2016年6月6日月曜日

6/5「権威の下にある」マタイ8:5-13

                                           みことば/2016,6,5(主日礼拝)  62
◎礼拝説教 マタイ福音書 8:5-13                        日本キリスト教会 上田教会
『権威の下にある』


  牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
8:5 さて、イエスがカペナウムに帰ってこられたとき、ある百卒長がみもとにきて訴えて言った、6 「主よ、わたしの僕が中風でひどく苦しんで、家に寝ています」。7 イエスは彼に、「わたしが行ってなおしてあげよう」と言われた。8 そこで百卒長は答えて言った、「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。9 わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。10 イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた人々に言われた、「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。11 なお、あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、12 この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」。13 それからイエスは百卒長に「行け、あなたの信じたとおりになるように」と言われた。すると、ちょうどその時に、僕はいやされた。        (マタイ福音書 8:5-13)








末尾の13節。別れ際に、主イエスが百卒長に語りかけます。「行け、あなたの信じたとおりになるように」。「あなたの信じたとおりに、この私がならせてあげるから」という救い主からの約束です。百卒長だけでなく、皆が同じく約束していただいています。信じたとおりに実現していただける。それならば、差し出され語られたとおりに信じるのが良いでしょう。何をどう信じているのかと、この私たちも問われます。

