みことば/2016,6,12(主日礼拝) № 63
◎礼拝説教 マタイ福音書 8:18-22 日本キリスト教会 上田教会
『まず父を葬りに』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
8:18 イエスは、群衆が自分のまわりに群がっているのを見て、向こう岸に行くようにと弟子たちにお命じになった。19
するとひとりの律法学者が近づいてきて言った、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従ってまいります」。20 イエスはその人に言われた、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」。21
また弟子のひとりが言った、「主よ、まず、父を葬りに行かせて下さい」。22 イエスは彼に言われた、「わたしに従ってきなさい。そして、その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」。 (マタイ福音書 8:1-4)
「湖の向こう岸に一緒に渡ろう」と主イエスは弟子たちを促します。主の弟子であることにおいても、主を信じて生きることにおいても、『向こう岸』があります。向こう岸へ、さらに向こう岸へと、主イエスと弟子たちは旅をつづけます。向こう岸には、主イエスとその福音を待ち望む人々が待ち構えているからです。小舟に乗って漕ぎだそうとする間際に、二人の人がそれぞれに主イエスの前に現れました。
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19-20節。まず、ひとりの律法学者です。彼は言います、「先生。あなたがおいでになる所なら、どこへでも従ってまいります」。主イエスは応えておっしゃいます。「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子には枕するところがない」。とくに福音書の中で、主イエスはご自分のことを『人の子』(ダニエル7:13,マタイ9:6,12:8,32,40,13:37,41,16:13,27,17:9,19:28他)と言い表しつづけます。人間であることの苦しみと悩みを背負い、十字架の死と復活へと向かう苦難の救い主です。あなたがおいでになる所ならどこへでも従ってまいりますと、その彼は、主イエスに従う断固たる決意を言い表します。「どこへでも」と。律法学者であるその人は上流社会の一員であり、何不自由ない裕福な暮らしをし、社会的な地位もあり、人々からの尊敬も受ける人物です。けれど、これから飛び込もうとする『主イエスの弟子としての生き様』は、それまでのあり方とはずいぶん違うものになります。きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし救い主イエスには狐や鳥にさえ及ばないほどの過酷で不安定で心細い旅路が待ち構えている。やがてとうとう枕する場所は息絶えようとする無残な十字架の木の上であり、墓穴の冷たい土の上です。そのわたしが行くところなら「どこへでも」付いてくるというのか。あなたは、そう願うのか。
21-22節。次には、すでに主イエスの弟子として主に従いはじめている者に対して、弟子であることの心得を改めて告げ知らせます。「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」「わたしに従ってきなさい。そして、その死人を葬ることは死人に任せておきなさい」。これは、理解することも受け入れることも、とても難しいやりとりだと思えます。しかも、葬儀や葬いのことも含めて、家族に対する責任や義務をどうでもいいとする神さまではありません。「あなたの父と母を敬いなさい」と私たちは教えられています。また、連れ合いや家族を愛し、子供たちをよく養い育て、家庭を大切に守る者であるように、と勧められています(テモテ手紙(1)3:4-12,コロサイ手紙3:18-4:6を参照)。なぜなら、アブラハムの時代から「あなたとあなたの子孫」とが救いの約束の中で見据えられつづけるからです。「救われるために何をすべきでしょうか」と必死になって問いかけたとき、あの牢獄の看守は自分自身の救いと共に家族の救いをも心から願ったからです。主イエスの弟子たちもまた、だからこそ「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)と約束しました。その同じ約束を、この私たちも信じています。信仰をもって生きることは、家族や親類縁者や親しい友人たちとすっかり縁を切って、孤立無援で淋しく生きることではありません。例えば取税人マタイは、主イエスに従って旅立つとき、取税人仲間や親しい友人たちを招いて、盛大なお別れパーティを開きました。仲間たちとの名残を惜しんだだけではありません。大切な仲間であり友人である彼らと、主イエスとを、ぜひ引き合わせてやりたかったからです。やがて、その親しい交わりの中から、主イエスを知る人々が生まれ、主イエスを信じる人々も一人また一人と現れていきます。
