みことば/2016,5,8(復活節第7主日の礼拝) № 58
◎礼拝説教 詩篇16:1-11 日本キリスト教会 上田教会
『わたしは動かされない』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
16:1 神よ、わたしをお守りください。わたしはあなたに寄り頼みます。2
わたしは主に言う、「あなたはわたしの主、あなたのほかにわたしの幸はない」と。・・・・・・7 わたしにさとしをさずけられる主をほめまつる。夜はまた、わたしの心がわたしを教える。8
わたしは常に主をわたしの前に置く。主がわたしの右にいますゆえ、わたしは動かされることはない。9 このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ。わたしの身もまた安らかである。10
あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられないからである。11 あなたはいのちの道をわたしに示される。あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある。
(詩篇16:1-11)
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悠然とドッシリ構えていて、何が起きてもビクともしないように見える人がいますね。羨ましくなります。「それに比べてこの私は、ほんのささいな事でもすぐに振り回され、アタフタオロオロと動揺してしまう」などと。なんだか心細い、自信のない、危うい私たちです。生きてゆくことの揺るぎない土台を、私たち自身も、いつか見つけ出すことができるでしょうか?
1-2節「神よ、わたしをお守りください。わたしはあなたに寄り頼みます。わたしは主に言う、『あなたはわたしの主、あなたの他にわたしの幸はない』と」。この短い言葉の願いの中に、今日私たちが聞き取るべきすべて一切が込められます。「神よ、守ってください。私は、あなたに寄り頼みます」。守ってくださいと願い求めたこの人は、主なる神さまこそが確かに守ってくださると知っていました。この神さまに、生涯をかけて目を凝らし続けているのです。「守ってください。守ってください。守ってください」と、これまでずっと、何度も何度も繰り返し願い求め、その度毎に守られ続けてきました。今までも今も、これからも、だから切に祈り求めます。祈り求めながら、この人は、「ああ、ここだ」と自分自身の居場所を確認し、「確かにここだ」と身の置き所を見定め、足を踏みしめます。つまりは、《神を避け所とし、神に寄り頼む私である。私たちである》と。若い頃にもそうでしたし、年をとってからもますますそうです。主のものとされて生きることは、主を避け所とし、いつでも、どこからでも直ちに、大慌てで主のもとへと駆け戻り、ひざまずき、「主よ守ってください。助けてください。支えてください」と仰ぎ見る生きざまであるのです。何度も申し上げてきましたが、『主』であるとは最後の最後まで責任を負う者という意味です。主を避け所とし、主にこそ寄り頼む。主をこそ避け所として生きるこの人であり、私たちです。《寄り頼む》とは、港をもつ船のようです。船は、港で燃料と水と様々な物資と食料を必要なだけ十分に補給し、また嵐や悪天候の日々にはそこに身を寄せます。確かな良い港をもつ船だけが、安心して、遠くまで出かけてゆくことができます。神に寄り頼むこの人であり、私たちです。主に向けて、「守ってください」と呼ばわる彼らであり、私たちです。すると、これは同時に信仰の言い表しでもあります。《確かに、ちゃんと守ってくださる主である。あなたは、私にとって、より頼むに価する十分な避難所です》と深く頷くからこそ、「守ってください」と祈っています。
すると3節。「地にある聖徒は、すべてわたしの喜ぶすぐれた人々である」という発言は、ずいぶん割り引いて受け止めねばならないことになります。主なる神さまにこそ全幅の信頼を寄せ、「主なる神こそが主である。主の他に私の幸いはない」とまで腹を据えている私たちですから。神以外の、他のどんなモノに対しても、どんなに高潔で清廉潔白そうに見える人間に対しても、その信頼は『ほどほどのこと』と弁えておかねばなりません。例えば大洪水の後、ノアが大酒を飲んでとんでもない醜態をさらしてしまったことが、わざわざ報告されています(創世記9:18-23)。「ご立派そうに見えるノアさんでも、そういうことをする。だって人間だもの」と皆でよく分かっている必要があるからです。例えば、モーセの場合にもよく似たことが起こりました。