2016年7月26日火曜日

7/24こども説教「12人を、神さまが選んだ」ルカ6:12-16

 7/24 こども説教 ルカ6:12-16
 12人を、神さまが選んだ』

6:12 このころ、イエスは祈るために山へ行き、夜を徹して神に祈られた。13 夜が明けると、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び出し、これに使徒という名をお与えになった。14 すなわち、ペテロとも呼ばれたシモンとその兄弟アンデレ、ヤコブとヨハネ、ピリポとバルトロマイ、15 マタイとトマス、アルパヨの子ヤコブと、熱心党と呼ばれたシモン、16 ヤコブの子ユダ、それからイスカリオテのユダ。このユダが裏切者となったのである。     (ルカ福音書 6:12-16

  神さまが、ご自分でお造りになった世界のすべての生き物たちに向かって、神さまの祝福の中へと入ってきてそこで生きるようにと招きつづけておられます。祝福へ招き入れる働きのために、ほんの少しのひと握りの人々を選び出しました。アブラハムとサラの時代から、それははっきりしています。主イエスが大勢の弟子たちを招き、そこから12人を選び出し、またキリストの教会と一人一人のクリスチャンたちを世界中に立ててくださったことも、その同じ目的のためです。しかも最初から貧しい、小さくて力の弱い、ごく普通の人々をわざわ選び出しました。人間の力や強さや賢さによらず、ただただ神ご自身の力と賢さによってこの祝福を成し遂げるために(創世記12:1-3,コリント手紙(1)1:18-2:5を参照)
  選ばれた12人の中に、やがて主イエスを裏切ることになるイスカリオテのユダが含まれていたことは、私たちを悩ませつづけます。もちろん主イエスはユダがやがてご自分を裏切ることを最初から知っていました。よくよく分かった上で、その彼を弟子とし、わざわざ12人の一人となさいました。なぜそうなのかを、わたしたちは十分に説明することも、よくよく理解することもできません。神さまは私たち人間よりもはるかに賢く、はるかに知恵深いかたであるからです。十字架におかかりになる前の最後の食事の席で、主イエスが「あなたがたのうちの一人が私を裏切る」と予告し、弟子たちは「まさか私のことでは?」と心を痛めました。その通り、ユダ一人だけではなく 弟子たち皆が主イエスを裏切り、主を見捨てて逃げ出してしまう時が近づいていました。「まさか。それは私のことでは」と私たち皆が心を痛めねばなりません。その心の痛みこそが、私たちに謙遜さや慎みを学び取らせ、神さまからの憐れみと福音のもとへと立ち返らせつづけるからです(マタイ福音書26:21-,コリント手紙(2)7:9-10
  ノアやアブラムやサライを神さまがお選びになったように、あの大勢の弟子たちと12人を主イエスが選び出されたように、ここにいるこの私たちも神さまからの恵みによって、同じく選ばれました。同じ一つの目的のためにです。神さまが、ご自分でお造りになった世界のすべての生き物たちに向かって、神さまの祝福の中へと入ってきてそこで生きるようにと招きつづけておられるからです。祝福へと神によって造られたすべての生き物たちを招き入れる働きのためにです。やがて主イエスがこう仰います。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである」(ヨハネ福音書15:16,マタイ福音書28:18-20。主イエスはこの私たちをも選び、主に仕える働きへと立ててくださり、他すべてのキリスト教会と共にこの上田教会をさえも神さまご自身が立ててくださいました。
さて12人を選び出すときに、主イエスが「一晩中ずっと朝まで御父に向かって祈りつづけた」12節)ことにも気づきましたね。ちゃんと選ぶことができるために祈ったのです。選ばれた者たちが十分に働いて役割を果たすことができるために、主イエスは祈ったのです。しかも、一晩中ずっと朝まで。天の御父の御心にかなって彼らを選び、その御心にかなって彼らが十分に働くことができるために。私たちすべてのクリスチャンのためにも、主イエスは、同じく祈りつづけておられます。ご存知ですね。だから、わたしたちも出かけて行って天の御父の御心にこそかなって働こうと努めつづけ、だからこそ 御父の御心にかなって必ずきっと実をむすび、その慈しみの実はいつまでも残ります(コリント手紙(2)9:8-11。また、私たちが主イエスの名によって御父に求めるものはなんでも、天の御父が与えて下さいます。そういう約束だからです。


7/24「死んでしまった少女を」マタイ9:18-19,23-26,エゼキエル37:1-14

わたしはどこへ行って、あなたのみたまを離れましょうか。わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか。わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。わたしが陰府に床を設けても、あなたはそこにおられます。                   (詩篇139:7-8

 ◎とりなしの祈り

 主なる神さま。どうか私たちを憐れんでください。この国に生きるすべての人々から希望が奪い取られてしまわないように、また私たちが自分だけの狭く小さな世界に閉じこもって、自分の都合と目先の損得にばかり執着して無気力に、どこまでも無責任になってしまわないように、どうぞお守りください。私たちだけではなく、この世界に生きるすべての人と生き物に、日毎の食べ物と、安全で安らかな暮らしを今日も贈り与えてください。神さまが私たちのためにもこの世界に住むみんなのためにも、ちゃんと生きて働いてくださっていますことを、どうかこの私たちにも、はっきりと気づかせてください。
 神さま。自分自身と、自分の家族や気の合う親しい仲間や身内と、自分と同じ習慣や文化の同じ民族を愛するだけでは、全然足りません。自分たちのためだけの幸せや安心や満足なら、その幸せや満足はとても貧しく小さすぎます。ですから、どうか自分と少し違う生活習慣、違う伝統や文化の、違う言葉を話す、肌の色の違う、自分とは違う他の民族の人々をも同じく愛し尊ぶ私たちとならせてください。この国は、とても不平等で不公平な悪い国です。ますます悪くなっていきそうです。日本で暮らす外国人労働者とその家族の生活と生きるための当然の権利が十分に守られず、尊ばれもせず、彼らを憎んで押しのけようとする人々が声高に叫んでいます。沖縄が戦後70年間ずっと植民地扱いされ、そこに暮らす人々の生活と権利がないがしろにされつづけています。放射能に汚染された危険で有害な土地に、無理矢理に縛りつけられて暮らす人々が大勢います。まるで何もなかったかのように、とても危ない原子力発電所は次々と再稼働しつづけています。老人たちの生活も若い親たちと子供の生活も、置き去りにされつづけます。おかげで、毎日食べるご飯にも本当に困って、学校の給食費も支払えない家がたくさんあります。ひと握りのごくわずかな人々が豊かさを独り占めし、ますます強く豊かになっていきます。その傍らで、多くの貧しい人々が貧しいままに取り残されつづけ、その格差がどんどん広がっていく一方です。そういう社会のしくみを、私たち大人が選び取ってきたからです。私たち大人の責任です。もちろんキリスト教会とすべてのクリスチャンを含めて、この私たちの責任です。とても恥ずかしいことですし、その人たちに対しても神さまに対しても、私たちはお詫びのしようもありません。本当にごめんなさい。
 思いやり深く心やさしい社会を築いてゆくことを、この私たち一人一人にも、どうか心底から本気で願い求めさせてください。神さまからの憐れみを受け、あまりに寛大に、思いやり深く取り扱われてきました私共ですから、この私共も同じくそのように、家族や隣人に対しても遠くに住む知らない人たちのためにも寛大に、また精一杯に思いやり深く接することができますように。この一つの願いをかなえてください。
主イエスのお名前によって祈ります。アーメン



