気は、あなたの命にかかわります。おもな症状――かたくなさ。了見が狭く、意固地で偏屈。冷淡な批判がましさ。なんとなくイライラすること。悪口や陰口。ごうまんと卑屈。次々とわきあがる恐れと不安。ウツウツ、モヤモヤとした気分。溜め息。物足りなさや淋しさ、心細さ。その他いろいろ。神さまにしか癒せない、あまりに危険な重い病気があり、私たちは度々この病気のとりこにされました。医者のような神であり、病人のような私たちです。いいえ。医者である神さま。病人である私たち。どの1人も例外なくかなりな重病人です。自分が病気だとは知らないでいる病人たち。どの医者にかかっていいか分からずに途方に暮れている病人たち。どうせ無理だ、手遅れだと絶望している病人たち。そして、十分な良い医者ととうとう出会って、病気を治していただいている途中の病人たち。
◇ ◇
さあ、兄弟姉妹たち。あの宴会の場面を覗いてみましょう。元・取税人のマタイという男が、照れながら、ちょっと緊張しながら挨拶しています;「皆さん、今日はよく来てくださいました。私は主イエスと出会いました。この方です。主というのは、『主治医』という意味です。私の病気と健康にこの主治医こそが全責任を負ってくださり、必ずすっかり健康にして、幸せに生きてやがて幸せに満ち足りて死んでゆくことさえできるようにしてくださる、と太鼓判を押してくださいました。しかも治療費はタダです。びっくりでしょ。病気だなんて思っていなかったので、『お前は病気だ。放っておくと死んでしまうぞ』と最初に言われたとき、腹が立ちました。イカサマ野郎だと思いました。でもだんだん健康になってきて、それがとても嬉しくて! ぜひ、みなさんと一緒に喜びたいと思いました。皆さんにもぜひこの方と出会っていただきたくて、お招きしました。どうぞ遠慮なく、このお医者さんに診てもらってください」。税金取立て人のマタイの仲間たちはワイワイ楽しみ、大いに食べたり飲んだりし、語り合いました。その診療所の医局長である主イエスは、そこでなんと挨拶なさるでしょう。例えばこうおっしゃるかも知れません;「私は医者です。しかも自慢するみたいですが、かの有名なブラックジャック先生の100倍くらい腕がいい。しかも誰にも思い浮かべられないほどにも大金持ちなので、治療費はタダです。なにしろ病人がわたしの所に来てくれると嬉しい。しかも特に、誰にも治せないような、とてもとても難しい病気の、今にも死にそうな、どの医者からも見放されたような難しい病人が来てくれると嬉しい。死んでいた者が生き返り、いなくなっていた者を探し出せると、とても嬉しい。あなたの病気も治してあげますよ。あなたも、あなたも。じゃあ乾杯」(ルカ15:7,10,24を参照)。この風変わりなお医者さんの診察室は、お祝いパーティの宴会場でもあります。それがキリストの教会であり、毎週毎週日曜日毎にそこで起こっている出来事です。お祝いパーティの真っ最中に、診察と治療も同時進行で行われつづけます。その一風変わった病院のお祝いパーティ兼、診察・治療は、この2000年の間くりかえされつづけています。世界中のあちこちで、町中でも田舎でも、日曜日の午前中に主イエス病院の分院、診療所が建てられました。私たちもその同じ診察室の、1つの食事の席に連なりつづけます。主イエスと共にある憐れみの食卓に。救い出された罪人たちが薬を飲みながら、傷に包帯を巻いていただきながら、飲み食いしたり、歌ったりして座っています。なんという恵み、なんという喜びでしょう。祈りましょう。