2019年4月1日月曜日

3/31こども説教「モーセ、40歳のときの失敗と逃亡」使徒7:17-29


 3/31 こども説教 使徒行伝7:17-29
  『モーセ、40歳のときの失敗と逃亡』
               ~ステパノの証言④~

     7:17 神がアブラハムに対して立てられた約束の時期が近づくにつれ、民はふえてエジプト全土にひろがった。・・・・・・22 モーセはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、言葉にもわざにも、力があった。23 四十歳になった時、モーセは自分の兄弟であるイスラエル人たちのために尽すことを、思い立った。24 ところが、そのひとりがいじめられているのを見て、これをかばい、虐待されているその人のために、相手のエジプト人を撃って仕返しをした。25 彼は、自分の手によって神が兄弟たちを救って下さることを、みんなが悟るものと思っていたが、実際はそれを悟らなかったのである。・・・・・・27 すると、仲間をいじめていた者が、モーセを突き飛ばして言った、『だれが、君をわれわれの支配者や裁判人にしたのか。28 君は、きのう、エジプト人を殺したように、わたしも殺そうと思っているのか』。29 モーセは、この言葉を聞いて逃げ、ミデアンの地に身を寄せ、そこで男の子ふたりをもうけた。                    (使徒行伝7:17-29

  「エジプトで400年間、奴隷にされ、その後で救い出される」と神さまから約束されていました(使徒7:6,創世記15:13-14。その救いの約束の時が近づいています。23節以下。モーセは自分の兄弟であり仲間であるイスラエル人たちがいじめられ、苦しめられている様子を見ました。神さまがこの自分を使ってイスラエル人を救ってくださるし、それを仲間たちも分かってくれるだろうと思いました。イスラエル人が仲間同士で争いあっているのを仲直りさせてあげようとすると、その一人がモーセに言いました。27-28節です、「だれが、君をわれわれの支配者や裁判人にしたのか。君は、きのう、エジプト人を殺したように、わたしも殺そうと思っているのか」。えええ? これじゃあ、とてもダメです。怖くなってモーセは逃げ出してしまいました。うまくいかずに逃げ出してしまう理由が、神さまの側にあります。22節に、「モーセはエジプト王の家で育てられ、勉強も良く出来て賢くて、言葉にも行いにも力があった」と書いてありました。だからです。もし、そういう人によってエジプトから助け出されたら、「ご立派なモーセ大先生のおかげで救われた」と人々は勘違いして、神の代わりにモーセに信頼を寄せ、モーセを神のように崇めたり拝んだりしはじめるかも知れません。それでは、神さまに信頼し、神にだけ聴き従って生きる人々にはなれません。それでは台無し、水の泡です。だからこそ、「は~い。私が皆を救い出します」と張り切ってモーセは立候補しましたが、「いいやダメ。今は、お前を働き人にはしない。要らない」と神さまは、自惚れて自信満々なモーセの立候補をきっぱり退けました。
 (次週の予告。使徒7:30-34,出エジプト記3:1-4:13。ここから40年たって80歳のとき、モーセは改めて神に仕える働き人に選ばれました。そのとき、モーセはまるで正反対の別人のようになっていました。自信なんかほんの少しもなく、弱虫で臆病で気が小さくてオドオドビクビクした小さな小さな人になっていました。それくらいが神に信頼して仕える働き人としてはちょうど良いからです。それは次週のお楽しみ)。


3/31「ほかの町々にも福音を」ルカ4:42-44


             みことば/2019,3,31(受難節第4主日の礼拝)  208
◎礼拝説教 ルカ福音書 4:42-44                       日本キリスト教会 上田教会
『ほかの町々にも福音を』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
4:42 夜が明けると、イエスは寂しい所へ出て行かれたが、群衆が捜しまわって、みもとに集まり、自分たちから離れて行かれないようにと、引き止めた。43 しかしイエスは、「わたしは、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。自分はそのためにつかわされたのである」と言われた。44 そして、ユダヤの諸会堂で教を説かれた。         (ルカ福音書 4:42-44)