                                          みことば/2016,7,24(主日礼拝)  69
◎礼拝説教 マタイ福音書 9:18-19,23-26,エゼキエル書37:1-14                         
                  日本キリスト教会 上田教会
『死んでしまった少女を』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
  9:23 それからイエスは司の家に着き、笛吹きどもや騒いでいる群衆を見て言われた。24 「あちらへ行っていなさい。少女は死んだのではない。眠っているだけである」。すると人々はイエスをあざ笑った。                      (マタイ福音書 9:23-24)

37:3 彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」。わたしは答えた、「主なる神よ、あなたはご存じです」。4 彼はまたわたしに言われた、「これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。5 主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。6 わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす。そこであなたがたはわたしが主であることを悟る」。             
                                                 (エゼキエル書37:3-6)

  


 18-19節。ガリラヤの湖を中心に、こっちの岸辺へ、向こうの岸辺へ、またあっちの岸辺へと主イエスと弟子たちを乗せた小舟は行き来しつづけています。どの岸辺にも、主イエスの福音を待ち望む人々がいるからです。また、行ったり来たりして人々と出会う旅の中で、弟子たちは「ああ。こういうイエスさまだったのか。こういう救いと恵みだったのかあ」と、主イエスを信じる信仰をだんだんと深められ、色濃く、はっきりとしたものにしていただいているからです。さて岸辺に着くと、大勢の群衆がそばに集まってきました。ユダヤ教の一つの会堂の責任者が来て、主イエスを見ると、その足元にひれ伏しました。しきりに願って、言いました。「私の娘がただいま死にました。しかしおいでになって手をその上においてやって下さい。そうしたら、娘は生き返るでしょう」(18)。会堂司は、主イエスこそが娘の命を救ってくださると信じ、主イエスという独りのお方にこそ期待をかけました。
  23-24節。人々が笛を吹いたり騒いだりするのは、誰かが死んだときであり、悲しみと葬いのしきたりです。大声で泣きわめき騒いでいる人々と出会ったとき、主イエスは、「少女は死んだのではない。眠っているだけだ」と仰いました。人々はあざ笑いました。そのときの父親や母親の様子は、ここには報告されていません。もし私たちがその娘の親たちだったらどうでしょう。主イエスの言葉と、あざ笑う人々の様子をどんなふうに受け止めることができるでしょうか。主イエスを信じようとする私たちの信仰は揺さぶられて、きびしい挑戦にさらされるかもしれません。もしかしたら他の人々といっしょになって、主イエスを信じる心を紛らせてしまうかも知れませんでした。残念だが仕方がないと。近所の人々も誰も彼もが泣いて、すでに娘の死を受け入れているのだし。しかも、「死んだのではない。眠っているだけだ」と主イエスが仰った言葉を皆がバカにして、そんなことがあるものかとあざ笑っているのだし。それじゃあ、仕方がない。諦めるほかないと。『主イエスの死と復活を、そして、この方に率いられて私たちも古い罪の自分と死に別れて新しい生命に復活すること』を、信じていないわけではありません。けれどなお恐れており、度々心細くもなります。けれどなお、ほんのちょっとしたことが起こる度毎に心を激しく揺さぶられつづけます。どういうわけでしょうか。――主イエスの御声に聴き、他のさまざまな声にも聴き従っているからです。主イエスを信じ、またその一方では他さまざまな意見や主張にも、同じように信頼し、聴き従っているからです。主イエスを信じる心を、その度毎に、紛らせてしまうからです。そうだったのか。じゃあ残念だが仕方がないと。「娘は死んだ。主イエスだろうが誰だろうが、たとえ娘の所に来ても、手も足も出せないだろう。何をやっても無駄だ」と告げられ、「なんだ。そうだったのか」。「死んだのではない。眠っているだけだ」と主イエスが仰った言葉を皆がバカにして、あざ笑うときにも、「本当だ。また、根も葉もない絵空事が語られている」と一緒になってあざ笑いながら。
  「誰も、二人の主人に仕えることはできない」と主イエスご自身から釘をさされていました。「だれも、二人の主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである」(マタイ福音書6:24)。問題は、やはりこのことです。会堂司の恐れも、その右往左往も、この根本問題を問いかけています。主イエスの声と人々や自分自身の声と、どっちをあなたは信頼し、どっちに従うつもりなのかと。どっちに親しみ、どちらをうとんじるつもりなのか。ふだんのいつもの生活の中での、私たちのそれぞれの恐れと右往左往もまた、このいつもの根本問題でありつづけます。家に帰って連れ合いや子供たちと過ごす日々に、「誰も二人の主人に仕えることはできない」と突きつけられています。で、あなたはどうするつもりなのか。誰をあなたの主人として、誰に聴き従って仕えるつもりなのかと。あなたが、自分自身で選びます。職場で何事かを判断し、何かを選びとらなければならないとき、上司や同僚やお客さんたちの前でどういう態度をとろうかと悩むとき、「誰も、二人の主人に仕えることはできない」。親戚たちや友人たちの前でも、「誰も二人の主人に仕えることはできない」。道を歩いているときにも、街角でも、駅のプラットホームに立っているときにも、「誰も二人の主人に仕えることはできない」と。家の台所でただ独りでいるときにも、やはり、「誰も二人の主人に仕えることはできない」と。四六時中、いつもいつも、私たちは誰かの(あるいは何かの)召し使いにされようとしています。「だって親戚や集まった人達に失礼になってはいけないし。無作法をしては申し訳ないので」と言いながら、その人たちを主人とし、その人たちの召し使いになろうとしています。「だって皆がそう言うし。皆がやっている同じことを、私もしないわけにはいかない。その人たちに嫌な思いをさせてしまっては」などと言いながら、その人たちのご意向や好き嫌いや気分や習慣やしきたりを主人とし、それに言いなりに従う召し使いになろうとしています。あるいは、「自分はしたいしたくない。気が進む進まない。虫がすくすかない」などと、自分の気分や腹の虫を主人とし(ローマ手紙16:18,ピリピ手紙3:19、それに言いなりに従う召し使いに成り下がろうとしています。そのとき、何が起こっているでしょう。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじています。誰も、二人の主人に仕えることはできません。また、三人四人五人六人の主人を同時にもって、手を変え品を変えてあれこれの主人に仕えることもできなかったのです。では、いったい私は誰を自分の主人にし、誰の声に聞き従い、誰に仕えて生きていこうか。私たちはその都度その都度、自分自身で選び取って、毎日毎日を暮らしています。
 それで、エゼキエル書37章をご一緒に読みました。お手数ですが、どうぞもう一度開いてください。1-3節。一人の預言者が主に導かれて連れ出され、幻を見ます。谷には非常に多くの骨があり、それらははなはだしく枯れていました。このたくさんの枯れた骨たちは神さまを信じて生きるはずの「イスラエルの家族全員」(11節参照)である、というのです。何ということでしょう。「私の骨は枯れた。望みはすっかり消えてなくなり、私たちは絶え果てる」と私たちも暗くうずくまり、心をくじけさせます。信仰を持っていてもそうでなくても、神さまを信じていてもそうではなくても、苦しみと困難とが私たちを襲います。次から次へと新しい厄介ごとが舞い込み、悩みが絶えません。クリスチャンになったら平穏無事かと思っていたら、全然そうではありませんでした。ではそれなら、神さまを信じてそれが何になるのでしょう。役にも立たず、無駄ではありませんか。神さまは私たちに、そしてこの私に、いったい何をしてくださるというのでしょう。4-6節では、枯れて横たわっていた骨が、生き返って、一人の生身の人間として再び立ち上がる姿が、その驚くべき回復の予定表が、主ご自身によって語られます。あまりに単純明快な筋立てです。《主が~する》。すると《~なる》。主が骨に筋をおき、肉をつけ、それらを皮膚で覆い、生命の息を吹き入れる。すると、枯れた骨であったお前たちは生き返る。そして、私が主であることを知るようになる。「主が主であることを悟る」(6,13)と繰り返して語られます。つまり、それまでは「主が主である」とはあまり分からない。なかなかピンと来ない。主であるとは、第一のものであることです。また、最後の最後まで責任を負う者であるという意味です。だからこそ、『主を主とする』とは、この自分自身を主に聴き従って生きるしもべとするという腹のくくり方です。(「この牧師。あの牧師、あの大先生」などではなくて、「あの先輩。この立派な誰々さんを信頼して」でもなくてこの主にこそ一途に信頼を寄せて生きていこうという決断です。「主イエス。主イエス」と口癖のように何度も何度も口にしている私たちです。第一のお方イエス、責任を負う方であるイエスと口では言いながら、けれど裏腹に、このお独りのお方を二の次、三の次にし、後回しにしつづけ、このお独りのお方にこそ信頼を寄せ、願い求め、聞き従うべきところで、別のあれこれへと心をさまよわせつづける者たちが、にもかかわらず、「主イエス。主イエス」と。主が主である、主を主とする。それができればどんなに幸いかと神が私たちを招きます。
 7-10節では、命じられるままに、その通りに預言者が語り、すると、主の計画のままにその通りに実現して生きます。言われたとおりに言い、言われたとおりになってゆく。「じゃあ。それなら私たちの出番はどこにあるんだ? 私たちの主体性や自主性はどうしてくれる?」と反発したくもなります。それじゃあ、なんだか物足りず、つまらない気もします。それならばクリスチャンは神さまにだけ望みをかけて、自分では何もしなくてもいいのでしょうか? いいえ、そうではありません。4節「枯れた骨よ、主の言葉を聞け。~見よ。すると、すると」。7節「見よ、カタカタと音を立てて」。8節「わたしが見ていると、見よ」。主が語りかける言葉を聞き、主の霊を注がれる。けれどそれは、いつ、どこで起こっているでしょう。『ずっと昔にはこうだった』という思い出話を聞いているのではありません。まるで死んだようになって、生きていても死んでいるのとあまり変わらないような気分で毎日毎日を生きている人がいます。枯れた骨のように、乾いて、谷底にただ横たわるように生きる人もいます。その人は起き上がるでしょうか? その人は、再び生き返るでしょうか? 「あなたはご存知です。しもべは聞きます。どうぞ教えてください」と答えようとして、けれどあるとき、「そんなバカなことが信じられるか」と私たちは小さな声でつぶやきました。常識で考えたって、子供だって分かる。骨は骨、もし起き上がってカタカタカタカタと歩きだしたら、そりゃあ、ただのおとぎ話か絵空事だろう、などと。
  いいえ、とんでもない。神にはなんでも出来る(創世記18:14,ルカ福音書1:37,18:27、と教えられてきたからです。ぼくも、それを信じてきました。あなたもそうですか。だからこそ、そこに不信仰と疑いが忍び込みます。「これらの骨は生き返ることができるか?」「主なる神よ、あなたのみがご存知です」。この問いと答えの間に、一人一人のクリスチャンとキリストの教会は立ちつづけます。信仰と不信仰との間に。だからこそ枯れた骨たちよ、カラカラに渇いた心たちよ。主の言葉を聞きなさい。これらの骨は神さまを信じて精一杯に生きるはずの人々だったからです。心を惑わされて、彼らはつぶやきます。「わたしたちの骨は枯れた。わたしたちの望みはうせ、わたしたちは滅びる。もう何の望みも希望もない。なんの楽しみもない」と。だから預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを悟るようになる。また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、これを行ったことを悟る」と主は言われる(エゼキエル書37:11-14参照)
主は言われます。あなたに向かって、朝も昼も晩も、次の日も次の日も。「枯れた骨のようなあなたよ、主の言葉を聞きなさい。あの娘は主イエスによって起き上がった。では、あなた自身は生き返るだろうか。筋と肉と皮膚をつけ、生命の息を吹き込まれ、再び立ち上がるだろうか。からみついてくる恐れや不安や心細さをかなぐり捨てて、あなたは再び、晴れ晴れ清々として生きることをし始めるだろうか。それとも、薄暗い谷底にまだまだじ~っと横たわったままだろうか。枯れた骨のような、しばしば枯れた骨のようになってしまうあなたの心に、ふさがりかけたあなたの耳に、はたして主の言葉は届くだろうか。あなたはどう思う?」と。耳を澄ませましょう。




