2022年4月11日月曜日

4/10「救い主イエスの葬り」ルカ23:49-58

       みことば/2022,4,10(受難節第6主日の礼拝)  366

◎礼拝説教 ルカ福音書 23:49-58                日本キリスト教会 上田教会

『救い主イエスの葬り』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

23:49 すべてイエスを知っていた者や、ガリラヤから従ってきた女たちも、遠い所に立って、これらのことを見ていた。50 ここに、ヨセフという議員がいたが、善良で正しい人であった。51 この人はユダヤの町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいた。彼は議会の議決や行動には賛成していなかった。52 この人がピラトのところへ行って、イエスのからだの引取り方を願い出て、53 それを取りおろして亜麻布に包み、まだだれも葬ったことのない、岩を掘って造った墓に納めた。54 この日は準備の日であって、安息日が始まりかけていた。55 イエスと一緒にガリラヤからきた女たちは、あとについてきて、その墓を見、またイエスのからだが納められる様子を見とどけた。56 そして帰って、香料と香油とを用意した。それからおきてに従って安息日を休んだ。 ルカ福音書 23:49-58


49-56節。救い主イエスの死と葬りの様子は、ここに書いてあるとおりです。その日、昼の12時ころから全地は暗くなり、それが午後3時までつづきました。太陽は光を失いました。神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに引き裂かれました。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と、主イエスは大声で叫びました。ヨセフという名前の最高法院の一人の議員がいました。彼もまた主イエスを信じる弟子の一人であり、神の国を待ち望む人々の一員でした。ローマ帝国から派遣されてきていた総督ピラトに願い出て、主イエスの遺体を引き取り、亜麻布に包み、まだだれも葬ったことのない自分の墓に収めました。

「この日は準備の日であって、安息日が始まりかけていた」とあります。ユダヤ教の一日の数え方は私たちの国の文化とは違っていて、『日が暮れた夜から一日が始まり、日暮れで一日が終わります』。すでに夕方になっており、あとわずかの時間で、安息日が始まってしまいます。安息日には、葬りも含めて、ほとんど何もしてはならず、働いてはけない規則です。ですから、その前に、大急ぎで葬りの準備をし終えなければなりません。また、夜になっても処刑された遺体をそのまま残しておくことも律法の禁止命令に違反することになります(申命記21:23参照)

まだだれも葬ったことのない墓に納めた」とあります。エルサレムの都に入るとき、救い主イエスは、まだ誰も乗せたことのない子ロバの背に乗って、都に入りました。救い主であられる王が、そのように現れると預言者が告げていたとおりに(ゼカリヤ書9:9。まだ誰も乗せたことのない子ロバの背に乗ったこと。そして今度は、まだだれも葬ったことのない墓。それらは、格別な王様の神聖な登場であり、神聖な葬りを言い表しています。

このヨセフという名前の一人の議員は、イエスの遺体の引き取りを総督ピラトに願い出たことによって、大勢の人々の前で、自分自身は主イエスの弟子たちの一人であることを認めることになってしまいます。国中の人々の嫌悪とはなはだしい憎しみを買うことになり、いのちを奪われかねないほどの大きな危険にわが身をさらすことになってしまいます。あの11人の弟子たちが、イエスを憎む人々をとても恐れて、身を潜めつづけていたことを思い起こして下さい。大変な勇気が必要でした。いいえ、それよりも、神ご自身がそのような一人の弟子を用意していてくださいました。つまり神の御力が、この一人の人を駆り立てて、ピラトに、遺体の引き取りを願い出させました。

55-56節、「イエスと一緒にガリラヤからきた女たちは、あとについてきて、その墓を見、またイエスのからだが納められる様子を見とどけた。そして帰って、香料と香油とを用意した。それからおきてに従って安息日を休んだ」。ヨセフという名前の議員とともに、彼に付いて来て、葬りの準備に加わっている女性たちがいます。イエスと一緒にガリラヤからきた女たちです。あとについてきて、その墓を見、またイエスのからだが納められる様子を見とどけた。そして帰って、葬りのために香料と香油とを用意した。それからおきてに従って安息日を休んだ。主イエスの弟子であるこの女性たちもまた、心を挫けさせることなく、救い主イエスの逮捕と、裁判と処刑と葬りの間においてさえ、神の国を待ち望みつづけています。神ご自身が、この人たちを励まし、最後の最後まで断固として支え続けてくださいます。

