2022年4月25日月曜日

4/24「エマオ村への途上で」ルカ24:13-27

       みことば/2022,4,24(復活節第2主日の礼拝)  368

◎礼拝説教 ルカ福音書 24:13-27                日本キリスト教会 上田教会

『エマオ村への途上で』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

24:13 この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、14 このいっさいの出来事について互に語り合っていた。15 語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。16 しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。17 イエスは彼らに言われた、「歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか」。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。18 そのひとりのクレオパという者が、答えて言った、「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか」。19 「それは、どんなことか」と言われると、彼らは言った、「ナザレのイエスのことです。あのかたは、神とすべての民衆との前で、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが、20 祭司長たちや役人たちが、死刑に処するために引き渡し、十字架につけたのです。21 わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。しかもその上に、この事が起ってから、きょうが三日目なのです。22 ところが、わたしたちの仲間である数人の女が、わたしたちを驚かせました。というのは、彼らが朝早く墓に行きますと、23 イエスのからだが見当らないので、帰ってきましたが、そのとき御使が現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと申すのです。24 それで、わたしたちの仲間が数人、墓に行って見ますと、果して女たちが言ったとおりで、イエスは見当りませんでした」。25 そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。26 キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。27 こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。ルカ福音書 24:13-27

まず13-16節。ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから11キロメートルほど(1マイル=1,4キロメートル)離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。そう言えば、この私たちも折々に語り合って来ました。主イエスを信じる信仰について、信仰をもって生きることについて、あるいは私たちの生活の中で起きるさまざまな事柄と主イエスの福音について、そこにどんな関係があるのかと語り合う。それは、神さまからの恵みを受け取るための大切な機会です。例えば夫婦が1日の働きを終えて一緒にお茶を飲んでいる。あるいは、「学校や職場で今日こんなことがあったんだよ」などと子供たちが父さん母さんに語りかけている。例えば主の弟子たちは、2人ずつ組にして町や村へと送り出されて行きました(ルカ10:1)。1人ではなくて、2人ずつです。それは、送り出されていったその所々で、さまざまな出来事に直面する中で、けれど信仰をもってその事柄に対処していくためにです。その働き人がどんなに優秀でも、どんなに信仰深くても、福音の光のもとにその1つ1つの事柄を受け止め、福音の光のもとに対処し、なにしろ主イエスの福音の光に照らしてふさわしく取り扱っていくことは、とても難しかったのです。思いや判断がうっかりして脇道へ脇道へと逸れていってしまうことはありえました。だからこそ1人ずつではなく、わざわざ2人ずつ組にして遣わされました。

けれど主がそこに来てくださる前には、あの彼らは、がっかりして暗い顔をしていました(24:17,21)。彼らの希望は、主イエスの十字架のときにすっかり消え去ったかのように思えました。「ナザレのイエス。あの方がイスラエルを解放してくださると、私たちは望みをかけていた。あの方こそが私たちの希望だったのに」(24:21)。信仰をもって生きる親しい兄弟同士が語り合っている間も、共に肩を並べて歩きながらも、あの彼らには、そこに主イエスがおられるとは、少しもまったく分かりませんでした。あの方は行いにも言葉にも力ある預言者だった。それなのに、死刑にするために引き渡された。十字架につけられて殺されてしまった。十字架の死は、この世界の物の見方からすると単なる敗北であり、私たちの合理的な物の考え方からすると、ただの惨めな終りに過ぎません。しかもあの彼らは、いまだにこの世界の物の見方で、一つ一つの事柄を見ていたのです。この私たちもついつい人様や世間様が見たり考えたりするごく普通の、一般的なやり方や尺度で、ものを見たり、判断して暮らしています。本当は、普段のいつもの暮らしの中で使うための信仰であり、そこで生きて働くはずの信仰だったのです。

25-27節。「そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた」奇妙なことが起こりはじめています。自分たちに語りかけているその人物が救い主イエスだということを彼らはまだ知りません。ただの通りすがりの、見知らぬ誰かだと思っています。しかも、「愚かで心の鈍い者たちよ」と、いきなり厳しく容赦のない、乱暴な言葉を語りかけられました。たいていの心の弱い人々は、あるいは心が強すぎる人たちは、この乱暴な一言で、すっかり諦めてしまったり、心の耳を自分自身で閉ざしてしまったり、腹を立てたりしてしまったかも知れません。しかも、生まれつきずっと心が弱かったり、朝から晩までいつもいつも強すぎて頑固でありつづける人は滅多にいません。私たちの心は時と場合によって、また相手によって、弱くなったり、強く頑固になったりしつづけます。心の耳が開いたり閉じたりしつづけます。けれど不思議なことに、ここで、この「愚かで心の鈍い者たちよ」という乱暴でトゲトゲしく聴こえる言葉によって、彼らの心の耳は開かれました。救い主イエスご自身が彼らの心の耳を開いて下さったからです。「愚かで心の鈍い者たちよ」と言われて、いつもなら腹を立てて不機嫌になり、ますます愚かになり、ますます心を鈍くさせてしまったかも知れません。けれど、どうしたわけか、「ああ本当だ。わたしは愚かになっていた。自分の心を自分自身でかたくなにし、鈍くしていた」とついに気づかされました。語りかけられた言葉が1つ、また1つと、彼らの心に入ってきました。彼らを憐れんで止まない神の御心がそうさせたからです。心が鈍くされ、愚かに、不信仰にされたままでは、幸いに生きることができなかったからです。その彼らを憐れんだ神が、彼らの心の耳を必要なだけ十分に開いてくださいました。愚かで心がとても鈍い自分である。その私を神が憐れんで、愚かさも心の鈍さも少しずつ取り除いてくださる。これが、憐みの神を信じる信仰の出発点です。この私たち自身も、神の憐みのお働きを慕い求めて、「私の心の耳を開いて下さい」と願い求めることができます。「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」32節)と、この私たちも、感謝にあふれて喜び祝うことができるかも知れません。そのように、私たちの愚かさを神がへりくだった豊かさへと変えてくださいます。私たちの鈍くかたくなな石の心を、神こそが悔いて砕けた魂へと新しく造り替えてくださいます。

「預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たち。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。救い主イエスは、あの弟子たちと私たち自身の心の鈍さと愚かさをよくよくご存知でありつづけます。だからこそ、十字架の死が待ち受けるエルサレムの都へと旅路を歩みながら、何度も何度も、預言者たちが説いたご自身の十字架の死と復活について、救い主イエスは弟子たちに繰り返し語りかけつづけました。「人の子(=イエスご自身のこと)は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる」。それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか」(ルカ9:22-25と。人の子、つまりこの私は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる。「必ず~となる」。主であられる神さまがそう決めて、神ご自身がそれを成し遂げるから、だから、「必ず~となる」。ここで聞き分けるべき第一の点は、十字架の上で死ぬことは救い主イエスご自身が自分から進んで、自由な心で受け入れておられる出来事であるということです。悪者どもの悪巧みにあって、仕方なしに嫌々渋々、ではなくて。「ぜひそうしよう。十字架の上で、罪人の一人に数えられ、見捨てられて無残に死んでゆくこと。それを私はぜひしたい」と。父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神という永遠の神ご自身による救いの御計画です。正しいお方が、正しくないはなはだしい罪人である私たちのために、死んでくださった。それによって、恵みに値しない私たちを憐み深い神のみもとへと連れ戻してくださるために。それこそが救い主としての務めであり、ご自身が担われた使命です。

「それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう」。まず、自分を捨てなさい、自分の命を捨て去りなさいと命じられます。神に背かせようとする罪の誘惑と、毎日毎日、戦わねばならないからです。捨て去るべき「自分。自分の命」とは、自己中心の「私が私が」というこだわりであり、心の頑固さです。「好きだ嫌いだ。気が進む。なんだか嫌だ」などと言い張りつづけ、自分の思い通り、願い通りに生きていきたいと我を張りつづける虚しい自己主張です。それらは、主イエスに従って生きることを邪魔しつづけるからです。自分自身が自分の主人である間は、神さまを自分のご主人さまとして迎え入れることが決してできないからです。要点は、神ご自身の御わざに自分の場所を明け渡すこと。神をご主人さまとして、自分の内に迎え入れること。神にこそ十分に信頼し、聞き従って生きるための訓練です。ついつい私たちは自分を頼りとして、自分の判断や気分に聞き従いつづけて、頑固に思い上がります。だからこそさまざまな困難や悩みの中でへりくだらされて、そこでようやく神の御力と憐みを呼び求めることを私たちは学びます。

「こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた」。私たちのためにも、エマオへの道のりは、なおまだ続きます。聖書を読むようにして、私たちは自分自身の毎日の生活を読み始めました。泣いたり笑ったり、喜んだりガッカリしたりしながら、私たちは目の前に次々と現れる出来事を読みます。あるいは鏡を見て、自分の心の中を覗いて、そこに何が書いてあるだろうと読みます。その1人の旅人のためにも、主イエスご自身が道連れになってくださいます。


【お知らせ】

 

①大人説教もこども説教も、よく分からないこと、『変だ。本当だろうか? なぜ』と困るとき、遠慮なくご質問ください。できるだけていねいに答えます。

②聖書や神さまのこと以外でも、困っていることや悩んで苦しく思うことを、もし僕で良ければお聞きします。個人情報など守秘義務を守ります。どうぞ安心して、ご連絡ください。

  

     金田聖治
(かねだ・せいじ)

      電話 0268-71-7511

 Ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp (自宅PC

4/24こども説教「神に代わることができようか」創世記50:15-21

4/24 こども説教 創世記 50:15-21

 神に代わることができようか

 

50:15 ヨセフの兄弟たちは父の死んだのを見て言った、「ヨセフはことによるとわれわれを憎んで、われわれが彼にしたすべての悪に、仕返しするに違いない」。16 そこで彼らはことづけしてヨセフに言った、「あなたの父は死ぬ前に命じて言われました、17 『おまえたちはヨセフに言いなさい、「あなたの兄弟たちはあなたに悪をおこなったが、どうかそのとがと罪をゆるしてやってください」』。今どうかあなたの父の神に仕えるしもべらのとがをゆるしてください」。ヨセフはこの言葉を聞いて泣いた。18 やがて兄弟たちもきて、彼の前に伏して言った、「このとおり、わたしたちはあなたのしもべです」。19 ヨセフは彼らに言った、「恐れることはいりません。わたしが神に代ることができましょうか。20 あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました。21 それゆえ恐れることはいりません。わたしはあなたがたとあなたがたの子供たちを養いましょう」。彼は彼らを慰めて、親切に語った。             (創世記 50:15-21

 

 

 【こども説教】

 22年ぶりの、兄弟たちの仲直りです。しかも兄たちは弟ヨセフを殺そうとしたほどに悪いことをしました。その弟は、今では、エジプト王の次に大きな権威と力と身分を手に入れています。もし、あの弟の機嫌を損ねたら、嫌われたら弟に何をされるか分からないと兄たちは恐れました。19-21節、「ヨセフは彼らに言った、「恐れることはいりません。わたしが神に代ることができましょうか。あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました。それゆえ恐れることはいりません。わたしはあなたがたとあなたがたの子供たちを養いましょう」。恐れなくても良いと、2回もつづけて語りかけています。兄たちも、ここに集まった私たちも、自分や家族が安心して暮らしていける理由をはっきり分かっていましょう。「恐れることはいりません。わたしが神に代ることができましょうか」。エジプト王の次に偉く、力のある私でさえ、神に代わることは出来ない。つまり、神にだけ十分に信頼を寄せて、神以外の何者をも恐れないでいられるなら、何が起きてもどこの誰が脅かしても、いつでもどこでも何の心配もない。もし、「偉くなったヨセフが私たちの味方だから安心だ」と勘違いしてしまうなら、その安心は当てにならず、長続きもしません。なぜなら、その頼りになりそう、とてもしっかりしているように見えるヨセフさえ、ただの人間にすぎないからです。神にこそ十分に信頼できてこそ、その人は、いつでも安心して、恐れなく希望をもって生きることができます。

 

 

 【大人のための留意点】

 愛する兄弟姉妹よ。神が人間の過失、罪、咎をその全能の御手におとりになり、悪しき状態を良きに変わらせることは、明るく輝かしい秘義です。ヨセフの兄たちの咎を、神はイスラエルの救いに転化なさいます。キリストの処刑を、神は世の救いへとお変えになります。聖金曜日を、神は復活へとお変えになります。昇天の日に、神はその苦難のしもべ(救い主イエス)に天と地のあらゆる権威を授けて支配者となさいます。それゆえに、このようになぜ悪が栄えるのかという、古来の難問に、神は答えをお与えになります。悪の繁栄は決して最後的のものではありません。それは、いつの場合にも、一時的のものです。神が最後の断をお下しになります。神は、アブラハム、イサク、ヤコブの神であり、悪しき状態を良きに変わらせられます。この信仰を、かの言葉によってヨセフは言い表すのです。「あなたがたは悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせられた」と(ヴァルター・リュティ『ヤコブ 創世記連続講解説教集』該当箇所、新教出版社)

 

 

2022年4月18日月曜日

4/17「救い主イエスの復活」ルカ24:1-12

      みことば/2022,4,17(復活節第1主日の礼拝)  367

◎礼拝説教 ルカ福音書 24:1-12               日本キリスト教会 上田教会

『救い主イエスの復活』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

24:1 週の初めの日、夜明け前に、女たちは用意しておいた香料を携えて、墓に行った。2 ところが、石が墓からころがしてあるので、3 中にはいってみると、主イエスのからだが見当らなかった。4 そのため途方にくれていると、見よ、輝いた衣を着たふたりの者が、彼らに現れた。5 女たちは驚き恐れて、顔を地に伏せていると、このふたりの者が言った、「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。6 そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。7 すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか」。8 そこで女たちはその言葉を思い出し、9 墓から帰って、これらいっさいのことを、十一弟子や、その他みんなの人に報告した。10 この女たちというのは、マグダラのマリヤ、ヨハンナ、およびヤコブの母マリヤであった。彼女たちと一緒にいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。11 ところが、使徒たちには、それが愚かな話のように思われて、それを信じなかった。12 〔ペテロは立って墓へ走って行き、かがんで中を見ると、亜麻布だけがそこにあったので、事の次第を不思議に思いながら帰って行った。〕     ルカ福音書 24:1-12

 

15:3 わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、4 そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、5 ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。6 そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。7 そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、8 そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。       (1コリント手紙 15:3-8)