2016年7月19日火曜日

7/17こども説教「良いことをするのと悪いことをするのと、どちらが良いか?」ルカ6:6‐11

7/17 こども説教 ルカ6:6-11
 『良いことをするのと悪いことをするのと、
どちらが良いか?』
       ~安息日違反(2)~

6:6 また、ほかの安息日に会堂に はいって教えておられたところ、そこに右手のなえた人がいた。・・・・・・9 そこでイエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたに聞くが、安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」。      (ルカ福音書 6:6-9

  安息日にしてはいけないはずのことを、救い主イエスはわざと次々とする。そして当時の信仰の専門家たちと厳しく言い争います。「神さまが決めたはずの律法や安息日が大嫌いで、どうでもいいと思っていた」、わけではありません。むしろ逆で、神さまが決めたはずの律法や安息日をとてもとても大切に思っておられたのです。だから、してはいけないと人々が思い込んでいたことを、わざわざして見せました。安息日(=日曜日)は何のためにあるのか。日曜日から始まる一週間ずつを、どんなふうに生きていくことができるのかを、人々がすっかり見失っていたからです。ただただ形ばかりの、中身のない虚しい約束事に成り下がっていた『神さまからの律法』に、もう一度、中身と生命を吹き込むためにです(*)。もともと安息日は、自分も世界のすべても自分や他のナニカのものではなく神さまのものだと知り、神さまからの祝福を受け取り、その祝福のもとに改めて生きはじめるためにあります。神さまからの祝福を誰もが受け取り、神さまを心から喜び、神さまに聴き従って幸いに嬉しく生きるために。
  さて、安息日に、神さまのものである祈りの家で、主イエスは右手がなえて自由に使えずに困っていた人のその手を治してあげました(他の日、他の場所ではなく、わざわざ安息日に、わざわざ神の祈りの家で。困っていたその人のためであり、また、そこに集まったすべての人々にも、安息日(=日曜日)は何のためにあるのか。日曜日から始まる一週間ずつを、どんなふうに生きて死ぬことができるのかを、もう一度、思い起こさせるためにです。9節、主イエスはそこにいる皆に向かって問いかけました。「あなたがたに聞くが、安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」。しーんとして、誰も答えません。答えが分からなかったからではありません。ほんのちょっと考えてみるだけで、小さな子供にも誰にでもすぐに分かるはずのことでした。けれど、規則をただただ守るのに精一杯で、先生たちも生徒の誰一人も そんなことを少しも考えたことがありませんでした。皆が、いきなり気づきました。『偉い先生たちから教えられてきたことを、何も考えずに、教えられるままに、ただただ鵜呑み(=うのみ。人から知らされた言葉やその内容を、それが正しいか間違っているのかとよく考えもせず、そのまま、ただ受け入れてしまうこと)にしていただけだった。何も考えず鵜呑みにしていたおかげで、善いことをぜず悪いことをしつづけ、命を救わず殺しつづけてきてしまった。おかげで、ぼくも私も悪者たちの仲間になっていた。神さまを大事にするふりをして、神さまの御心なんかそっちのけにしていた。人間のことばかり思い煩いつづけて暮らしていた。ああ、この自分もそうだった』と、いきなり突きつけられてしまいました。激しく怒って、主イエスを殺してしまおうと相談しはじめた人々11節)も、そのことにはっきりと気づきました。よし、良かった ついにとうとう神さまからの祝福を受けて生きはじめるための出発点に、そこにいた全員が立たされたのです。この私たち皆も。目の前には二種類の正反対の道がつづいています。一つの道は、神さまからの祝福を受け取って生きる道。そしてもう一つの道は、神さまからますます離れ去っていく道と。