 42節で、「夜が明けると、イエスは寂しい所へ出て行かれた」と報告されています。まず、ここに注意を向けねばなりません。この時ばかりではなく、折々に繰り返して、主イエスは人々や弟子たちからも離れて、寂しい所へ退いてただ独りで過ごしつづけました(ルカ5:16,6:12,マタイ14:23,マルコ1:35ほか多数)。独りになって、祈るためにです。心を鎮めて、天の御父とよくよく十分に語り合うためにです。
 しかも天の御父とよくよく語り合い、その御心を教え知らされた結果として、救い主イエスは12人の弟子を選び、また今回も43節、「わたしはほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。わたしはそのために遣わされたのである」と。この「~しなければならない」という断固たる口調は、『神ご自身の決断と意思』の言葉だと世々の教会は聞き取ってきました。ほかにも、主イエスの口から何度もこの語りかけがなされつづけます。例えば、もう少し後で取税人ザアカイと出会ったとき、「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」(ルカ19:5。泊まることにしている。そのとおりにザアカイの家に泊まり、主イエスを信じて生きる者としてあげました。あなたの家に泊まることにしている。え? 初対面で見ず知らずのまったくの赤の他人で、会った途端に「今日、あなたの家に泊まることにしている」。誰が、あらかじめ、そう決めていたのでしょう。父なる御神がそう決めておられました。ザアカイのためにも確かにあった神の救いの計画の一端です。ここでも、だから、「わたしはほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。わたしはそのために遣わされたのである」と。天の御父があらかじめ決めて用意しておられた救いの計画です。救い主がほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えること。やがて弟子たちをも、ご自身が行こうとしておられたすべての町々村々にご自身の使者として遣わすこと。救い主イエスはそのためにこの地上に遣わされた。誰から。もちろん天の父なる神からです。自分を遣わした御父からの使命を果たすこと。それこそが、遣わされた者であることの根本的な意味です。だからこそ天の父なる神は、独り子である神、救い主イエスを名指しして、「これは私の愛する子、私の心にかなう者である。だから、これにこそ聴け」(ルカ3:22,9:35と私たちに命じます。二度も繰り返して、念を押してです。それゆえ救い主イエスもまた、「よくよくあなたがたに言っておく。子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである。なぜなら、父は子を愛して、みずからなさることは、すべて子にお示しになるからである」「わたしは、自分からは何事もすることができない。ただ聞くままにさばくのである。そして、わたしのこのさばきは正しい。それは、わたし自身の考えでするのではなく、わたしをつかわされたかたの、み旨を求めているからである」「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである」「わたしは自分からは何もせず、ただ父が教えて下さったままを話していたことが、わかってくるであろう。わたしをつかわされたかたは、わたしと一緒におられる。わたしは、いつも神のみこころにかなうことをしているから、わたしをひとり置きざりになさることはない」(ヨハネ福音書5:19-20,6:38,8:28-29と。また聖霊なる神は、救い主イエスがどんな方であるのか、何をなさり、何を教えたのかを分からせ、私たちに救い主イエスを信じさせます。だからこそ、そのようにして、父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神は一つ思いになって、一つの救いの御業を成し遂げます。
  では、主イエスの弟子たちよ。一つ思いになって働かれる神を信じる私たちは、どのように生きることができるでしょうか。神ご自身のこの一つ思いに連なって生きるようにと招かれたのですし、事実、そのように生きて死ぬことができます。復活の朝、救い主イエスは改めてご自身の弟子たちを、この信仰の従順へと招かれました。招きつづけます。てのひらの釘跡と脇腹のヤリで刺された傷跡を見せてくださって、こう仰いました、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす。聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」(ヨハネ20:21-23天の御父が救い主イエスをご自分の使者として地上に遣わされました。まったく同じに、救い主イエスもまた、主イエスを信じる弟子たちを、この私たちをこの地上に、それぞれの生活の現場へと遣わされました。ですから私たちは、これからは自分からは何事もすることができないし、しないのです。自分の心のままをわがまま勝手に行うためではなく、私たちを遣わされた救い主イエスの御心を行うために主イエスの弟子とされたからです。私たち自身の考えや好き嫌いでするのではなく、私たちを遣わされた救い主イエスのみ旨を求めて、その御心にかなうことをぜひなしたいと願いつづけて一日一日を生きる者とされたからです。もちろん、自分がしたいこと、したくないこと、気が進む進まない、気に入った、なんだか気に入らないなどと言い続け、それを願ってもよいのです。「~と~と~を私にさせてください。~は嫌なので、させないでください。けれども 私の願いどおりではなく、ただただあなたの御心のままになさってください。それをこそ求め、受け入れ、喜び、信頼して聴き従いつつける私たちであらせつづけてください」(ルカ福音書22:42参照)と。それこそが、主イエスの弟子である私たちの希望と幸いの中身です。