さて、「まず父を葬りに行かせてください」と言う弟子に、主イエスは「わたしに従ってきなさい。そして、その死人を葬ることは死人に任せておきなさい」とおっしゃいました。ここで、「死人の葬りを死人に任せなさい」と命じられるとき、「死んだ父。あるいは、間もなく死につつある父」の葬りを任せるべき死人とは、もちろん医学的・物質的意味での文字通りの死人ではなくて、『神さまとの生命の交わりから隔てられている罪人』という意味でしょう。するとすべてのクリスチャンも含めて、人間皆が『罪の中に死んでいた罪人。あるいは、今なお死んでいる罪人』であり、そのような罪人でさえも、もし神さまの恵みによるならば神の国に入れていただくことができる。そうでなければ誰一人も神の国に入ることができません。神の国とは、神さまのご支配のもとに、その神さまとの生命の交わりのうちに生きることです。ここで私たちは慎み深くあらねばなりません。はっきりと語ることができるのは、ここまでです。では罪の中に死んでいる罪人とは、具体的には誰と誰のことなのか。神さまとの交わりのうちに喜ばしく生きている者らは誰なのかを、私たち人間にははっきりと見分けることができません。ただ神さまご自身だけが、それをご存知だからです。現実に、父の葬りを託さねばならない他の兄弟や親族や友人たちを『死人』と決めつけてしまうなら大変に失礼ですし、迂闊な言いすぎです。洗礼を受けたクリスチャンだけが神さまとの生命の交わりのうちにあって神さまの義に従って『生きている』などとはっきり断言することもできません。聖書自身が、私たちの軽々しい迂闊な判断をきびしく戒めます。(ローマ手紙10:5-7を参照)「あなたは心のうちで誰が天に上るであろうかと言うな。また、誰が底知れぬ所に下るであろうかとも言ってはならない。それは、キリストを引き下ろし、キリストを死人の中から引き上げることである」と。私たちが救われ、その救いのうちに堅く留まっているためには、「イエスは主である」と自分の口で告白し、「神が死人の中からイエスをよみがえらせたし、その同じ神がただ愛によって、罪のうちに死んでいた私たちをもよみがえらせてくださる」と自分の心で信じねばなりません。
その上でなお、救い主イエスは確かにおっしゃいました、「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイ10:37-39,同16:24-25を参照)。なぜなら神さまからの戒めの第一は、主なる神を愛することです。第二に、隣人を自分自身のように愛し尊ぶことだからです。第一の戒めがあり、その土台の上に第二の戒め。これが鉄則(マタイ22:34-39)。つまり、第一に主イエス。第二に、父や母や連れ合いや家族や隣人。それなら大丈夫。そうでないなら、かなり危うい。例えば主に従うようにと招かれて、アブラムとサライとロトと家族らは、「国を出て、親族に別れ、父の家を離れ」、そのようにして主が示す土地を目指して旅立ちました。主イエスの弟子たちも「父と舟と網を置いて」主イエスに従いました(創世記12:1,マタイ4:20,22)。頼りになる後ろ盾や、頼みの綱からいったん離れねばならなかったからです。そのようにして、主イエスに信頼を寄せ、主イエスにこそ聴き従う信仰の旅路がはじまっていきました。親不孝が勧められているわけではなりません。連れ合いや子供たちを粗末に扱えと促されているわけでもありません。家族はもっとも身近な、もっとも親しい隣人ですけれど、福音の順序があり、優先順位ははっきりしています。第一に、主なる神を愛すること。第二に、隣人を自分自身のように愛し尊ぶこと。「家族や隣人を愛する。親戚たちやご近所さんや職場の付き合いを重んじて」などと言いながら、いつの間にか、主なる神さまを愛し尊ぶことが二の次、三の次、四の次になり、やがて神さまを思う暇がほんの少しもなくなることは有り得ます(マタイ16:23を参照)。しかも家族や隣人へと向かうはずのその愛は、いつの間にかひどく自分勝手で独り善がりになり、萎んだり枯れたりし、互いを縛り付けたり苦しめて大きな災いをもたらすかも知れません。それは大いに有り得ます。私たちは恐れましょう。
