2016年7月12日火曜日

7/10こども説教「日曜日の願いと目的」ルカ6:1‐5

 7/10 こども説教 ルカ6:1-5
 『日曜日の願いと目的』

6:1 ある安息日にイエスが麦畑の中をとおって行かれたとき、弟子たちが穂をつみ、手でもみながら食べていた。2 すると、あるパリサイ人たちが言った、「あなたがたはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのか」。・・・・・・5 また彼らに言われた、「人の子は安息日の主である」。
               (ルカ福音書6:1-5)

  安息日に、他人の畑の麦を、主イエスの弟子たちが勝手に取って食べました。「してはいけないことをしている」と、パリサイ人たちが文句を言いました。とても意外なことですが、他人の畑の麦を勝手に取ってムシャムシャ食べることについては、ゆるされていました。誰でも、腹一杯になるまでそうしていいのです(申命記23:24-25を参照)。他の国と違って、ユダヤの国には飛びっきりに親切で心優しい法律があって、貧しい人々がそのように食べ物を得て生きることをゆるしてあげるようにと神さまが命じています。びっくりです。それとは別に、「安息日に働いてはいけない」という神さまの律法に違反している、とパリサイ人たちは言いたい。
  すると、私たちがここでよくよく考えなければならないのは、日曜日は何のためにあるのか。日曜日から始まる一週間ずつを、どんなふうに生きていこうかということです。日曜日のはじまりは、創世記1:31-2:3です。神さまが7日間で天と地のすべてのものを造られたとき、6日目にはご自分が造ったすべてのものを一つ一つご覧になり、「とても良い。嬉しい」と大喜びに喜んでくださいました。7日目に、ご自分の仕事を離れてホッと一息つき、ご自分が造ったすべてのものをご自分のものとなさり(=聖別.せいべつ)、祝福なさいました。世界が出来上がったのは6日目ではなく、7日目です。造ったすべてのものをご自分のものとし、祝福したとき。そこで、とうとう世界を造るお働きが成し遂げられました。日曜日毎の安息日は、世界のすべても自分自身も神さまのものとされていることを改めて心に刻み、祝福を受け取るためにあります。それが神さまと私たちの願いであり、日曜日の目的でもあります。自分も世界のすべても自分や他のナニカのものではなく神さまのものだと知り、神さまからの祝福を受け取り、その祝福のもとに改めて生きはじめること。そのためには、神さまがそうなさったように、この私たち自身も 自分の仕事を離れ、大事に抱えたものを手放して傍らに置き、ホッと一息つく(=安息する)必要があります。もし、そうでなければ、自分も世界のすべても自分や他のナニカのものではなく神さまのものだと知ることも、神さまからの祝福を受け取ることも、その祝福のもとに改めて生きはじめることも誰にも出来るはずがないからです。「日曜日(=安息日)に働いてはいけない」(十戒の第四戒。出エジプト記20:8-11,申命記5:12-15と戒めたのは、そういう目的と願いからです。誰もが神からの祝福を受け、神さまを喜び、神さまに聴き従って幸いに、安心して生きるために。救い主イエスは、そのために来てくださいました。「安息日の主」5節)とは、そのことです。


      (*)【補足説明/安息日の祝福の広がりと展望】
      神ご自身の祝福に満ちた平和と喜びにあずかること。もし仮に、7日間のうちの1日だけが祝福を受ける聖なる日で、他6日間が神さまやその祝福と無縁な俗なる日であるならば、その祝福は偽りであり、貧しすぎます。安息日に率いられて、やがて7日間すべてが祝福のうちに据え置かれます。安息日はそのためのしるしであり、先触れです。まったく同様に、もし仮にクリスチャンだけ、人間様だけが神さまの祝福にあずかるなら、その祝福もまた貧相で安っぽく、ケチ臭すぎます。いいえ、そうではありません。神さまからの広々とした、分け隔てしない、惜しみない祝福を、私たち人間こそが狭く貧しくしつづけました。回復されねばなりません。「あなたは祝福の基となるであろう。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」(創世記12:2-3)と、神さまはアブラムとその子孫のために、この世界のためにも約束なさったからです。世界中のすべての生き物たちのための祝福。その出発点とされた私たちです。神を信じるひと握りの人々が起こされ、救い主イエスが救いの御業を成し遂げてくださった目的はここにあります。やがて、この同じ一つの祝福はすべての生き物と、畑と農作物にさえ及び、終わりの日の主からの祝福へと私たちを導き入れます。これが、最初からの祝福の全体像です(出エジプト記16:1-36,レビ記25:1-28,ヘブル手紙3:7-4:11を参照)。

      こうした恵み深さに照らして、パリサイ人らの反応や心の思いを味わいましょう。彼らは、私たちの過ちと混乱を映し出す鏡です。私たち自身のいつもの姿です。中身と本質を問うことを止めたとき、人は誰もが無味乾燥な、ただただ虚しいだけの形式主義に陥り、そのとき、私たちもまた「偽善者どもめ」と厳しく叱られるでしょう(マタイ福音書6:16-18,同23:1-36)。それをこそ我が事として警戒し、恐れましょう。パリサイ人のふり見て、わがふり直せ