  私たちすべてのクリスチャンは、神の国の福音を宣べ伝え、その福音の中を毎日毎日暮らしていくために、救い主イエスから遣わされました。遣わされた使者でありつづけます。御言葉と福音の種を植えて、そのそれぞれの土地を耕し守って暮らします。そこが私たちのためのエデンの園でもあるからです。
 そうした日々がどんなふうであるのかを私たちがよく分かっている必要があるので、弟子たちが町々村々に遣わされた伝道実習の様子が詳しく報告されています。12人の弟子たちが遣わされたときと、72人の弟子たちが遣わされたときと計2回(ルカ9:1-6,10:1-20。そして、いいよマタイ福音書末尾の、ただの訓練ではない、本格的に遣わすことの始まりです。その事情は、一人の福音伝道者としても、また一人のクリスチャンとしてもまったく同じです。「杖も財布も袋も靴もパンも銭も、着替えの下着さえ持ってゆくな」と指図され、ほとんど手ぶらで出かけてゆくこと。どこかの家に入ったら、「神からの平安がこの家にあるように」、また「神の国はあなたがたに近づいた」と告げましょう。迎え入れてもらえたら、その同じ家に留まって、家の人が出してくれるものを喜んで感謝して飲み食いします。どの家からも迎え入れてもらえなかったら、そのときは晴れ晴れ清々として、その町を出て行きます。つまり、私たち主イエスの弟子は迎え入れてもらえる場合もあるし、そうではなく、拒まれ、追い払われる場合もあるということです。もしかしたら、その町や、その一軒の家に4050年と留まって、神の国の福音のもとにある暮らしを築き上げてゆくことができるかも知れません。また今日の箇所のように、周囲の人々から引き止められても、立ち去らねばならない場合もあるでしょう。留まることも立ち去ることも、もはや自分自身や周囲の人々の考え通りや思いのままではありません。どうして? なぜなら、私たちは遣わされた者たちであるからです。遣わしてくださった救い主イエスの御心にかなうことを願って生きる者たちだからです。それは、遥か昔の旧約聖書の時代から同じ一つの心得です。空の雲の流れが旅路の進み行きが神の御心にかなってなされるようにと指図しました、「雲が幕屋を離れてのぼる時は、イスラエルの人々は、ただちに道に進んだ。また雲がとどまる所に、イスラエルの人々は宿営した。すなわち、イスラエルの人々は、主の命によって道に進み、主の命によって宿営し、幕屋の上に雲がとどまっている間は、宿営していた。幕屋の上に、日久しく雲のとどまる時は、イスラエルの人々は主の言いつけを守って、道に進まなかった。また幕屋の上に、雲のとどまる日の少ない時もあったが、彼らは、ただ主の命にしたがって宿営し、主の命にしたがって、道に進んだ。また雲は夕から朝まで、とどまることもあったが、朝になって、雲がのぼる時は、彼らは道に進んだ。また昼でも夜でも、雲がのぼる時は、彼らは道に進んだ。ふつかでも、一か月でも、あるいはそれ以上でも、幕屋の上に、雲がとどまっている間は、イスラエルの人々は宿営していて、道に進まなかったが、それがのぼると道に進んだ。すなわち、彼らは主の命にしたがって宿営し、主の命にしたがって道に進み、モーセによって、主が命じられたとおりに、主の言いつけを守った」(民数記9:17-23。この報告を、ただのスローガンや美しい言い伝えとしてではなく、ぜひ私もそのように生きる者でありたいと願うことができるなら、その人たちはとても幸いです。
 しかもなお、「神からの平安がこの家にあるように」、また「神の国はあなたがたに近づいた」と幸いを告げる祈りと祝福の言葉は虚しく地面に落ちることは決してありません。そこに平安の子が一人もいなければ、私たちの祈る平安は私たちの上に帰ってくるからです。神の国が近づいたことを受け止める者が、たとえもし、そこに一人もいなくたって、ちっとも困りません。その宣言もまた私たちのもとに帰ってきて、「神の国は近づいた。この私たちの只中に神の国はあり、神のお働きのもとに据え置かれて生きて死ぬことのできる私たちである。ああ本当にそうだ」と、そのことをますますはっきりと知り、つくづくと味わいつづける私たちとなるからです。主イエスの弟子であり、主から使命と役割を与えられて遣わされた使者である私たちは決して誰からも侮られたり、軽んじられてはなりません。あるいは逆に、その侮りや侮辱や軽蔑を甘んじて、心安らかに受けることもできます。主イエスご自身から直々にこう証言されているからです、「私の弟子であるあなたがたに聞き従う者は、私に聞き従うのであり、あなたがたを拒む者は、私を拒むのである。そしてわたしを拒む者は、わたしをおつかわしになったかたを拒むのである」。また、「わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう。しかし、むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」(ルカ10:16,19-20

