しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。 (エレミヤ書31:33-34)
◎とりなしの祈り
主なる神さま。この国に生きるすべての人々から希望が奪い取られてしまわないように、また私たちが自分だけの狭く小さな世界に閉じこもって、自分の都合と目先の損得にばかり執着して無気力に、どこまでも無責任になってしまわないように、どうぞお守りください。
神さま。この国は、国家の都合と利益のために、どこへでも出かけて行って戦争をできる国になろうとしています。平和と安全のためではない! 正しくもない戦争に! 無理矢理に駆り出されて、自衛隊員とその家族の多くの生命と生活が無駄に使い捨てにされようとしています。もし黙って見過ごすならば、この私共も、とんでもない悪事の片棒を担ぐことになってしまいます。神さま、いったいどれだけたくさんの生命が無駄に失われたら、私たちはそのことに気づくことができるでしょうか。とても不平等で、ひと握りのごくわずかな人々が豊かさを独り占めし、ますます強く豊かになっていきます。その傍らで、多くの貧しい人々が貧しいままに取り残されつづけ、格差がどんどん広がっていく一方です。政治家と大企業の経営者たちのせいばかりではなく、そういう社会のしくみを、他の誰でもなく私たち大人が選び取ってきたからです。私たち大人の責任です。もちろんキリスト教会とすべてのクリスチャンを含めて、私たちの責任です。日本で暮らす外国人労働者とその家族の生活と生きるための当然の権利が十分に守られず、尊ばれもせず、彼らを憎んで押しのけようとする人々が声高に叫んでいます。沖縄が植民地扱いされ、そこに暮らす人々の生活と権利がないがしろにされつづけています。放射能に汚染された危険で有害な土地に、無理矢理に縛りつけられて暮らす人々が大勢います。まるで何もなかったかのように、とても危ない原子力発電所は次々と再稼働しつづけています。老人たちの生活も若い親たちと子供の生活も、置き去りにされつづけます。非正規雇用で不安定な中で、多くの労働者たちがただ安く便利に使い捨てられつづけています。企業も国家も、彼らの生活に責任を負いません。彼らのはなはだしい苦境に対して、私たち大人には大きな責任があります。神さま、まったく申し訳ないことです。お詫びのしようもありません。
思いやり深く温かな社会を築いてゆくことを、この私たちにも、今日こそ本気で願い求めさせてください。憐れみを受け、望むべくもないほどあまりに寛大に、思いやり深く取り扱われ、そのように多く愛されてきました私共ですから、この私共も同じくそのように、家族や隣人に対して寛大に、また精一杯に思いやり深く接することができますように。どうか、この一つの願いをかなえてください。主イエスのお名前によって祈ります。アーメン
みことば/2016,7,17(主日礼拝) № 68
◎礼拝説教 マタイ福音書 9:14-17
日本キリスト教会 上田教会
『新しいぶどう酒を、
新しい皮袋に』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
9:14 そのとき、ヨハネの弟子たちがイエスのところにきて言った、「わたしたちとパリサイ人たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」。15
するとイエスは言われた、「婚礼の客は、花婿が一緒にいる間は、悲しんでおられようか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その時には断食をするであろう。16
だれも、真新しい布ぎれで、古い着物につぎを当てはしない。そのつぎきれは着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなるから。17 だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長もちがするであろう」。 (マタイ福音書 9:14-17)
14-15節。洗礼者ヨハネの弟子たちが主イエスのところに質問をしに来ました。「わたしたちとパリサイ人たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」。断食をするかしないか。もしするなら、どういう理由で何のためにするのか。しないのなら、その理由は? 立ち止まって、まずこのことを考えます。クリスチャン以外の他の人々が何のために断食をしているのかを私は知りません。知る必要もありません。けれど少なくとも聖書の神を信じている私たちにとって、断食は、祈りの一つの形です。苦しみや悩みを神さまに向けて現し、また悔い改めて神へと立ち返るために、神さまとの親しい交わりを求めて断食をします。年に一度、大贖罪日(だいしょくざいび/レビ記23:23-,ヘブル手紙9:23-10:20)と呼ばれる日に皆が断食をすべきことが、かつて聖書に定められていました。それによって神さまとの親しい交わりがつづき、罪が清められることを願ってです。けれどあらかじめ警告されていたとおりに、その断食は、すぐにも中身と生命とを失って単なる形だけのもの、うわべを美しく取り繕うだけのものとなってしまいました。