シナイ山の上で十戒を授けられて戻ってきたとき、なんと神の栄光を照り返して、モーセ自身の顔がピカピカと眩しく輝いて、そのあまりの眩しさに人々はモーセの顔をまともに見つめることができなかったほどだったというのです。ビックリですね。後に聖書自身がこの出来事を手厳しく批判しています。「それはモーセも彼らも心が鈍くなり、心に覆いがかけられていたのだ。しかし主なる神に向くときには、その鈍さも覆いもようやく取り除かれる」(出34:29-,コリント手紙(2)3:12-16を参照)と。うっかりすると私たち人間は、聖書の中でも外でも! 彼らのような人物を理想化して眺めたり、軽々しく崇拝したりはじめるからです。同じく心が鈍くなり、心に覆いがかけられてしまうからです。ですから決して、人間やその集団に理想像を求めてはなりません。拝んだり、ひれ伏して仰いでよい相手は、ただただ神さまだけです。ノアもモーセもダビデもペテロも、マザーテレサもキング牧師も単なる人間にすぎず、神ではありません。神の代理人でもありません。たかだか人間にすぎない者に、けれどなぜか神々しく後光が射して見えはじめる時があります。そのとき、その高潔そうに見える人物から、神ご自身の御手によって! まやかしの『後光』が取り除かれます。容赦なく、これでもかこれでもかと徹底的に、神ご自身の御手によって! 冷や水が浴びせかけられます。なぜなら、『いかにも聖人君子らしく見える人々』もまた罪人にすぎず、恵みによって生きるからです。ただ恵みによってだけ生きることができるからです。正しい人は一人もおらず、罪のゆるしなしに生きた者は誰一人として存在しない(ローマ手紙3:9-28,テモテ手紙(1)12-17)。このことを、私たちは決して忘れてはなりません。あの彼らのように私たちもたびたび心が鈍くされて、信仰と不信仰の間を行ったり来たりしつづけるからです。私たちを救いうる力は、救い主イエス・キリスト以外、天下の誰にも与えられていません(詩146:3,使徒4:12参照)。私たちがナニモノであるのか、どこにどう立っていて、どういう祝福と招きを受けているのか。その足を踏みしめて立っている根源の土台を指し示すことこそが、主なる神にこそ全幅の信頼を寄せることが、何を置いてもせねばならない急務です。
5-6節。「主は、わたしの嗣業(しぎょう)。~まことにわたしは良い嗣業を得た」。「嗣業」とは、贈り物、資産、相続財産、相続地のことです。主からさまざまな良い贈り物を受け取っている私たちです。生きてゆくために必要なすべて一切も、食べ物も生活も住む場所も、友人や家族も、私の健康も一日一日の生命もなにもかも。それらは、主からの贈り物でした。それどころか、なんと主ご自身こそが私に贈り与えられた分であり、私が受け取る贈り物である。なんと大胆な言い表しでしょう。毎回毎回の聖晩餐で確認されている恵みは、この一点です。主ご自身こそが、私の受け取る幸いであり贈り物であると。聖晩餐の食卓。小さなひとかけらのパンが配られ、小さな杯に注がれた赤い飲み物が配られます。それが、この私の手元にまで届けられ、「取って食べなさい。皆、この杯から飲みなさい。これは、あなたがたのために引き裂かれる私の身体である。あなたがたのために流される私の血である」(マタイ26:26-,ルカ22:14-20,コリント手紙(1)11:23-)と促されるとき、その約束の言葉のままに、主ご自身が、私に贈り与えられた分となり、私の受け取るべき杯となってくださいました。主ご自身が、私のゆるしのため、私の救いのために、贈り物となってくださった。拒むことも出来ます。けれど、「本当にそうだ」と信じて、受け取ることもできます。
7-9節。「私は動かされることはない」と、この人は言います。動かされない。揺らぐこともない。うぬぼれて、自分を過信しているのではありません。現実の厳しさを知らないのでもありません。この人は、神さまを信じて生きることの勘所をすでに手にしているのです。たしかに弱い私であり、危うい私である。手ごわく厳しい現実が次々と私の前に立ちふさがります。たとえそうであるとしても、それでもなお、この私は動かされない。度々動かされるとしても、なお決して動かされたままでは終わらないと言っています。それは、この人が見出し、受け取ってきた根本の土台にこそかかっています。(1)「私は~主をほめまつる」;主をたたえ、讃美の歌を歌うことの真の意味は、《受け取る》ことです。「さあどうぞ」と差し出され、「ありがとうございます」と受け取った良いモノに目を凝らし、味わい、自分の魂に刻み込もうとすること。