みことば/2022,4,3(受難節第5主日の礼拝) №365
◎礼拝説教 ルカ福音書 23:44-49 日本キリスト教会 上田教会
『み手に委ねる』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
23:44 時はもう昼の十二時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、三時に及んだ。45 そして聖所の幕がまん中から裂けた。46 そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。47 百卒長はこの有様を見て、神をあがめ、「ほんとうに、この人は正しい人であった」と言った。48 この光景を見に集まってきた群衆も、これらの出来事を見て、みな胸を打ちながら帰って行った。49 すべてイエスを知っていた者や、ガリラヤから従ってきた女たちも、遠い所に立って、これらのことを見ていた。(ルカ福音書 23:44-49)
まず44-45節、「時はもう昼の十二時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、三時に及んだ。そして聖所の幕がまん中から裂けた」。この信仰は、十字架と復活の主イエスを仰ぐ信仰です。私たちは、十字架と復活の主を仰ぎ、このお独りの肩に信頼を寄せ、願い求め、聴き従って生きる私たちです。でも、それは一体どういうことでしょうか。主イエスが十字架の上で息を引き取ったとき、「神殿の幕(垂れ幕)がまん中から裂けた」「神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた」(45節,マタイ福音書27:51,マルコ福音書15:38)と聖書は報告します。この1点に目を凝らしましょう。神殿の作りは、神社やお寺の境内とだいたい同じです。ごく簡単に言いますと、境内には本殿と庭があります。本殿は垂れ幕によって大きく2つの部分に区切られます。垂れ幕の奥が「至聖所(しせいじょ)=最も聖なる場所」、手前が「聖所=聖なる場所」。最も聖なる場所である至聖所は、ただ神だけの場所でした。たとえご立派で偉い大祭司といえども、みだりに気軽に立ち入ることは許されませんでした。「大贖罪日(だいしょくざいび)」と呼ばれる特別な日がありました。1年にただ1回、その大贖罪日に、大祭司がただ1人でそこに入って務めを果たすことが許されました(レビ16:1-)。ある時までは、神聖なものに近づくための格付けと序列と区別がありました。神殿の境内は、その神聖さの度合いによって何重にも区切られました。
(図を参照)その見取り図の、至聖所からもっとも遠い、入口付近の狭い片隅。外国人が足を踏み入れていいのは、ここまでです。次に、ユダヤ人の女性たちや小さな子供が近づいていいのは、ここまでです。成人したユダヤ人男性信者が近づいていいのは、ここまで。本殿を取り囲むすぐ近くの庭は、一般の聖職者たちだけが入れます。そして、最も奥深く隠れた場所が、神さまだけの、あまりに神聖な場所。なんということでしょう。こうしてただ、《聖なる神》と《人間》とが隔てられただけではありませんでした。人間にすぎない者たちの間でも、その神聖さと罪深さの度合いに応じて、それぞれに格付けされ、神聖なものに近づくための区別と序列と階級と準備段階と条件とを、こまごまと取り決められました。神殿の垂れ幕こそが、その差別と分け隔てのしるしであり、出発点でした。隔てられつづけた神さまは、私たち人間にとって畏れ多くて、あまりに遠く離れていました。ですから、「礼拝堂の前のほうに座りなさい。この一段高い段の上に誰でもあがっていいですよ」などと勧められても、「滅相もない。下々の私など恐れ多くてとてもとても」などと人様に対しても神様に向かっても縮み上がりました。2000年前の、この時まではそうでした。
ある人は、教えられた通りに、こう祈っています。「小さく弱くてふつつかな私ですが、神さま、どうぞよろしくお願いいたします」。よい祈りです。聖書が教えるとおりです。確かに、あなたは小さく弱い。そのくせ、かなり大きくて強い私だと度々思い込んだりもする。ふつつかな所がたくさんあるし、至らない所もたくさんある。自分勝手で了見の狭い所もたくさんある。けれど神さま、どうぞよろしくと願い求め、よろしく取り扱っていただきつづけてきたあなたです。そこにはまた、「小さく弱い」のは私だけじゃなく、1人の例外もなく誰もかれもが皆「小さく弱い。ふつつか」というすべての人間に対する聖書からの理解を含みます。あなたの夫も、妻も、子供たちも孫たちも、職場の仲間たちも上司も部下も。教会の兄弟姉妹たちも、牧師も長老も執事たち全員も。つまりは皆共々に、小さく弱い、ふつつかな所がたくさんある、至らない所もたくさんある、自分勝手で了見の狭い所もたくさんある者同士であるということです。けれど神さま、どうぞよろしくと願い求め、よろしく取り扱われつづけてきた者同士だということ。それを腹にすえて、そこでようやく私たちは、互いにゆるし合う者とされます。
エペソ手紙2:14-16は互いに『平和』であることの秘訣を証言します;「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである」。敵意と差別と分け隔ての目に見える具体的なしるしが神殿の垂れ幕でした。それが上から下まで真っ二つに引き裂かれました。神さまは分け隔てをなさいません。それをし続けているのは、もっぱら私たち人間のほうです。今日のキリスト教会の中にさえ、この私たちの間にも、『敵意という隔ての壁』が取り壊されないままで、あちこちに残されています。分け隔てをなさらない神さまを中心にする教会であるなら、どうして私たちは、お互いにいつまでも分け隔てをし、差別し、見上げたり見下したりしあっていて良いでしょうか。自分たちとほんの少し違う人々をバカにし、見下し、除け者にして喜ぶ習慣と性分は、ヨソにもこの国にも大昔からありました。これからも無くならないでしょう。士農工商(しのうこうしょう。封建体制を維持するために造られた4つの階級。