 

ガリラヤから従ってきたあの女性たちはヨセフの後から付いてきて遺体が収められる様子を見届けました。後から、丁寧に十分な葬りをするためにです。確かに、ここには主イエスを信じて生きる人々のその信仰の回復の小さな兆しのようなものがあります。やがてその時が来れば、彼らは立ち上がり、イエスは主であると誰はばかることなく言い表して生きる人々となるのでしょう。けれど、それはもう少し先のことです。ここに、あの12人の弟子たちの姿はまったく登場しません。心細さと恐れに飲み込まれて、彼らは散り散りに逃げ去ってしまいました。やがて、あの弟子たちが立ち上がる時が来ますが、それはまだほんの少し先のことです。「私を見なさい。金や銀はないが持っている飛びっきりに素敵な力強いものをあなたにもあげよう。ナザレの人イエスの名によって立ち上がり、歩きなさい。なぜなら、その同じ格別な祝福と幸いを私もいただいて、受け取り、イエスの名によって立ち上がった。イエスの名によって歩き続けている」(使徒3:6参照)と彼らが、自分の大切な家族や、友人たち、隣人たちを本気になって励ましはじめるのは、まだほんの少し先のことです。「イエス・キリスト。他の誰によっても救われない。救われるべき名は地上では、この名の他、私たち人間には与えられていないのだから」「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒言行録4:10-12,18-20,16:31)と隣人たちを励まし、イエスのもとへと連れて来はじめるのは、まだほんの少し先のことです。なにしろ復活の主イエスと出会うまでは、それまでは、彼らの恐れは決して取り除かれません。『殺され、葬られた方を神ご自身が復活させた。本当にそうだ』と知るまでは、またこの自分自身をも同じ神さまが新しい生命を与えて、新しく生きさせてくださると知るまでは、彼らはまだまだ人間のことばかり思い煩って、神を思う暇がほんの少しもないからです。十字架の上から新しい生命が差し出されつづけています。その新しい生命を受け取ろうとして、手間取っている人々がいます。足踏みし、行きつ戻りつしながら、彼らは新しい生命をぜひ受け取ろうと悪戦苦闘しています。やがて間もなく、あの彼らや私たち自身の恐れや疑いや心細さが取り除かれる日が来ます。

民衆は立って見つめていました。議員たちも、あざ笑って言いました。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」。十字架の上に、この方に対する人々の憎しみとあざけりが極まるとき、それは同時に、神さまをさえ憎んで退けてしまう私たち人間への、神さまからの愛と憐れみが極まるときでもありました。「父よ、彼らをおゆるしください」。むしろ、神さまに逆らってばかりいる、その彼らをゆるすために、ゆるして神の子供たちとして迎え入れるために、救い主イエスの十字架の死と復活があり、神さまの側で高い代償が支払われました。その罪はあまりに深く、他のどんな代価によっても贖いえず、神の独り子の生命の重さに匹敵しました。独り子の生命によって贖われねばならないほどの罪深さ。それを根深く抱えもった彼らとは、いったい何者なのでしょう。どこの誰のことを言っているのでしょう。「彼らをおゆるしください」というあの叫びは、ここにいるこの私たちの救いのためでした。あの引き裂かれた体は、あの、頭からも手のひらからも足からも脇腹からもしたたり落ちた赤い血潮は、私たちの罪のゆるしのためでした。私たちは、もちろんこの私自身も、そのようにして『ゆるされた罪人』です。ただ、『ゆるされて、なお罪人でありつづける者たち』こそが、救い主イエスのもとに立っています。救い主イエスのゆるしのもとに留まっています。

