5/29 ルカ福音書 4:42-44
『神の国の福音を宣べ伝えるために』
4:42 夜が明けると、イエスは寂しい所へ出て行かれたが、群衆が捜しまわって、みもとに集まり、自分たちから離れて行かれないようにと、引き止めた。43
しかしイエスは、「わたしは、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。自分はそのためにつかわされたのである」と言われた。44 そして、ユダヤの諸会堂で教を説かれた。(ルカ福音書 4:42-44)
はじめの42節に、「夜が明けると、イエスは寂しい所へ出て行かれた」とあります。実は、いま読んだ42-44節の中では、ここが一番大切です。救い主イエスは折々に、何度も何度もくりかえし、寂しい所へ出て行きつづけました。気分転換や、ちょっと一休みではなく、ひとりで静かに過ごしたかったからでもなく、ぶらぶらと散歩でもなく、天の御父に向かって祈るためにです(ルカ5:16,6:12,9:18,28他)。しかも救い主イエスにとっても私たちにとっても、祈りは祈っている相手と自分との互いのやりとりで、ただ自分の願いや苦しみや考えを御父に一方的に伝えるだけではなく、むしろ御父の御声を聞き取り、御心を教えていただくことです。そのために祈ります。自分自身や他の誰彼の考えや願いどおりに生きるのか、それとも御心に聞き従いながら生きようとするのか。そこに、いつもの分かれ道があります。救い主イエスもまた私たち一人一人も御父の御心にかなって働き、また御心にかなって生きるためには、祈りつづけ、心を鎮めて御声をよくよく聞き取りつづけねばなりません。
人々は、「自分たちの所にずっと留まって、ここで神の国について教えつづけてほしい」と主イエスを引き止めました。主は答えました。43節、「わたしは、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。自分はそのためにつかわされたのである」と。天の御父からつかわされた。だから、つかわしてくださった御父の御心にかなうことをこそ、ただただ行う。かなわないことを、しない。これが、『つかわされた使者であること』の心得。主イエスが、初めから終わりまでそのように救い主としてのお働きを成し遂げます。すると、主イエスの弟子であり、天の御父と主イエスからつかわされて生きる私たち一人一人のクリスチャンも、まったく同じ心得です。この私は! 天の御父と救い主イエスからつかわされた。だから、つかわしてくださった御父と主イエスの御心にかなうことをこそ、ただただ行う。かなわないことを、決してしてはいけない。牧師も長老や執事も、他なんの係も役割もとくには与えられていないごく普通のクリスチャン全員にとっても、これが基本(=つまり必須)の心得です。
主イエスが預言者、祭司、王の務めを担って働かれたように、私たち皆もまた、主イエスに率いられて、預言者、祭司、王の務めを担って働きます。神の国の福音を宣べ伝え、福音を証ししながら。それぞれの家庭や家族の只中に、職場や町内に、この地域とこの国と世界に、つまり私たちの生きる生活の現場に神の国を建てあげようとそれぞれ精一杯に務めながら。一つ所にずっと何十年も留まって主のために働く場合があり、旅をするように足早に移ってゆく場合もあります。それは分かりません(*)。やがて主の弟子たちが二人ずつ組にされて町々村々へとつかわされていったときに、私たちの働き方が具体的に指図されます。身軽に手ぶらで出かけてゆき、その土地の人々の世話になりなさい。「どこかの家に入ったら、そこに留まれ。『この家に、この町に平安があるように。神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。迎え入れてくれるなら、出してくれるものを飲み食いしなさい。誰もあなたがたを迎え入れるものがいなかったら、その町を立ち去りなさい。出て行くとき、足から塵を払い落としなさい」(ルカ9:1-7,10:1-16を参照)。
【割愛した部分の補足】
(*)神の民の暮らしの基本形は、民数記9:19-23。「幕屋の上に、日久しく雲のとどまる時は、イスラエルの人々は主の言いつけを守って、道に進まなかった。・・・・・・ふつかでも、一か月でも、あるいはそれ以上でも、幕屋の上に、雲がとどまっている間は、イスラエルの人々は宿営していて、道に進まなかったが、それがのぼると道に進んだ。すなわち、彼らは主の命にしたがって宿営し、主の命にしたがって道に進み、モーセによって、主が命じられたとおりに主の言いつけを守った」。一個のキリスト教会の働きや在り方も、一人一人のクリスチャンの生涯も、このとおりです。「しかし、わたしの思いではなく、御心が成るようにしてください」(ルカ22:42)と。そこに、格別な幸いと祝福があります。