まず1-7節、「週の初めの日、夜明け前に、女たちは用意しておいた香料を携えて、墓に行った。ところが、石が墓からころがしてあるので、中にはいってみると、主イエスのからだが見当らなかった。そのため途方にくれていると、見よ、輝いた衣を着たふたりの者が、彼らに現れた。女たちは驚き恐れて、顔を地に伏せていると、このふたりの者が言った、「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか」。週の初めの日の明け方早く、まだまだ足元も薄暗いうちに、主イエスを信じる女の人たちが主の遺体を納めた墓へと向かいました。大切な主イエスをできるかぎりちゃんと葬ってあげたいと思って。当時のお墓は、今ある墓とは少し違っていて、岩場をくり抜いて穴をあけただけの簡単なものでした。その穴を大きな岩で塞いであります。とても心細い惨めな気持ちで、彼女たちは出かけていったでしょう。頼りにしていた主イエスがあんなひどい死に方をなさって、これからいったい誰を頼りにして生きていこうかとも思い悩んだでしょう。あまりに恐ろしくて、心細くて惨めで、いろんなことが心配で心配で。また、墓を塞いでいる大きな重い岩を転がすことだってとても大変です。けれど墓に着いてみると、その大きな岩が脇に転がしてありました。中に入ってみました。主イエスの遺体はどこにも見当たりませんでした。これはいったいどういうことだろう。私たちはどうしたらいいだろうかと、すっかり困り果ててしまいました。すると輝く衣を着た2人の人がそばに現れました。女の人たちは恐ろしくなって、地面に顔を伏せました。その人たちは言いました;「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか」。これが、復活の主イエスを信じる信仰の初めの出来事です。

私たちが救われていること。神による救いを約束され、それにすでに預かっていることの中身が目の前に差し出されています。死んで復活なさった救い主イエスによって、私たちと神との和解が成し遂げられ、神が生きて働いておられる領域(=神の国)に迎え入れられている私たちです。なぜなら救い主イエスが死と闘い、死に勝利なさったからです。聖書は証言します、「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。……もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである」1コリント手紙15:14-20

8-12節、「そこで女たちはその言葉を思い出し、墓から帰って、これらいっさいのことを、十一弟子や、その他みんなの人に報告した。この女たちというのは、マグダラのマリヤ、ヨハンナ、およびヤコブの母マリヤであった。彼女たちと一緒にいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。ところが、使徒たちには、それが愚かな話のように思われて、それを信じなかった。〔ペテロは立って墓へ走って行き、かがんで中を見ると、亜麻布だけがそこにあったので、事の次第を不思議に思いながら帰って行った〕」。けれども、神さまを信じることは、そう簡単ではありませんでした。女の人たちは「ああ。そう言えば、主イエスは何度も何度もそう仰っていた。私は罪人の手に渡され、十字架につけられ殺されて、けれど三日目に復活することになっている。きっと必ずそうなることになっている」(ルカ9:22,44,18:33,24:21,46)と。何度も言われていたことを思い出して、彼女たちは墓から帰って弟子たちに、そのことをそのまま伝えました。「言われていた通りでした」と。あの弟子たちは、けれど、なかなかそれを信じることができませんでした。

確かめるために墓に行ってみた者たちもいました。墓の中には、主イエスの遺体を巻いていた布切れしか残されていませんでした。なんだろうこれは。いったい、どういうことだろうかと驚いて、けれどそれでも、『だから救い主イエスは復活した』とはなかなか信じられませんでした。その後、復活した主イエスご自身が弟子たちの何人もの前に姿を現しました(ルカ福音書24:1-49,コリント手紙(1)15:3-8)。それでも信じた人もいれば、信じなかった人も大勢いました。今でもそうです。できれば信じたいと思いながら、「頭では分かるけど、でもなんだか……」など疑ったり、ためらったりしながら、主イエスを信じる信仰のほんの入り口の玄関先でウロウロマゴマゴしつづけて、それだけで一生を終ってしまう人達も沢山います。神さまを信じることは、そして信じて生きることは、そう簡単ではなかったのです。

「キリスト教の信仰はどういうものですか。あなたたちは、何をどんなふうに信じているんですか」と、時々、質問されることがあります。私たちはそれぞれ精一杯に答えます。「救い主イエスは十字架にかけられて殺され、その三日目の朝早くに、主イエスを信じる女の人たちが墓に出かけていった。すると、墓を塞いでいた大きな岩が転がしてあって、それで」と。あのときの、あの女の人たちと同じようにして、私たちも説明します。「死んだ人が墓からよみがえったって。本当か。では、その証拠は。どんなふうにして、何がどうなって復活したのか」。「主イエスは十字架につけられ、墓に葬られ、その三日目の朝、墓を塞いでいた岩が脇に転がしてあった。2人の人が現れて、これこれこう言った。主イエスご自身も『(私は)十字架につけられ、殺され、葬られ、三日目に復活することになっている』と、あらかじめ何度も何度も仰っていた。墓穴には、ただ遺体を巻いていた布切れだけが残されていた。その後も、11人の弟子たちや、多くの者たちの前に主イエスは復活の姿を現してくださった」。そして、あのときのあの女の人たちと同じように、たいていは馬鹿にされて笑われたり、嘘だと思われたりします。中には腹を立てて怒りだす人もいます。初めから、全然まともに聞いてくれないことも沢山あります。でも、聞いてくれる人もほんの少しはいます。時には、1人また1人と信じる人も出てきます。あの復活の朝から、2000年もの長い長い歳月が過ぎました。世界中にキリストの教会が建ちました。毎週毎週の日曜日に、あちこちで、救い主イエス・キリストの十字架の死と復活が語られます。また主イエスがどんなかたで、何を語り、どんなことをなさったのか。世界をお造りになった神さまが生きて働いておられます、などと。

あの女の人たちも、主イエスが何をどんなふうに仰っていたのかを、うっかり忘れていました。主の御使いたちが彼女たちに、それを思い起こさせました。ガリラヤで何と仰っていたのか。十字架につけられ、殺され、三日目に復活する。必ずそうなることになっていると。そこでようやく、彼女たちは思い出しました(8)。「ああ、そう言えばそうだった」と。実はここにいる私たちも、あの女の人たちとだいたい同じです。もうずいぶん前から主イエスの言葉を聞き続けています。でも、うっかり忘れてしまっています。年をとるとだんだん物忘れが多くなって、何でもかんでもすぐに忘れてしまったりしますし、病気で物忘れがひどくなることもあります。それでも、大切に思ったことは案外いつまでもちゃんと覚えている。なんとなく見たり聞いたりしたことは、すぐにも次々に忘れてしまいます。だから聖書は、「思い出しなさい。思い出しなさい。よくよく知っているはずのことを、あなたは忘れてしまったのですか」と何度も何度も呼びかけます。それも、神さまのことを知らない人たちに向かってと言うよりも、むしろもっぱら神さまのことを知っていて、信じて生きているはずの私たちに向かって。

6-9節、「そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか。そこで女たちはその言葉を思い出し、墓から帰って、これらいっさいのことを、十一弟子や、その他みんなの人に報告した」。救い主イエスご自身からあらかじめ聞かされていた言葉を、この私たちも、ぜひなんとしても思い起こさなければなりません。あの最初の弟子たちも、少しずつ、ゆっくりゆっくりと信じていきました。心が鈍くされ、耳も心もたびたび開いたり閉じたりしてしまうからです。弟子たちは、この話が愚かな作り事のような気がして、なかなか信じられませんでした(11)。手間取っていた弟子たちが、けれど、やがて主イエスの復活を力強く述べ伝えはじめます。ためらいと恐れの中に閉じ込められていた弟子たちが、この疑い深く臆病な者たちが、やがて地の果てまでも出かけていきました。復活の主イエスと、とうとう出会ったからです。教えられ続けてきたことも1つまた1つと思い起こし、「ああ本当にそうだった」と。するとそこで、まるで生まれて初めてのようにして、臆病で怖がりだった彼らの心に勇気がわき起こってきました。感謝と喜びさえもが、溢れ出ました。それはもう少し先のことです。やがてもうすぐ復活の主と出会って、彼らはとうとう語りはじめます。大切な家族に向かっても、隣人たちや友達にも。まずなにより自分自身の魂に向かって、「イエス・キリスト。この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒行伝4:10-12,16:31)と。 