山上の長い説教5-7章)の末尾、主イエスの教えに群衆はひどく驚きました。「律法学者のようにではなく、権威ある者のように教えられたからである」7:28-29と。まるでいかにも権威ある者らしく見せかけている者や、権威者ぶっている者でもなく、現に確かに権威ある者としてです。つまりは生半可な、ごく人間的な、そこそこの権威ではなく、天の御父のものである天と地のすべて一切の権威を一手に委ねられた者として(マタイ福音書11:27,28:18,ローマ手紙14:9,コリント手紙(1)15:24-25,エペソ手紙1:20-22,ピリピ手紙2:9-11,コロサイ手紙2:10,ペテロ手紙(1)3:22救い主イエスがお語りになったからでした。それにつづいて、「私も権威のもとにある者ですから」とローマ軍の百卒長が主イエスのもとにやってきます。神ご自身の権威のもとに据え置かれている私たちに向けて、信仰をもって生きることのまったく新しい姿が差し出されます。目を凝らしましょう。イエスのもとにやってきた「百卒長」は大きな責任を持たせられた、まあまあ偉いほうの軍人です。どれくらい偉いかというと、この名前のとおりに、100人の兵隊に指図する隊長です。その上に、1000人の兵隊に指図する隊長や10000人、100000人の兵隊を指図する隊長などもいます。そんなことよりも、この百卒長の願いを聞いてその手下の一人の兵隊の病気を主イエスは治してあげました。そのとき、10節、「これほどの信仰を見たことがない」と主イエスは仰いました。ですから、何がどれほどなのか、どういうところが百卒長の信仰のとても良いところなのかと目を凝らしましょう。8節後半から9節です。「ただ、お言葉をください。そうすれば僕(しもべ=手下、部下)は治ります。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。一言おっしゃってください。私も権威のもとに置かれています。私の部下は、私が行けといえば行く。来いと言えば来る。そのように「治れ」と命じてください。そうすれば彼を苦しめる病いも、彼も、私自身も、あなたの権威に従いますから。
  こういう箇所を読んで私たちは戸惑います。この百卒長と、彼を信頼し一途に従う部下の姿があまりに現実離れしているように見えるからです。まさか主は、この私たちに「あの隊長と部下の在り方」を手本とせよとお命じになるのだろうか。あるいは、「この確信や信頼とこの従順がなければ、クリスチャン失格だ」などと? もし、そのように命じられ、そのように要求されるならば、私たちは失格とされ見放される他ないように思えます。神さまへのそんな確信も信頼も従順も、こんな私たちなんかにはカケラもないと言いたくなります。その一方で、しかし、私たちはこの隊長と部下の姿にどこか見覚えがあるようにも思えます。また彼の部下は、ともに死地を何度も何度もくぐり抜けてきた長年の深い付き合いの中で、この一人の隊長によくよく信頼して従うことを習い覚え、体で覚え込んでもいます。全幅の信頼を寄せるに足る相手である。ひたすらに聴き従うに価する相手である、本当にそうだ、と深く頷くことを積み重ねてきました。だからこそ、たとえ瀕死の重傷を負っていても、足腰立たなくて気を失いそうになっているとしてもなお、その彼がこの私に「行け」と命じるなら、私は行く。その彼が「来い」と命じるなら、それなら私はたとえ這ってでも、棺桶から這い出してでも来る。生き死にを共にしてきた戦いの日々に、あの隊長がどういう隊長なのかをよくよく知ったのです。『権威があるもの』、それは『主である』ということです。最後の最後まで責任を負う者という意味です。その『権威のもとに置かれている私だ』ということは、その真実と慈しみのもとに据え置かれつづけてきたということです。あの一人の隊長はたしかに私にとっての最善最良を知り、願い、それを備え、最後の最後まで全責任を担い通してくださった。「本当に。たしかにそうだった」と。
  こういう隊長と部下たちが、この地上に現実にいるかどうか。それはどうでもいいことです。多分いないでしょう。本当には、私たち人間同士のことではないからです。そんなことよりも、そういうただお独りの隊長と、この私たち自身は、ともに死地をくぐり抜け長く深く付き合ってきた。その中で、このただお独りの隊長によくよく信頼して従うことを習い覚えてきた。全幅の信頼を寄せるに足る相手である。ひたすらに聴き従うに価する相手である、本当にそうだ、と深く頷くことを積み重ねてきたということです。こうして隊長と部下は、『主イエス』と『主イエスに従って生きる私たち』との本来の姿を指し示します。もちろん、そうした信頼関係は一朝一夕(いっちょういっせき=わずかの日時)には形造られません。例えば詩23篇のあの羊たちも、はじめから「主は私の羊飼い」と喜びと信頼にあふれたわけではありませんでした。むしろ、羊飼いを片隅へ片隅へと押しのけ、その呼び声に耳を塞ぎ、すっかり忘れ果てて、そのために何度も何度も迷子になりました。むしろ自分自身の弱さと愚かさにばかり心を奪われ、自分の危うさと貧しさだけがこの迂闊な羊の心を暗くウツウツとさせつづけたでしょう。羊飼いとはぐれてしまった羊のように、飼う者のない迷子の羊のように。「なぜ、私は熊やライオンのようではないのか。するどい牙も角も強い腕も、速い足も、よく聞こえる耳もない。私は一匹の無力で無防備な羊にすぎず、そのうえうまい水も草も見当たらない。乏しい乏しい、乏しいことばかりだ。恐ろしい恐ろしい、恐ろしい。恐怖と不安と心細さの連続だ」と。ぶつぶつと不平不満をつぶやいてばかりいたその同じ羊が、同じ弱さと心細さの只中で、ある日、喜びを噛みしめています。たまたま上等のうまい水と草場にありついて、そこで、というのではありません。たまたま狼や熊やライオンや羊ドロボウから逃げおおせて、そこで、というのでもありません。「私は一匹の羊にすぎない。それ以上でもそれ以下でもなく、どこにでもいるただのごく普通の羊」と気づきました。「けれどなにしろ 良い羊飼いがこんな私のためにさえ、確かにいてくださる。だから心強い。だから乏しいことはないし、どんな災いが襲ってきても、ち~っとも恐れない」と思い出したのです。ずいぶん長い間すっかり忘れていましたけれど。私の羊飼いであってくださるただお独りの方を、救い主イエス・キリストをとうとう見出して、その方がどんなに真実に『わたしの羊飼い』であってくださるのかを、つくづくと思い知らされて、そこで、そのあまりにうかつで気もソゾロだった羊は、ついにとうとう「乏しくはない。恐れはない」と歌いはじめています。晴れ晴れ清々として、心底から歌いはじめています。
  あの隊長は、(ローマ軍のではなくて、地上のどの軍隊のでもなくて、天の万軍の最高司令官であるただお独りの隊長は)実は、どの一人の部下も重んじる方です。良い羊飼いがどの一匹の羊をも大切に慈しんだように。あるとき、一人の部下は思い出しました。「そう言えば私も、あの隊長からとても重んじられつづけている。隊長の命令によく従うからではなく、よく気がつく働き者だからでもなく、むしろ、たびたび反抗した、あまりに不従順で身勝手で、怠け者で頑固な部下だったのに。健康で元気ハツラツとしているときにも、重い病気にかかって死にかけたときにも、あの隊長は私を」と。もう一つのこと。隊長と部下が『主イエス』と『主に従う私たち』の在り方を指し示しているとして、その福音の第一の光は、主イエスに従う者同士である私たちの互いの在り方をも照らし出します。生身の人間にすぎない私たちクリスチャンが、ただ養われ世話されるばかりの羊であるだけではなくて、羊飼いの役割をも委ねられているからです。大きな大きな良い羊飼いであるイエス・キリストから、あのペトロと共に、「私を愛するか、愛するか、愛するか。私の小羊の世話をしなさい、羊の面倒をみて養いなさい。そのようにして私に従いなさい」(ヨハネ福音書21:15-17参照)と命令されているからです。良い羊飼いが私たちのためにもおられ、そのただお独りの羊飼いのもとに戻ってきた私たちですし、天に主人がおられるからです(ヨハネ福音書10:11-18,ペテロ手紙(1)2:25,コロサイ手紙4:1
  奇妙なことに、ある一人のクリスチャンは洗礼を受けた後でも、ずっと長い間なんだかピンと来ませんでした。「イエスは主なり」と口先では唱えても首を傾げるばかりで、本当のことのようには思えませんでした。「御心のままに。御心のままに」と口癖のように言い続けながら、それと裏腹に、自分のその時々の気分や腹の虫に命じられるままに奴隷のように生きていました。人々の顔色をうかがい、周囲の人々の言いなりに聞き従っていました。ですから度々くりかえして心をかたくなにし、臆病になったり体裁ばかりを取り繕ったり、狡賢く振る舞いつづけました。ですから、いつまでたっても心細いままでした。「汚れた霊たちや湖の風や波までも主イエスに聞き従った。外国人の百人隊長もそうだった」と聞いても、なんだか他人事のようであり、どこか遠くのお話でありつづけました。主イエスとこの自分自身のことが語られている、などと思いもよりませんでした。この自分に対しても、主イエスという方がすべて一切の権威を握っておられることも、「よい羊飼いは羊のために命を捨てる。命を捨てる」(ヨハネ福音書10:11,15とおっしゃっていたことも、この自分がその一匹の羊であり、その一人の部下であることも少しも気づきませんでした。自分があの彼の羊であり、あの彼の部下であることも。