           【補足説明/律法】
            (*)「律法を廃止するためではなく、むしろ成就するために私は来た」(マタイ福音書5:17)と主イエスは宣言する。宣教活動の冒頭の長い長い一連の説教は、その具体的な実践である(マタイ5-7章,ルカ6:20-49を参照)。長い年月の間に『律法』は『律法主義』に変質し、中身と生命を失っていた。その律法に再び生命を吹き込み、そこに込められた神ご自身の願いを成し遂げること。律法の本来的な働きと目的を、宗教改革者らは『律法の三用益』と説き明かした;(1)自分自身の罪と悲惨を告げ知らせ、(2)憐れみとゆるしを求めて救い主イエスのもとへと罪人らを招き入れ、(3)救われて新しく生きはじめた者のための生活指針となると。救われた者たちは、恵みを受けた結果として、感謝の実を結ぶ。神を愛し、隣人を自分のように愛し尊び、良い働きをしつつ生きる者とされてゆく。神さまが、そうならせてくださる。それが、クリスチャンとされていることの確かな希望である。


7/17「新しいぶどう酒を、新しい皮袋に」マタイ9:14‐17

しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。                 (エレミヤ書31:33-34

  ◎とりなしの祈り

 主なる神さま。この国に生きるすべての人々から希望が奪い取られてしまわないように、また私たちが自分だけの狭く小さな世界に閉じこもって、自分の都合と目先の損得にばかり執着して無気力に、どこまでも無責任になってしまわないように、どうぞお守りください。
 神さま。この国は、国家の都合と利益のために、どこへでも出かけて行って戦争をできる国になろうとしています。平和と安全のためではない 正しくもない戦争に 無理矢理に駆り出されて、自衛隊員とその家族の多くの生命と生活が無駄に使い捨てにされようとしています。もし黙って見過ごすならば、この私共も、とんでもない悪事の片棒を担ぐことになってしまいます。神さま、いったいどれだけたくさんの生命が無駄に失われたら、私たちはそのことに気づくことができるでしょうか。とても不平等で、ひと握りのごくわずかな人々が豊かさを独り占めし、ますます強く豊かになっていきます。その傍らで、多くの貧しい人々が貧しいままに取り残されつづけ、格差がどんどん広がっていく一方です。政治家と大企業の経営者たちのせいばかりではなく、そういう社会のしくみを、他の誰でもなく私たち大人が選び取ってきたからです。私たち大人の責任です。もちろんキリスト教会とすべてのクリスチャンを含めて、私たちの責任です。日本で暮らす外国人労働者とその家族の生活と生きるための当然の権利が十分に守られず、尊ばれもせず、彼らを憎んで押しのけようとする人々が声高に叫んでいます。沖縄が植民地扱いされ、そこに暮らす人々の生活と権利がないがしろにされつづけています。放射能に汚染された危険で有害な土地に、無理矢理に縛りつけられて暮らす人々が大勢います。まるで何もなかったかのように、とても危ない原子力発電所は次々と再稼働しつづけています。老人たちの生活も若い親たちと子供の生活も、置き去りにされつづけます。非正規雇用で不安定な中で、多くの労働者たちがただ安く便利に使い捨てられつづけています。企業も国家も、彼らの生活に責任を負いません。彼らのはなはだしい苦境に対して、私たち大人には大きな責任があります。神さま、まったく申し訳ないことです。お詫びのしようもありません。
 思いやり深く温かな社会を築いてゆくことを、この私たちにも、今日こそ本気で願い求めさせてください。憐れみを受け、望むべくもないほどあまりに寛大に、思いやり深く取り扱われ、そのように多く愛されてきました私共ですから、この私共も同じくそのように、家族や隣人に対して寛大に、また精一杯に思いやり深く接することができますように。どうか、この一つの願いをかなえてください。主イエスのお名前によって祈ります。アーメン


                                          みことば/2016,7,17(主日礼拝)  68
◎礼拝説教 マタイ福音書 9:14-17                       日本キリスト教会 上田教会
『新しいぶどう酒を、
新しい皮袋に』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
9:14 そのとき、ヨハネの弟子たちがイエスのところにきて言った、「わたしたちとパリサイ人たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」。15 するとイエスは言われた、「婚礼の客は、花婿が一緒にいる間は、悲しんでおられようか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その時には断食をするであろう。16 だれも、真新しい布ぎれで、古い着物につぎを当てはしない。そのつぎきれは着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなるから。17 だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長もちがするであろう」。             (マタイ福音書 9:14-17)


14-15節。洗礼者ヨハネの弟子たちが主イエスのところに質問をしに来ました。「わたしたちとパリサイ人たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」。断食をするかしないか。もしするなら、どういう理由で何のためにするのか。しないのなら、その理由は? 立ち止まって、まずこのことを考えます。クリスチャン以外の他の人々が何のために断食をしているのかを私は知りません。知る必要もありません。けれど少なくとも聖書の神を信じている私たちにとって、断食は、祈りの一つの形です。苦しみや悩みを神さまに向けて現し、また悔い改めて神へと立ち返るために、神さまとの親しい交わりを求めて断食をします。年に一度、大贖罪日(だいしょくざいび/レビ記23:23-,ヘブル手紙9:23-10:20と呼ばれる日に皆が断食をすべきことが、かつて聖書に定められていました。それによって神さまとの親しい交わりがつづき、罪が清められることを願ってです。けれどあらかじめ警告されていたとおりに、その断食は、すぐにも中身と生命とを失って単なる形だけのもの、うわべを美しく取り繕うだけのものとなってしまいました。中身も生命もないその虚しいだけの形式主義は神さまの怒りをかい、神さまの御心をはなはだしく嘆かせました。「わたしが選ぶところの断食は、悪のなわをほどき、くびきのひもを解き、しえたげられる者を放ち去らせ、すべてのくびきを折るなどの事ではないか。・・・・・・飢えた者にあなたのパンを施し、苦しむ者の願いを満ち足らせるならば、あなたの光は暗きに輝き、あなたの闇は真昼のようになる」(イザヤ58:3-10,エレミヤ14:12。けれど人々は預言者たちの警告に耳を貸しませんでした。ますます中身のないただ形ばかりの断食(=祈り)をしつづけました。洗礼者ヨハネは、滅多にいないほどのとても良い先生でしたその弟子が、こんなふうです。皆さんも、どの先生について習ってもいいでしょう。一日に何回祈ってもいいでしょう。けれど、立派なヨハネ先生がそう仰るんだからと何でもかんでも鵜呑みにしてはなりません。先生の指導が悪かったからではなく、多分、弟子たちの全員が愚かだったわけでもなく、たまたまここに質問しに来たこの弟子たちはうっかり者たちでした。立ち止まって、心を鎮めて考えることを、あまりしたことがなかったのでしょう。何のために、どういう目的と理由でそれをするのかと中身を一つ一つ、毎回毎回、問いつづけなければなりません。せっかく学んだことが実を結ぶためには。ただ形ばかりの虚しい形式主義に陥ってしまわないためには。「偽善者どもめ」と神さまから厳しく叱られないためには。しかも15節、主イエスがこう答えています。「婚礼の客は、花婿が一緒にいる間は悲しんでおられようか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その時には断食をするであろう」。やがて主イエスが十字架につけられて殺され、葬られ、復活の姿を見せた後で天に上っていかれた後、主イエスの弟子たちは、そこでようやく断食をし、祈って待ち望みました。信じて待つ者たちに聖霊なる神さまが贈り与えられるという約束だったからです。約束はかなえられました(ルカ24:44-53,使徒1:4-11,2:1-39