                ◇

 さらに大切なことをお伝えします。主イエスが72人の弟子たちを遣わしたとき、「主は別に七十二人を選び、行こうとしておられたすべての町や村へ、ふたりずつ先におつかわしになった」(ルカ10:1。主イエスは、ご自分が行こうとしておられたすべての町や村へ、弟子たちを、ふたりずつ先に遣わしました。ご自分が行こうとしておられたすべての町や村にです。二人ずつ先に、です。分かりますか。弟子たちだけを遣わして、遠く離れて、ご自身は何か他のことをなさっているというわけではなく、後から、ほんの少しだけ遅れてちゃんとご自身も来てくださって、彼らの働きと生活に、ちゃんと同行し、一緒にいてくださるのです。天の父なる神が決して救い主イエスを独りにさせなかったように、救い主イエスもまた私たち弟子を決して独りにはせず、一緒にいつづけてくださいます。だからこそマタイ福音書末尾28:18-20の、ただの訓練ではない、本格的に遣わすことの始まりにおいても、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマ(=洗礼)を施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、ほんの片時も離れることなく、いつもあなたがたと共にいるのである」と。見なさいと、注意を呼び起こされます。わたしは世の終りまで、ほんの片時も離れることなく、いつもあなたがたと共にいる。そう約束したじゃないかと。もう忘れちゃったのかと。いつも共にいてくださる神から、すべての良いものが贈り与えられつづけます。私たちは、神さまを信じて生きることに決めました。「全信頼を神におくことができます。神のご意思に服従して、神にこそ仕えて生きる私たちです。どんな困窮の中でも神に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求める私たちです。そして、すべての幸いはただ神から贈り与えられることを、晴れ晴れとして、心でも口でも認める私たちです」(「ジュネーブ信仰問答」問7 1542年)



2019年3月25日月曜日

3/24こども説教「エジプトへ」使徒7:9-16


 3/24 こども説教 使徒行伝7:9-16
 『エジプトへ』 (ステパノの証言③)

     7:9 族長たちは、ヨセフをねたんで、エジプトに売りとばした。しかし、神は彼と共にいまして、10 あらゆる苦難から彼を救い出し、エジプト王パロの前で恵みを与え、知恵をあらわさせた。そこで、パロは彼を宰相の任につかせ、エジプトならびに王家全体の支配に当らせた。11 時に、エジプトとカナンとの全土にわたって、ききんが起り、大きな苦難が襲ってきて、わたしたちの先祖たちは、食物が得られなくなった。12 ヤコブは、エジプトには食糧があると聞いて、初めに先祖たちをつかわしたが、13 二回目の時に、ヨセフが兄弟たちに、自分の身の上を打ち明けたので、彼の親族関係がパロに知れてきた。14 ヨセフは使をやって、父ヤコブと七十五人にのぼる親族一同とを招いた。15 こうして、ヤコブはエジプトに下り、彼自身も先祖たちもそこで死に、16 それから彼らは、シケムに移されて、かねてアブラハムがいくらかの金を出してこの地のハモルの子らから買っておいた墓に、葬られた。
(使徒行伝7:9-16

 主イエスの弟子として新しく立てられたステパノが議会で証言しつづけています。それは救いの歴史と、やがて救い主イエスが成し遂げた救いの御業についてです。
  神さまからの祝福の約束を信じて旅立ったアブラハムとサラの子はイサク、イサクの子はヤコブ、ヤコブには12人の息子があって、その下から2番目がヨセフ。一番下の弟はベニヤミン。さて兄さんたちはヨセフをねたんで、エジプトに売りとばしました。けれど神さまがヨセフと一緒にいて助けてくださったので、ヨセフはエジプトの国全部を治める大臣にされました。大きな飢饉が世界中を襲って、食べるものがなくなった兄弟たちと父さんはエジプトに引っ越して、ヨセフと一緒に暮らすことになりました。ヨセフは兄さんたちに言いました、「兄さんたちは私に対して悪いことをたくらみましたが、神はそれを良いものに変えて、多くの人々の命を救おうとしました。だから私が仕返しするだろうなどと恐れなくてもいいし、他の誰のことも恐れなくてもいいんですよ。やがて私は死にますが、それでも何の不都合もなく、何の恐れも心配もいりません。神さまが必ずあなたがたを見守って、養いつづけてくださいますから」(創世記50:19-25。しかも神さまが初めから決めておられたとおりに、「エジプトで四百年のあいだ、奴隷にされ」(使徒7:6,創世記15:13、その後、神さまが可哀想に思ってくださり救われて、幸せになります。助け出されたことをよくよく覚えつづけて、だから神に感謝し、信頼し、よくよく聴き従って生きるようにと。それこそが神を信じて生きる人たちの大きな心構えになるように。もし、そうなったら、とても素敵です。だって、次々と困ったことや心細い恐ろしいことが起こっても大丈夫で、いつも嬉しい気持ちで安心していられるようにされるからです。