【お知らせ】

 

①大人説教もこども説教も、よく分からないこと、『変だ。本当だろうか? なぜ』と困るとき、遠慮なくご質問ください。できるだけていねいに答えます。

②聖書や神さまのこと以外でも、困っていることや悩んで苦しく思うことを、もし僕で良ければお聞きします。個人情報など守秘義務を守ります。どうぞ安心して、ご連絡ください。

  

     金田聖治
(かねだ・せいじ)

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4/17こども説教「兄弟たちとの再会」創世記45:1-15

4/17 こども説教 創世記 45:1-15

兄弟たちとの再会

 

45:3 兄弟たちは答えることができなかった。彼らは驚き恐れたからである。4 ヨセフは兄弟たちに言った、「わたしに近寄ってください」。彼らが近寄ったので彼は言った、「わたしはあなたがたの弟ヨセフです。あなたがたがエジプトに売った者です。5 しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも、悔むこともいりません。神は命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです。6 この二年の間、国中にききんがあったが、なお五年の間は耕すことも刈り入れることもないでしょう。7 神は、あなたがたのすえを地に残すため、また大いなる救をもってあなたがたの命を助けるために、わたしをあなたがたよりさきにつかわされたのです。8 それゆえわたしをここにつかわしたのはあなたがたではなく、神です。神はわたしをパロの父とし、その全家の主とし、またエジプト全国のつかさとされました。……14 そしてヨセフは弟ベニヤミンのくびを抱いて泣き、ベニヤミンも彼のくびを抱いて泣いた。15 またヨセフはすべての兄弟たちに口づけし、彼らを抱いて泣いた。そして後、兄弟たちは彼と語った。                

(創世記 45:1-15

 

 

【こども説教】

アブラハムの子イサク。イサクの子ヤコブ。ヤコブの12人の子供の1人がヨセフです。兄たちは弟ヨセフを激しく憎んで殺そうとし、ついには奴隷としてエジプトに売り払ってしまいました。長い年月が過ぎて、ヨセフはエジプト王に仕えて大きな権力をふるう指導者とされました。7年の豊作と7年の飢饉が起こって、ヨセフの兄たちも父も皆、食べるものを求めてエジプトに避難してくるほかなくなりました。かつてヨセフを殺そうとし、奴隷として売り払った兄たちの手荷物の中に、ヨセフは金包みを入れておき、彼らが盗みを働いたと疑いをかけ、厳しく取り扱います。兄たちも父も、自分たちは殺されるかもしれないとひどく恐れます。恐れの中で、兄たちは三日間、監禁所に閉じ込められます42-44章を参照)。神ご自身こそが彼らを叱り、厳しく取り扱っています。神の民として新しく出発するためには、あの彼らも私たちも自分自身の罪深さを認め、その罪を、神にゆるしていただく必要があるからです。罪のゆるしを受け取る中にこそ、神さまからの救いと祝福があるからです。

そして、彼らは兄弟として仲直りをさせられ、互いに喜び合います。7-8節、「神は、あなたがたのすえを地に残すため、また大いなる救をもってあなたがたの命を助けるために、わたしをあなたがたよりさきにつかわされたのです。それゆえわたしをここにつかわしたのはあなたがたではなく、神です。神はわたしをパロの父とし、その全家の主とし、またエジプト全国のつかさとされました」。

 

 

 【大人のための留意点】

 (7年の豊作と7年の飢饉を用いて)神はヨセフの兄弟たち、イスラエル、エジプト人、そしてすべての人々に食物とパンを与えようと欲しておられます。けれども神はわれわれに、肉体の栄養にまさる、より大いなるものを与えようと欲しておられます。『人はパンのみで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言(ことば)で生きるものである』(マタイ4:4)。神の口から出る一つの決定的な言、それは『ゆるし』です。……われわれの永遠の救いに問題がかかわる時には、神は厳しくあられるのです。まことに厳しくあられます。最後的に、あの聖金曜日に明らかとなったごとくに。古い罪をただ漫然と黙って見過ごしになさらないのです。神は、根本から助けようとなさり、ゆるしによって罪を根絶やしになさろうとするゆえに、それゆえにこそ、神は厳しくお臨みになるのです。それは、どこやら、病根をすっかりえぐり取る外科医の厳しさにも似ています。

 今日、われわれはさまざまの罪過を担って、このところへやってきました。神がゆるし給うならば、われわれは、ヨセフの兄たちのように、心にゆるしを得て家路につくことができるでありましょう(ヴァルター・リュティ『ヤコブ 創世記連続講解説教集』該当箇所、新教出版社)

 

 

2022年4月11日月曜日

4/10「救い主イエスの葬り」ルカ23:49-58

       みことば/2022,4,10(受難節第6主日の礼拝)  366

◎礼拝説教 ルカ福音書 23:49-58                日本キリスト教会 上田教会

『救い主イエスの葬り』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

23:49 すべてイエスを知っていた者や、ガリラヤから従ってきた女たちも、遠い所に立って、これらのことを見ていた。50 ここに、ヨセフという議員がいたが、善良で正しい人であった。51 この人はユダヤの町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいた。彼は議会の議決や行動には賛成していなかった。52 この人がピラトのところへ行って、イエスのからだの引取り方を願い出て、53 それを取りおろして亜麻布に包み、まだだれも葬ったことのない、岩を掘って造った墓に納めた。54 この日は準備の日であって、安息日が始まりかけていた。55 イエスと一緒にガリラヤからきた女たちは、あとについてきて、その墓を見、またイエスのからだが納められる様子を見とどけた。56 そして帰って、香料と香油とを用意した。それからおきてに従って安息日を休んだ。 ルカ福音書 23:49-58


49-56節。救い主イエスの死と葬りの様子は、ここに書いてあるとおりです。その日、昼の12時ころから全地は暗くなり、それが午後3時までつづきました。太陽は光を失いました。神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに引き裂かれました。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と、主イエスは大声で叫びました。ヨセフという名前の最高法院の一人の議員がいました。彼もまた主イエスを信じる弟子の一人であり、神の国を待ち望む人々の一員でした。ローマ帝国から派遣されてきていた総督ピラトに願い出て、主イエスの遺体を引き取り、亜麻布に包み、まだだれも葬ったことのない自分の墓に収めました。

「この日は準備の日であって、安息日が始まりかけていた」とあります。ユダヤ教の一日の数え方は私たちの国の文化とは違っていて、『日が暮れた夜から一日が始まり、日暮れで一日が終わります』。すでに夕方になっており、あとわずかの時間で、安息日が始まってしまいます。安息日には、葬りも含めて、ほとんど何もしてはならず、働いてはけない規則です。ですから、その前に、大急ぎで葬りの準備をし終えなければなりません。また、夜になっても処刑された遺体をそのまま残しておくことも律法の禁止命令に違反することになります(申命記21:23参照)

