2022年4月18日月曜日

4/17「救い主イエスの復活」ルカ24:1-12

      みことば/2022,4,17(復活節第1主日の礼拝)  367

◎礼拝説教 ルカ福音書 24:1-12               日本キリスト教会 上田教会

『救い主イエスの復活』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

24:1 週の初めの日、夜明け前に、女たちは用意しておいた香料を携えて、墓に行った。2 ところが、石が墓からころがしてあるので、3 中にはいってみると、主イエスのからだが見当らなかった。4 そのため途方にくれていると、見よ、輝いた衣を着たふたりの者が、彼らに現れた。5 女たちは驚き恐れて、顔を地に伏せていると、このふたりの者が言った、「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。6 そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。7 すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか」。8 そこで女たちはその言葉を思い出し、9 墓から帰って、これらいっさいのことを、十一弟子や、その他みんなの人に報告した。10 この女たちというのは、マグダラのマリヤ、ヨハンナ、およびヤコブの母マリヤであった。彼女たちと一緒にいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。11 ところが、使徒たちには、それが愚かな話のように思われて、それを信じなかった。12 〔ペテロは立って墓へ走って行き、かがんで中を見ると、亜麻布だけがそこにあったので、事の次第を不思議に思いながら帰って行った。〕     ルカ福音書 24:1-12

 

15:3 わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、4 そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、5 ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。6 そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。7 そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、8 そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。       (1コリント手紙 15:3-8)


まず1-7節、「週の初めの日、夜明け前に、女たちは用意しておいた香料を携えて、墓に行った。ところが、石が墓からころがしてあるので、中にはいってみると、主イエスのからだが見当らなかった。そのため途方にくれていると、見よ、輝いた衣を着たふたりの者が、彼らに現れた。女たちは驚き恐れて、顔を地に伏せていると、このふたりの者が言った、「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか」。週の初めの日の明け方早く、まだまだ足元も薄暗いうちに、主イエスを信じる女の人たちが主の遺体を納めた墓へと向かいました。大切な主イエスをできるかぎりちゃんと葬ってあげたいと思って。当時のお墓は、今ある墓とは少し違っていて、岩場をくり抜いて穴をあけただけの簡単なものでした。その穴を大きな岩で塞いであります。とても心細い惨めな気持ちで、彼女たちは出かけていったでしょう。頼りにしていた主イエスがあんなひどい死に方をなさって、これからいったい誰を頼りにして生きていこうかとも思い悩んだでしょう。あまりに恐ろしくて、心細くて惨めで、いろんなことが心配で心配で。また、墓を塞いでいる大きな重い岩を転がすことだってとても大変です。けれど墓に着いてみると、その大きな岩が脇に転がしてありました。中に入ってみました。主イエスの遺体はどこにも見当たりませんでした。これはいったいどういうことだろう。私たちはどうしたらいいだろうかと、すっかり困り果ててしまいました。すると輝く衣を着た2人の人がそばに現れました。女の人たちは恐ろしくなって、地面に顔を伏せました。その人たちは言いました;「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか」。これが、復活の主イエスを信じる信仰の初めの出来事です。

私たちが救われていること。神による救いを約束され、それにすでに預かっていることの中身が目の前に差し出されています。死んで復活なさった救い主イエスによって、私たちと神との和解が成し遂げられ、神が生きて働いておられる領域(=神の国)に迎え入れられている私たちです。なぜなら救い主イエスが死と闘い、死に勝利なさったからです。聖書は証言します、「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。……もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである」1コリント手紙15:14-20

8-12節、「そこで女たちはその言葉を思い出し、墓から帰って、これらいっさいのことを、十一弟子や、その他みんなの人に報告した。この女たちというのは、マグダラのマリヤ、ヨハンナ、およびヤコブの母マリヤであった。彼女たちと一緒にいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。ところが、使徒たちには、それが愚かな話のように思われて、それを信じなかった。〔ペテロは立って墓へ走って行き、かがんで中を見ると、亜麻布だけがそこにあったので、事の次第を不思議に思いながら帰って行った〕」。けれども、神さまを信じることは、そう簡単ではありませんでした。女の人たちは「ああ。そう言えば、主イエスは何度も何度もそう仰っていた。私は罪人の手に渡され、十字架につけられ殺されて、けれど三日目に復活することになっている。きっと必ずそうなることになっている」(ルカ9:22,44,18:33,24:21,46)と。何度も言われていたことを思い出して、彼女たちは墓から帰って弟子たちに、そのことをそのまま伝えました。「言われていた通りでした」と。あの弟子たちは、けれど、なかなかそれを信じることができませんでした。