3/24「年老いた母のため」ルカ4:38-41


            みことば/2019,3,24(受難節第3主日の礼拝)  207
◎礼拝説教 ルカ福音書 4:38-41                    日本キリスト教会 上田教会
『年老いた母のため』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
4:38 イエスは会堂を出てシモンの家におはいりになった。ところがシモンのしゅうとめが高い熱を病んでいたので、人々は彼女のためにイエスにお願いした。39 そこで、イエスはそのまくらもとに立って、熱が引くように命じられると、熱は引き、女はすぐに起き上がって、彼らをもてなした。40 日が暮れると、いろいろな病気になやむ者をかかえている人々が、皆それをイエスのところに連れてきたので、そのひとりびとりに手を置いて、おいやしになった。41 悪霊も「あなたこそ神の子です」と叫びながら多くの人々から出ていった。しかし、イエスは彼らを戒めて、物を言うことをお許しにならなかった。彼らがイエスはキリストだと知っていたからである。       (ルカ福音書 4:38-41)

【口止め】本題に入る前に一つ整理しておきます。41節で悪霊が救い主イエスに「あなたこそ神の子です」と叫びながら出て行くとき、救い主は悪霊を戒めて、物を言うことを許さなかった。先週の箇所の34-35節でも同じことがありました。汚れた悪霊が「ナザレのイエス。あなたがどなたであるか分かっています。神の聖者です」と言うと、これを叱って、「黙れ」と。救い主イエスはご自分が何者であるのかをいうことを禁じて、口止めしています。その相手は、(1)まず悪霊。汚れた霊。悪霊や悪魔の手先などから宣伝してもらわなくてよいからです。(2)病気を癒してもらったり救われた人々、またその家族に対する口止めは緩やかな取り扱いでした。誰にも言うなと口止めされましたが、彼らはその嬉しい出来事を隣人たちに知らせないではいられませんでした。噂は広がり、けれどそれで厳しく叱られたりはしませんでした。(3)弟子たちも最初の頃に「誰にも言うな」と何度も口止めされました。これは期間限定。主イエスを信じる弟子たちが主についての証言をすることはとても大切な役割です。告げ知らせるための準備が整うまで、期限付きで口止めされました。もちろん今は、救われた人々とその家族と、主イエスを信じる弟子たち(=すべてのクリスチャン)には、それらの口止めはすっかり解除されています。救い主イエスが何者なのか、何をしてくださるのかを、この私たちは、今では誰にでも知らせてよいのです。

