2016年5月30日月曜日

5/29「重い皮膚病の人を」マタイ8:1-4

                                          みことば/2016,5,29(主日礼拝)  61
◎礼拝説教 マタイ福音書 8:1-4                         日本キリスト教会 上田教会
『重い皮膚病の人を』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

   8:1 イエスが山をお降りになると、おびただしい群衆がついてきた。2 すると、そのとき、ひとりの重い皮膚病の人(*)がイエスのところにきて、ひれ伏して言った、「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。3 イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。すると、重い皮膚病は直ちにきよめられた。4 イエスは彼に言われた、「だれにも話さないように、注意しなさい。ただ行って、自分のからだを祭司に見せ、それから、モーセが命じた供え物をささげて、人々に証明しなさい」。                              (マタイ福音書 8:1-4)

(*) 19964月の「らい予防法」廃止に伴い、20055月以降、聖書本文中の「らい病」表記をすべて訳語変更しています。文脈を考慮して「重い皮膚病」「皮膚病」「かび」その他に訳し分けています。(日本聖書協会) 



 まず最初に4節のことを、できるだけ解決しておかねばなりません。「イエスは彼に言われた、『だれにも話さないように、注意しなさい。ただ行って、自分のからだを祭司に見せ、それから、モーセが命じた供え物をささげて、人々に証明しなさい』」。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ。どの福音書も、主イエスがどういうお方であるのかを告げ知らせ、人々が主を信じ、主の弟子とされて生きるようにとその大目標をもって書かれています。それなのに、「誰にも何も言ってはいけない」などと時々釘をさされました。しかも他の誰によってでもなく、主イエスご自身から。どういうことでしょう。まず汚れた霊たちが「黙れ」と口止めされました。この箇所のように病気を癒された人々も、またご自分の弟子たちに対してさえも、主イエスは「知らせてはならない。黙っていなさい」と度々お命じになりました。(1)弟子たちに対しては、いつまでもずっと黙っていろというわけではなく、ある一定期間の留保のようでした。なぜなら彼らは主イエス町々村々へと福音を宣べ伝えるために遣わされ、主イエスの教えを聞き、そのなさる業を目撃しながら成長し、主イエスの証人として世の果てまでも主の御業を告げ知らせる者たちとされるのですから。やがて他の人々や権力者たちから厳しく禁じられ、口を封じられようとしてもなお彼らは誰はばかることなく口を開いて、「イエスこそ救い主である」と公けに宣べ伝えはじめるからです。イエスの名によって語ることも説くこともいっさい許さないと議員たちから言い渡され、脅かされたときにも、主の弟子たちは、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」(使徒4:19-20と断固として答えました。クリスチャンの基本の心得です。
 (2)癒された人々に対する口封じ命令は、少し微妙です。ゆるやかに寛大になされます。少し先の箇所ですが、死にかけ、死んでしまっていた少女を蘇らせたとき(マタイ9:18-)、その部屋へは両親と3人の弟子たちしか一緒に入ることをゆるしませんでした。けれど、少女が起き上がり、やがて家の中や外を自由に歩き回る姿を見さえすれば、そこで何が起こったのかを誰もが知ることになります。それでもなお主は、あざ笑った人々皆を家の外にわざわざ追い出してしまわれます。今日のこの箇所でも、「誰にも何も話さないように」。しかし彼は大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めました。そうせずにはおられなかったのです。また例えば悪霊に取りつかれたゲラサの墓場に住む男を癒してあげたとき、彼にこう仰いました。「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなに憐れんでくださったか、それを知らせなさい」。あの彼は、自分の家族や親しい友だちだけではなく、その地方一帯に主イエスの御業を言い広めはじめました。言わずにはおられませんでした。井戸の傍らで出会ったサマリヤ人の女性の場合にも、まったく同じでした(マルコ5:19-,ヨハネ4:28-
  (3)汚れた霊たちやサタンに対しては、主イエスはご自身の正体を決して証言させませんでした。いくつか理由がありますが、とくに主イエスを信じる信仰は、触れたり見たり聞いたりする具体的な事実に立って人々の心のうちに芽生えるようにと主ご自身が願っておられたことです。弟子たちも、そのように福音を宣べ伝えつづけています。後で、洗礼者ヨハネから使いの者が送られてきて、「もっと詳しく教えてほしい」と要求されたとき、主イエスは、あなたが見たこと聞いたことをそのまま報告しなさいと仰いました(マタイ11:4-6)。十字架にかけられる前夜の最高法院での裁判の際にも、主イエスの証言は淡々として、あまりに率直でした。大祭司は問いかけました、「あなたは神の子キリスト(=救い主)なのかどうか、生ける神に誓って我々に答えよ」「あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。あなたがたは、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」(マタイ26:63-64)。それゆえ、汚れた霊やサタンがくどくどと主の正体を言い立てようとするとき、「黙れ」と。この私たちに対しても、「神の国が近づき、すでに来ている。見て、信じなさい」と招きます。しかも今では、主イエスご自身は私たちに何も口止めなさいません。もしかしたら、この信仰のことを快く思わない、煙たがる人々があなたの周囲にいるかも知れません。あなたの夫や妻が、息子や娘や孫たちが。大切な一人の友だちが。私たちは、もう口止めされていません。もし、あなたがその人に大切なことを精一杯に告げてあげたいと願う場合、どうしたらいいでしょう。例えばこうです。「十字架につけて殺され、神が死人の中からよみがえらせた復活させられたナザレ人、イエス・キリスト。この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下の誰にも与えられていないからである。・・・・・・神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」(使徒4:10-20)

