2016年6月29日水曜日

6/26「墓場に住む者たちを」マタイ8:28‐34

                                          みことば/2016,6,26(主日礼拝)  65
◎礼拝説教 マタイ福音書 8:28-34                       日本キリスト教会 上田教会
『墓場に住む者たちを』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
  
 8:28 それから、向こう岸、ガダラ人の地に着かれると、悪霊につかれたふたりの者が、墓場から出てきてイエスに出会った。彼らは手に負えない乱暴者で、だれもその辺の道を通ることができないほどであった。29 すると突然、彼らは叫んで言った、「神の子よ、あなたはわたしどもとなんの係わりがあるのです。まだその時ではないのに、ここにきて、わたしどもを苦しめるのですか」。30 さて、そこからはるか離れた所に、おびただしい豚の群れが飼ってあった。31 悪霊どもはイエスに願って言った、「もしわたしどもを追い出されるのなら、あの豚の群れの中につかわして下さい」。32 そこで、イエスが「行け」と言われると、彼らは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れ全体が、がけから海へなだれを打って駆け下り、水の中で死んでしまった。33 飼う者たちは逃げて町に行き、悪霊につかれた者たちのことなど、いっさいを知らせた。34 すると、町中の者がイエスに会いに出てきた。そして、イエスに会うと、この地方から去ってくださるようにと頼んだ。                (マタイ福音書 8:1-4)


 