 さて、それよりも他の何よりも、今日のこの箇所で心によくよく刻んでおくべき最も大切なことは、救い主イエスがご自分のことを『花婿』だと仰ったことです。救い主イエスが花婿であり、キリストの教会と一人一人のクリスチャンはその花嫁とされて迎え入れられている(マタイ25:1-,ヨハネ3:29,エペソ手紙5:22-33,イザヤ61:10)。そのことを心に留め、思い巡らせつづけなければなりません。これこそがキリスト教会と一人一人のクリスチャンにとって最も大切な生命の中身だからです。
  花婿イエス・キリストは、その花嫁であるキリスト教会と私たち一人一人を愛してくださっています。結婚式のときの約束のとおりにです。「夫としての道を尽くし、キリスト教会と私たち一人一人を愛し、これを敬い、これを慰め、これを助けて変わることなく、その健やかな時も、その病む時も、この花嫁に対して堅く節操を守ることを誓いますか」。はい、と答えて、そのとおりにしつづけてくださっています。キリストの教会と一人一人のクリスチャンがはなはだしく心病むときにも、花婿に背を向け、花婿を顧みず、離れ去っていこうとするときにも、だからこの花婿イエス・キリストは、教会と私たちを見捨てることも見放すこともなさいません。キリストの教会が今日なお建っている理由と土台は、ただこの一点にあります。私たちがなおクリスチャンであり続けている理由と土台も、ここにだけあります。そうそう、この上田教会が使っている郵便封筒に、そのことが印刷されているそうです。「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである」(ヨハネ手紙(1)4:9-12。その通りですね。ただ封筒に印刷してあるばかりでなく、やがて私たち一人一人の心に記され、魂に深々と刻み込まれるなら、またこれを自分の連れ合いや子供たち孫たちに伝え、私たちが家で座っている時も、道を歩く時も、寝る時も起きる時も、これについて語り、手につけて目と目の間に置いて覚えとし、昼も夜もこのことを思えるなら、それはどんなに幸いなことでしょうか。
  けれど、もっとはっきりと語りましょう。神さまに背いて、逆らってばかりいた、心がとても強情で頑固な私たちでした。聖書はそれを『罪』と言い表し、『神に対する借金、負い目』であり、『何よりも厄介な病気』だと説き明かしました。ずいぶん高い代価を支払って、その罪と病気の重荷を主イエスが取り除いてくださいました。また花婿イエス・キリストは、私たちの日毎の必要を満たし、様々な困難と厄介事を案じてくださり、私たちのいたらなさやふつつかさや弱さを思いやり、忍耐し、自分自身を愛するように私たちを愛し、尊び、ご自分の体の一部分とさえしてくださいました。そう、「キリストの教会とその体の肢である私たちを傷つけ、苦しめる者は、花婿イエス・キリストご自身を傷つけ、悩ませ、苦しめている」と朱イエスご自身がおっしゃいました。パウロがかつて教会とクリスチャンとを迫害する者だったときのことです。花婿イエス・キリストは、「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」と呼びかけました。「あなたはどなたですか」と問われて、「私は、あなたが迫害しているイエスである」と花婿イエス・キリストはお答えになりました。これこそが、私たちのための祝福であり戒めです。また、「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち私にしたのである。しなかったのは、すなわち私にしなかったのである」(使徒9:4-6,マタイ25:35-46を参照)。天の御父がその御子キリストをさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたので、御子イエス・キリストだけではなく、御子といっしょにすべて一切をも贈り与えてくださる御心だからです。私たちの主キリストイエスによって示された神の愛から私たちを引き離すことはどんな者にもできない(ローマ手紙8:31-39、と断言されています。神さまが私たちの味方だとは、このことです。しかも、この同じ憐れみ深く慈しみに富む神は、だからこそ キリスト教会と私たちに立ち向かい、容赦なく厳しく敵対することさえなさいます。つまり、もし私たちが邪な者たちとなり、不正と悪を働き、家族や隣人や他者を苦しめ、傷つけ、悩ませる者となるときには、この花婿イエス・キリストご自身こそが私たちの前に断固として立ち塞がります。だからこそ、「高ぶった思いを抱かないで、むしろ恐れなさい」と戒められています。もし私たちが神さまの慈愛に留まっているならば、その慈愛は私たちにも向けられるでしょう。そうではないなら、私たちもまた切り取られてしまう他ありません。「神の慈愛と峻厳とを見よ」(ローマ手紙11:22と警告されているのはこのことです。
  17節についても、説き明かしておきます。「だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長もちがするであろう」。せっかく、わざわざ、「ぶどう酒」と言い、しかも「新しいぶどう酒」と仰ったからには、そこから大切な意味を聞き分けねばなりません。聖晩餐のパンと杯のことであり、花婿イエス・キリストが私たち罪人を救うために死んで葬られ、三日目に復活なさり、その復活の姿を十分に見せてくださったあと天に上られ、天と地のすべて一切を委ねられた王としてこの世界を治めつづけ、やがて再び来られますことです。あの最後の食事の席で、花婿イエス・キリストは、パンをとり、感謝してこれを裂き、「これはあなたがたのための私の体である」と仰り、杯を掲げ、「皆、この杯から飲みなさい。この杯は、わたしの血による新しい契約である」と仰ったからです。つい先々週こども説教で語ったことを、もう一度そのまま申し上げましょう。ちょうど聖晩餐のパンと杯のある礼拝でした。「ぶどう酒とそれを入れる袋。それは、神さまを信じる信仰の中身と、信じている人のいつもの暮らしぶりやいつもの腹の思いのことです。神さまを信じる信仰の中身がすっかり新しくされました。だから その中身にふさわしい心構えや、毎日の暮らし方があり、その新しい中身にちょうどピッタリするいつもの心の在り方や、人との付き合い方がある」ということです。あのとき申し上げました。周りの大人の人たちがどんなふうにパンを食べ、ぶどう酒を飲むのか。その様子を、子供たちはよくよく観察してみてくださいと。そのときだけではなく、夕方にも何日か後にも家にいても道を歩いているときにも、誰といっしょの時にも 目の前にいるその大人のクリスチャンが『新しい皮袋』にだんだんとなってゆく様子が分かります。神さまは一切わたしたちの功績なしで、純然たる恵みによって、キリストの完全な償いと義と聖を私たちに贈り与えてくださり、それによって、私たちがまるで罪など犯したことがないかのように、罪があったこともないかのように、また、キリストが私たちのために成し遂げてくださったあの服従のすべてを私たち自身が成し遂げたもののようにみてくださいます(ハイデルベルグ信仰問答,問60-64を参照)。そうであるならば兄弟姉妹たち、私たちはどのように毎日毎日を生きて、やがて死んでゆくことができるでしょうか。「ああそうか。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れるってこういうことだったのかあ」と自分自身も家族も友人たちもよく分かるようになるでしょうか。ぜひ、そうであらせていただきたい。パンと杯を差し出して救い主イエスは仰いました。「これは私の体である。皆、この杯から飲みなさい。わたしの血による新しい契約である」と。「わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパン、それはキリストの体にあずかることではないかパンが一つであるから、わたしたちは多くいても一つの体なのである」(コリント手紙(1)10:16-17,11:23-29を参照)救い主イエスが十字架の上でご自分の体を引き裂き、ご自分の血を流し尽くして、私たちのための救いを成し遂げてくださいました。その体と血を飲み食いさせられている私たちは、だんだんとその中身にふさわしい新しい皮袋になってゆきます。もちろんそうです。神さまの憐れみとゆるしを受けて、神さまの子供たちとされたからです。救い主イエスを信じる信仰によって、このおかたと一つに結び合わされた私たちが感謝の実を結ばないことは有り得ないからです。