中身も生命もないその虚しいだけの形式主義は神さまの怒りをかい、神さまの御心をはなはだしく嘆かせました。「わたしが選ぶところの断食は、悪のなわをほどき、くびきのひもを解き、しえたげられる者を放ち去らせ、すべてのくびきを折るなどの事ではないか。・・・・・・飢えた者にあなたのパンを施し、苦しむ者の願いを満ち足らせるならば、あなたの光は暗きに輝き、あなたの闇は真昼のようになる」(イザヤ58:3-10,エレミヤ14:12)。けれど人々は預言者たちの警告に耳を貸しませんでした。ますます中身のないただ形ばかりの断食(=祈り)をしつづけました。洗礼者ヨハネは、滅多にいないほどのとても良い先生でしたその弟子が、こんなふうです。皆さんも、どの先生について習ってもいいでしょう。一日に何回祈ってもいいでしょう。けれど、立派なヨハネ先生がそう仰るんだからと何でもかんでも鵜呑みにしてはなりません。先生の指導が悪かったからではなく、多分、弟子たちの全員が愚かだったわけでもなく、たまたまここに質問しに来たこの弟子たちはうっかり者たちでした。立ち止まって、心を鎮めて考えることを、あまりしたことがなかったのでしょう。何のために、どういう目的と理由でそれをするのかと中身を一つ一つ、毎回毎回、問いつづけなければなりません。せっかく学んだことが実を結ぶためには。ただ形ばかりの虚しい形式主義に陥ってしまわないためには。「偽善者どもめ!」と神さまから厳しく叱られないためには。しかも15節、主イエスがこう答えています。「婚礼の客は、花婿が一緒にいる間は悲しんでおられようか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その時には断食をするであろう」。やがて主イエスが十字架につけられて殺され、葬られ、復活の姿を見せた後で天に上っていかれた後、主イエスの弟子たちは、そこでようやく断食をし、祈って待ち望みました。信じて待つ者たちに聖霊なる神さまが贈り与えられるという約束だったからです。約束はかなえられました(ルカ24:44-53,使徒1:4-11,同2:1-39)。
|
さて、それよりも他の何よりも、今日のこの箇所で心によくよく刻んでおくべき最も大切なことは、救い主イエスがご自分のことを『花婿』だと仰ったことです。救い主イエスが花婿であり、キリストの教会と一人一人のクリスチャンはその花嫁とされて迎え入れられている(マタイ25:1-,ヨハネ3:29,エペソ手紙5:22-33,イザヤ61:10)。そのことを心に留め、思い巡らせつづけなければなりません。これこそがキリスト教会と一人一人のクリスチャンにとって最も大切な生命の中身だからです。
花婿イエス・キリストは、その花嫁であるキリスト教会と私たち一人一人を愛してくださっています。結婚式のときの約束のとおりにです。「夫としての道を尽くし、キリスト教会と私たち一人一人を愛し、これを敬い、これを慰め、これを助けて変わることなく、その健やかな時も、その病む時も、この花嫁に対して堅く節操を守ることを誓いますか」。はい、と答えて、そのとおりにしつづけてくださっています。キリストの教会と一人一人のクリスチャンがはなはだしく心病むときにも、花婿に背を向け、花婿を顧みず、離れ去っていこうとするときにも、だからこの花婿イエス・キリストは、教会と私たちを見捨てることも見放すこともなさいません。キリストの教会が今日なお建っている理由と土台は、ただこの一点にあります。私たちがなおクリスチャンであり続けている理由と土台も、ここにだけあります。そうそう、この上田教会が使っている郵便封筒に、そのことが印刷されているそうです。「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである」(ヨハネ手紙(1)4:9-12)。その通りですね。ただ封筒に印刷してあるばかりでなく、やがて私たち一人一人の心に記され、魂に深々と刻み込まれるなら、またこれを自分の連れ合いや子供たち孫たちに伝え、私たちが家で座っている時も、道を歩く時も、寝る時も起きる時も、これについて語り、手につけて目と目の間に置いて覚えとし、昼も夜もこのことを思えるなら、それはどんなに幸いなことでしょうか。
けれど、もっとはっきりと語りましょう。神さまに背いて、逆らってばかりいた、心がとても強情で頑固な私たちでした。聖書はそれを『罪』と言い表し、『神に対する借金、負い目』であり、『何よりも厄介な病気』だと説き明かしました。ずいぶん高い代価を支払って、その罪と病気の重荷を主イエスが取り除いてくださいました。また花婿イエス・キリストは、私たちの日毎の必要を満たし、様々な困難と厄介事を案じてくださり、私たちのいたらなさやふつつかさや弱さを思いやり、忍耐し、自分自身を愛するように私たちを愛し、尊び、ご自分の体の一部分とさえしてくださいました。そう、「キリストの教会とその体の肢である私たちを傷つけ、苦しめる者は、花婿イエス・キリストご自身を傷つけ、悩ませ、苦しめている」と朱イエスご自身がおっしゃいました。パウロがかつて教会とクリスチャンとを迫害する者だったときのことです。花婿イエス・キリストは、「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」と呼びかけました。