確かめるために墓に行ってみた者たちもいました。墓の中には、主イエスの遺体を巻いていた布切れしか残されていませんでした。なんだろうこれは。いったい、どういうことだろうかと驚いて、けれどそれでも、『だから救い主イエスは復活した』とはなかなか信じられませんでした。その後、復活した主イエスご自身が弟子たちの何人もの前に姿を現しました(ルカ福音書24:1-49,コリント手紙(1)15:3-8)。それでも信じた人もいれば、信じなかった人も大勢いました。今でもそうです。できれば信じたいと思いながら、「頭では分かるけど、でもなんだか……」など疑ったり、ためらったりしながら、主イエスを信じる信仰のほんの入り口の玄関先でウロウロマゴマゴしつづけて、それだけで一生を終ってしまう人達も沢山います。神さまを信じることは、そして信じて生きることは、そう簡単ではなかったのです。

「キリスト教の信仰はどういうものですか。あなたたちは、何をどんなふうに信じているんですか」と、時々、質問されることがあります。私たちはそれぞれ精一杯に答えます。「救い主イエスは十字架にかけられて殺され、その三日目の朝早くに、主イエスを信じる女の人たちが墓に出かけていった。すると、墓を塞いでいた大きな岩が転がしてあって、それで」と。あのときの、あの女の人たちと同じようにして、私たちも説明します。「死んだ人が墓からよみがえったって。本当か。では、その証拠は。どんなふうにして、何がどうなって復活したのか」。「主イエスは十字架につけられ、墓に葬られ、その三日目の朝、墓を塞いでいた岩が脇に転がしてあった。2人の人が現れて、これこれこう言った。主イエスご自身も『(私は)十字架につけられ、殺され、葬られ、三日目に復活することになっている』と、あらかじめ何度も何度も仰っていた。墓穴には、ただ遺体を巻いていた布切れだけが残されていた。その後も、11人の弟子たちや、多くの者たちの前に主イエスは復活の姿を現してくださった」。そして、あのときのあの女の人たちと同じように、たいていは馬鹿にされて笑われたり、嘘だと思われたりします。中には腹を立てて怒りだす人もいます。初めから、全然まともに聞いてくれないことも沢山あります。でも、聞いてくれる人もほんの少しはいます。時には、1人また1人と信じる人も出てきます。あの復活の朝から、2000年もの長い長い歳月が過ぎました。世界中にキリストの教会が建ちました。毎週毎週の日曜日に、あちこちで、救い主イエス・キリストの十字架の死と復活が語られます。また主イエスがどんなかたで、何を語り、どんなことをなさったのか。世界をお造りになった神さまが生きて働いておられます、などと。

あの女の人たちも、主イエスが何をどんなふうに仰っていたのかを、うっかり忘れていました。主の御使いたちが彼女たちに、それを思い起こさせました。ガリラヤで何と仰っていたのか。十字架につけられ、殺され、三日目に復活する。必ずそうなることになっていると。そこでようやく、彼女たちは思い出しました(8)。「ああ、そう言えばそうだった」と。実はここにいる私たちも、あの女の人たちとだいたい同じです。もうずいぶん前から主イエスの言葉を聞き続けています。でも、うっかり忘れてしまっています。年をとるとだんだん物忘れが多くなって、何でもかんでもすぐに忘れてしまったりしますし、病気で物忘れがひどくなることもあります。それでも、大切に思ったことは案外いつまでもちゃんと覚えている。なんとなく見たり聞いたりしたことは、すぐにも次々に忘れてしまいます。だから聖書は、「思い出しなさい。思い出しなさい。よくよく知っているはずのことを、あなたは忘れてしまったのですか」と何度も何度も呼びかけます。それも、神さまのことを知らない人たちに向かってと言うよりも、むしろもっぱら神さまのことを知っていて、信じて生きているはずの私たちに向かって。

6-9節、「そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか。そこで女たちはその言葉を思い出し、墓から帰って、これらいっさいのことを、十一弟子や、その他みんなの人に報告した」。救い主イエスご自身からあらかじめ聞かされていた言葉を、この私たちも、ぜひなんとしても思い起こさなければなりません。あの最初の弟子たちも、少しずつ、ゆっくりゆっくりと信じていきました。心が鈍くされ、耳も心もたびたび開いたり閉じたりしてしまうからです。弟子たちは、この話が愚かな作り事のような気がして、なかなか信じられませんでした(11)。手間取っていた弟子たちが、けれど、やがて主イエスの復活を力強く述べ伝えはじめます。ためらいと恐れの中に閉じ込められていた弟子たちが、この疑い深く臆病な者たちが、やがて地の果てまでも出かけていきました。復活の主イエスと、とうとう出会ったからです。教えられ続けてきたことも1つまた1つと思い起こし、「ああ本当にそうだった」と。するとそこで、まるで生まれて初めてのようにして、臆病で怖がりだった彼らの心に勇気がわき起こってきました。感謝と喜びさえもが、溢れ出ました。それはもう少し先のことです。やがてもうすぐ復活の主と出会って、彼らはとうとう語りはじめます。大切な家族に向かっても、隣人たちや友達にも。まずなにより自分自身の魂に向かって、「イエス・キリスト。この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒行伝4:10-12,16:31)と。 

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     金田聖治
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