武士、農民、職人、商人)という4つの身分の下にエタ・非人という不当に差別されるための最下層の階級をわざわざ作ったのも、このためです。とても申し訳ない、あまりに恥ずべき社会と私たちです。誰かを分け隔てし、憎んだり見下したりすると、なぜだか気分が晴れ晴れとしました。小学校中学校、高校でも、大人たちの会社でもどこでも『いじめ』があるらしいです。ほんの少し違う人々を探し出し、分け隔てしたり見下したり除け者にする。するとストレス解消になり、まるで自分が強く賢くなったかのような良い気分を味わえました。麻薬のような効果があったのです。だからこそ特に私たちクリスチャンは、『自分を愛するように、同じく負けず劣らずに、あなたの隣人を愛し、尊びなさい(マルコ福音書12:31,レビ記19:16)』ときびしく戒められています。自分の兄弟や親しい友人たちにだけ挨拶し、愛想よく振舞ったところで、どんな優れたことをしたことになろう。それくらいなら誰でもやっていると釘を刺されています(マタイ福音書5:46-47参照)。他の国や民族を軽蔑し、憎み、押し退けることでしか成り立たないような愛国心や誇りは、あまりに歪んでいます。しかもその醜い悪い心は、神の憐れみによって取り除かれつづけます。
46-49節、「そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。百卒長はこの有様を見て、神をあがめ、「ほんとうに、この人は正しい人であった」と言った。この光景を見に集まってきた群衆も、これらの出来事を見て、みな胸を打ちながら帰って行った。すべてイエスを知っていた者や、ガリラヤから従ってきた女たちも、遠い所に立って、これらのことを見ていた」。主イエスが息を引き取ったとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに引き裂かれました。しかも、救い主イエス・キリストご自身が、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と声高く叫んで息を引きとり、墓に葬られ、その三日目に墓の中からよみがえらされました。救い主イエスと共に、この私たちも、古い罪の自分を葬っていただき、古い罪の在り方や考え方と死に別れさせていただき、その代わりに、神の御前で、日毎に悔い改めて、新しく生きることをしはじめました。神さまご自身が、その新しい生き方を導きつづけてくださいます。救い主イエスがその肉体も霊も、すべてなにもかもを父なる神さまの御手に委ねたのです。ですから私たちも、自分自身の何もかもを神さまにすっかりお委ねして、一日ずつを新しく生きることができます。
なぜなら救い主イエスは、父なる神に信頼し、すべてを委ねて従うことを決めておられたからですし、地上の生涯のすべてをとおして、その信頼に生きたからです。十字架の死の数時間前の、ただお独りの祈りの格闘の只中でも、「父よ、御心ならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」(ルカ22:42)と御父に語りかけつづけ、その信頼はほんのわずかも揺らぐことがなかったからです。御父に対する、小さな子供の信頼を、この私たちも救い主イエスから手渡され、受け取っているからです。聖書は証言します、「なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる」(ローマ手紙8:13-16)。
ですから神に感謝をしたします。主イエスが息を引き取られたとき、神さまと私たちを互いに遠く隔てていたものが、そして私たち人間同士を互いに隔てていたものが、引き裂かれました。上から下まで真っ二つに。主イエスの十字架の死によってです。その流された血と、引き裂かれた体によってです。隔てていたものが引き裂かれ、取り除かれました。それで今では、罪深い者も愚かな者も、聖なる神さまに安心して近づいてゆくことができるのです。晴れ晴れ、清々として。背筋をピンと伸ばして。深く息をついて、胸を張ってです。私たちはまた、《ゆるされた罪人同士》として、お互いに近づいてゆくこともできます。なんの遠慮も気兼ねもなく。そのための、新しい生きた道が開かれてあります。主イエスご自身がこう断固として証言なさいます;「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も、父のみもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)。父なる神のもとに行くためのただ1本の道があり、その父を知るためのただ1つの真理があり、父の恵みのもとに立って1日ずつを生きるためのただ1つの格別な生命がある。それが私だ、と主は仰います。もし、その父のもとへと辿り着きたいと願うならば、この救い主イエスこそただ1本の道、ただ1つの真理、受け取るべきただ1つの生命であると。私たちの信仰は、ここに立っています。救い主イエスの生命をもって神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに引き裂かれ、神と人とを隔てるものが取り除かれました。私たちの間の敵意と恐れという名前の隔ての中垣(エぺソ手紙 2:14)も、区別も差別も取り除かれました。1つまた1つと、日毎に取り除かれつづけます。憐れみを受け、ゆるされた罪人同士だからです。その晴れ晴れ清々とした道を通って、私たちは歩いてゆくからです。およそ500年も前の古い信仰問答は、神を敬う正しい在り方は何かと問いかけて、こう答えています、「すべての信頼を神に置くこと。そのご意志に服従して、神に仕えまつること。どんな困窮の中でも神に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求めること。そして、すべての幸いはただ神から出ることを、心でも口でも認めること」(ジュネーブ信仰問答 問7,1542年)。
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金田聖治(かねだ・せいじ)
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