        ◇

 さて、主イエスが大勢の群衆と共に山を降りて来られると、重い皮膚病(*)を患っている一人の人が主イエスのところに来て、ひれ伏して願いました。主イエスは、この人の願いを受け入れ、病いを癒してくださいました。この人の病いは、病気それ自体として厳しく辛いだけではなくて、生きてゆく現実生活をさまざまに制限し、追い詰め、苦しめました。その病気を恐れ、毛嫌いし、軽蔑する社会のしくみの中で、この小さな一人の人は退けられ、片隅へ片隅へと押しのけられ、心細さの只中に暮らしていました。今、主イエスのところへ来て、ひれ伏して願い求めています。「主よ、御心でしたら、(わたしを)清めていただけるのですが」。主よ、あなたがもしそう願い、そのように決断してくださるならば、それならば、この私はあなたによって清くされるのです。どうぞ、お願いいたします。
  「御心でしたら」というこの人の願い方に、私たちは驚かされます。神さまへの従順と服従の心得だからですし、私たちが主イエスから直々に教えられ、よくよく知っているはずの弁えだからです。十字架におかかりなる前の晩、主イエスは祈りました。「どうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし私の思いのままにではなく、御心のままになさってください」(マタイ26:39)。あれしてください。これもこれもしてください、これはやめさせてくださいと私たちは神さまに何をどれほど願っても良い。しかも、それらの願いに加えて、「しかし私の思いのままにではなく、御心のままになさってください」と。神さまへの信頼と服従。だからこそ、その分だけ、私たちは自由です。これが、キリストの教会と私たちクリスチャンの基本の心得であるはずでした。胸が痛みます。ぼくは恥ずかしくなります。習い覚えているはずのことをすっかり棚上げして、神さまの御心を片隅へ片隅へと押しのけ、「したいしたくない。好きだ嫌いだ。気が進む、進まない」などと自分の欲望と願いと自分の腹の思いばかりを先立てて暮らしている自分自身に。あるいは生身の教会の生臭すぎる現実に。神さまへの信頼と従順を見失ってしまうとき、私たちはどこまでも転がり落ちていきます。だから、ここで目を凝らさねばなりません。不思議なことにこの人は、身を屈めて主を仰いでいます。御心ならば、と。もし御心に叶うならば。つまり、御心に叶わないならば、していただかなくて結構です。私の願い通りではなく、あなたの御心にこそ従います。主イエスは、「あなたが癒されることが私の心だし、私の願いだ。そうなりなさい」と。主こそが、こんな私のためにさえ最善を願ってくださり、私にとっての最善を決断してくださる。しかも私は、主がそのように真実に願い、決断してくださる方だと知っている。だから、ここに来た。だから、主イエスの御前に膝を屈めている。この人の神さまへの一途な信頼と従順を、ぜひなんとかして、この私たち自身のものとさせていただきたい。