  主イエスと弟子たちは小舟に乗って湖を渡り、向こう岸にあるガダラ人の地に着きました。この出来事の発端は、同じ818節です。「向こう岸に渡ろう」と主イエスが弟子たちにお命じになり、彼らを促したのです。向こう岸に渡ろう。救い主を主と仰ぐ信頼と一途さにおいても、信仰の歩みにおいても、この自分の日々のあり方や腹の据え方においても、《向こう岸》があります。一緒に渡り、ぜひ辿り着こうと主は私たちを招きます。そして向こう岸には、主イエスの福音を求める二人の者たちが待ち構えていました。
  まず28-29節。悪霊にとりつかれた二人の者が墓場から出てきて、主イエスに出会いました。「彼らは手に負えない乱暴者で、誰もその辺の道を通ることができないほどだった」と報告されています。彼らにとりついた悪霊が、彼らにとんでもない乱暴を無理矢理に行わせていたのでしょう。彼らの中から、悪霊どもが主イエスに向かって叫びかけます。「神の子よ、あなたはわたしどもと何の係わりがあるのです。まだその時ではないのに、ここに来て、わたしどもを苦しめるのですか」。まだその時ではないのにという『その時』とは、何のことでしょう。この世界の終わりの時には悪魔の支配に終止符が打たれることは、はっきりと予告されていました。終わりの時に、「キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡される」(コリント手紙(1)15:24と約束されています。たしかに悪霊どもは、目の前に立っておられるかたが神の独り子、救い主イエス・キリストであることを知っていました。けれど、この世界の終わりについても、自分自身の地上の生命の終わりについても、悪霊どももまた私たち一人一人も それがいつなのかを知らされてはいません。天の御父だけがご存知です(マタイ24:36。知りもしないで、けれど、「まだその時ではないのに」とついつい言いたくなる気持ちは、私共もよく分かります。まだまだ先のことだと思いたいし、思い込んでもいるからです。悪霊どももまた私たち一人一人も、この世界があとどれほど続くのか。また自分自身の地上の歩みがあとどれほど残されているのかを、知らされていません。むしろ、「我らの日毎の糧を今日も与えたまえ」と祈り、魂に刻み込みつつ生きるようにと教えられ、しつけられている私どもです。わたしたちのための『日毎の糧』の中には、一日分ずつの生命も含まれていました。数ヶ月分、数年分ずつではなく、一日また一日と、ただ恵みによって贈り与えられて生きる生命です。土の塵で形造られ、鼻に生命の息を吹き入れられ、私たちは生きる者とされました。やがて神さまがあらかじめ決めておられる時がきて、それぞれの順番とあり方で生命の息を抜き取られ、私共もそれぞれ土に還るのです。そのとき、こう申し上げましょう。「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(創世記2:7,ヨブ記1:21と。また、この世界にとっても私たち自身の生涯においても、「終わりの時は思いがけない日、気がつかない時にくるから、だから目を覚ましていなさい。用意をしていなさい」と促されています。惜しみつつ生きるに値する、かけがえのない一日一日の生命です。
  だからこそ、主イエスは「向こう岸に渡ろう」と弟子たちを促し、この土地にやってきました。悪霊にとりつかれて苦しむあの二人の者の生命を回復させ、人生を取り戻させてあげるために。今日では、ガダラの墓場は世界中に拡大しています。テレビの中や新聞のニュースの中だけではありません。墓場付近をうろつき、足かせや鎖にしばられ、とんでもない乱暴を働いて周囲の人々を困らせたり、自分自身を傷つけたりしつづけるおびただしい数の惨めな人々がいます。もちろんこの上田界隈にも、小諸や佐久や、塩田平や丸子や真田町あたりにも。ごく普通の家庭にも。どこにでもある職場に。学校や介護福祉施設に。兄弟たちの中にも、自分の夫や妻や子供たちが。あるいは私たち自身が、しばしば墓場に鎖と足かせでしばりつけられます。私たち自身も、しばしば石で自分の胸を打ちたたいて嘆きます。墓場で独りでいた者たち。叫んだり、ついつい乱暴して他人を困らせたり自分自身を苦しめたり、自分を打ちたたいて嘆き悲しんでいたガダラの人々よ。あなたの家に、今日、平和が訪れました。平和の主が、あなた自身と大切なご家族と共にいてくださいますように。ぜひ、そうでありつづけてくださいますように。
  30-34節。二人の者にとりついた悪霊は、「もし、わたしどもを追い出されるなら、あの豚の群れの中につかわしてください」と願い出ます。主イエスはその願いを聞き入れ、「行け」と命じると悪霊どもは出て行って豚の中へ入り込みました。すると、その群れ全体が崖から湖へとなだれを打って駆け下り、水の中で死んでしまいました。豚を飼う者たちは逃げて町へ行き、起こった出来事を人々に伝えました。すると、町中の皆がイエスに会いに出てきました。主イエスに会うと、「この地方から出て行ってください」と頼みました。経済や、損得やソロバン勘定がしばしば優先する私たちの社会です。「いつの時代にもどの社会でも、豚の利益と損害のほうを人間たちは選び取ってきた。そのようにして、主イエスとその福音は拒絶されつづけてきた」とある人は言いました。そうかも知れません。マルコ福音書とルカ福音書は、主イエスによって悪霊をとりのぞいていただいた者が、家族やその地方一帯で主イエスの福音の証言をしたことが報告されています。「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか。また、どんなに憐れんでくださったか、それを知らせなさい」(マルコ福音書5:19と主イエスご自身から命じられて。
 「知らせなさい」と命じられてもそうでなくても、恵みを受けた者たちは、その大きな驚きと喜びとを知らせないではいられません。主イエスから差し出され、受け取った愛が、その人々を駆り立てて止まないからです。私たちもそうです。自分の大切な家族に、大切な友人たちに。主がどんなに大きなことをしてくださったか。また、どんなに憐れんでくださったかと。その喜びの知らせは、聞き入れられる場合があり、冷たく拒まれる場合もあるでしょう。その大きな出来事よりも、差し出されたその深い憐れみよりも、人々は自分たちの経済や損得やソロバン勘定にばかり目も心も奪われて、私たちをなかなか受け入れてくれない場合もあるでしょう。良い知らせを告げ知らせに出かけてゆくときの心得については、つい先日、おさらいをしておきました。手ぶらで出かけてゆくこと。どこかの家に入ったら、まず「平安がこの家にあるように」と言いなさい。もし平安の子がそこにおれば、あなたがたの祈るその平安はその人の上に留まる。もし、そうでなかったら、その祈り願った平安はあなたの上に帰ってくるであろう。迎え入れてもらえるならば同じ家に留まって、家の人が出してくれるものを飲み食いしなさい。「神の国はあなたがたに近づいた」と言いなさい。やがて戻ってきた弟子たちに主イエスはこうおっしゃいます。「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た。わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう。しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」(ルカ福音書10:1-20。天と地のすべて一切の権威を御父から授けられている救い主が、その権威を私たちに委ねておられます。だから、わたしたちに害を及ぼしうる者は何一つない。そのとおり。その上で、この私たちは何を喜び、何を悲しみましょうか。聞き入れてもらったり、冷たく邪険に跳ね除けられたり、喜び迎え入れられたり、シッシと追い払われたりするでしょう。いいえ、そんなことよりも、むしろ私たち自身の名が天に記されてある。そのことをこそ喜べ。私たちを町々村々へと、それぞれの家庭や地域や職場へとお遣わしになる方がおっしゃいます。むしろ私たち自身の名が天に記されてある。そのことをこそ喜べ。魂に刻み込みましょう。