あのとき湖の岸辺で、「どこにでも従います」と主イエスに申し出た律法学者と「父を葬りに」と願い出た弟子の一人が、その後どうなったのか。主イエスに従ったのか、それとも悲しみながら立ち去ったのかは、聖書に書いてありません。ですから、よく分かりません。あの彼らのことは彼ら自身が面倒を見ればいいでしょう。彼らがどうなろうとも私たちには関係がありません。問題は、私たち自身です。エルサレムの都にのぼってゆく旅の途上で、シモン・ペテロが主イエスの問いかけに答えて言いました、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない」。けれどその直後に、「自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえることになっている」と主イエスがご自分の、最重要の飛びっきりの秘密を弟子たちに打ち明けたとき、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめました。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」。主イエスは振り向いて、ペテロに言われました、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。それから主イエスは弟子たちに言われました、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか」(マタイ福音書16:21-26)。
「サタンよ、引き下がれ」と厳しく叱られたあのペテロは、やがて復活の主イエスの御もとへと立ち戻ります。主は「私に従いなさい。私の羊の世話をしなさい」と命じて、彼に語りかけます。「よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩き回っていた。しかし年をとってからは、自分の手を伸ばすことになろう。そして他の人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」(ヨハネ福音書21:18)。ごく表面的には、彼の殉教の死についての予告ですが、それだけではなく! すべてのクリスチャンの幸いな生涯の歩みについて主イエスご自身が説き明かしておられます。たとえのような言い方で、正反対な二つの生き様を並べて示しています。「若かった時には~」「年をとってからは~」と。「若かった時に~」とは、神さまを信じていなかったころです。「年をとってから~」とは、神さまを信じて生きはじめてからのことです。神さまを信じていないうちは、私たちも、また誰も彼もが思いのままに歩き回っていました。行きたい所へ行く。行きたくない所へは行かない。したいことをする。したくないことはしないと、思いのままに生きていました。この聖書の神さまを信じてからは、神さまによって帯をしめられ、主イエスのくびき(=牛やロバなどの首につけて、すき、荷車を引かせるために使用する道具。政治的屈服や隷属、苦役、罪の重荷などを表象した。これらに反して、主イエスへの服従は軽いくびきとされた。マタイ11:29-)を負い、手綱を主イエスにしっかりと握っていていただき、主イエスに連れ回され、主イエスの荷物を運び、主の畑を耕し、主イエスを背中にお乗せするあの子ロバのようにされます。「行きたくない所へは行かない」「行きたい所へ行く。したいことをする。したくないことはしない」。それこそが自由な伸び伸びした生き方だと思い込んでいましたが、とんでもない。まったくの大間違いでした。ただ腹の虫に従っていただけで、ただただ自分の腹の思いの奴隷にされていただけの、あまりに虚しく惨めな生き様だったのです。
ああ、そうだったのか。ようやく目が覚めて、気づきました。行きたくても行きたくなくたって、なにしろ行くべき所に行ける。行くべきではない所には決して行かない。たとえ行きたくて行きたくてウズウズしても、皆が大賛成しても。だって何しろ、この自分が主人なのではなく他の誰彼がボスでもなく、主なる神さまにこそ聴き従って生きるしもべ同士だったのです。あなたがたも私自身もよくよく知ってのとおり、天に唯一無二の主人がおられます。好きか嫌いか、気が向くか向かないかではなく、何が善いことで神さまの御心にかなうことなのか。自分の思いのままにではなく、御心のままに成し遂げていただき、それを自分でも心から喜び、願い求めることさえできる(ローマ手紙8:2-17,同12:1-2を参照)。そこは、晴れ晴れとした自由な広い場所でした。なんという幸いでしょうか。