2016年6月21日火曜日

6/19こども説教「だれが罪をゆるすことができるか?」ルカ5:17‐26

 6/19 こども説教 ルカ5:17-26
 『だれが罪をゆるすことができるか?』

5:20 イエスは彼らの信仰を見て、「人よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。21 すると律法学者とパリサイ人たちとは、「神を汚すことを言うこの人は、いったい、何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」と言って論じはじめた。  (ルカ福音書 5:20-21)

 中風(ちゅうぶ。ちゅうふう)というのは、手足や口や、あるいはこの人のように体中が自分の思いどおりに動かせない、とても苦しい病気です。救急車で使う担架のような戸板に載せて、この人を主イエスのところに連れてきてくれる人たちがいました。誰かの家の中で、主イエスは神の国について教えておられました。主イエスを大勢の人たちがギュウギュウ詰めに取り囲んでいて、近づいてゆくことができませんでした。「今日は無理だ。また今度にしよう」と、たいていの人は諦めて帰ってしまうところです。けれどどうしてもとその人たちは腹をくくって、その家の外階段を登って屋根にあがり、瓦をはがして大きな穴をあけ、戸板ごとその人を主イエスの目の前に吊りおろしました。20節に、主イエスは「彼らの信仰を見た」と書いてあります。この困った苦しいことから助けていただきたいし、主イエスになら助けてもらえると信じる信仰です。運んできた人たちの信仰は、この人のためにぜひ手助けしてあげようと腹をくくった、そのためなら何でもしてやろう、人様に迷惑をかけたり、ひどく叱られたりしても、それでも手助けしてやりたいと願う信仰です。運ばれてきた一人の人の信仰は、「ありがとう。どうぞよろしく」と彼らのお世話になって、彼らに手助けしてもらう信仰です。他のたいていの人は「乱暴だ。非常識だ。はた迷惑だ」とバカにしたり嫌な顔をするでしょう。けれど、その彼らの信仰を主イエスが見ました。
  体が思いどおりに動かせないこの病気を治してもらいたかったのです。それなのに、主イエスは「子よ、あなたの罪はゆるされた」とおっしゃいました。病気を治すより、罪をゆるすことのほうがはるかに難しい。その病気よりも、あなたのその罪のほうがあなたをもっともっと困らせているから、難しいほうの『罪』を治してあげようと主イエスはなさったのです。『罪』とは、神さまに逆らうことです。神に逆らいはじめたら、どんどんどんどん心が強情になり頑固になって、周囲の人や生き物たちを苦しめ困らせるばかりか、自分もひどく苦しみつづけます。しかも戸板に乗せられてきたこの人だけではなく、この私たちも大人も子供も年寄りも、誰も彼も一人残らず、『神にも人さまにも逆らって私が私がと頑固になる罪の病気』にかかって、困っています(*)21節で、プンプン怒っている人たちがいました。律法学者とパリサイ人たちです。神さまのことをかなりよく分かっていたので、よけいに腹がたちました。「神を汚すことを言うこの人は、いったい何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか。神さま以外の誰にも、決してできるはずもない」。ね、ずいぶんよく分かっていますね。だからあと一歩のところまで、彼らは正しい答えに近づいていたのです。だって、『神にしかできないことを私ができる。私がする』と誰かが言った。どういうことでしょう? そしたら、その人が大嘘つきなのか、本当に神さまなのか、どちらかです。24節。主イエスはご自分のことを度々『人の子』とおっしゃいます。「人の子が地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたに分かるために」と、その中風の人に「起きよ、床を取り上げて家に帰れ」と命じ、そのとおりになりました。


       【割愛した部分の補足】
        (*)『罪のゆるし』は、神に逆らう自分勝手な頑固さや臆病さを「いいよいいよ。そのまま逆らいつづけなさい」と放置することではない。『罪を大目に見る』ことではなく、『罪の奴隷状態からの解放』であり、『神さまの御心に従って生きる』ことへの招きです。その自分勝手さや頑固さを取り除いて、神さまに素直に従って生きることができるようにしてあげること(マタイ1:21「おのれの民をそのもろもろの罪から救う者」,テモテ手紙(1)1:15「キリスト・イエスは罪人を救うために来られた」,ローマ手紙3:21-28,5:6-11,6:1-18,8:1-11,11:32-12:2,16:25-26「信仰の従順に至らせるために」)。
    やがて、復活の主イエスは弟子たちに「罪をゆるしてやりなさい」と命じて、そのために送り出します。『罪をゆるす』ことは、神にしかできません。けれど、神が罪人の罪をゆるしてくださる御心なので、主イエスの弟子とされたクリスチャン皆は、その『神さまからの罪のゆるし』を伝言し、差し出し、受け取らせる使者の役割を担います(ヨハネ福音書 20:19-23,コリント手紙(2)5:18-21)。








 ◎とりなしの祈り
 天におられます私たちの父よ。あなたをこそ崇め、信頼をよせ、感謝し、それゆえあなたにこそ一途に聴き従って生きる私たちであらせてください。自分と家族と身近な親しい人たちの幸いだけではなく、生命あるすべての生き物にいのちの糧を贈り与え、あなたの恵みによって養ってください。
 この国もまた不平等で、格差が広がっていく一方だからです。日本で暮らす外国人労働者とその家族の生活と生きるための当然の権利が十分に守られず、尊ばれもせず、彼らを憎んで押しのけようとする人々が声高に叫びつづけているからです。大切な同胞であるはずの沖縄がないがしろにされつづけ、被災地の復旧がとどこおり、放射能に汚染されたとてもとても危険な土地に、無理矢理に縛りつけられて暮らす人々が大勢いるからです。心細く貧しく惨めに暮らし、そのあまりに希望を失いかけ心を挫けさせている者たちが大勢いるからです。ほんのひと握りの人々が裕福で快適な生活をむさぼっている傍らで、経済的に追い詰められ、貧しく困窮しつづける多くの人々が取り残されつづけます。経済的に貧しい親に育てられた子供たちは貧しいままで、十分な教育を受ける希望をさえ諦めさせられています。毎日の三度三度の食事にも困る子供たちが数多くいるからです。主なる神さま。わたしたちに災いと苦しみをもたらす者たちを私たちがゆるし、迎え入れ、彼らに対しても善をなすことができるようにさせてください。なぜなら私たち自身がそのような悪い者でありましたのに、ゆるされ、迎え入れられ、神の子供たちとされたからです。私たちをこころみに会わせず、悪から救い出しつづけてください。私たち自身の体と毎日の暮らしとを、生きた供え物としてあなたに献げさせてください。心を新たにされ造りかえられて、あなたの御心にかなって生き、何が良いことであなたに喜ばれることなのか、何が悪いことなのかを弁え知って生きる私たちにならせてください(ローマ手紙12:1-2を参照)。支配と権力と栄光とはかぎりなく、天の御父よ、ただあなたのものでありつづけるからです。
 主イエスのお名前によって祈ります。