「あなたはどなたですか」と問われて、「私は、あなたが迫害しているイエスである」と花婿イエス・キリストはお答えになりました。これこそが、私たちのための祝福であり戒めです。また、「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち私にしたのである。しなかったのは、すなわち私にしなかったのである」(使徒9:4-6,マタイ25:35-46を参照)。天の御父がその御子キリストをさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたので、御子イエス・キリストだけではなく、御子といっしょにすべて一切をも贈り与えてくださる御心だからです。私たちの主キリストイエスによって示された神の愛から私たちを引き離すことはどんな者にもできない(ローマ手紙8:31-39)、と断言されています。神さまが私たちの味方だとは、このことです。しかも、この同じ憐れみ深く慈しみに富む神は、だからこそ! キリスト教会と私たちに立ち向かい、容赦なく厳しく敵対することさえなさいます。つまり、もし私たちが邪な者たちとなり、不正と悪を働き、家族や隣人や他者を苦しめ、傷つけ、悩ませる者となるときには、この花婿イエス・キリストご自身こそが私たちの前に断固として立ち塞がります。だからこそ、「高ぶった思いを抱かないで、むしろ恐れなさい」と戒められています。もし私たちが神さまの慈愛に留まっているならば、その慈愛は私たちにも向けられるでしょう。そうではないなら、私たちもまた切り取られてしまう他ありません。「神の慈愛と峻厳とを見よ」(ローマ手紙11:22)と警告されているのはこのことです。
17節についても、説き明かしておきます。「だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長もちがするであろう」。せっかく、わざわざ、「ぶどう酒」と言い、しかも「新しいぶどう酒」と仰ったからには、そこから大切な意味を聞き分けねばなりません。聖晩餐のパンと杯のことであり、花婿イエス・キリストが私たち罪人を救うために死んで葬られ、三日目に復活なさり、その復活の姿を十分に見せてくださったあと天に上られ、天と地のすべて一切を委ねられた王としてこの世界を治めつづけ、やがて再び来られますことです。あの最後の食事の席で、花婿イエス・キリストは、パンをとり、感謝してこれを裂き、「これはあなたがたのための私の体である」と仰り、杯を掲げ、「皆、この杯から飲みなさい。この杯は、わたしの血による新しい契約である」と仰ったからです。つい先々週こども説教で語ったことを、もう一度そのまま申し上げましょう。ちょうど聖晩餐のパンと杯のある礼拝でした。「ぶどう酒とそれを入れる袋。それは、神さまを信じる信仰の中身と、信じている人のいつもの暮らしぶりやいつもの腹の思いのことです。神さまを信じる信仰の中身がすっかり新しくされました。だから! その中身にふさわしい心構えや、毎日の暮らし方があり、その新しい中身にちょうどピッタリするいつもの心の在り方や、人との付き合い方がある」ということです。あのとき申し上げました。周りの大人の人たちがどんなふうにパンを食べ、ぶどう酒を飲むのか。その様子を、子供たちはよくよく観察してみてくださいと。そのときだけではなく、夕方にも何日か後にも家にいても道を歩いているときにも、誰といっしょの時にも! 目の前にいるその大人のクリスチャンが『新しい皮袋』にだんだんとなってゆく様子が分かります。神さまは一切わたしたちの功績なしで、純然たる恵みによって、キリストの完全な償いと義と聖を私たちに贈り与えてくださり、それによって、私たちがまるで罪など犯したことがないかのように、罪があったこともないかのように、また、キリストが私たちのために成し遂げてくださったあの服従のすべてを私たち自身が成し遂げたもののようにみてくださいます(ハイデルベルグ信仰問答,問60-64を参照)。そうであるならば兄弟姉妹たち、私たちはどのように毎日毎日を生きて、やがて死んでゆくことができるでしょうか。「ああそうか。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れるってこういうことだったのかあ」と自分自身も家族も友人たちもよく分かるようになるでしょうか。ぜひ、そうであらせていただきたい。パンと杯を差し出して救い主イエスは仰いました。「これは私の体である。皆、この杯から飲みなさい。わたしの血による新しい契約である」と。「わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパン、それはキリストの体にあずかることではないかパンが一つであるから、わたしたちは多くいても一つの体なのである」(コリント手紙(1)10:16-17,11:23-29を参照)。救い主イエスが十字架の上でご自分の体を引き裂き、ご自分の血を流し尽くして、私たちのための救いを成し遂げてくださいました。その体と血を飲み食いさせられている私たちは、だんだんとその中身にふさわしい新しい皮袋になってゆきます。もちろんそうです。神さまの憐れみとゆるしを受けて、神さまの子供たちとされたからです。救い主イエスを信じる信仰によって、このおかたと一つに結び合わされた私たちが感謝の実を結ばないことは有り得ないからです。