まだだれも葬ったことのない墓に納めた」とあります。エルサレムの都に入るとき、救い主イエスは、まだ誰も乗せたことのない子ロバの背に乗って、都に入りました。救い主であられる王が、そのように現れると預言者が告げていたとおりに(ゼカリヤ書9:9。まだ誰も乗せたことのない子ロバの背に乗ったこと。そして今度は、まだだれも葬ったことのない墓。それらは、格別な王様の神聖な登場であり、神聖な葬りを言い表しています。

このヨセフという名前の一人の議員は、イエスの遺体の引き取りを総督ピラトに願い出たことによって、大勢の人々の前で、自分自身は主イエスの弟子たちの一人であることを認めることになってしまいます。国中の人々の嫌悪とはなはだしい憎しみを買うことになり、いのちを奪われかねないほどの大きな危険にわが身をさらすことになってしまいます。あの11人の弟子たちが、イエスを憎む人々をとても恐れて、身を潜めつづけていたことを思い起こして下さい。大変な勇気が必要でした。いいえ、それよりも、神ご自身がそのような一人の弟子を用意していてくださいました。つまり神の御力が、この一人の人を駆り立てて、ピラトに、遺体の引き取りを願い出させました。

55-56節、「イエスと一緒にガリラヤからきた女たちは、あとについてきて、その墓を見、またイエスのからだが納められる様子を見とどけた。そして帰って、香料と香油とを用意した。それからおきてに従って安息日を休んだ」。ヨセフという名前の議員とともに、彼に付いて来て、葬りの準備に加わっている女性たちがいます。イエスと一緒にガリラヤからきた女たちです。あとについてきて、その墓を見、またイエスのからだが納められる様子を見とどけた。そして帰って、葬りのために香料と香油とを用意した。それからおきてに従って安息日を休んだ。主イエスの弟子であるこの女性たちもまた、心を挫けさせることなく、救い主イエスの逮捕と、裁判と処刑と葬りの間においてさえ、神の国を待ち望みつづけています。神ご自身が、この人たちを励まし、最後の最後まで断固として支え続けてくださいます。

 

ガリラヤから従ってきたあの女性たちはヨセフの後から付いてきて遺体が収められる様子を見届けました。後から、丁寧に十分な葬りをするためにです。確かに、ここには主イエスを信じて生きる人々のその信仰の回復の小さな兆しのようなものがあります。やがてその時が来れば、彼らは立ち上がり、イエスは主であると誰はばかることなく言い表して生きる人々となるのでしょう。けれど、それはもう少し先のことです。ここに、あの12人の弟子たちの姿はまったく登場しません。心細さと恐れに飲み込まれて、彼らは散り散りに逃げ去ってしまいました。やがて、あの弟子たちが立ち上がる時が来ますが、それはまだほんの少し先のことです。「私を見なさい。金や銀はないが持っている飛びっきりに素敵な力強いものをあなたにもあげよう。ナザレの人イエスの名によって立ち上がり、歩きなさい。なぜなら、その同じ格別な祝福と幸いを私もいただいて、受け取り、イエスの名によって立ち上がった。イエスの名によって歩き続けている」(使徒3:6参照)と彼らが、自分の大切な家族や、友人たち、隣人たちを本気になって励ましはじめるのは、まだほんの少し先のことです。「イエス・キリスト。他の誰によっても救われない。救われるべき名は地上では、この名の他、私たち人間には与えられていないのだから」「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒言行録4:10-12,18-20,16:31)と隣人たちを励まし、イエスのもとへと連れて来はじめるのは、まだほんの少し先のことです。なにしろ復活の主イエスと出会うまでは、それまでは、彼らの恐れは決して取り除かれません。『殺され、葬られた方を神ご自身が復活させた。本当にそうだ』と知るまでは、またこの自分自身をも同じ神さまが新しい生命を与えて、新しく生きさせてくださると知るまでは、彼らはまだまだ人間のことばかり思い煩って、神を思う暇がほんの少しもないからです。十字架の上から新しい生命が差し出されつづけています。その新しい生命を受け取ろうとして、手間取っている人々がいます。足踏みし、行きつ戻りつしながら、彼らは新しい生命をぜひ受け取ろうと悪戦苦闘しています。やがて間もなく、あの彼らや私たち自身の恐れや疑いや心細さが取り除かれる日が来ます。

民衆は立って見つめていました。議員たちも、あざ笑って言いました。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」。十字架の上に、この方に対する人々の憎しみとあざけりが極まるとき、それは同時に、神さまをさえ憎んで退けてしまう私たち人間への、神さまからの愛と憐れみが極まるときでもありました。「父よ、彼らをおゆるしください」。むしろ、神さまに逆らってばかりいる、その彼らをゆるすために、ゆるして神の子供たちとして迎え入れるために、救い主イエスの十字架の死と復活があり、神さまの側で高い代償が支払われました。その罪はあまりに深く、他のどんな代価によっても贖いえず、神の独り子の生命の重さに匹敵しました。独り子の生命によって贖われねばならないほどの罪深さ。それを根深く抱えもった彼らとは、いったい何者なのでしょう。どこの誰のことを言っているのでしょう。「彼らをおゆるしください」というあの叫びは、ここにいるこの私たちの救いのためでした。あの引き裂かれた体は、あの、頭からも手のひらからも足からも脇腹からもしたたり落ちた赤い血潮は、私たちの罪のゆるしのためでした。私たちは、もちろんこの私自身も、そのようにして『ゆるされた罪人』です。ただ、『ゆるされて、なお罪人でありつづける者たち』こそが、救い主イエスのもとに立っています。救い主イエスのゆるしのもとに留まっています。

罪人を憐れんで救う神さまです。恵みを受けるに値しない、ふさわしくない罪人をけれどなお迎え入れて、ご自分の子供としてくださる神さまです。2人の犯罪者が十字架の主イエスのすぐ傍らにいました。主の右側と左側から。彼らは、主イエスが半日以上かけてジワジワ殺されてゆく姿を、自分の目の前で、まざまざと目撃しました。そこで起きた出来事のすべて一切を見聞きしました。2人の犯罪者は共々に、間もなく死んでゆこうとしている者たちです。主イエスと同じく、2人共々に、体を貫く激しい痛みと苦しみに悩まされつづけてもいました。2人共々に、はなはだしく悪い罪人たちであり、救われるためには共々に、神さまからの罪のゆるしを必要としていました。けれど、とても残念なことに、その1人は神さまの憐れみを信じられないままに死んで行きました。もう1人は神のもとへと立ち返り、神さまの憐れみを信じ、救われました。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と主イエスは約束し、その約束通りに、その幸いな一人の罪人は楽園に迎え入れられました。