  さて、38-39節。「イエスは会堂を出てシモンの家におはいりになった。ところがシモンのしゅうとめが高い熱を病んでいたので、人々は彼女のためにイエスにお願いした。そこで、イエスはそのまくらもとに立って、熱が引くように命じられると、熱は引き、女はすぐに起き上がって、彼らをもてなした」。たまたま偶然にシモンの家に立ち寄ったのではありません。シモンの義母が高い熱を出して寝込んでいるのをあらかじめ知っておられ、だからこそ、その彼女をめがけて、わざわざ彼女のためにこそ家を訪問しました。熱を引かせて、元気に起き上がらせてあげようとしてです。よくよく覚えている必要があります。家族を大切にさせない、薄情で冷淡な神ではありません。その人と共に家族もまた健やかに暮らしていることが、もちろん神にとってもとても大切です。そうであってこそ、心安らかに晴れ晴れとして神に仕えて生きることができます。だからこそ、ごく最初のころから、「あなたの父母を敬え。そうすれば」(出エジプト記20:12,申命記5:16とお命じになり、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われる」(使徒16:31と約束なさいました。「神を信じる一人の人がその家庭にいるために、今はまだ聖書の神を信じていない夫も、その子供らもまたすでに清められ、神の恵みの領域に据え置かれている。だから、できることなら別れてはいけない」(コリント手紙(1)7:12-参照と。
 こうしたことでやや理解しづらいのは、例えば創世記12:1、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」。また例えばマルコ福音書1:14-20、わたしについてきなさいと漁師たちを弟子にしたとき、彼らは「網を捨て、父と雇い人たちと舟を後に残して」付いてきました。大切な親族や家族や父をどうするつもりかと首を傾げたかも知れません。網と舟と父をあとにおいて、てぶらで、主イエスに従いました。どうしてだか分かりますか? 網も舟もお父さんも、とても頼りになるからです。「網を捨てて」(18)従ったこと。「舟と父親と仕事仲間たちを後に残して」(20)従ったこととが報告されています。神さまに従う人々の出発点であるアブラハムとサラ夫婦の場合にも、よく似た同じような従い方が報告されていました。創世記12章の冒頭。彼らに向かって主は仰いました;「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」。彼らは、主の言葉に従って旅立ちました(創世記12:1-4。つまり、「手ぶらで。裸一貫で」です。弟子たちの場合と、アブラハム、サラ夫婦の場合と。捨てられた『網』、後に残された『舟と父親』。また、彼らがそこから離れて旅立った『生まれ故郷、親族たち、父の家』。それらは、生活していくための大切な道具ですし、心強い後ろ盾です。網や舟があって、それでようやく日々の生活を支え、営んでいくことができました。経験豊かな父親がいてくれて、また故郷や父の家周辺には、困ったことがあれば助けてくれたり面倒を見てくれる頼もしい親兄弟や、親族や友人たちがいて、だから彼らは安心して暮らしていくことができました。それらを後に残し、離れ去って旅に出ていかねばならないとしたら、ずいぶん心細いでしょう。ね、分かりますか? 「とても心細い。手ぶら」であることが鍵、分かれ道です。この信仰は、なにしろ主イエスを信じる信仰です。また主イエスの福音を聞いて、信じて、主イエスにこそ付いていくことです。想像してみてください。あの漁師たちも、もし、網や舟を担いで、そのまま主に従っていくことにしたならば。アブラハム、サラ夫婦も、もし生まれ故郷で父の家にそのまま留り、頼もしい叔父さん叔母さん連中に取り囲まれて、そこで、それなりに主に従いなさいと指図されたのだとしたら、どうなったでしょうか。生活も心構えも何一つ変わりません。それまでと同じく相変わらず、舟と網とが頼みの綱であり、生活の拠り所でありつづけます。それまでと同じく相変わらずに、頼もしい父親がいてくれて、また故郷や父の家には、困ったことがあれば助けてくれたり面倒を見てくれる親兄弟や、叔父さん叔母さんや友人たちの助言や勧めに耳を傾け、彼らの意見や判断に聴き従って、だからこそ安心して暮らしていくことができます。ほらね? 主に信頼し、主にこそ聴き従うのではなく、彼らは相変わらず自分たちの『舟や網』に信頼し、『父親や親戚の叔父さん叔母さん』に聴き従って生きることになるでしょう。湖の周辺にしがみついて、頼りになる父親と叔父さん叔母さん連中の判断や指図に「はい。分かりました。はいはい、その通りにします」と聴き従いつづけて、そこから一歩も離れずに生活しなければなりません。主に信頼し、聴き従うのではなく、『父とその家の親兄弟や親戚たち、頼りになる仲間や先輩たち』に従うことになるでしょう。神の民とされ、主イエスの弟子たちとされた人々よ。捨て去るべきものは、それぞれ後生大事に抱えていた後ろ盾です。これがあるから大丈夫という、安心材料、頼みの綱。さらにもう一つの安心材料は、自分自身でした。これまでこうやって世の中を渡ってきたというそれぞれの小さな誇りであり、プライドでした。「しっかりしている。取り柄も見所も社会経験も見識もたっぷりある、なかなかたいした自分だ」という自負心でした。自分に頼って生きてきた優れた人物たちも、けれど信仰をもって生きる中で、その自信も小さなプライドも粉々に打ち砕かれ、大恥をかかされました。なぜ。何のために? 自分を信じるのではなく、主なる神さまをこそ信じるようにと。自分を誇り、自分を頼りとするのではなく、主をこそ誇り、主を頼みの綱として生きるようにと(コリント手紙(1)26-31,(2)1:8-10,ローマ手紙3:21-27。だからこそ、やがて彼らが道端で貧しい小さな人と出会ったとき、「さあほら、素敵でとても立派な私を見なさい」とは言いませんでした。この私が人様・世間様から見て素敵なのかそうでもないか、どんな見所と取り柄があるのか、そんなことと福音伝道とは何の関係もなかったのです;「さあ、私たちを見なさい。この私をよくよく見なさい。金銀は私にはないが、見所や取り柄があるわけでもないが、持っている飛びっきりに素敵なものをあなたにあげよう。ナザレ人イエスの名によって歩きなさい」(使徒3:4-6参照)と。だからこそ、その同じまったく新しい安心材料を受け取り、踊りあがって大喜びしながら生きる者たちが一人、また一人と、呼び出されていったのです。