2016年7月12日火曜日

7/10こども説教「日曜日の願いと目的」ルカ6:1‐5

 7/10 こども説教 ルカ6:1-5
 『日曜日の願いと目的』

6:1 ある安息日にイエスが麦畑の中をとおって行かれたとき、弟子たちが穂をつみ、手でもみながら食べていた。2 すると、あるパリサイ人たちが言った、「あなたがたはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのか」。・・・・・・5 また彼らに言われた、「人の子は安息日の主である」。
               (ルカ福音書6:1-5)

  安息日に、他人の畑の麦を、主イエスの弟子たちが勝手に取って食べました。「してはいけないことをしている」と、パリサイ人たちが文句を言いました。とても意外なことですが、他人の畑の麦を勝手に取ってムシャムシャ食べることについては、ゆるされていました。誰でも、腹一杯になるまでそうしていいのです(申命記23:24-25を参照)。他の国と違って、ユダヤの国には飛びっきりに親切で心優しい法律があって、貧しい人々がそのように食べ物を得て生きることをゆるしてあげるようにと神さまが命じています。びっくりです。それとは別に、「安息日に働いてはいけない」という神さまの律法に違反している、とパリサイ人たちは言いたい。
  すると、私たちがここでよくよく考えなければならないのは、日曜日は何のためにあるのか。日曜日から始まる一週間ずつを、どんなふうに生きていこうかということです。日曜日のはじまりは、創世記1:31-2:3です。神さまが7日間で天と地のすべてのものを造られたとき、6日目にはご自分が造ったすべてのものを一つ一つご覧になり、「とても良い。嬉しい」と大喜びに喜んでくださいました。7日目に、ご自分の仕事を離れてホッと一息つき、ご自分が造ったすべてのものをご自分のものとなさり(=聖別.せいべつ)、祝福なさいました。世界が出来上がったのは6日目ではなく、7日目です。造ったすべてのものをご自分のものとし、祝福したとき。そこで、とうとう世界を造るお働きが成し遂げられました。日曜日毎の安息日は、世界のすべても自分自身も神さまのものとされていることを改めて心に刻み、祝福を受け取るためにあります。それが神さまと私たちの願いであり、日曜日の目的でもあります。自分も世界のすべても自分や他のナニカのものではなく神さまのものだと知り、神さまからの祝福を受け取り、その祝福のもとに改めて生きはじめること。そのためには、神さまがそうなさったように、この私たち自身も 自分の仕事を離れ、大事に抱えたものを手放して傍らに置き、ホッと一息つく(=安息する)必要があります。もし、そうでなければ、自分も世界のすべても自分や他のナニカのものではなく神さまのものだと知ることも、神さまからの祝福を受け取ることも、その祝福のもとに改めて生きはじめることも誰にも出来るはずがないからです。「日曜日(=安息日)に働いてはいけない」(十戒の第四戒。出エジプト記20:8-11,申命記5:12-15と戒めたのは、そういう目的と願いからです。誰もが神からの祝福を受け、神さまを喜び、神さまに聴き従って幸いに、安心して生きるために。救い主イエスは、そのために来てくださいました。「安息日の主」5節)とは、そのことです。


      (*)【補足説明/安息日の祝福の広がりと展望】
      神ご自身の祝福に満ちた平和と喜びにあずかること。もし仮に、7日間のうちの1日だけが祝福を受ける聖なる日で、他6日間が神さまやその祝福と無縁な俗なる日であるならば、その祝福は偽りであり、貧しすぎます。安息日に率いられて、やがて7日間すべてが祝福のうちに据え置かれます。安息日はそのためのしるしであり、先触れです。まったく同様に、もし仮にクリスチャンだけ、人間様だけが神さまの祝福にあずかるなら、その祝福もまた貧相で安っぽく、ケチ臭すぎます。いいえ、そうではありません。神さまからの広々とした、分け隔てしない、惜しみない祝福を、私たち人間こそが狭く貧しくしつづけました。回復されねばなりません。「あなたは祝福の基となるであろう。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」(創世記12:2-3)と、神さまはアブラムとその子孫のために、この世界のためにも約束なさったからです。世界中のすべての生き物たちのための祝福。その出発点とされた私たちです。神を信じるひと握りの人々が起こされ、救い主イエスが救いの御業を成し遂げてくださった目的はここにあります。やがて、この同じ一つの祝福はすべての生き物と、畑と農作物にさえ及び、終わりの日の主からの祝福へと私たちを導き入れます。これが、最初からの祝福の全体像です(出エジプト記16:1-36,レビ記25:1-28,ヘブル手紙3:7-4:11を参照)。

      こうした恵み深さに照らして、パリサイ人らの反応や心の思いを味わいましょう。彼らは、私たちの過ちと混乱を映し出す鏡です。私たち自身のいつもの姿です。中身と本質を問うことを止めたとき、人は誰もが無味乾燥な、ただただ虚しいだけの形式主義に陥り、そのとき、私たちもまた「偽善者どもめ」と厳しく叱られるでしょう(マタイ福音書6:16-18,同23:1-36)。それをこそ我が事として警戒し、恐れましょう。パリサイ人のふり見て、わがふり直せ

7/10「医者である神に」マタイ9:9‐13

「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ。主は、ふつかの後、わたしたちを生かし、三日目にわたしたちを立たせられる。わたしたちはみ前で生きる。わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう。主はあしたの光のように必ず現れいで、冬の雨のように、わたしたちに臨み、春の雨のように地を潤される」。               (ホセア書 6:1-3

