みことば/2022,4,24(復活節第2主日の礼拝) № 368
◎礼拝説教 ルカ福音書 24:13-27 日本キリスト教会 上田教会
『エマオ村への途上で』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
24:13 この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、14 このいっさいの出来事について互に語り合っていた。15 語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。16 しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。17 イエスは彼らに言われた、「歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか」。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。18 そのひとりのクレオパという者が、答えて言った、「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか」。19 「それは、どんなことか」と言われると、彼らは言った、「ナザレのイエスのことです。あのかたは、神とすべての民衆との前で、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが、20 祭司長たちや役人たちが、死刑に処するために引き渡し、十字架につけたのです。21 わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。しかもその上に、この事が起ってから、きょうが三日目なのです。22 ところが、わたしたちの仲間である数人の女が、わたしたちを驚かせました。というのは、彼らが朝早く墓に行きますと、23 イエスのからだが見当らないので、帰ってきましたが、そのとき御使が現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと申すのです。24 それで、わたしたちの仲間が数人、墓に行って見ますと、果して女たちが言ったとおりで、イエスは見当りませんでした」。25 そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。26 キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。27 こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。(ルカ福音書 24:13-27)
まず13-16節。ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから11キロメートルほど(1マイル=1,4キロメートル)離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。そう言えば、この私たちも折々に語り合って来ました。主イエスを信じる信仰について、信仰をもって生きることについて、あるいは私たちの生活の中で起きるさまざまな事柄と主イエスの福音について、そこにどんな関係があるのかと語り合う。それは、神さまからの恵みを受け取るための大切な機会です。例えば夫婦が1日の働きを終えて一緒にお茶を飲んでいる。あるいは、「学校や職場で今日こんなことがあったんだよ」などと子供たちが父さん母さんに語りかけている。例えば主の弟子たちは、2人ずつ組にして町や村へと送り出されて行きました(ルカ10:1)。1人ではなくて、2人ずつです。それは、送り出されていったその所々で、さまざまな出来事に直面する中で、けれど信仰をもってその事柄に対処していくためにです。その働き人がどんなに優秀でも、どんなに信仰深くても、福音の光のもとにその1つ1つの事柄を受け止め、福音の光のもとに対処し、なにしろ主イエスの福音の光に照らしてふさわしく取り扱っていくことは、とても難しかったのです。思いや判断がうっかりして脇道へ脇道へと逸れていってしまうことはありえました。だからこそ1人ずつではなく、わざわざ2人ずつ組にして遣わされました。
けれど主がそこに来てくださる前には、あの彼らは、がっかりして暗い顔をしていました(24:17,21)。彼らの希望は、主イエスの十字架のときにすっかり消え去ったかのように思えました。「ナザレのイエス。あの方がイスラエルを解放してくださると、私たちは望みをかけていた。あの方こそが私たちの希望だったのに」(24:21)。信仰をもって生きる親しい兄弟同士が語り合っている間も、共に肩を並べて歩きながらも、あの彼らには、そこに主イエスがおられるとは、少しもまったく分かりませんでした。あの方は行いにも言葉にも力ある預言者だった。それなのに、死刑にするために引き渡された。十字架につけられて殺されてしまった。十字架の死は、この世界の物の見方からすると単なる敗北であり、私たちの合理的な物の考え方からすると、ただの惨めな終りに過ぎません。しかもあの彼らは、いまだにこの世界の物の見方で、一つ一つの事柄を見ていたのです。この私たちもついつい人様や世間様が見たり考えたりするごく普通の、一般的なやり方や尺度で、ものを見たり、判断して暮らしています。本当は、普段のいつもの暮らしの中で使うための信仰であり、そこで生きて働くはずの信仰だったのです。