ある人々は神さまへと立ち返り、また別の人々は自分自身の罪深さの只中になお留まりつづける。それは、どういうことでしょう。また例えば、同じ1つの礼拝説教を聞いて、ある人々はほとんど何も受け取ることができず、まるで何事もなかったかのように家に帰ってゆく。また別の人々は、心に痛みを覚えて祈り求め、救いを求めて主イエスに向かって呼ばわりはじめます。それは、一体どういうことでしょうか。主イエスの福音は、ある人々の心の耳から隠されつづけ、別の人々には現され、差し出されつづけます。なぜなのか、私たちはよく分かりません。ただ私たちの目と耳と心は、そういうふうに出来ているようです。開かれたり塞がれたり、隠されたり現されたり、素直にされたり、かたくなに頑固にさせられたり。ご覧ください。あのとても悪い1人の犯罪者は、悔い改めています。目も心も在り方も、180度グルリと神へと向け返しています。自分自身の日頃の行いを、心のよこしまな思いを深く恥じ、胸を打ち叩いて嘆いています。心に痛みをおぼえながら神さまのもとへと立ち返り、そこで救いを受け取っています。「お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ」と自分自身の罪深さを自覚し、つくづくと実感しています。「しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」と、主イエスが無罪であること、けれどなお十字架にかけられていることに目を凝らしています。この1人の犯罪者は、救い主イエスには彼を救う力があると信じ、また、救ってくださろうと決断しておられることも信じています。「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と一人の犯罪者は主イエスに向けて呼ばわります。「私を思い出してください」。救い主イエスにこそ願いをかけながら、謙遜な、とても低い心と、主イエスへの十分な信頼を与えられています。「思い出してください」。願い求めているのは、ただこれだけのことです。救い主イエスがこの私を思い出してくださるなら、それで、もう十分であると。もちろん神さまはこの1人の犯罪者のこともあなたのことも、ほんの片時も忘れません。むしろ神さまをすっかり忘れて、しばしば思い起こしもしなくなるのは、いつも私たち人間のほうでした。つかの間に過ぎ去ってしまうあまりに短い、私たちの生涯です。たとえ、やがて私たちが死の床に横たわる日が来てもなお、そこでこの私自身もまた、「主イエスと共にいる。確かにそうだ」と思い起こすことができるなら、それで十分です。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と救い主イエスは約束なさいました。あの1人の犯罪人のためにも言われましたが、それだけでなく、主イエスを信じるすべての者たちのためにもこう約束しておられます。もちろん私たちや、その大切な家族や親しい友人たちのためにも、「耳を傾け、私に来て、聞け。そうすれば、あなたがたは生きることができる」(イザヤ書55:3と、この救い主イエスが招きつづけます。

古い罪の中に留まっていた私たち自身を、主イエスと共に日毎に葬っていただきましょう。復活の主イエスと共に神の御前で、神さまに向かって、日毎に新しく生き始めるために。

【お知らせ】

 

①大人説教もこども説教も、よく分からないこと、『変だ。本当だろうか? なぜ』と困るとき、遠慮なくご質問ください。できるだけていねいに答えます。

②聖書や神さまのこと以外でも、困っていることや悩んで苦しく思うことを、もし僕で良ければお聞きします。個人情報など守秘義務を守ります。どうぞ安心して、ご連絡ください。

  

     金田聖治
(かねだ・せいじ)

      電話 0268-71-7511

 Ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp (自宅PC

4/10こども説教「パロが見た夢」創世記41:25-36

 4/10 こども説教 創世記41:25-36

パロが見た夢

 

41:25 ヨセフはパロに言った、「パロの夢は一つです。神がこれからしようとすることをパロに示されたのです。26 七頭の良い雌牛は七年です。七つの良い穂も七年で、夢は一つです。27 あとに続いて、上がってきた七頭のやせた醜い雌牛は七年で、東風に焼けた実の入らない七つの穂は七年のききんです。28 わたしがパロに申し上げたように、神がこれからしようとすることをパロに示されたのです。29 エジプト全国に七年の大豊作があり、30 その後七年のききんが起り、その豊作はみなエジプトの国で忘れられて、そのききんは国を滅ぼすでしょう。31 後に来るそのききんが、非常に激しいから、その豊作は国のうちで記憶されなくなるでしょう。32 パロが二度重ねて夢を見られたのは、この事が神によって定められ、神がすみやかにこれをされるからです。33 それゆえパロは今、さとく、かつ賢い人を尋ね出してエジプトの国を治めさせなさい。34 パロはこうして国中に監督を置き、その七年の豊作のうちに、エジプトの国の産物の五分の一を取り、35 続いて来る良い年々のすべての食糧を彼らに集めさせ、穀物を食糧として、パロの手で町々にたくわえ守らせなさい。36 こうすれば食糧は、エジプトの国に臨む七年のききんに備えて、この国のためにたくわえとなり、この国はききんによって滅びることがないでしょう」。   (創世記41:25-36

 

 

【こども説教】

アブラハムの子イサク。イサクの子ヤコブ。ヤコブの12人の子供の1人ヨセフ。そのヨセフは兄たちによってエジプトに売られ、また無実の罪を着せられて牢獄に閉じ込められました。牢獄の中でもエジプト王パロの前でも、ヨセフは、パロの見た夢の意味を説き明かして、神がなにをしようとしているのかを知らせます。28-30節、「わたしがパロに申し上げたように、神がこれからしようとすることをパロに示されたのです。エジプト全国に七年の大豊作があり、その後七年のききんが起り、その豊作はみなエジプトの国で忘れられて、そのききんは国を滅ぼすでしょう」。7年の豊作と、それにつづく7年の飢饉(ききん。=農作物が少しも取れない、皆が飢え渇く苦しみの日々)と、その両方ともを、神がもたらします。もちろん、私たちが食べるものもなく飢えて苦しんだり、死んだりすることを願う神ではありません。飢えや苦しみに立ち向かい、抵抗し、耐え忍んで戦いなさいと励ます神です。飢えや苦しみの中でなお私たちが生き延びることを願ってくださる憐みの神です。「神がこれからしようとすることをパロに示された」のは、パロに恵みを得させ、やがて来る困難な日々のために耐え忍ぶ準備をさせるためです。別の時には、パロはとても頑固になり、心の耳を自分自身で閉ざし、そのため自分たちにとても大きな厳しい災いを招きます(出エジプト記4:21-14:31参照)。けれど今、神はパロに恵みを得させ、へりくだった低い心を与え、神の言葉に聞き従う者とさせています。私たちも耳を閉ざして頑固になったり、素直にされたりを繰り返します。神の御心が、このように成し遂げられていきます。

 

 

 【大人のための留意点】

 神が7年間の凶作をもたらされる。神の許しがなければ、この7年間の危機的時期は生じない。神はどうしてそのような苦しみや悩みや困窮をもたらすのか。いいえ。むしろ逆に、神はご自分が拷問の苦しみを受けられる方なのではないでしょうか。われわれの苦悩を冷笑なさる代わりに、ご自分が物笑いになる方なのではないでしょうか。十字架の上で。

 確かに聖書の神は凶作をもたらされます。「神はこれからしようとすることをパロに示された」(28節)。神はパロに対して、やがて襲来する飢饉の危機をお知らせになります。この時宜にかなった警告は、神の慈しみのあらわれです。神はパロに恵みを得させ、彼がその警告を聞き流すことのないようになさいます。それによって我々が、時のある間に、備えを整えるために将来の事柄を明かされるのです。キリストが我々に教えてくださったことを、真剣に考えてみる必要があります。「われらの日用の糧を、今日も、与えたまえ」。また、公けの責任を担っている人たち、すなわち政治・経済に関する最高責任者の人たちのために、新たに全力を尽くして執成しの祈りをささげるということも考えてみる必要があります。信ずる者の教会は、この世に対してヨセフの務めを担うべきです。以前にもまして、今日こそ(ヴァルター・リュティ『ヤコブ 創世記連続講解説教集』該当箇所、新教出版社)

 

 

2022年4月4日月曜日

4/3「み手に委ねる」ルカ23:44-49

       みことば/2022,4,3(受難節第5主日の礼拝) 365

◎礼拝説教 ルカ福音書 23:44-49                 日本キリスト教会 上田教会

『み手に委ねる』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC 

23:44 時はもう昼の十二時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、三時に及んだ。45 そして聖所の幕がまん中から裂けた。46 そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。47 百卒長はこの有様を見て、神をあがめ、「ほんとうに、この人は正しい人であった」と言った。48 この光景を見に集まってきた群衆も、これらの出来事を見て、みな胸を打ちながら帰って行った。49 すべてイエスを知っていた者や、ガリラヤから従ってきた女たちも、遠い所に立って、これらのことを見ていた。ルカ福音書 23:44-49