  4節のつづきです。「誰にも何も話すな」と仰りながら、けれど祭司に体を見せ、清められたものの感謝の献げものをささげて証明しなさい、と指図なさいます。彼は、これまでその病気を患っているという理由で、これまで社会から排除されて生きてきました。病気が治り、体が回復するだけでは足りません。社会の大事なかけがえのない一人であることもまた、回復されねばなりません。何を証明しましょうか。誰に、証明しましょう。あの彼も、ここにいる私たちも、主の憐れみを受けた者です。その憐れみによって立ち上がり、足を踏みしめて立ち、歩く者とされました。受けた憐れみは、私たちの歩みの出発点にすぎなかったのでしょうか。最初の、ほんのちょっとしたきっかけでしょうか。いいえ。その後は、それ以前と同じく、自分自身の責任と自分の決断と自分の努力によって歩んでいるでしょうか。自分の力にこそ頼って、日々の悪戦苦闘を勝ち抜き、立っているでしょうか。いいえ、決してそうではありません。いったい何を証明しましょう。「気の利いた、立派なあれこれを」ではありません。「私はあれが分かっている、これもこれもできる」ではありません。「私は」ではなく、「神さまこそが」。「私が何をしたか何ができるか」ではなく、「神さまがこんな私のためにさえ何をしてくださったのか」。苦しむ人を助けるために、主イエスは手で触れる場合があり、手で触れない場合もありました。遠く離れたままで、「清くなりなさい。治りましたよ」とただ言伝を頼むだけの場合さえ。けれどあの彼の場合には、手を差し伸べる者が他には誰もいませんでした。誰も彼もが、その手を引っ込めました。だから わざわざ手を差し伸べ、その手でじかに触れてくださる必要があったのです。神であられる方が、どのようにして手を差し伸べることができたでしょう。高い所におられる方が、にもかかわらず低く身を屈めさせられた者たちにその手を本当に届かせる。そのためには、主は低く低くくだって来なければなりませんでした。地を這うような絶望、心細さを味わいつづける人々がいます。あのときの彼らの中にも。今ここにいる私たちの間にも。主は本当に手を届かせるために、自ら捨て去られ、恥を受け、軽蔑され、退けられ、痛みに身を委ねねばなりませんでした。

  ここで私たちは改めて、クリスチャンであることの広々とした土台を差し出されています。あの彼のように私たちも、主イエスのもとへと来るようにと勧められました。主イエスを信じるようにと。主イエスを信じて、そのことを拠り所として毎日毎日の暮らしを生きるようにと。主イエスに寄りかかり、重荷と悩みと心細さのすっかり全部をお任せして、安心して憩うようにと。主イエスにこそ信頼を寄せ、恐れを拭い去っていただくようにと。この世界には落とし穴や思いがけない災いや苦難が満ちています。しかも私たち自身は身も心も弱く乏しい。それでもなお主イエスとが共にいてくださるなら、私たちには乏しいことがない。私たちの魂は何度も何度も生き返らされ、恐れを吹き払いつづけていただける。聖書は証言します、「わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」(ヘブル手紙4:14-16。大祭司キリストは、この私たち一人一人のためにも善い業を成し遂げてくださろうとして準備万端です。なぜ? 主は、私たちを愛してくださっているからです。主は、私たちへのその愛を成し遂げて実を結ばせることができるほど、十分に強く真実なかただからです(ローマ手紙 5:6-10, 8:31-39,ヨハネ手紙(1)4:9-12,讃美歌461番「♪ 主われを愛す。主は強ければ、われ弱くとも恐れはあらじ」を参照)。しかも主は、困難なことの多い世界の只中で私たちが心細く、乏しく暮らしていることをよくよくご存知だからです。