 ◎とりなしの祈り

 主なる神さま。この国に生きるすべての人々から生きる希望が奪い取られてしまわないように、また私たちが自分だけの狭く小さな世界に閉じこもって、自分の都合と目先の損得にばかり執着して、無気力に、どこまでも無責任になってしまわないように、どうぞお守りください。なぜなら神さま、この国がますます悪い、よこしまな国に成り下がっていこうとしているからです。とても不平等で、ひと握りのごくわずかな人々が豊かさを独り占めし、ますます強く豊かになっていきます。その傍らで、多くの貧しい人々が貧しいままに取り残されつづけ、格差がどんどん広がっていく一方だからです。
 神さま。どんな紛争も武力によっては解決できないことに、平和と安全のための正しい戦争などありえないことに、この私たちに、今日こそはっきりと気づかせてください。しかもこの国はとうとう国家の都合と利益のために、どこへでも出かけて行って戦争をできる国になろうとしています。自衛隊員とその家族の多くの生命と生活が無駄に使い捨てにされようとしています。恐ろしいことです。政治家と大企業の経営者たちのせいばかりではなく、そういう社会のしくみを、他の誰でもなく私たち大人が選び取ってきたからです。この国がますますとても悪い社会になっていこうとするのは、身勝手で自分たちの目の前の損得しか考えてこなかった、この私たち大人の責任です。もちろんキリスト教会とすべてのクリスチャンを含めて。日本で暮らす外国人労働者とその家族の生活と生きるための当然の権利が十分に守られず、尊ばれもせず、彼らを憎んで押しのけようとする人々が声高に叫んでいます。沖縄が植民地扱いされ、そこに暮らす人々の生活と権利がないがしろにされつづけています。放射能に汚染された危険で有害な土地に、無理矢理に縛りつけられて暮らす人々が大勢います。まるで何もなかったかのように、とても危ない原子力発電所は次々と再稼働しつづけています。老人たちの生活も若い親たちと子供の生活も、置き去りにされ、少しも顧みられず、破綻しかけてます。非正規雇用で不安定な中で、多くの労働者たちがただ安く便利に使い捨てられつづけています。企業も国家も、彼らの生活に責任をまったく負おうとしません。痛くも痒くもないからです。彼らのはなはだしい苦境に対して、私たち大人には大きな責任があります。神さま、まったく申し訳ないことです。
 思いやり深く温かな社会を築いてゆくことを、この私たちにも、今日こそ本気で願い求めさせてください。心を新たにされ造りかえられて、何が良いことであなたに喜ばれることなのか、何が悪いことなのかを弁え知って、そのようにして、あなたの御心にかなって生きる私たちにならせてください(ローマ手紙12:1-2を参照)
 主イエスのお名前によって祈ります。アーメン


                                          みことば/2016,7,10(主日礼拝)  67
◎礼拝説教 マタイ福音書 9:9-13                        日本キリスト教会 上田教会
『医者である神に』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
  9:9 さてイエスはそこから進んで行かれ、マタイという人が収税所にすわっているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った。10 それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。11 パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。12 イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。13 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。               (マタイ福音書 9:9-13)




  神ご自身であり救い主である主イエスは、貧しい大工の息子として育ちました。初めにこの方の弟子とされたのは、ごく普通の無学な漁師たちでした。次に弟子とされたのは、人々から嫌われ馬鹿にされていた取税人でした。オギャアと生まれる場所のためには、わざわざ家畜小屋のエサ箱を選びました。神の国の教えを広める弟子としては、漁師や取税人たちを、無きに等しい者たちを わざわざお選びになりました(コリント手紙(1)1:26-31を参照)。人間の知恵や力や賢さによらず、そんなものには全くお構いなしに、神ご自身の知恵と慈しみによって救いを成し遂げてゆくために。
  9節。取税人のことは、少しは説明しておきましょう。なぜ彼らが人々から嫌われ馬鹿にされ、仲間外れにされていたのか。そのころユダヤの国はローマ帝国の植民地にされ、ローマの国の言いなりにされていました。取税人はユダヤ人からお金を集めて、ローマの国に渡しました。家に住むための税金、道路や橋を渡るための税金、食べ物を買うための税金、いろいろな形で集められたたくさんの税金は、しかしユダヤ人のためにではなく、もっぱらローマの国のために使われました。ユダヤ人たちはローマの国にたくさんの税金を払うのも、好きなように利用されるのも、言いなりにされて支配されるのも嫌でした。「そんなことはしたくない。私たちは嫌だ」と言いたかったのです。けれど相手の方が強かったので、逆らうことが出来ませんでした。心の中では、彼らはローマの国を憎みました。また心の中では、言いなりにされて「はい。分かりました。いいえ喜んで従いますよ、はいはい」と従っている自分たちのあり方も大嫌いでした。けれどローマの国や自分自身の悪口を言う代りに、あの彼らの悪口を言いました。自分たち自身の不甲斐なさに腹を立てて嘆く代わりに、あの彼らを馬鹿にしました。自分の不幸や貧しさを彼らのせいにしました。すると、少しは心が晴れました。貧しい不幸な時代には、またそういう貧しく淋しい社会では、人はそういうふうに誰かを馬鹿にしたり、いじめたり憎んだり、仲間外れにしたりするのです。この国や世界中あちこちでそうなりつつあるように。自分の辛さや惨めさをその誰かに肩代わりさせて、それで心の憂さを晴らすために。彼らを踏みつけて惨めにさせて、その分だけ、ほんのちょっと良い気分になろうとして。けれどご覧ください。その踏みつけられた惨めな人々の傍らに寄り添って、そこに 私たちの主イエス・キリストが立っておられます(マタイ10:42,18:1-6,25:31-46
  10-11節。主イエスの弟子にしていただいたあの彼は、友だちを大勢招いてパーティーを開きました。どうしてでしょう。何のためでしょうか。とても嬉しかったからです。その喜びをぜひ分かち合いたい、と願ったからです。昔からの友だちや、家族や仕事仲間たち。彼はその人たちをとても大切に思っています。しかも、救われた今となっては、「その一人一人にとっても、主イエスと出会うことが嬉しく心強いことにちがいない。彼らにも格別な喜びや力を与えるだろう。彼らの魂もまた、救い主を必要としている。それがあれば彼らはどんなに慰められ、心強いだろうか」と知っているからです。あの友だちもそうだ。この人もこの人もと。ここでも、信仰のことや神様のことをよく分かっているはずの人たちが怒ったり、文句を言ったり馬鹿にしたりします。このパリサイ人たちの考え方や物の見方をよくよく観察しておきましょう。プンプン腹を立てているあの彼らは、私たちの姿をよく映し出す鏡であり、『悪い先生。真似をしてはいけない悪い手本』であるからです。「なぜ、あんな人たちと一緒に飲んだり食べたりする?」と彼らは言います。どうしてなんだろうかと質問しているのではありません。非難しているのです。「主と共に座るその喜ばしい食卓には、あの人たちはふさわしくない。この立派な私たちこそがふさわしい」と言いたい。
 では質問。神さまの御前でのふさわしさとは、一体どんなものだったでしょうか? コリント手紙(1)1:26-31は、それをはっきりと物語ります。「愚かな者。弱い者。身分の低い者、軽んじられている者を。無きに等しい者をわざわざ選んだ」のだと(ほかにもコリント(1)4:6-,9:22,11:30,ローマ4:17,ルカ1:48-54,マルコ10:31,マタイ18:3,20:26)。私はよく知っている、私は強いと思い込んでいる者をはずかしめるために。どんな人間でも、神さまの前でも人様の前でも誇ったり自惚れたり思い上がってしまうことがないために。そのために、わざわざそうした。もちろん、あなたや私に対してもまったくそうだった、と。これらの言葉を繰り返し聞きつづけながら、朝も晩も読み返しながら、なおいつの間にかずいぶん偉そうな私たちです。賢いつもりの私たちであり、分かっているつもりの、豊かで強いつもりの、大きなつもりの、しっかりしているつもりの私たちです。神の前でも人様の前でもずいぶん誇っている。あるいは逆に、なんだかいじけて首をすくめている。同じことです。どっちにしても主ご自身を誇ることからずいぶん遠い。知恵ある私たちは、その自分自身の知恵について恥をかかねばなりません。力ある私たちは、その私たちの力について恥をかかねばなりません。そこそこの地位と名誉を手に入れている私たちは、そのそこそこの地位と名誉について恥をかかされ、無力な者とされねばなりません。あなたも私も、まだまだ恥をかき足りません。その浅はかな知恵があるために、神の知恵に聞くことができないでいるからです。その小さな力があるために、神の力に信頼することができずにいるからです。そのそこそこの賢さとほどほどの強さがあるために、神の賢さと強さを願い求めることも、「はい。ありがとう」と受け入れることもできずにいるからです。誇るとは何でしょうか? 「それがあるから私は安心だ。心強い」と信頼し、支えとし、頼みの綱とすることです。振り返ってみて、神の前でも人様の前でも、自分自身に向かっても、私たちはあまりにたくさんのものを支えとし、拠り所としています。多くのものを頼みの綱としています。そのあなたのどこに、主ご自身をこそ誇る余地があるでしょう。一日が終わって、私たちはその日を振り返って「よく働いた。私はよくやった」などと思うのです。あるいは「まあまあ、よくやった。ほどほどだった」などと。順調な日々にも、悩みを抱えて途方にくれる日々にも、私たちは私たち自身を思います。そして周囲の人々やモノを眺め回します。私たちの働きと知恵と賢さと、私たちの強さと弱さと、私たちの賢さと愚かさと、私たち自身の豊かさと貧しさと。一体どこに神がおられるのでしょう。私たちの毎日の生活の中の、その眼差しと腹の据え方の中の、一体どこに、生きて働いておられます神がいるでしょうか。私たちは何者だったでしょう。
 12-13節。主イエスはお答えになります;「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」と。ここで一番わかりづらいのは、真ん中に挟まれた『』の部分でしょう。『わたしが好むのは憐れみであって、いけにえではない』。旧約聖書にはこう書かれています;「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる。そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しいからである」「わたしは慈しみを喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ」「あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげても、あなたは喜ばれないでしょう。神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません」(サムエル記上15:22,ホセア6:6,51:16-17)。律法学者やパリサイ人たちは、心の中でこう考えます;「私はちゃんといけにえをささげている。掟に従い、正しく立派に行動している。神に仕え、たくさん献げ、精一杯に働いている。それなのにあの彼らは」と。もしかしたら私たちも、神さまに仕え、献げものをし、働くときにあの人たちと同じような気持ちになるかも知れません。それはありえます。けれど、主はおっしゃいます。「私は憐れみをこそ求める。私の声にあなた自身が聞き従うことを願う。打ち砕かれたあなたの心、悔いて神へと立ち返るあなた自身の心をこそ、わたしは求める。他のどんなものが欲しいのでもなく、ただただ、それをこそ私は願っている」と。私たちは思います;「私が仕えている。私たちが献げている。私たちが働いていると。いけにえも憐れみも、私たちが与えている」と。けれど、本当にそうだったでしょうか。それなら、十字架の上で神ご自身が差し出し、献げてくださったものは一体何だったでしょう。神こそが私たちのために、ご自身を犠牲として献げ、ご自身の憐れみを私たちに注ぎかけてくださったのではなかったでしょうか。献げるときも、仕えるときも働くときも、この私たちこそは そのことをはっきりと思い起こしておきたいのです。救い主がこの地上に来たのは罪人を招くためであり、その罪と悲惨さから救い出し、神の恵みとゆるしのもとへと立ち戻らせるためでした。その罪人は病人のようだったのです。その神は、医者のような神だったのです。十分に健康だから、十分に正しくふさわしいからと招いたのではありません。そうではなく、その病人のような罪人をあわれむからであり、滅びるままに捨て置くことなど出来ないと惜しんでくださったからであり、ぜひとも救い出してあげたいと切望してくださったからでした。あなたも私も病人のようでした。いいえ、いまなお病人です。「わたしは正しい。私はちゃんとやっている。私は私は」と言い立てて止まない病気があります。「人からどう思われるだろ。どう見られてしまうか」と恐れてビクビクする病気があり、「認められたい。受け入れてもらいたい。それなのにどうして」と飢え渇きつづける病気があり、「けっして忘れない。ゆるせない」と憎みつづける病気があり、「貧しい。豊かだ。有り余っている。不足している。それに比べてあの人は、この人たちは」と目くじら立てて見比べつづける病気があります。夏風邪くらいに甘く見て、うまいものでも食べてグッスリ眠ればそのうち治るとでも思っていたのですか。これこそ死に至る病気です。この病気は、あなたの命にかかわります。おもな症状――かたくなさ。了見が狭く、意固地で偏屈。冷淡な批判がましさ。なんとなくイライラすること。悪口や陰口。ごうまんと卑屈。次々とわきあがる恐れと不安。ウツウツ、モヤモヤとした気分。溜め息。物足りなさや淋しさ、心細さ。その他いろいろ。神さまにしか癒せない、あまりに危険な重い病気があり、私たちは度々この病気のとりこにされました。医者のような神であり、病人のような私たちです。いいえ。医者である神さま。病人である私たち。どの1人も例外なくかなりな重病人です。自分が病気だとは知らないでいる病人たち。どの医者にかかっていいか分からずに途方に暮れている病人たち。どうせ無理だ、手遅れだと絶望している病人たち。そして、十分な良い医者ととうとう出会って、病気を治していただいている途中の病人たち。

