5/15 こども説教 ルカ4:31-37
『主イエスに権威と力がある』
4:31 それから、イエスはガリラヤの町カペナウムに下って行かれた。そして安息日になると、人々をお教えになったが、32
その言葉に権威があったので、彼らはその教に驚いた。33 すると、汚れた悪霊につかれた人が会堂にいて、大声で叫び出した、34 「ああ、ナザレのイエスよ、あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです。わたしたちを滅ぼしにこられたのですか。あなたがどなたであるか、わかっています。神の聖者です」。35
イエスはこれをしかって、「黙れ、この人から出て行け」と言われた。すると悪霊は彼を人なかに投げ倒し、傷は負わせずに、その人から出て行った。36 みんなの者は驚いて、互に語り合って言った、「これは、いったい、なんという言葉だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じられると、彼らは出て行くのだ」。 (ルカ福音書 4:31-36)
故郷の村ナザレを離れて、主イエスは、安息日に別の町の礼拝堂で汚れた悪霊にとりつかれていた人を助けてあげました。34-35節です。とりついた人の中から悪霊が主イエスに向かって叫びかけます。「ああ、ナザレのイエスよ、あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです。わたしたちを滅ぼしにこられたのですか。あなたがどなたであるか、わかっています。神の聖者です」。主イエスは悪霊を叱りつけて、「黙れ、この人から出て行け」と。悪霊は、「黙れ」と言われたので黙り、「出て行け」と言われたので出て行きました。主イエスが悪霊に命令したのは二つのことでした、「黙れ」と「この人から出て行け」と。悪霊に黙れと命令したことは少し分かりにくいですね。汚れた悪霊はこのおかたが救い主であり、神の聖者だと分かっていました。本当のことですが、悪霊にはそのことを話させませんでした。悪魔や悪霊なんかによって知らせてもらわなくたっていいからです。『主イエスこそ救い主であり、神の独り子であり、私たちと世界の王様だ』と多くの人が知ることができたらいいのですけれど、もっと素敵な、もっとちゃんとした嬉しい知り方があるからです。神さまご自身こそが、この私たちにも、ちゃんとよくよく知らせてくださいますから。荒野で誘惑を受けたときにも、悪魔から「この世界の権威と栄華をあげよう」と誘われて、けれどキッパリ断りました(ルカ4:5-)。それとよく似ています。悪魔を拝んだり頼りにしなくても、悪魔から手助けしてもらわなくても、神さまこそが教えてくださいます。
そこにいた人々は驚きました。悪魔や、汚れた悪霊さえこの方に従う。それほどの力と権威をもったお方だと。やがてしばらくして、湖の上では波や風さえもが「黙れ。鎮まれ」(マルコ4:35-,同6:45-)と叱られて主イエスに従います。とても大きくて強い権威と力ですね。いいえ! 悪魔や汚れた悪霊や湖の波や風が主イエスに従うだけではなく、主イエスを信じて生きる私たちさえもが、このお独りのお方によくよく聞き従って生きるようになっていきます(*)。「黙れ」と言われれば黙る。「出て行け」と言われれば出て行くし、どこまでも出かけてゆく。「しなさい」と言われてばする。「これだけは、してはいけません」と言われれば、しない。やがて、まだまだしばらくして、最初の聖霊降臨日の少し後に主イエスの弟子たちは、「主イエスのことを一言も喋ったり教えたりしてはいけない。ひどい目にあわせてやるぞ」と役人や警察や偉い議員たちから厳しく叱られ、脅かされました。そしたら涼し~い顔をして、こう答えたのです。「神に聞き従うよりもあなたがたに聞き従うほうが神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。もちろん私たちはとっくに判断して腹をくくっています。いくら脅かしたって言いなりになんかされませんよ。私たちは神さまにだけ聞き従います」(使徒4:19-20を参照)。わおっ! とうとうあの弟子たちも、主イエスの権威と力のもとに生きることをしはじめました。
【割愛した部分の補足】
(*)主イエスの権威と力のもとに生きること。やがて、神によって造られた全世界のすべての被造物がその権威のもとに安らかに従うときが来るとして、けれどそれは主イエスを信じるこの私たちクリスチャン一人一人から始まるでしょう。救い主イエスにこそ全幅の信頼を寄せ、聴き従って生きる私たち。そこに、希望と力があります(マタイ福音書11:27「すべての事は父からわたしに任せられている」,同28:18「わたしは天においても地においても一切の権威を授けられた。だから」,ヨハネ福音書3:35「~万物をその手にお与えになった」,ローマ手紙14:9,エペソ手紙1:20-22,ピリピ手紙2:9-11,ペテロ手紙(1)3:22ほか)。