わたしはどこへ行って、あなたのみたまを離れましょうか。わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか。わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。わたしが陰府に床を設けても、あなたはそこにおられます。 (詩篇139:7-8)
◎とりなしの祈り
主なる神さま。どうか私たちを憐れんでください。この国に生きるすべての人々から希望が奪い取られてしまわないように、また私たちが自分だけの狭く小さな世界に閉じこもって、自分の都合と目先の損得にばかり執着して無気力に、どこまでも無責任になってしまわないように、どうぞお守りください。私たちだけではなく、この世界に生きるすべての人と生き物に、日毎の食べ物と、安全で安らかな暮らしを今日も贈り与えてください。神さまが私たちのためにもこの世界に住むみんなのためにも、ちゃんと生きて働いてくださっていますことを、どうかこの私たちにも、はっきりと気づかせてください。
神さま。自分自身と、自分の家族や気の合う親しい仲間や身内と、自分と同じ習慣や文化の同じ民族を愛するだけでは、全然足りません。自分たちのためだけの幸せや安心や満足なら、その幸せや満足はとても貧しく小さすぎます。ですから、どうか自分と少し違う生活習慣、違う伝統や文化の、違う言葉を話す、肌の色の違う、自分とは違う他の民族の人々をも同じく愛し尊ぶ私たちとならせてください。この国は、とても不平等で不公平な悪い国です。ますます悪くなっていきそうです。日本で暮らす外国人労働者とその家族の生活と生きるための当然の権利が十分に守られず、尊ばれもせず、彼らを憎んで押しのけようとする人々が声高に叫んでいます。沖縄が戦後70年間ずっと植民地扱いされ、そこに暮らす人々の生活と権利がないがしろにされつづけています。放射能に汚染された危険で有害な土地に、無理矢理に縛りつけられて暮らす人々が大勢います。まるで何もなかったかのように、とても危ない原子力発電所は次々と再稼働しつづけています。老人たちの生活も若い親たちと子供の生活も、置き去りにされつづけます。おかげで、毎日食べるご飯にも本当に困って、学校の給食費も支払えない家がたくさんあります。ひと握りのごくわずかな人々が豊かさを独り占めし、ますます強く豊かになっていきます。その傍らで、多くの貧しい人々が貧しいままに取り残されつづけ、その格差がどんどん広がっていく一方です。そういう社会のしくみを、私たち大人が選び取ってきたからです。私たち大人の責任です。もちろんキリスト教会とすべてのクリスチャンを含めて、この私たちの責任です。とても恥ずかしいことですし、その人たちに対しても神さまに対しても、私たちはお詫びのしようもありません。本当にごめんなさい。
思いやり深く心やさしい社会を築いてゆくことを、この私たち一人一人にも、どうか心底から本気で願い求めさせてください。神さまからの憐れみを受け、あまりに寛大に、思いやり深く取り扱われてきました私共ですから、この私共も同じくそのように、家族や隣人に対しても遠くに住む知らない人たちのためにも寛大に、また精一杯に思いやり深く接することができますように。この一つの願いをかなえてください。
主イエスのお名前によって祈ります。アーメン
みことば/2016,7,24(主日礼拝) № 69
◎礼拝説教 マタイ福音書 9:18-19,23-26,エゼキエル書37:1-14
日本キリスト教会 上田教会
『死んでしまった少女を』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
9:23 それからイエスは司の家に着き、笛吹きどもや騒いでいる群衆を見て言われた。24
「あちらへ行っていなさい。少女は死んだのではない。眠っているだけである」。すると人々はイエスをあざ笑った。 (マタイ福音書 9:23-24)
37:3 彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」。わたしは答えた、「主なる神よ、あなたはご存じです」。4
