2016年5月3日火曜日

5/1こども説教「貧しい人々と、囚人と、目の不自由な人と、打ちひしがれている人に」ルカ4:14-21

 5/1 こども説教 ルカ4:14-21
 『貧しい人々と、囚人と、目の不自由な人と、
打ちひしがれている人に』

 「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ~」
(ルカ福音書 4:18)

 救い主イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受け、荒野で4040夜さまよって悪魔からの3つ誘惑すべてを退け、いよいよ神の国について宣べ伝えはじめました。神さまがどういう神さまで、私たちがどういう者であり、神さまを信じてどんなふうに生きてゆくことができるのかということを。そのお働きは、だいたい30歳くらいのときに始められました。最初の頃には、ユダヤ教の礼拝堂に出入りし、そこで聖書を読み、聖書を説き明かすこともしつづけていました。自分の故郷であるナザレ村でも同じように、安息日に礼拝堂に入って聖書の中のイザヤ書61章のはじめの部分18-19節)を朗読し、その説き明かしをしました。21節を見てください。「そこでイエスは、『この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した』と説きはじめられた」。つまり、説き明かしの全部ではなくて、そのごく最初のところだけが記録されています。この後どういうふうに語りつづけたでしょう。人々の反応を聞いて、それに対しての答えが24-27節に報告されていますけれど、イザヤ書61章についての具体的な説き明かしの中身はここには書いてありません。
  18-19節をもう一度味わってみましょう。「貧しい人々に神さまからの良い知らせを告げ知らせるためにわたしは選び出された。つまり、狭い場所に無理矢理に閉じ込められている人を自由にしてやり、目の不自由な人が目がよく見えるようになり~」。「しかもこれは、あなたがたがこれを聞いたこの日に、今すでに成し遂げられた」と、主イエスは語りはじめました。この部分でも、来週つづきを読みます24-27節でも、主イエスは聖書に書いてある事実をそのまま語り聞かせただけなのに、礼拝堂でそれを聞いていた故郷の人々は全員がひどく腹を立てました。あまり腹が立って憎らしくて仕方がなかったので、町外れの崖っぷちまで無理矢理に主イエスを引きずっていき、突き落として殺してしまおうとしたほどです28-29節を参照)。どうして殺したいほどにも腹を立てたのか、何がそんなに気に入らなかったのか。主イエスの弟子たちの場合にも同じで、今日でも その福音の説教を聞いて喜ぶ人もいれば、悲しんだり、カンカンに腹を立てたりする人々もいます。その人の心の中にあることが外に現れてくるからです。例えば18-19節を読んで、ワア嬉しいと大喜びする人々もいるし、そうでもない人々もいるはずです。では、誰が喜ぶでしょうか? 「この自分はとても貧しい」と分かっていた人です。「狭い場所に無理矢理に閉じ込められている私だ。見るべきものがなかなかよく見えていない私だ。打ちひしがれている私だ」と知っている人です。そうではなく自分は物事がよく見えているし、豊かだし、困っていないし、狭い場所に無理矢理に閉じ込められているわけでもないと思い込んでいる人々にとっては嬉しくも何ともないでしょう(*)。中には、「私がそういう人間だと言うのか。なんだとオ」と腹を立てたり、な気持ちがする人々も、大勢いるかも知れません。では、あなた自身はどうですか?

    【割愛した部分の補足】
(*)18-19節(およそ、イザヤ書61:1-3の引用)で列挙された人々「貧しい人々。囚人。目の不自由な人。打ちひしがれている人」は、福音を差し出され、神さまからの恵みを受け取るべき人々であり、同時に、罪深さと悲惨さを抱えもった、憐れまれるべき存在でもあります。救い主イエスは、「罪人を救うために世に来られた」(テモテ手紙(1)1:15、マタイ福音書1:21)からです。その自分自身の罪と悲惨さを認めることは、苦しく、また嫌悪したくなることでもあったのです。「無学で貧しい大工ヨセフの子にすぎないのに、どうして」(22節)と彼らは見下しながら驚き、「自分の故郷の私たちには、他の人々に対してよりももっと親切に、多くの幸いを与えてくれるだろう。その権利がある」(23節)と思い上がってもいました。つまり、自分が貧しいなどとは少しも思っていませんでした。物質的にも精神的にも、かなり豊かで、優れていて高潔だと思い込んでいたのでしょう。24-27節の主イエスの答弁は、彼らの密かな自尊心を傷つけました。自分自身こそが「貧しく、大切なものが見えておらず、囚われている」と気づくことから、恵みのときが始まっていきます。けれど、やがて律法学者やパリサイ人らも同様に、主イエスに対して激しい憎しみを燃え上がらせます(ヨハネ福音書9:35-41、ルカ福音書6:39-を参照。「もし、あなたがたが盲人であったなら罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある」)。