まず44-45節、「時はもう昼の十二時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、三時に及んだ。そして聖所の幕がまん中から裂けた」。この信仰は、十字架と復活の主イエスを仰ぐ信仰です。私たちは、十字架と復活の主を仰ぎ、このお独りの肩に信頼を寄せ、願い求め、聴き従って生きる私たちです。でも、それは一体どういうことでしょうか。主イエスが十字架の上で息を引き取ったとき、「神殿の幕(垂れ幕)がまん中から裂けた」「神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた」(45,マタイ福音書27:51,マルコ福音書15:38)と聖書は報告します。この1点に目を凝らしましょう。神殿の作りは、神社やお寺の境内とだいたい同じです。ごく簡単に言いますと、境内には本殿と庭があります。本殿は垂れ幕によって大きく2つの部分に区切られます。垂れ幕の奥が「至聖所(しせいじょ)=最も聖なる場所」、手前が「聖所=聖なる場所」。最も聖なる場所である至聖所は、ただ神だけの場所でした。たとえご立派で偉い大祭司といえども、みだりに気軽に立ち入ることは許されませんでした。「大贖罪日(だいしょくざいび)」と呼ばれる特別な日がありました。1年にただ1回、その大贖罪日に、大祭司がただ1人でそこに入って務めを果たすことが許されました(レビ16:1-)。ある時までは、神聖なものに近づくための格付けと序列と区別がありました。神殿の境内は、その神聖さの度合いによって何重にも区切られました。













(図を参照)その見取り図の、至聖所からもっとも遠い、入口付近の狭い片隅。外国人が足を踏み入れていいのは、ここまでです。次に、ユダヤ人の女性たちや小さな子供が近づいていいのは、ここまでです。成人したユダヤ人男性信者が近づいていいのは、ここまで。本殿を取り囲むすぐ近くの庭は、一般の聖職者たちだけが入れます。そして、最も奥深く隠れた場所が、神さまだけの、あまりに神聖な場所。なんということでしょう。こうしてただ、《聖なる神》と《人間》とが隔てられただけではありませんでした。人間にすぎない者たちの間でも、その神聖さと罪深さの度合いに応じて、それぞれに格付けされ、神聖なものに近づくための区別と序列と階級と準備段階と条件とを、こまごまと取り決められました。神殿の垂れ幕こそが、その差別と分け隔てのしるしであり、出発点でした。隔てられつづけた神さまは、私たち人間にとって畏れ多くて、あまりに遠く離れていました。ですから、「礼拝堂の前のほうに座りなさい。この一段高い段の上に誰でもあがっていいですよ」などと勧められても、「滅相もない。下々の私など恐れ多くてとてもとても」などと人様に対しても神様に向かっても縮み上がりました。2000年前の、この時まではそうでした。

ある人は、教えられた通りに、こう祈っています。「小さく弱くてふつつかな私ですが、神さま、どうぞよろしくお願いいたします」。よい祈りです。聖書が教えるとおりです。確かに、あなたは小さく弱い。そのくせ、かなり大きくて強い私だと度々思い込んだりもする。ふつつかな所がたくさんあるし、至らない所もたくさんある。自分勝手で了見の狭い所もたくさんある。けれど神さま、どうぞよろしくと願い求め、よろしく取り扱っていただきつづけてきたあなたです。そこにはまた、「小さく弱い」のは私だけじゃなく、1人の例外もなく誰もかれもが皆「小さく弱い。ふつつか」というすべての人間に対する聖書からの理解を含みます。あなたの夫も、妻も、子供たちも孫たちも、職場の仲間たちも上司も部下も。教会の兄弟姉妹たちも、牧師も長老も執事たち全員も。つまりは皆共々に、小さく弱い、ふつつかな所がたくさんある、至らない所もたくさんある、自分勝手で了見の狭い所もたくさんある者同士であるということです。けれど神さま、どうぞよろしくと願い求め、よろしく取り扱われつづけてきた者同士だということ。それを腹にすえて、そこでようやく私たちは、互いにゆるし合う者とされます。

エペソ手紙2:14-16は互いに『平和』であることの秘訣を証言します;「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである」。敵意と差別と分け隔ての目に見える具体的なしるしが神殿の垂れ幕でした。それが上から下まで真っ二つに引き裂かれました。神さまは分け隔てをなさいません。それをし続けているのは、もっぱら私たち人間のほうです。今日のキリスト教会の中にさえ、この私たちの間にも、『敵意という隔ての壁』が取り壊されないままで、あちこちに残されています。分け隔てをなさらない神さまを中心にする教会であるなら、どうして私たちは、お互いにいつまでも分け隔てをし、差別し、見上げたり見下したりしあっていて良いでしょうか。自分たちとほんの少し違う人々をバカにし、見下し、除け者にして喜ぶ習慣と性分は、ヨソにもこの国にも大昔からありました。これからも無くならないでしょう。士農工商(しのうこうしょう。封建体制を維持するために造られた4つの階級。武士、農民、職人、商人)という4つの身分の下にエタ・非人という不当に差別されるための最下層の階級をわざわざ作ったのも、このためです。とても申し訳ない、あまりに恥ずべき社会と私たちです。誰かを分け隔てし、憎んだり見下したりすると、なぜだか気分が晴れ晴れとしました。小学校中学校、高校でも、大人たちの会社でもどこでも『いじめ』があるらしいです。ほんの少し違う人々を探し出し、分け隔てしたり見下したり除け者にする。するとストレス解消になり、まるで自分が強く賢くなったかのような良い気分を味わえました。麻薬のような効果があったのです。だからこそ特に私たちクリスチャンは、『自分を愛するように、同じく負けず劣らずに、あなたの隣人を愛し、尊びなさい(マルコ福音書12:31,レビ記19:16)』ときびしく戒められています。自分の兄弟や親しい友人たちにだけ挨拶し、愛想よく振舞ったところで、どんな優れたことをしたことになろう。それくらいなら誰でもやっていると釘を刺されています(マタイ福音書5:46-47参照)。他の国や民族を軽蔑し、憎み、押し退けることでしか成り立たないような愛国心や誇りは、あまりに歪んでいます。しかもその醜い悪い心は、神の憐れみによって取り除かれつづけます。

46-49節、「そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。百卒長はこの有様を見て、神をあがめ、「ほんとうに、この人は正しい人であった」と言った。この光景を見に集まってきた群衆も、これらの出来事を見て、みな胸を打ちながら帰って行った。すべてイエスを知っていた者や、ガリラヤから従ってきた女たちも、遠い所に立って、これらのことを見ていた」。主イエスが息を引き取ったとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに引き裂かれました。しかも、救い主イエス・キリストご自身が、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と声高く叫んで息を引きとり、墓に葬られ、その三日目に墓の中からよみがえらされました。救い主イエスと共に、この私たちも、古い罪の自分を葬っていただき、古い罪の在り方や考え方と死に別れさせていただき、その代わりに、神の御前で、日毎に悔い改めて、新しく生きることをしはじめました。神さまご自身が、その新しい生き方を導きつづけてくださいます。救い主イエスがその肉体も霊も、すべてなにもかもを父なる神さまの御手に委ねたのです。ですから私たちも、自分自身の何もかもを神さまにすっかりお委ねして、一日ずつを新しく生きることができます。