彼はまたわたしに言われた、「これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。5 主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。6
わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす。そこであなたがたはわたしが主であることを悟る」。
(エゼキエル書37:3-6)
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18-19節。ガリラヤの湖を中心に、こっちの岸辺へ、向こうの岸辺へ、またあっちの岸辺へと主イエスと弟子たちを乗せた小舟は行き来しつづけています。どの岸辺にも、主イエスの福音を待ち望む人々がいるからです。また、行ったり来たりして人々と出会う旅の中で、弟子たちは「ああ。こういうイエスさまだったのか。こういう救いと恵みだったのかあ」と、主イエスを信じる信仰をだんだんと深められ、色濃く、はっきりとしたものにしていただいているからです。さて岸辺に着くと、大勢の群衆がそばに集まってきました。ユダヤ教の一つの会堂の責任者が来て、主イエスを見ると、その足元にひれ伏しました。しきりに願って、言いました。「私の娘がただいま死にました。しかしおいでになって手をその上においてやって下さい。そうしたら、娘は生き返るでしょう」(18節)。会堂司は、主イエスこそが娘の命を救ってくださると信じ、主イエスという独りのお方にこそ期待をかけました。
23-24節。人々が笛を吹いたり騒いだりするのは、誰かが死んだときであり、悲しみと葬いのしきたりです。大声で泣きわめき騒いでいる人々と出会ったとき、主イエスは、「少女は死んだのではない。眠っているだけだ」と仰いました。人々はあざ笑いました。そのときの父親や母親の様子は、ここには報告されていません。もし私たちがその娘の親たちだったらどうでしょう。主イエスの言葉と、あざ笑う人々の様子をどんなふうに受け止めることができるでしょうか。主イエスを信じようとする私たちの信仰は揺さぶられて、きびしい挑戦にさらされるかもしれません。もしかしたら他の人々といっしょになって、主イエスを信じる心を紛らせてしまうかも知れませんでした。残念だが仕方がないと。近所の人々も誰も彼もが泣いて、すでに娘の死を受け入れているのだし。しかも、「死んだのではない。眠っているだけだ」と主イエスが仰った言葉を皆がバカにして、そんなことがあるものかとあざ笑っているのだし。それじゃあ、仕方がない。諦めるほかないと。『主イエスの死と復活を、そして、この方に率いられて私たちも古い罪の自分と死に別れて新しい生命に復活すること』を、信じていないわけではありません。けれどなお恐れており、度々心細くもなります。けれどなお、ほんのちょっとしたことが起こる度毎に心を激しく揺さぶられつづけます。どういうわけでしょうか。――主イエスの御声に聴き、他のさまざまな声にも聴き従っているからです。主イエスを信じ、またその一方では他さまざまな意見や主張にも、同じように信頼し、聴き従っているからです。主イエスを信じる心を、その度毎に、紛らせてしまうからです。そうだったのか。じゃあ残念だが仕方がないと。「娘は死んだ。主イエスだろうが誰だろうが、たとえ娘の所に来ても、手も足も出せないだろう。何をやっても無駄だ」と告げられ、「なんだ。そうだったのか」。「死んだのではない。眠っているだけだ」と主イエスが仰った言葉を皆がバカにして、あざ笑うときにも、「本当だ。また、根も葉もない絵空事が語られている」と一緒になってあざ笑いながら。