 その日から、神の慈しみによって生きることが始まりました。「わたしが示す地に行きなさい」と命じられ、「はい。分かりました」と主が命じられたとおりに出発しました。私たちはよくよく習い覚えてきました。神と私たちとの関係で最も大事な肝心要は、それが『主従関係』であることです。神さまがご主人さま、私たちはその主人に仕える召し使いであり、配下の者です。「主なる神」と申し上げ、「主イエス」と呼ぶ弟子であるとは、このことです。「~しなさい」と命じられ、「はい。分かりました」と主が命じるとおりに、行い、聞き従って生きてゆくことです。聖書の別の箇所では、「それに従い、行く先を知らないで出ていった」(ヘブル手紙11:8と報告しています。その通りです。行く先を知らないで出ていっては、何か不足や不都合があるでしょうか? いいえ、何も困りません。それで十分です。なぜなら「わたしが示す地に行きなさい」と指図され、「はい」と出発したからです。いつごろ、どんな場所に辿り着くかは、はっきりとは知らされていません。けれど、なにしろ主に従って歩んでゆくと決めています。主が先立って導いてくださり、見捨てることも見放すこともなさらないと約束されています。なにしろ神に全面的にすっかり信頼を寄せています。神さまのご意思に服従し、神にこそお仕えし、どんな困難や窮乏の中にあっても神にこそ呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求めると決めています。すべての幸いと良いものはただ神から来ると知らされているからです。先々週お話しましたが、神さまに十分な信頼を寄せて生きるために知るべきことは二つです。(1)神には何でもでき、しかもまったく善意のお方であること。さらに、(2)神が私たちを愛し、助けと支えを贈り与えつづけてくださるとしても、そうしていただくだけの価値が私たち自身には何一つもないということです。ふさわしくない、神さまからの恵みに価しない私たちなのに、にもかかわらず愛していただき、助けと支えをいただきつづけているということ。この両方ともがよく分かっていなければ、神に十分に信頼を寄せることができません。「価値がない。ふさわしくない」と言われれば、ただ嫌な気がして、それを受け入れるのは至難の業です。それじゃあ言い換えれば、「私たち自身に価値があるのかないのか、ふさわしいかどうかとは何の関係もなく」、神は愛し、助け、支えてくださる。これなら受け入れることができますか。お腹を痛めて産んだ、苦楽を共にして一緒に暮らして愛しつづけてきた我が子なので、親がその子を愛するようにです。その子が親孝行で老後の面倒をよくみてくれるかどうか、素直で優しい、仕事もできる優秀な子なのかどうかと何の関係もなしに、なにしろ手塩にかけて養い育ててきた愛する子供なのでと。私たちを愛する神の愛は、そういう親の愛によく似ています(ローマ手紙3:21-27,5:6-10,8:31-32,11:30-32,エゼキエル書18:23-32。なぜなら、自分自身のふさわしさや価値とはなんの関係もなく神が愛してくださると知るまでは、「自分はふさわしいかふさわしくないか。恵みに値する私かどうか」などと自分と周囲の人間たちのことばかりを、ただ虚しく思い煩いつづけてしまうからです。それでは、いつまでたっても、神を知ることも信じることもできないからです。それまでは、いつまでたっても、神を知ることも信じることもできないからです。(3)それらは聖書によってはっきりと証言されており、救い主イエスによって、神は罪人を憐れんで救うからです。そのように救い主イエス・キリストのうちに神を知るなら、神に十分に信頼を寄せることができます。そうでなければ、神を知ることも、信じて十分に信頼を寄せて生きることも誰にも決してできません(テモテ手紙(1)1:12-16,『ジュネーブ信仰問答 問7-141542年)。さて、父ゼベダイを後に残して主イエスに従ってきたヤコブとヨハネ兄弟ですけれど、父親は後に残しながら、けれど母親は一緒に旅についてきていたことが後で分かります。後ろ盾や頼みの綱である権威者としては、その人が主イエスとの旅路に同行してくることには大いに差し障りがあります。けれど、一人の家族としてなら、主に従って生きる旅路を一緒に歩むことができるなら、それはお互いにとってとても幸いなことです。息子たちの新しい旅路に同行したあの母親はそれを自分自身で選び取ったのです。
39節、「イエスはそのまくらもとに立って、熱が引くように命じられると、熱は引き、女はすぐに起き上がって、彼らをもてなした」。汚れた悪霊たちも、「この人から出ていけ。立ち去れ」と救い主から命じられて、立ち去っていきました。義母を苦しめていた熱も、「熱よ引け」と命じられると、引いていきました。やがて湖の上では、「波よ風よ、鎮まれ」と命じられて、波も風もしんと鎮まりました。「波も風もこのお方に従うではないか」(ルカ福音書8:25と弟子たちは驚いて目を見張りました。やがて、この救い主イエスのもとにあらゆるものが膝を屈め、すべての舌がイエス・キリストは主であると告白し、栄光を父なる神に帰することになります(ピリピ手紙2:10-11参照)。主イエスに信頼し、主イエスにこそ聴き従って生きることが積み重なっていきます。まず、この私たち自身から。