それこそが主をほめまつり、讃美の歌を歌うことの本質です。兄弟姉妹たち。喜ぶことや感謝することを忘れてしまった一人の淋しいクリスチャンを思い浮かべてみてください。その人の足元には、いくつもの高価な贈り物が乱雑に放り捨てられ、踏みつけられ、ちっとも顧みられません。心を込めたせっかくの贈り物も、ただ黙ってブスっと受け取り、嬉しくもなんともなく、そのままポケットに放り込んで顧みないならば、それは受け取ったことになりません。「これ、本当に貰っていいの? わあ、嬉しいなあ。ありがとう」と喜ぶ中で、その贈り物はその人のものとなります。(2)「(主は)私に諭しを預け、夜ごと夜ごとに私の心に教えを与えてくださいます」。主から諭しを受け取り、教えられ、主によって励まされ戒められる大事な嬉しい出来事は、『夜』に起こります。それは夜にこそふさわしい。なぜなら日中、私たちはそれぞれとても忙しく、騒がしく、気もそぞろであり、バタバタと立ち働いており、もし誰かが諭そうとしても、大事なことを教えてくれようとしても聞く耳を持ちません。夕暮れになり夜になってようやく、私たちはそこで立ち止まり、鎮まって、耳を澄ませはじめます。夜、それは受け取るべき時であり、豊かな収穫の時でもあります。人間の人生の時間も同じです。若くて健康で生命にあふれ、忙しくバタバタしている私はいま『昼。日中の時』を過ごしています。やがて年を取り、体も衰え弱り、いくつかの病気を抱えるようになり、「そう無理もできないなあ」としみじみ思い、そこでようやく私たちは耳を澄ませはじめます。それは、私たちの『夜の時間』です。そこでようやく私たちは諭しを受け取り、教えを魂に刻み込みはじめます。(3)「私は常に主を私の前に置く。主が私の右にいますゆえ、私は動かされることはない」;いつもいつも、主を私の前に置く。耳を澄まし、主からの諭しを受け取りはじめた私たちは、そこでようやく、まるで生まれて初めてのようにして、主を自分の前にいつもいつも置いて、そのようにしていつもの暮らしを生活する者とされてゆきます。顔と顔を合わせるように相対し、向き合って初めて、そこでようやく主と一緒にいることになります。9節で、「このゆえに」と打ち明けています。動かされることがない理由も、体も魂も安らかである理由も、とても困ったことや辛くて辛くて苦しいことがあってもなお魂が喜ぶ理由も、ここにこそあります。
10-11節。私たちそれぞれに、厳しく煮詰まった崖っぷちの日々があります。途方に暮れ、どんな解決策も見出せないように思える日々があります。今にも陰府に落ちようとする、自分自身の墓穴をまじまじと覗き込んでいるように思える日々が。「神など、どこにもいない!」と叫びたくなるような日々が、私たちにもあります。ここで、「あなたは、あなたは、あなたは」と主に一途に目を凝らし、主ご自身に向けてこそ語りかけています。「あなたは私を陰府に捨て置かれず、あなたの者とされた私に墓穴を見させず」と、この人は深い信頼のうちに言い表しています。神さまへの信仰をもっていてもいなくても、私たちは誰でも病気にかかり、転んで怪我をし、やがていつの間にか年老いて、弱り衰え、それぞれの順番で死んでいきます。例外はありません。多くの人と同じように、私たちも死を恐れます。今まで簡単にできていたことが一つ、また一つと出来なくなり、衰えてゆく日々が来ることを。ただ、信仰をもって生きる人間として私たちが知っていますことは、たとえ私たちが死んだ後でも、主なる神は、その私たちを忘れ去ることなく、私たちをそのまま放り捨てたままにすることも決してありえないことです。私たちの主であってくださる神は、再び何度でも何度でも、私たちに新しい生命をもたらし、ご自身と共に喜ばしく生きさせてくださいます。それこそが「いのちの道」であり、「わたしは道であり、真理であり、命である」と仰った主イエスを信じて生きるいつもの暮らしです。「主は私の右に」(8節)おられます。『右側』は弁護人の場所であり、すべてを取り計らう王様の座る場所です。厳しく責め立てられ、非難され、打ち叩かれるときにさえ、主が弁護者であり王様の場所にいてくださる。主は右にいます。この私に対しても、この世界に対しても、主であり、真実な王であってくださる方がおられます。だからこそ、小さな者も弱い者も、悩みと心細さを山ほど抱えた者でさえ、安らかに心強く立っています。苦しみと悩み、痛みの只中にあっても、そこで喜びを見出します。私たちは支えられます。私たちは満たされます。もし、主がいつもいつも私たちの前にいてくださるならば。私たちを顧みてくださいますならば。主なる神さまこそが、名実ともに、私たちの主であってくださるならば。