  さて、主イエスに向かって悪霊どもは、「神の子よ、あなたはわたしどもと何の係わりがあるのです。まだその時ではないのに、ここに来て、わたしどもを苦しめるのですか」と恐れて叫びました。「その時」とは終わりの時のことです。悪霊どもは、いつ終わりの日が来るのかを知らずに「まだその時ではないのに」と言っていました。けれど、ヘブル人の手紙1:1-2は、「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終わりの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである」とはっきりと告げています。つまり、救い主イエスが地上に降りてこられ、「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ福音書1:15と宣言なさった時から、すでに『終わりの時』は始まっているのです。救い主イエス・キリストの到来によって、神さまのご支配がこの地上にいよいよ現実のものとして勢いを増し、着々と建て上げられはじめたからです。神の国はこの地上にすでに来ており、着々と建て上げられつづけ、やがてすっかり完成されようとしています。確かに終わりの時はすでに私たちの只中に来ている。けれど、悪霊やサタンや闇の力との戦いはなお続いています。だからこそ、主にあって、主ご自身の偉大な力によって強くしていただきなさいと励まされます。エペソ手紙6:10-18です。「悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい」。また、救い主イエスご自身も私たちに命じます。「あなたがたは今信じているのか。見よ、あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。いや、すでにきている。しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ福音書16:31-33

  主イエスを信じるその希望の中身は、具体的には何でしょう。「あなたがたは、この世では悩みがある」と、はっきり語りかけられています。悩みがいくつもあり、次々とあり、それらが無くなることはありません。誰にとっても、それが生きてゆくことの現実です。いいえ。それが私たちの現実の中の半分の側面です。もう半分の、もっとその千倍も万倍も大切な現実は、救い主イエスからの約束でありつづけます。「わたしはすでに世に勝っている。だから、あなたがたは勇気を出せ」とおっしゃる。「だから」と呼びかけられました。主イエスがすでに世に勝っておられるからといって、けれど、どうして私たちは勇気を出したり、そこから平安を受け取ったりできるのでしょうか。それと、私たちの勇気や平安とは、何の関係があるのでしょう。この救い主イエスというお方が、私たちの主であられるからです。ご自分が勝ち取った勝利の中へと、私たちを招き入れ、私たちを据え置いてくださるからです。主イエスがすでにこの世に勝ったからには、この主に率いられて、私たち一人一人もまた世に勝つからです。権威あるおかたが、この私たちをも屈服させ、私たちをも従わせてくださるからです。このお方の権威のもとに、波と風が従い、悪霊さえもひれ伏し従うとして、それだけでなく弟子とされた私たちも「行け」と言われれば行き、「来い」と命じられれば来るからです。あの弟子たちと共にこの私たちにも、この同じ主が命じられました。「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ福音書28:18-20