       


 さあ、兄弟姉妹たち。あの宴会の場面を覗いてみましょう。元・取税人のマタイという男が、照れながら、ちょっと緊張しながら挨拶しています;「皆さん、今日はよく来てくださいました。私は主イエスと出会いました。この方です。主というのは、『主治医』という意味です。私の病気と健康にこの主治医こそが全責任を負ってくださり、必ずすっかり健康にして、幸せに生きてやがて幸せに満ち足りて死んでゆくことさえできるようにしてくださる、と太鼓判を押してくださいました。しかも治療費はタダです。びっくりでしょ。病気だなんて思っていなかったので、『お前は病気だ。放っておくと死んでしまうぞ』と最初に言われたとき、腹が立ちました。イカサマ野郎だと思いました。でもだんだん健康になってきて、それがとても嬉しくて ぜひ、みなさんと一緒に喜びたいと思いました。皆さんにもぜひこの方と出会っていただきたくて、お招きしました。どうぞ遠慮なく、このお医者さんに診てもらってください」。税金取立て人のマタイの仲間たちはワイワイ楽しみ、大いに食べたり飲んだりし、語り合いました。その診療所の医局長である主イエスは、そこでなんと挨拶なさるでしょう。例えばこうおっしゃるかも知れません;「私は医者です。しかも自慢するみたいですが、かの有名なブラックジャック先生の100倍くらい腕がいい。しかも誰にも思い浮かべられないほどにも大金持ちなので、治療費はタダです。なにしろ病人がわたしの所に来てくれると嬉しい。しかも特に、誰にも治せないような、とてもとても難しい病気の、今にも死にそうな、どの医者からも見放されたような難しい病人が来てくれると嬉しい。死んでいた者が生き返り、いなくなっていた者を探し出せると、とても嬉しい。あなたの病気も治してあげますよ。あなたも、あなたも。じゃあ乾杯」(ルカ15:7,10,24を参照)この風変わりなお医者さんの診察室は、お祝いパーティの宴会場でもあります。それがキリストの教会であり、毎週毎週日曜日毎にそこで起こっている出来事です。お祝いパーティの真っ最中に、診察と治療も同時進行で行われつづけます。その一風変わった病院のお祝いパーティ兼、診察・治療は、この2000年の間くりかえされつづけています。世界中のあちこちで、町中でも田舎でも、日曜日の午前中に主イエス病院の分院、診療所が建てられました。私たちもその同じ診察室の、1つの食事の席に連なりつづけます。主イエスと共にある憐れみの食卓に。救い出された罪人たちが薬を飲みながら、傷に包帯を巻いていただきながら、飲み食いしたり、歌ったりして座っています。なんという恵み、なんという喜びでしょう。祈りましょう。