25-27節。「そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた」。奇妙なことが起こりはじめています。自分たちに語りかけているその人物が救い主イエスだということを彼らはまだ知りません。ただの通りすがりの、見知らぬ誰かだと思っています。しかも、「愚かで心の鈍い者たちよ」と、いきなり厳しく容赦のない、乱暴な言葉を語りかけられました。たいていの心の弱い人々は、あるいは心が強すぎる人たちは、この乱暴な一言で、すっかり諦めてしまったり、心の耳を自分自身で閉ざしてしまったり、腹を立てたりしてしまったかも知れません。しかも、生まれつきずっと心が弱かったり、朝から晩までいつもいつも強すぎて頑固でありつづける人は滅多にいません。私たちの心は時と場合によって、また相手によって、弱くなったり、強く頑固になったりしつづけます。心の耳が開いたり閉じたりしつづけます。けれど不思議なことに、ここで、この「愚かで心の鈍い者たちよ」という乱暴でトゲトゲしく聴こえる言葉によって、彼らの心の耳は開かれました。救い主イエスご自身が彼らの心の耳を開いて下さったからです。「愚かで心の鈍い者たちよ」と言われて、いつもなら腹を立てて不機嫌になり、ますます愚かになり、ますます心を鈍くさせてしまったかも知れません。けれど、どうしたわけか、「ああ本当だ。わたしは愚かになっていた。自分の心を自分自身でかたくなにし、鈍くしていた」とついに気づかされました。語りかけられた言葉が1つ、また1つと、彼らの心に入ってきました。彼らを憐れんで止まない神の御心がそうさせたからです。心が鈍くされ、愚かに、不信仰にされたままでは、幸いに生きることができなかったからです。その彼らを憐れんだ神が、彼らの心の耳を必要なだけ十分に開いてくださいました。愚かで心がとても鈍い自分である。その私を神が憐れんで、愚かさも心の鈍さも少しずつ取り除いてくださる。これが、憐みの神を信じる信仰の出発点です。この私たち自身も、神の憐みのお働きを慕い求めて、「私の心の耳を開いて下さい」と願い求めることができます。「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」(32節)と、この私たちも、感謝にあふれて喜び祝うことができるかも知れません。そのように、私たちの愚かさを神がへりくだった豊かさへと変えてくださいます。私たちの鈍くかたくなな石の心を、神こそが悔いて砕けた魂へと新しく造り替えてくださいます。
「預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たち。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。救い主イエスは、あの弟子たちと私たち自身の心の鈍さと愚かさをよくよくご存知でありつづけます。だからこそ、十字架の死が待ち受けるエルサレムの都へと旅路を歩みながら、何度も何度も、預言者たちが説いたご自身の十字架の死と復活について、救い主イエスは弟子たちに繰り返し語りかけつづけました。「人の子(=イエスご自身のこと)は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる」。それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか」(ルカ9:22-25)と。人の子、つまりこの私は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる。「必ず~となる」。主であられる神さまがそう決めて、神ご自身がそれを成し遂げるから、だから、「必ず~となる」。ここで聞き分けるべき第一の点は、十字架の上で死ぬことは救い主イエスご自身が自分から進んで、自由な心で受け入れておられる出来事であるということです。悪者どもの悪巧みにあって、仕方なしに嫌々渋々、ではなくて。「ぜひそうしよう。十字架の上で、罪人の一人に数えられ、見捨てられて無残に死んでゆくこと。それを私はぜひしたい」と。父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神という永遠の神ご自身による救いの御計画です。正しいお方が、正しくないはなはだしい罪人である私たちのために、死んでくださった。それによって、恵みに値しない私たちを憐み深い神のみもとへと連れ戻してくださるために。それこそが救い主としての務めであり、ご自身が担われた使命です。
「それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう」。まず、自分を捨てなさい、自分の命を捨て去りなさいと命じられます。神に背かせようとする罪の誘惑と、毎日毎日、戦わねばならないからです。捨て去るべき「自分。自分の命」とは、自己中心の「私が私が」というこだわりであり、心の頑固さです。「好きだ嫌いだ。気が進む。なんだか嫌だ」などと言い張りつづけ、自分の思い通り、願い通りに生きていきたいと我を張りつづける虚しい自己主張です。それらは、主イエスに従って生きることを邪魔しつづけるからです。自分自身が自分の主人である間は、神さまを自分のご主人さまとして迎え入れることが決してできないからです。要点は、神ご自身の御わざに自分の場所を明け渡すこと。神をご主人さまとして、自分の内に迎え入れること。神にこそ十分に信頼し、聞き従って生きるための訓練です。ついつい私たちは自分を頼りとして、自分の判断や気分に聞き従いつづけて、頑固に思い上がります。だからこそさまざまな困難や悩みの中でへりくだらされて、そこでようやく神の御力と憐みを呼び求めることを私たちは学びます。
「こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた」。私たちのためにも、エマオへの道のりは、なおまだ続きます。聖書を読むようにして、私たちは自分自身の毎日の生活を読み始めました。泣いたり笑ったり、喜んだりガッカリしたりしながら、私たちは目の前に次々と現れる出来事を読みます。あるいは鏡を見て、自分の心の中を覗いて、そこに何が書いてあるだろうと読みます。その1人の旅人のためにも、主イエスご自身が道連れになってくださいます。
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金田聖治(かねだ・せいじ)
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