「誰も、二人の主人に仕えることはできない」と主イエスご自身から釘をさされていました。「だれも、二人の主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである」(マタイ福音書6:24)。問題は、やはりこのことです。会堂司の恐れも、その右往左往も、この根本問題を問いかけています。主イエスの声と人々や自分自身の声と、どっちをあなたは信頼し、どっちに従うつもりなのかと。どっちに親しみ、どちらをうとんじるつもりなのか。ふだんのいつもの生活の中での、私たちのそれぞれの恐れと右往左往もまた、このいつもの根本問題でありつづけます。家に帰って連れ合いや子供たちと過ごす日々に、「誰も二人の主人に仕えることはできない」と突きつけられています。で、あなたはどうするつもりなのか。誰をあなたの主人として、誰に聴き従って仕えるつもりなのかと。あなたが、自分自身で選びます。職場で何事かを判断し、何かを選びとらなければならないとき、上司や同僚やお客さんたちの前でどういう態度をとろうかと悩むとき、「誰も、二人の主人に仕えることはできない」。親戚たちや友人たちの前でも、「誰も二人の主人に仕えることはできない」。道を歩いているときにも、街角でも、駅のプラットホームに立っているときにも、「誰も二人の主人に仕えることはできない」と。家の台所でただ独りでいるときにも、やはり、「誰も二人の主人に仕えることはできない」と。四六時中、いつもいつも、私たちは誰かの(あるいは何かの)召し使いにされようとしています。「だって親戚や集まった人達に失礼になってはいけないし。無作法をしては申し訳ないので」と言いながら、その人たちを主人とし、その人たちの召し使いになろうとしています。「だって皆がそう言うし。皆がやっている同じことを、私もしないわけにはいかない。その人たちに嫌な思いをさせてしまっては」などと言いながら、その人たちのご意向や好き嫌いや気分や習慣やしきたりを主人とし、それに言いなりに従う召し使いになろうとしています。あるいは、「自分はしたいしたくない。気が進む進まない。虫がすくすかない」などと、自分の気分や腹の虫を主人とし(ローマ手紙16:18,ピリピ手紙3:19)、それに言いなりに従う召し使いに成り下がろうとしています。そのとき、何が起こっているでしょう。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじています。誰も、二人の主人に仕えることはできません。また、三人四人五人六人の主人を同時にもって、手を変え品を変えてあれこれの主人に仕えることもできなかったのです。では、いったい私は誰を自分の主人にし、誰の声に聞き従い、誰に仕えて生きていこうか。私たちはその都度その都度、自分自身で選び取って、毎日毎日を暮らしています。
それで、エゼキエル書37章をご一緒に読みました。お手数ですが、どうぞもう一度開いてください。1-3節。一人の預言者が主に導かれて連れ出され、幻を見ます。谷には非常に多くの骨があり、それらははなはだしく枯れていました。このたくさんの枯れた骨たちは神さまを信じて生きるはずの「イスラエルの家族全員」(11節参照)である、というのです。何ということでしょう。「私の骨は枯れた。望みはすっかり消えてなくなり、私たちは絶え果てる」と私たちも暗くうずくまり、心をくじけさせます。信仰を持っていてもそうでなくても、神さまを信じていてもそうではなくても、苦しみと困難とが私たちを襲います。次から次へと新しい厄介ごとが舞い込み、悩みが絶えません。クリスチャンになったら平穏無事かと思っていたら、全然そうではありませんでした。ではそれなら、神さまを信じてそれが何になるのでしょう。役にも立たず、無駄ではありませんか。神さまは私たちに、そしてこの私に、いったい何をしてくださるというのでしょう。4-6節では、枯れて横たわっていた骨が、生き返って、一人の生身の人間として再び立ち上がる姿が、その驚くべき回復の予定表が、主ご自身によって語られます。あまりに単純明快な筋立てです。《主が~する》。すると《~なる》。主が骨に筋をおき、肉をつけ、それらを皮膚で覆い、生命の息を吹き入れる。すると、枯れた骨であったお前たちは生き返る。そして、私が主であることを知るようになる。「主が主であることを悟る」(6,13節)と繰り返して語られます。つまり、それまでは「主が主である」とはあまり分からない。なかなかピンと来ない。主であるとは、第一のものであることです。また、最後の最後まで責任を負う者であるという意味です。だからこそ、『主を主とする』とは、この自分自身を主に聴き従って生きるしもべとするという腹のくくり方です。