2019年3月18日月曜日

3/17こども説教「アブラハムへの招き」


 3/17 こども説教 使徒行伝7:1-8
  『アブラハムへの招き』
~ステパノの証言②~

7:1 大祭司は「そのとおりか」と尋ねた。2 そこで、ステパノが言った、「兄弟たち、父たちよ、お聞き下さい。わたしたちの父祖アブラハムが、カランに住む前、まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が彼に現れて3 仰せになった、『あなたの土地と親族から離れて、あなたにさし示す地に行きなさい』。4 そこで、アブラハムはカルデヤ人の地を出て、カランに住んだ。そして、彼の父が死んだのち、神は彼をそこから、今あなたがたの住んでいるこの地に移住させたが、5 そこでは、遺産となるものは何一つ、一歩の幅の土地すらも、与えられなかった。ただ、その地を所領として授けようとの約束を、彼と、そして彼にはまだ子がなかったのに、その子孫とに与えられたのである。6 神はこう仰せになった、『彼の子孫は他国に身を寄せるであろう。そして、そこで四百年のあいだ、奴隷にされて虐待を受けるであろう』。7 それから、さらに仰せになった、『彼らを奴隷にする国民を、わたしはさばくであろう。その後、彼らはそこからのがれ出て、この場所でわたしを礼拝するであろう』。         
(使徒行伝7:1-8

  3節で「あなたに指し示す地に行きなさい」と神さまから命じられてアブラハムとサラ夫婦は旅立ちました。それにつづけて実は、「あなたによって地上の生き物たちは神の祝福に入れられるのだから」(創世記12:3と約束されました。つまり、アブラハムとその家族親戚、仲良しの友だちのためだけの祝福ではなくて、神によって造られたすべての生き物たちのための祝福であり、彼らをその出発点としようというとても素敵な大きな目標があるということ。また6節で、「エジプトで四百年のあいだ、奴隷にされて虐待を受ける」(創世記15:13-15という予告にもつづきがあって、その後、神さまが可哀想に思ってくださり救われて、幸せになることです。ちょっと考えてみてください。辛い嫌な思いをしただけなら、その嫌な思い出はその人たちの役に立ちません。けれどもし、そこから助け出されて、だから神に感謝し、信頼し、神さまにこそ聴き従って生きるようになったのなら、それはその人たちを支え、生き方を導く大きな背骨になります。さあ、いいですか。特に旧約時代には、(1)奴隷の家エジプトから助け出されたことと、(2)遠いバビロンの土地に連れ去られて、けれど神さまが可哀想に思って下さり、故郷へ連れ戻してくださったこと。この2つをよくよく覚えているようにと教えられつづけました。神さまに感謝し、信頼し、よくよく聴き従って生きるようにと。そうしたら、次々と困ったことや心細い恐ろしいことが起こっても大丈夫で、いつ、どんなに困ったことが起こっても、それでもいつも嬉しい気持ちで、安心していられるからです。