なぜなら救い主イエスは、父なる神に信頼し、すべてを委ねて従うことを決めておられたからですし、地上の生涯のすべてをとおして、その信頼に生きたからです。十字架の死の数時間前の、ただお独りの祈りの格闘の只中でも、「父よ、御心ならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」(ルカ22:42と御父に語りかけつづけ、その信頼はほんのわずかも揺らぐことがなかったからです。御父に対する、小さな子供の信頼を、この私たちも救い主イエスから手渡され、受け取っているからです。聖書は証言します、「なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる」(ローマ手紙8:13-16

ですから神に感謝をしたします。主イエスが息を引き取られたとき、神さまと私たちを互いに遠く隔てていたものが、そして私たち人間同士を互いに隔てていたものが、引き裂かれました。上から下まで真っ二つに。主イエスの十字架の死によってです。その流された血と、引き裂かれた体によってです。隔てていたものが引き裂かれ、取り除かれました。それで今では、罪深い者も愚かな者も、聖なる神さまに安心して近づいてゆくことができるのです。晴れ晴れ、清々として。背筋をピンと伸ばして。深く息をついて、胸を張ってです。私たちはまた、《ゆるされた罪人同士》として、お互いに近づいてゆくこともできます。なんの遠慮も気兼ねもなく。そのための、新しい生きた道が開かれてあります。主イエスご自身がこう断固として証言なさいます;「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も、父のみもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)。父なる神のもとに行くためのただ1本の道があり、その父を知るためのただ1つの真理があり、父の恵みのもとに立って1日ずつを生きるためのただ1つの格別な生命がある。それが私だ、と主は仰います。もし、その父のもとへと辿り着きたいと願うならば、この救い主イエスこそただ1本の道、ただ1つの真理、受け取るべきただ1つの生命であると。私たちの信仰は、ここに立っています。救い主イエスの生命をもって神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに引き裂かれ、神と人とを隔てるものが取り除かれました。私たちの間の敵意と恐れという名前の隔ての中垣(エぺソ手紙 2:14)も、区別も差別も取り除かれました。1つまた1つと、日毎に取り除かれつづけます。憐れみを受け、ゆるされた罪人同士だからです。その晴れ晴れ清々とした道を通って、私たちは歩いてゆくからです。およそ500年も前の古い信仰問答は、神を敬う正しい在り方は何かと問いかけて、こう答えています、「すべての信頼を神に置くこと。そのご意志に服従して、神に仕えまつること。どんな困窮の中でも神に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求めること。そして、すべての幸いはただ神から出ることを、心でも口でも認めること」(ジュネーブ信仰問答 問7,1542年)


【お知らせ】

 

①大人説教もこども説教も、よく分からないこと、『変だ。本当だろうか? なぜ』と困るとき、遠慮なくご質問ください。できるだけていねいに答えます。

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     金田聖治
(かねだ・せいじ)

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4/3こども説教「ヨセフが売られたとき」創世記37:18-28

 4/3 こども説教 創世記 37:18-28

 ヨセフが売られたとき

 

37:18 ヨセフが彼らに近づかないうちに、彼らははるかにヨセフを見て、これを殺そうと計り、19 互に言った、「あの夢見る者がやって来る。20 さあ、彼を殺して穴に投げ入れ、悪い獣が彼を食ったと言おう。そして彼の夢がどうなるか見よう」。21 ルベンはこれを聞いて、ヨセフを彼らの手から救い出そうとして言った、「われわれは彼の命を取ってはならない」。22 ルベンはまた彼らに言った、「血を流してはいけない。彼を荒野のこの穴に投げ入れよう。彼に手をくだしてはならない」。これはヨセフを彼らの手から救いだして父に返すためであった。23 さて、ヨセフが兄弟たちのもとへ行くと、彼らはヨセフの着物、彼が着ていた長そでの着物をはぎとり、24 彼を捕えて穴に投げ入れた。……時に彼らが目をあげて見ると、イシマエルびとの隊商が、らくだに香料と、乳香と、もつやくとを負わせてエジプトへ下り行こうとギレアデからやってきた。26 そこでユダは兄弟たちに言った、「われわれが弟を殺し、その血を隠して何の益があろう。27 さあ、われわれは彼をイシマエルびとに売ろう。彼はわれわれの兄弟、われわれの肉身だから、彼に手を下してはならない」。兄弟たちはこれを聞き入れた。28 時にミデアンびとの商人たちが通りかかったので、彼らはヨセフを穴から引き上げ、銀二十シケルでヨセフをイシマエルびとに売った。彼らはヨセフをエジプトへ連れて行った。               (創世記 37:18-28

 

 

【こども説教】

イスラエルと呼ばれるようになったヤコブと、その12人の息子たちの物語。「神によって子供たちとすべての富を得た」と喜び、神に感謝していたヤコブでしたが、子供たちの育て方を間違えてしまいました。末の息子ヨセフだけを特別に愛し、えこひいきをし、そのあまりに他の兄弟たちが弟ヨセフを憎んで、殺そうとするまでに彼を甘やかしつづけてしまいました。父ヤコブもまた、なお心を鈍くされつづけてしまったからです。神の恵みに答え、神に感謝する生き方をしようとして、けれどもなおこの私たち自身もまた、子供たちの育て方を間違え、家族に対してしてはいけない悪いことをしてしまうこともあるでしょう。そのために兄弟同士や、慈しみ労わり、許し合うはずの夫と妻が、また実の親子が、激しく憎み合うこともありえます。申し訳ないことです。罪を犯さない者など1人もいません。しかもなお、その間違った悪い心や行いを用いても、神が救いの御業を成し遂げていかれます。私たちのねじ曲がった悪い心や行いを、神が捻じ曲げ、良いものへと変えてくださいます。兄たちが弟ヨセフを殺そうとしたとき、ルベンとユダがヨセフの命を救うためにそれぞれに心を砕き、努力をしました。そのおかげでヨセフは殺されず、エジプトに売られて生き延びました。ルベンとユダを用いて、ここでも、神こそが生きて働いておられます。

兄たちはヨセフに対して悪いことを思い図り、たくらみ、ヨセフを殺そうとさえしましたが、神はそれを良いものに変えてくださいました(創世記50:20参照)

 

 

【大人のための留意点】

 神を信じていながら不従順になった兄たち徹底した悪魔性を用いて、悪の勢力はそれほどに勝利を収めるのです。それでもなお、そこに神がおられます。ここではサタンが操縦席に座っているのではありません。神の保護の御手はルベンとユダの行動と努力の中にあらわれます。「神がすべ治め、すべてをよきに導き給う」。

 ヨセフが飢えて衰弱している穴のそばで、兄たちが陽気に「たらふく食べて」いる情景25節を参照)。彼らは、その兄弟たちがひもじい思いをしている穴のそばに座って、一日に三度も五度も「たらふく食べて」いる。けれども、そこには神が居られます。われわれ人間が悲哀この上もないヨセフ物語に描かれているような者であればこそ、神が御業をなさるのです。そして、それは救いの御業であり、神が御業をなさるのです。われわれが井戸のそばにたむろする人々のような者たちであればこそ、救いが必要なのです。われわれには井戸の中に投げ込まれたヨセフ以上に、エジプトに売られたヨセフ以上に、救い主が必要です。審き主であって救い主であるかたが、当時も今も、御業をなさっておられます(ヴァルター・リュティ『ヤコブ 創世記連続講解説教集』該当箇所、新教出版社)