(「この牧師。あの牧師、あの大先生」などではなくて、「あの先輩。この立派な誰々さんを信頼して」でもなくて!)この主にこそ一途に信頼を寄せて生きていこうという決断です。「主イエス。主イエス」と口癖のように何度も何度も口にしている私たちです。第一のお方イエス、責任を負う方であるイエスと口では言いながら、けれど裏腹に、このお独りのお方を二の次、三の次にし、後回しにしつづけ、このお独りのお方にこそ信頼を寄せ、願い求め、聞き従うべきところで、別のあれこれへと心をさまよわせつづける者たちが、にもかかわらず、「主イエス。主イエス」と。主が主である、主を主とする。それができればどんなに幸いかと神が私たちを招きます。
7-10節では、命じられるままに、その通りに預言者が語り、すると、主の計画のままにその通りに実現して生きます。言われたとおりに言い、言われたとおりになってゆく。「じゃあ。それなら私たちの出番はどこにあるんだ? 私たちの主体性や自主性はどうしてくれる?」と反発したくもなります。それじゃあ、なんだか物足りず、つまらない気もします。それならばクリスチャンは神さまにだけ望みをかけて、自分では何もしなくてもいいのでしょうか? いいえ、そうではありません。4節「枯れた骨よ、主の言葉を聞け。~見よ。すると、すると」。7節「見よ、カタカタと音を立てて」。8節「わたしが見ていると、見よ」。主が語りかける言葉を聞き、主の霊を注がれる。けれどそれは、いつ、どこで起こっているでしょう。『ずっと昔にはこうだった』という思い出話を聞いているのではありません。まるで死んだようになって、生きていても死んでいるのとあまり変わらないような気分で毎日毎日を生きている人がいます。枯れた骨のように、乾いて、谷底にただ横たわるように生きる人もいます。その人は起き上がるでしょうか? その人は、再び生き返るでしょうか? 「あなたはご存知です。しもべは聞きます。どうぞ教えてください」と答えようとして、けれどあるとき、「そんなバカなことが信じられるか」と私たちは小さな声でつぶやきました。常識で考えたって、子供だって分かる。骨は骨、もし起き上がってカタカタカタカタと歩きだしたら、そりゃあ、ただのおとぎ話か絵空事だろう、などと。
いいえ、とんでもない。神にはなんでも出来る(創世記18:14,ルカ福音書1:37,同18:27)、と教えられてきたからです。ぼくも、それを信じてきました。あなたもそうですか。だからこそ、そこに不信仰と疑いが忍び込みます。「これらの骨は生き返ることができるか?」「主なる神よ、あなたのみがご存知です」。この問いと答えの間に、一人一人のクリスチャンとキリストの教会は立ちつづけます。信仰と不信仰との間に。だからこそ枯れた骨たちよ、カラカラに渇いた心たちよ。主の言葉を聞きなさい。これらの骨は神さまを信じて精一杯に生きるはずの人々だったからです。心を惑わされて、彼らはつぶやきます。「わたしたちの骨は枯れた。わたしたちの望みはうせ、わたしたちは滅びる。もう何の望みも希望もない。なんの楽しみもない」と。だから預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを悟るようになる。また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、これを行ったことを悟る」と主は言われる(エゼキエル書37:11-14参照)。
主は言われます。あなたに向かって、朝も昼も晩も、次の日も次の日も。「枯れた骨のようなあなたよ、主の言葉を聞きなさい。あの娘は主イエスによって起き上がった。では、あなた自身は生き返るだろうか。筋と肉と皮膚をつけ、生命の息を吹き込まれ、再び立ち上がるだろうか。からみついてくる恐れや不安や心細さをかなぐり捨てて、あなたは再び、晴れ晴れ清々として生きることをし始めるだろうか。それとも、薄暗い谷底にまだまだじ~っと横たわったままだろうか。枯れた骨のような、しばしば枯れた骨のようになってしまうあなたの心に、ふさがりかけたあなたの耳に、はたして主の言葉は届くだろうか。あなたはどう思う?」と。耳を澄ませましょう。