罪人を憐れんで救う神さまです。恵みを受けるに値しない、ふさわしくない罪人をけれどなお迎え入れて、ご自分の子供としてくださる神さまです。2人の犯罪者が十字架の主イエスのすぐ傍らにいました。主の右側と左側から。彼らは、主イエスが半日以上かけてジワジワ殺されてゆく姿を、自分の目の前で、まざまざと目撃しました。そこで起きた出来事のすべて一切を見聞きしました。2人の犯罪者は共々に、間もなく死んでゆこうとしている者たちです。主イエスと同じく、2人共々に、体を貫く激しい痛みと苦しみに悩まされつづけてもいました。2人共々に、はなはだしく悪い罪人たちであり、救われるためには共々に、神さまからの罪のゆるしを必要としていました。けれど、とても残念なことに、その1人は神さまの憐れみを信じられないままに死んで行きました。もう1人は神のもとへと立ち返り、神さまの憐れみを信じ、救われました。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と主イエスは約束し、その約束通りに、その幸いな一人の罪人は楽園に迎え入れられました。

ある人々は神さまへと立ち返り、また別の人々は自分自身の罪深さの只中になお留まりつづける。それは、どういうことでしょう。また例えば、同じ1つの礼拝説教を聞いて、ある人々はほとんど何も受け取ることができず、まるで何事もなかったかのように家に帰ってゆく。また別の人々は、心に痛みを覚えて祈り求め、救いを求めて主イエスに向かって呼ばわりはじめます。それは、一体どういうことでしょうか。主イエスの福音は、ある人々の心の耳から隠されつづけ、別の人々には現され、差し出されつづけます。なぜなのか、私たちはよく分かりません。ただ私たちの目と耳と心は、そういうふうに出来ているようです。開かれたり塞がれたり、隠されたり現されたり、素直にされたり、かたくなに頑固にさせられたり。ご覧ください。あのとても悪い1人の犯罪者は、悔い改めています。目も心も在り方も、180度グルリと神へと向け返しています。自分自身の日頃の行いを、心のよこしまな思いを深く恥じ、胸を打ち叩いて嘆いています。心に痛みをおぼえながら神さまのもとへと立ち返り、そこで救いを受け取っています。「お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ」と自分自身の罪深さを自覚し、つくづくと実感しています。「しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」と、主イエスが無罪であること、けれどなお十字架にかけられていることに目を凝らしています。この1人の犯罪者は、救い主イエスには彼を救う力があると信じ、また、救ってくださろうと決断しておられることも信じています。「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と一人の犯罪者は主イエスに向けて呼ばわります。「私を思い出してください」。救い主イエスにこそ願いをかけながら、謙遜な、とても低い心と、主イエスへの十分な信頼を与えられています。「思い出してください」。願い求めているのは、ただこれだけのことです。救い主イエスがこの私を思い出してくださるなら、それで、もう十分であると。もちろん神さまはこの1人の犯罪者のこともあなたのことも、ほんの片時も忘れません。むしろ神さまをすっかり忘れて、しばしば思い起こしもしなくなるのは、いつも私たち人間のほうでした。つかの間に過ぎ去ってしまうあまりに短い、私たちの生涯です。たとえ、やがて私たちが死の床に横たわる日が来てもなお、そこでこの私自身もまた、「主イエスと共にいる。確かにそうだ」と思い起こすことができるなら、それで十分です。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と救い主イエスは約束なさいました。あの1人の犯罪人のためにも言われましたが、それだけでなく、主イエスを信じるすべての者たちのためにもこう約束しておられます。もちろん私たちや、その大切な家族や親しい友人たちのためにも、「耳を傾け、私に来て、聞け。そうすれば、あなたがたは生きることができる」(イザヤ書55:3と、この救い主イエスが招きつづけます。

古い罪の中に留まっていた私たち自身を、主イエスと共に日毎に葬っていただきましょう。復活の主イエスと共に神の御前で、神さまに向かって、日毎に新しく生き始めるために。

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     金田聖治
(かねだ・せいじ)

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