――けれどあるとき、その時々の気分や腹の虫がウズウズしても言いなりにさせられなくなりました。人々の言いなりにもされなくなりました。「神に聞き従うよりも自分や他の誰彼に聞き従うほうが正しいかどうか、神の御前に判断してもらいたい。私はとっくに、よくよく判断してしまった」(使徒4:19-20参照)と涼し~い顔をしはじめました。いつの間にかその人もまた、主イエスの権威の下に深々と膝を屈めさせられたからです。身を起こさせられ、立ち上がらせられつづけるうちに、主イエスの権威の下に朝も昼も晩も生きることを、ついにとうとう習い覚えさせられたからです。そこはようやく、晴れ晴れとした自由な場所でした。私たちは、他のどんな権威や支配のもとでもなく、ただただ主なる神さまの真実と慈しみの只中に置かれ、その権威のもとにだけ据え置かれている。だから、その分だけ自由だ。それが私たちのための神さまからの約束だった。一番下っ端の下っ端の下っ端の、ただの一兵卒にすぎない私たちの力と安らかさの源でありつづける。ああ、そうだったのかと。そうであるなら、やがて「あなたは行きなさい」と命じられるときに、私たちは安らかにここを立ち去ってゆこう。「来なさい」と命じられるときに、どこへでもいつでも、私の準備ができていようがいまいが、気が進もうが進むまいが、虫が好こうが好くまいが、そんなこととは何の関係もなしに 「はい分かりました」と出かけていこう。それまでは、ここに留まろう。「しなさい」と命じられることをし、「してはならない」と禁じられることをしないでおこう。この私自身こそは。天に主人がおられますことを、その主人の権威の下に据え置かれてることを、この私たち自身も、よくよく分からせていただいたのだから。
 主イエスを信じた私たちは、あの百卒長と同じくこの世界へと、いつもの生活の現場へと送り出されます。「行け。あなたの信じたとおりになるように。あなたが信じたとおりに、この私こそが着々と成し遂げてあげよう」と。